第98話 鹿折ダンジョン 第9層 選手交代
山。
その感触は山。
あるいは大地。
その感触は揺るぐことない大地。
クロガネの放った弩は、猪之崎の細い顎に突き立ったまま、止められていた。
「ハハッ! ナイスパンチだッッ!」
「けっ、鼻血ブーのお返しだ」
猪之崎の鼻から、一筋の血が垂れる。
唇に達したそれを、舌先がぺろりと拭う。
「それなら私もお返しせねばな」
「よぼよぼジジイのパンチなんざ、釣り銭にも足りねえだろうがな!」
今度は猪之崎が右拳を引く。
左拳を突き出す大きな構えは長弓を引く武士の如く。
クロガネのそれと似ているが、微妙に異なる構え。
「ボーイ、行くぞッッ!」
「かかってこいやッッ!」
解き放たれる剛弓。
風を切り裂く鋭い
猪之崎の拳はクロガネよりも一回り小さい。
指は女のように細く、しなやかで長い。
それを凝縮させた小さく硬い拳。
それを放つ一撃を、こう呼ぶ。
――ナックルアロー
猪之崎の拳がクロガネの額を射抜く。
切り裂かれた皮膚から、鮮血が舞う。
顔面を血に染めながら、凶獣が嗤う。
「そよ風でも吹いたか? 涼しくなってきやがった」
「エクセレンッッ! ボーイの強がりは相変わらずだな」
「おっと、
爆発音。
クロガネの拳が猪之崎の顔面で炸裂する。
風切り音。
猪之崎の拳がクロガネの顔面を切り裂く。
殴る。
殴る。
殴る。
殴られる。
殴られる。
殴られる。
弩弓と剛弓の応酬。
血しぶきが舞う、舞う、舞う。
「あ、案外タフじゃねえか……」
「ボーイも見事なタフネスだ。入門に来た日を思い出すよ」
「へっ、入門じゃねえ。俺は道場破りに行ったんだ」
「おや、そんなつもりだったのか? 私はてっきりファンがサインをねだりに来たんだろうとでも思っていたよ」
殴る。
殴る。
殴る。
殴られる。
殴られる。
殴られる。
赤に染まる視界の中、クロガネの脳裏をよぎるのは20年前。
あれは冬の日だった。
生まれ持っての体格で、喧嘩は負け知らず。
地元仙台では番長気取りだった。
仲間がよそ者に
繁華街へ走った。
殴り込んだ高級クラブで飲んでいたのは、身体のデカい男たち。
関係ない。
暴れた。
暴れた。
暴れた。
血みどろになって暴れた。
大男を3人
『ボーイ、私たちはパーティを楽しんでいる最中だったんだがね。ボーイも混ざりたいのかね?』
男は白いハンカチで手を拭いていた。
トイレから戻ってきたところらしい。
『てめえが親玉か。ダチをボコってくれた礼、きっちりさせてもらうぜ』
『ハハッ! 元気なボーイだ。だが、ここでは店に迷惑だ。場所を変えないか?』
『うるせえっ!』
殴りかかった。
そこで記憶は途絶えた。
目覚めたときは路地裏。
さっき
『ボーイ、私たちが何だかわかるかね?』
赤いタオルの男も、いた。
『知らねえよ』
クロガネは立ち上がり、鉄の味がする唾を吐いた。
『私たちは、プロレスラーだ』
『だからなんだってんだ!』
殴りかかる。
別の男に止められる。
さっきは殴り倒したはずなのに、今度はこゆるぎすらしない。
『素人さんとの喧嘩はね、ご法度なんだよ。私がそう決めたんだが……みんな素直に守りすぎたようだ』
男が眉間を揉んでいる。
何の話だ。
『プロレスラーは強いんだ。リングの外じゃ、絶対に負けちゃいけない。その場だけ、負けてあげるのはかまわない。でも世間様に負けたと見られるのだけはダメなんだ。そういう世界に生きている。ま、無闇に喧嘩をする必要もないがね』
『何の話をしてやがるッッ!』
暴れる。
あっさりと組み伏せられる。
親に反抗する幼児のように。
『君は弱いぞ、ボーイ』
クロガネの目の前に、アスファルトの上に、男が名刺を置く。
『だが、ボーイにはスマイルを感じる。気が向いたら遊びにおいで』
『っせえ! いまここでぶっ殺してやる!!』
暗転。
気がつけば、雪が身体に積もっていた。
雪をかき分け、名刺を拾う。
【株式会社超日プロレスリング 代表取締役社長 アトラス猪之崎】
それがクロガネとプロレスとの出会いだった。
後から聞いたことだが、猪之崎たちは仙台に地方巡業に来ていたそうだ。
仲間がやられたのは、強引なナンパをたしなめられただけで、実際には殴られてすらいなかったらしい。
しかし、そんなことはもう関係なかった。
雪道を歩き、名刺の住所――東京へと向かった。
三日後、たどり着いた。
そこでも暴れようとしたが、あっさりとひねられた。
そうして、クロガネはプロレスラーへの第一歩を踏み出した。
(って、何を思い出してやがる!)
殴られる。
殴られる。
殴られる。
血みどろの風景の中、クロガネは我に返る。
身体は勝手に動いている。
練習通りの受け、練習通りの打撃。
しかし、そこに意思が乗らない。
ただただがむしゃらに拳を叩きつけているだけ。
「ボーイ、ガス欠か? 膝が震えているぞ」
反転。
視界。
衝撃。
足払い。
足払いを受けた。
「殴りっこだけじゃサプライズがない。ボーイは少し休んでいたまえ」
回転。
回転。
回転。
天井が回る。
浮遊感。
直進。
直進。
直進。
身体がまっすぐに飛んでいる。
ジャイアントスイング、それを受けたと理解する。
「クロさん、交代!」
小さな手が肩に触れる。
クロガネの巨体は、そのまま場外に落ちていく。
パイプ椅子を何脚も巻き込んで、轟音と共に沈む。
「ハハハッ! 今度はスマイルいっぱいのガールの出番かい? すまないけれど、子どもをあやす気分ではないのだが」
「じょーだん! 介護をしてあげようって言ってんの!」
「ふうむ、ずいぶん生意気に育ったようだ。ボーイの代わりにしつけをしなければならないかな?」
リングに立つは、亜麻色の髪の少女。
身長160センチ、体重61kgの華奢な身体が、猪之崎の前に降り立った。
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