第97話 鹿折ダンジョン 第9層 アトラスvsクロガネ

 クロガネの身体が膨らむ。

 アドレナリンが全身を駆け巡り、筋肉に流れ込む血流が増大する。

 体温が急上昇し、蒸発した汗が白い湯気となって立ち上る。


 相対するはアトラス猪之崎。

 まっすぐに肘を伸ばし。クロガネの怪力を正面から受け止める。

 白い肌には汗一つなく、名工の手による大理石の彫像を思わせる。


「ハハハッ! ウェイトを増やしたか? いいストレングスだッッ!」

「ああ、あんたの言う通り、食って食って鍛えまくったからな。このまま捻り潰してやるぜ」


 クロガネの身体がさらに膨らむ。

 腕撓わんとう骨筋が、上腕筋が、上腕二頭筋が、上腕三頭筋が、三角筋が、大胸筋が、僧帽筋が、脊柱起立筋が、広背筋が、腹直筋が、腹側金が、腸腰筋が大臀筋が大腿筋が下腿三頭筋が内側から盛り上がる。


 質量保存の法則を無視し、何倍にも肥大する。

 それはさながらそびえ立つ城壁の如く。

 もちろん、それは錯覚だ。

 溢れ出る闘志が見せる幻覚だ。

 だが、それが生み出す力は本物。

 大型トラックさえ押し倒す圧倒的パワー。

 巨人を投げ、巨石を投げ、怪蟲を投げ、毒竜をなぎ倒してきたその力が四つに組んだ手に込められている。


「イエスッ! 見事なエナジーだッッ! スマイルが伝わって来るぞッッ!」

「余裕かましてんじゃねえぞ、この妖怪親父ッッ!!」


 だが、猪之崎の微笑は崩れない。

 涼し気な顔のまま、桁外れの圧力を真正面から受け止めている。


「だが、ボーイ。プロレスはマッスルだけで闘うもんじゃない。手四つはボーンでやるものだ。私の教えレッスンを忘れたか?」


 両者とも100kg超えのスーパーヘビー級。

 しかし、クロガネの方が30kg重い。

 こんな力比べは、尋常ならば成立しない。


「ああ、あんたの口癖だったよな! ギリッと支えてギュッとやるとか言ってたよな! よーく覚えちゃいるが……意味わかんねえんだよッッ!!」

「ならもう一度教えねばならんね。いまはギリッと支えている。そして、これがギュッとだ!」


 猪之崎の存在が、クロガネの眼前から消え失せる。

 手を掴む感触すら消え失せる。

 視界が反転する。

 天井が見える。

 背中に衝撃。


 反射的に首を丸めて受け身を取っていた。

 すかさず反転し、立ち上がりつつ後ろに跳躍。


 それからやっと状況を飲み込む。

 クロガネの力を利用し、引き込んで巴投げをかけられたのだ。


「ハハハッ! 受け身は私よりも上手いかもしれんなッッ! さんざん投げ飛ばしてやった甲斐があったか?」

「うるせえ! 妖怪親父!!」


 即座にタックル。

 視界が反転。

 転ばされた。

 続けてタックル。

 視界が反転。

 転ばされた。

 転ばされた。

 転ばされた。

 転ばされた。


「嘘……なにこれ……?」

「これ……台本アングルなんてないですよね……?」


 リング外で思わずこぼすのはソラとアカリ。

 ソラにとって、クロガネは最強のひとりだ。

 アトラス猪之崎とだって実力なら互角だと思っていた。


 アカリにとってもそれは同じだ。

<レベル>にも<ジョブ>にも頼らず、生身の力でモンスターを一蹴してきた人形じんぎょうの怪物。

 死を覚悟した瞬間から救ってくれた無敵のヒーロー。

 

 そのクロガネが、闘牛のように軽々とあしらわれている。

 コメント欄にも一言の感想もなく、一切更新されない。

 生唾を飲み込む音さえ聞こえてくる静寂。


 静寂。

 静寂。

 静寂。


 リングに叩きつけられる音だけが静かに響き渡る。


「はぁ……はぁ……、くそっ、何が何だかわかんねえ!」

「ハッハッハッ、休憩するか? 息が上がっているぞ、ボーイ」

「舐めんじゃねえッ!」

「おお、いいスマイルだッッ! しかし、これでは試合にならんな。もう一度仕切り直そう」


 猪之崎が両手を掲げる。

 手四つの誘いだ。

 クロガネはそれを受け、猪之崎の手を掴む。

 だが、もはや最初の力強さはない。

 肩で息をしながら、それでも猪之崎を捻り潰さんと力を込める。


「いいファイトだッッ! だが、力みっぱなしじゃ観てるお客も疲れるぞッッ!」


 両手から伝わる微細な力。

 曲がった背筋が伸び。張った両肘が内側に絞られる。

 自分の意志とはまるで関係なしに。


 なのに、どういうわけだか力が入る。

 四方八方に暴れていた力が、ひとつのベクトルに揃う感覚。


「わかったか、ボーイ。これがギリッとだ。無駄なく絞られ、体中の細胞がひとつに向かってスマイルするんだ」

「相変わらずあんたの言うことはわかんねえんだよッッ!」

「レッスンを続けよう。ここから左にギュッとする」


 クロガネのベクトルが、直角にねじ曲がる。

 ロープに向かって後ろ走りに駆けている。

 背中にロープが食い込み、反動。

 立ち止まることもできない。

 そのまま駆けて戻る。


 眼前。

 両足。

 足裏。

 衝撃。

 痛打。

 顔面。

 浮遊。

 天井。

 衝撃。

 背中。

 天井。

 圧力。

 胴体。


 ――ワーーーーン!


 間延びしたアナウンス。


 ――トゥーーーーーーー!


 やけに長い、ツーカウント目。

 両肩に感じる冷たいマットの感触。


「っざけんな!」


 ブリッジ。

 条件反射。

 生存本能。


「ひゅー! ナイスファイトだ、ボーイ。これで終わったら塩試合もいいところだ」

「余裕ぶっこいてんじゃねえぞ、妖怪親父……!」


 立ち上がったクロガネが親指で鼻血を拭く。

 やっと理解した。

 一瞬意識が飛んでいた。

 手四つからロープに振っての高速ドロップキック。

 アトラス猪之崎の代名詞である連続技を浴びていたのだ。

 フォールされ、3カウント直前でなんとかエスケープできたのだ。


「組技はやめだ。今度はこっちで行かせてもらうぜ」


 クロガネが拳骨を握りしめ、リング中央にのしのしと歩く。


「それでこそボーイだ! もちろん付き合おうッッ!」


 猪之崎がにこりと笑い、クロガネの前に立つ。


 クロガネの右拳が引かれ、ぎりぎりと全身を捻っていく。

 猪之崎は腰に手を当て、仁王立ちで待ち構える。


「歯ァ食いしばれや、ゴラァッッ!!」


 引きちぎれる寸前まで引き絞られた筋肉が、その力を解放する。

 クロガネの右拳に、すべての力が託される。

 その暴虐的エネルギーが、猪之崎に顎に炸裂する。


 爆発音。

 会場が震える。

 観衆から声にもならぬ声がこぼれる。


 ――バリスタナックル


 クロガネの十八番、分厚い盾をも貫く弩弓が、猪之崎に突き刺さった。

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