第96話 鹿折ダンジョン 第9層 アトラス猪之崎という男

 アトラス猪之崎とは何者か。


 曰く、人類史上最強。

 曰く、1万戦無敗。

 曰く、万能無敵。


 格闘ファンは言う。

 所詮はプロレス、すべては演技だ。

 そんなに強いなら、五輪のメダルでもボクシングのベルトでも獲ればいい。


 投資家は言う。

 経営者としてはせいぜいが一流半。

 プロレスなどにこだわらなければ一流になれたかもしれない。


 音楽家は言う。

 彼はなぜ、音楽家にならなかったのか?

 彼のピアノが、ヴァイオリンが、声楽が、暇つぶしなどとは言わせない。


 対戦者は言う。

 強すぎる。とても勝てない。彼こそが最強だ。

 しかし、誰しもが口を揃える言葉がある。


 ――もう一度戦いたい・・・・・・・・


 毀誉褒貶。

 賛否両論。

 百家争鳴。

 正体不明。


 それが、アトラス猪之崎という男。

 まばゆいほどの輝きで、見るものすべてを魅了し続ける男。


「スマイルですかーッッ!!」


 拳を突き上げ、男が叫ぶ。

 その顔は異相。顎が細く長く、尖っている。


「スマイルですかーッッ!!」


 拳を突き上げ、男が叫ぶ。

 何万回も叩いたような、鋼の筋肉。


「スマイルですかーッッ!!」


 拳を突き上げ、男が叫ぶ。

 熱狂する観客。注目せずにはいられない、ブラックホールの如き磁場。


 それが、アトラス猪之崎という男だ。


『おおーっと! 挑戦者の入場ですッッ!! 一人目は、かつて超日プロレスにその人ありと謳われた、知る人ぞ知る実力派レスラー!! 身長190cm、体重130kg! クロガネ・ザ・フォートレスぅぅぅうううーーー!!』


 どこからか聞こえるリングアナウンス。

 クロガネは奥歯をぎりりと噛み締め、右拳を突き上げる。

 リングに向かって、花道をゆっくり降りていく。


『二人目はッッ! まさかまさかの親子鷹ッッ! 超日三羽ガラスの長男、スカイランナーの忘れ形見ッッ! 小さな体に秘めたセンスは無限大ッッ!! 身長160cm、体重61kg! スカイランナーⅡ世ぃぃぃいいい!!』

「あははっ! なんかわかんないけど、いいじゃん!」


 ソラがくるくると側転やバク転を繰り返し、花道を降る。

 客席が湧き、空間にじりじりとノイズが走る。

 まるで昭和時代の街頭テレビのようだ。


 クロガネは、ロープの間をくぐってのっそりリングに上がる。

 ソラは。軽やかにトップロープを飛び越えてリングに上がる。


「さっきのなぞなぞの意味がわかったぜ」


 クロガネが、にいと歯を剥く。


「『最も高くそびえた壁』ってことだね」


 ソラが、にいと歯を剥く。


 知っている。

 そこにいるのは本物ではない。

 二人とも、ダンジョンというのがわかってきてはいるのだ。


 そこはどんな不思議も起こる場所。

 どんな理不尽さえ起こる得る場所。

 不思議も理不尽も、内包する場所。


「ソラ、わかってんな」

「うん、お父さんと闘ったときの猪之崎さんだ」

「俺にゃもっと若く見えるが……ま、そういうこともあるんだろうぜ」

「あたしとクロさんのイメージが混ざってるってことなのかな?」


 試合のビデオは、何十回も、何百回も繰り返し観た。

 夢に見るまで繰り返し観た。

 その厚い胸に抱かれた記憶より、その太い腕に高い高いをされた記憶より、ずっとずっと濃く、脳に焼き付くほどの記憶。


 それはWKプロレスリング旗揚げ記念。

 餞別せんべつだったはずの試合が、はなむけの別離となったあの試合。


「あのときの猪之崎さんと、闘えるんだ」


 ソラの声が震えている。

 アトラス猪之崎の打倒。

 ソラが抱く目標の終着。


「落ち着けよ。こいつは本物じゃねえ」

「大丈夫、わかってるから」


 クロガネが小さく呟く。

 ソラは黙ってうなずく。


 セコンドが押し広げたロープの隙間から、アトラス猪之崎が悠々とリングに上がる。

 黒いジャケットを脱ぎ、蝶ネクタイを外す。

 赤いワイシャツを脱ぎ、スラックスを脱ぐ。

 右の人差し指を天に向け、リングを練り歩く。


「スマイルならばなんでもできるッッ! 笑う門にはハッピーきたるッッ! みなさん、スマイルですかァアッッ!!」


 割れんばかりの歓声。

 会場に満ちる大気がびりびりと震える。

 すさまじい音圧が、クロガネとソラの鼓膜を圧迫する。


「ハハッ、懐かしい空気だな。まるっきり後楽園ホールだ」

「あたしもおぼえてるよ。この肌がピリつく感じ」


 笑い合う2頭の獣の前に、もう1頭の獣が立つ。


「よう、ボーイッ! スマイルだったかッ!?」

「見りゃわかんだろ。とびっきりの笑顔だぜ」


 クロガネが歯を剥き、猪之崎の異相を見据える。


「ソラちゃんも大きくなったなッ! スマイルだったかッ!?」

「右に同じく。見ればわかるでしょ?」


 ソラが歯を剥き、親指と人差指を交差させてハートマークを作る。


「そうかッ! 二人ともエクセレントなスマイルだッ! 今日の試合、楽しみにしてるぞッ!!」

「ああ、俺も楽しみだぜ、親父モドキ」

「胸を借りようなんてつもりはさらさらないからね。きっちりぶっ倒してあげるから」

「はははは! エクセレントだッッ!!」


 どこからか現れたレフェリーが割って入り、三人はそれぞれのコーナーに戻る。

 赤コーナーはアトラス猪之崎。挑戦者を待ち受けるチャンピオンの位置。

 青コーナーはクロガネとソラ。チャンピオンに挑む挑戦者の位置。


「まずは俺から行くぞ。やつの実力が本物か見定めてくる」

「わかった。見掛け倒しならそのまま畳んじゃって」

「言われるまでもねえ」


 ソラがリングの外へ降り、高らかにゴングが打ち鳴らされる。


「本当に親父なら、まずはこれだろ?」


 クロガネが両手を前に掲げる。


「オフコースッ! もちろんだッ!!」


 猪之崎がクロガネの両手を掴む。


 両者の対戦は、がっぷりの手四つから幕を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る