第95話 鹿折ダンジョン 第9層 <鏡の間>

■鹿折ダンジョン 第9層


 トカゲに逃げられ、第9層に降りてきたクロガネたちの前を待っていたのは金属製の大きな扉だった。ピカピカに磨き上げられており、覗き込むまでもなく自分たちの姿が映る。

 その扉にはやはり金属のプレートがはめ込まれており、そこには朱色の文字でこんな文言が刻まれていた。


『これより先は鏡の間 進むならば覚悟せよ

 己が正道を行く者は 来し方を振り返れよ

 最も高く聳えた壁が 汝の行く手を阻まん

 壁を砕きし者だけが 生命の秘奥に触れん』


「なんだこりゃ? またなぞなぞかあ?」

「意味深な感じだね。いまいち意味がわかんないけど」


 クロガネとソラは、プレートの前で顔を見合わせる。

 つい先ほど、謎掛けリドルに手を焼かされたところなのだ。

 どうしても考え込んでしまう。


「このキノコえた壁ってなんだ? キノコで出来た壁でもあるのか?」

「キノコ? あ、それはきのこじゃなくて。『そびえた』ね」

「へえ、難しい漢字知ってんなあ」


 ソラに教えられ、クロガネは素直に感心する。

 先ほどの謎掛けリドルでこそ失敗したが、ソラは勉強はできる方なのだ。塾にも通わなかったのに、県下でもトップクラスの高校に進学し、成績も上位を保っている。


 名前を書ければ入れると揶揄やゆされた高校を中退した自分とは頭の出来が違うのだ、とクロガネは思っている。思い返せば、ソラの亡父である風祭鷹司も名門大学の体操部からのプロレス転向という異色の経歴の持ち主だった。地頭の良さは遺伝しているのだろう、


 ともあれ、考えていたところでしょうがない。

 クロガネは扉を押し開けようと手をかける。

 しかし、何の手応えもなく押した腕が向こうへとすり抜けた。

 驚いて手を引っ込めるが、別になんともない。


「へー、幻の扉みたいな感じ? めっちゃ面白い!」


 クロガネが手をにぎにぎして確かめている隙に、ソラは身体を半分扉にめり込ませていた。

 出たり戻ったりして遊んでいる。この物怖じのなさも鷹司タカさんにそっくりだとクロガネは短いため息をついた。


「あー、向こう側に行っても大丈夫そうなのか?」

「うん、とりあえず何にもないよ」


 ソラが扉をすり抜けて行ってしまうので、クロガネはその後を追う。

 扉を抜ける瞬間、頭の芯を冷たい手で撫でられるようなぞくりとした感触がしたが、それ以外はとくに変わったこともなかった。


 扉の先は、これまでの荒々しい岩肌とは異なっていた。

 壁は真っ直ぐに掘り抜かれ、直線に伸びている。

 床も朽ちた木板ではなく、大理石のような石畳が敷き詰められていた。


 通路はどこまでも長く、行く先が見えない。

 3人の足音がカツンカツンと冷たく響く。


「あれ? なんか聞こえてこない?」


 ソラに言われ、クロガネは耳を澄ます。

 すると、遠くからざわめきのようなものが聞こえてきた。

 数百、数千の人間がひとところに集まっているような、そんな喧騒。


 さらに足を進めると、徐々に音がはっきりしてくる。

 びりびりと空気が震え、空気に熱気がこもってくる。


 そこへ、重低音の連打。

 鍵盤楽器の和音が響く。

 これはグランドピアノ。


 聞き覚えのある演奏・・に、クロガネのソラの背骨が共鳴する。


 一歩進むたびに大きくなるのは、交響曲第五番「運命」。

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが遺した、クラシックの名曲。

 軽やかで繊細な旋律。力強く重い和音。

 どれだけの名手が弾いているのか、それを容易に想像させる演奏。


 クロガネもソラも、クラシックなどに詳しくはない。

 しかし、この曲だけは、否、この演奏だけはよく知っていた。


 通路の行く先に、扉はない。

 ただただ白く、輝く光が見えていた。

 真っ白に染め上げられたそこに踏み入れば、圧倒的光景。

 1,403席に囲まれた、正方形のリング。

 後楽園ホール、格闘技の、プロレスの聖地。

 そして、そこに置かれた場違いなグランドピアノ。


 真紅のスーツをその身にまとい、軽やかな指先でスタインウェイを奏でる男。

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ですらその腕前を認めた名手。

 しかし、その男はピアニストではない。

 フォーマルスーツですら隠しきれぬその身に詰まった肉の質量。

 身長189ンチ、体重102ログラム。

 上背はほとんどクロガネと変わらない。

 体重は30キロも少ない。

 しかし、圧倒的存在感。

 得も言われぬ輝きが、その身から溢れている。


 旋律。

 旋律。

 旋律。


 軽やかな高音の調べ。


 和音。

 和音。

 和音。


 重く打ち鳴らされる低音の轟き。


 スタインウェイが吠える。

 それとともに、男は立ち上がる。

 肩にかけた赤いタオルを掴み、天に突き上げ咆哮する。


「スマイルですかーッッ!!」


 会場が揺れる。

 見渡せば、無数の人、人、人。

 若者が、老人が、中年が、壮年が、スーツのサラリーマンが、Tシャツのフリーターが、ボディコンの女が、アメカジの男が、ざらついた、ブラウン管の解像度の大観衆が、熱狂する。


「スマイルならば、なんでもできるッッ!!」


 歓声。

 歓声。

 歓声。


 三半規管がシェイクされ、真っ直ぐに歩けなくなるほどの大歓声。


「たはは……なんだこりゃ……」

「嘘……こんなことってある!?」


 クロガネにとっては、高校を中退しやめたあの頃。

 ソラにとっては、何度も何度も繰り返し観た動画。


「スマイルですかーッッ!!」


 大歓声をかき消す大音声。

 それに震え、応える大観衆。


 狂騒の中心にあるのは、プロレス界の生ける伝説、<人類史上最強>アトラス猪之崎、その姿であった。

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