第82話 ドラゴン退治
■仙台市真央区 正木邸上空
「よし、真上だ。野郎の頭の真上に飛ばせ」
「ま、真上と言われましても……」
ヘリのパイロットは空中で乗り込んできた男の指示に困惑していた。
あのドラゴンの頭上と言われても、蛇のようにのたうっており、あちこち動き回っているのだ。一瞬たりとも同じ場所にない頭の上に移動しろと言われても、どうしたらよいのかわからない。
「ちっ、わかんねえか。左だ左。あ、もうちょい前だ」
「えっ、この辺りでいいですか……?」
「おう、この辺だ。ここで待機な」
「は、はい……」
パイロットはますます困惑する。
今いる場所は中庭の池の真上で、ドラゴンの頭どころか身体も存在しない。
さらに池の脇ではまた別の大男が庭石を投げてドラゴンにぶつけている。
自分なら投げるどころか持ち上げることすらできなそうな大岩だ。
後ろの座席では血まみれの大男がにらみをきかせている。
その隣では、これまで眉ひとつ動かすところも見たことがなかった正木家の当主が蒼白になって震えている。
悪い夢でも見ているのだろうか、早く帰ってシャワーを浴びて、ビールでも飲んで寝たい……パイロットはぼんやりとそんなことを考えながら眉間を揉んだ。
ともあれ、場所が決まっているなら問題はない。
言われた通りの位置でホバリングする。
正木邸周辺は高い建物がなく風が安定している。
ヘリを飛ばすには格好の環境なのだ。さほど難しい要求ではない。
「よーし、いいぞ。ここから動かすんじゃねえぞ」
そう言いつけて、クロガネはヘリから身を乗り出す。
静かに呼吸を繰り返し、精神を集中する。
トップロープから飛ぶときはいつも同じ心境だ。
「飛び技」というのは、はっきり言って実戦の技ではない。
一度飛び立てば空中で軌道を変えることなどできない。
簡単にかわせるし、カウンターも取りやすい。
だが、プロレスラーはその飛び技をあえてやる。
そして、その飛び技を見事に当ててみせる。
打撃系格闘技で当て勘と呼ばれるものの延長だが、それはもはや未来予知に近い。
数千回、数万回に及び地道な反復練習。
文字通り血の滲む鍛錬の果てに身につく感覚。
その嗅覚によって、クロガネは飛ぶべき場所とタイミングを測っていた。
轟音。
ドラゴンが膝をつく。
平屋の日本建築を巨体が破壊する。
あのヤクザが投げている岩が効いたらしい。
長大な首が切り倒された巨木のように倒れていく。
その瞬間、クロガネは頭から飛び降りた。
肘を立て、錐揉み状に回転する。
夜闇を切り裂き、巨体が落ちる。
直下には醜悪な竜の異形の頭部。
頭部だけでクロガネの身体よりも大きいそれが、上を向く。
眼窩から溢れ出る、糸状の器官が独立した生き物のように蠢く。
クロガネは、「目が合った」と感じた。
眼球などはどこにも見当たらないが、そう感じた。
回転しながら、真っ直ぐに視線を返す。
狙いは眉間。
当てると思い定めた場所に当てる。
当たると思い定めた場所に当たる。
それが、プロレスの飛び技だ。
その意志によって、思い描いた未来を現実に変えるのだ。
異形の竜の触手が、クロガネに向かって伸びる。
うねりながら、黒い槍衾と化してクロガネを迎え撃つ。
だが、クロガネは止まらない。
飛び技とは、跳躍の瞬間にすべての運命を賭けるもの。
思い描いた未来に向かって、身を捨てて飛び込むもの。
高速で回転する肘が、槍衾をはねのける。
幾本もの槍がクロガネの身体をかすめ、鮮血が夜空に散る。
赤い螺旋が夜空を彩る。
黒い槍衾が無様にへし折れる。
それはさながら回転する刃。
夜を切り裂く回転ノコギリ。
鋼鉄の肘が螺旋を描き、異形の竜の眉間に突き刺さる。
――
それは変形のフライング・エルボー・ドロップ。
落下の位置エネルギーに、回転の遠心力を加える
幾度もの骨折を繰り返し、鍛え上げられた肘は斧に似る。
肉厚の
名状しがたい叫びとともに、巨竜の首が地面に墜ちる。
そこに待ち構えるは、もうひとりの悪鬼。
野生の嗅覚が、獰猛な本能によってその場所を嗅ぎ取っていた。
墜ちてくる頭に向かい、ボーリング球のような拳を握りしめる。
限界まで体を捻り、全身の筋肉をゼンマイのように絞り上げる。
筋肉が、骨格が、みしりみしりと音を立て、圧倒的密度を生む。
そこから発する重力が、辺りの景色をぐにゃぁりと捻じ曲げる。
そして、解放。
蓄積されたエネルギーが、墜ちる頭に炸裂する。
超高密度の拳が、竜の下顎をかち上げ、ぶち抜く。
竜の歯が粉々に砕け、口から溢れたどす黒い血が間欠泉の如く夜空に噴き上がる。
竜は、天を見上げた。
月を見ながら、びくりびくりと二度、三度と痙攣する。
そして、再び墜ちる。
池に墜ちたそれは、何匹もの錦鯉を巻き込んで水しぶきを上げた。
沈黙。
もう動かない。
頭蓋骨をぐちゃぐちゃに砕かれ、中身も潰した豆腐のようにぐずぐずだ。
どういう身体構造なのか、だらしなく開いた口からは、巨大な目玉がひとつ、でろりとまろび出ている。
池は赤黒い血で染まり、腐臭が漂う。
ごぼり、ごぼりと泡が立っている。
どう見ても死んでいる。
醜い竜の死骸。
その首が、ゆっくりと持ち上がる。
「ぶはっ! なんだこりゃ!? めちゃくちゃ臭えぞ!」
首を持ち上げ、現れたのは一人の巨漢。
コールタールのようにねばつく竜の血を全身に浴びたクロガネが、ぺっぺっと唾を吐きながら池の中から立ち上がった。
「クソ生臭え……。腐ったサメよりひでえぞこりゃ……」
ぶつくさと文句を言い、池の外に上がる。
そしてその目が、かっと見開く。
その瞳には、紅蓮の炎が灯っていた。
「む、やっとやる気になったか?」
クロガネの表情を見た蛮がにやりと牙を剥く。
拳を打ち合わせ、首を左右に曲げてバキバキと鳴らした。
「ちげーよ馬鹿! うしろ見ろ、うしろ!」
「ん?」
だが、違ったらしい。
蛮が振り向くと、そこには黒煙を上げて燃え上がる正木邸があった。
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