第61話 仙台駅前ダンジョン第10層(裏) vs 茨木童子③
リング上空でソラとイバラが火花を散らす間、地上ではクロガネと
といっても、ソラたちの目まぐるしい戦いとは対照的に、こちらの戦いは静かだ。
クロガネはリングの中央に陣取り、腰を落としてかまえている。
その姿は血まみれで、全身が擦過傷だらけだ。
だが、その傷を負わせた敵が見当たらない。
リング上にはクロガネと、ロープ際にうずくまるオクしかいなかった。
――ざぶん
背後で水音。
クロガネはすかさず振り向き裏拳を振るう。
しかし、手応えはない。
背中に衝撃。
さながら灼熱の鞭で打たれた痛み。
奥歯を噛み締め苦痛を飲み込み、後ろ蹴り。
だが、これも空を切る。
背中を生温かいものが流れる感触。
「ちっ、出たり引っ込んだりラチが開かねえ。とんだ塩試合だぜ」
クロガネと<イソナデ>の戦いは、終始この調子だった。
ひたすらこのヒット・アンド・アウェイが繰り返されている。
気配を読んでなんとか対応しようとしているが、クロガネは神秘的な武術の達人などではない。気配を読むといっても心眼で見極める――などといったオカルトではなく、音やマットの振動を感じようとしているだけだ。
当然、そんな戦い方など経験したことはない。
読みの精度は低く、大まかな場所へ勘で攻撃するしかない。
フェイントにもいいように引っかかり、手傷を増やしていた。
深手はないが、傷の痛みと出血は確実にクロガネを消耗させている。
あの鮫男は、文字通りじわじわと削り殺す腹積もりなのだろう。
「ちまちまして華がねえ。そんならハンデをやるぜ」
何を思ったか、クロガネはリングの真ん中に大の字で寝た。
その姿は無防備そのもの。寝そべったまま、大声を張り上げる。
「正面から
言うまでもなく挑発だ。
ブラジリアン柔術などでは、あえて自分から倒れて寝技を狙うテクニックもあるが、そんなものではない。
防御どころか攻撃に転じることも難しい、不合理極まる姿勢である。
「呆れた呆れた、あなた、ゴリラ並みの頑丈さかと思えば、おつむの方もゴリラ並みなのですネ」
<イソナデ>の声。
クロガネから十分に離れたところで上半身を出し、両手を広げて首を左右に振っている。
「あいにく考える前に身体が動くタイプでな。そういや魚にゃDNAが豊富なんだったか? てめぇを喰えば頭が良くなるかもな」
「DHAですネ。そして小生は魚などとは違うのですがネ」
「ハッ! どっからどう見ても魚じゃねえか」
「気高き
――とぷん
<イソナデ>の姿が再びマットに沈んで消える。
クロガネは大の字のまま指一本動かさない。
体勢は不自由だが、背面はマットに塞がれている。
攻撃は正面からに限定されるはず――とでも考えたのか。
馬鹿め、と<イソナデ>はほくそ笑む。
所詮は齢百年にも満たぬ人間の浅知恵。
どうして地面に背をつけていれば安全などと思ったのか。
<イソナデ>は深く、深く潜る。
そこは物理的な意味でのリングの地下ではない。
マットを水面に見立て、<イソナデ>の異能により創り出した亜空間。
広ささえも意のままになるその空間で、尾鰭を振るい最高速まで加速する。
――どうっ
鈍い衝撃音が響き渡る。
クロガネの巨体が木の葉のように宙を舞う。
下からは青黒く光る流線型の魚体。
それがクロガネを突き上げ、跳ね上げたのだ。
このまま喰い殺す。
<イソナデ>は凶悪な
その口腔にはナイフの刃先の如く鋭い牙が並ぶ。
鮫肌で削り殺すのはもうやめだ。
この不快な人間は、はらわたを喰い破ってすぐ殺す。
魚体が宙を泳ぐ。
白い牙が
温かい肉の感触。
舌に触れる生き血の味。
内臓までもう1寸ほど。
一気に喰い破ろうと力を込め――
「ハッ! ようやく
顎が、動かない。
万力で挟まれたように、牙が捕らえられている。
「
「ああン? 何を言ってっかわかんねえぞ」
突き出た鼻先が、締め上げられる。
気道が潰され、呼吸ができない。
起きた事態が、理解できない。
何が起きたか、わからない。
全身をくねらせ、のたうち回る。
水の感触。
マットに着水。
必死で水を掻く。
咥えた顎を離そうとする。
しかし、離れない。
ここで、やっと理解する。
この人間は、腹の肉を締めて
鮫肌で肉が削れるのも構わず、鼻先を両腕で締めている。
痛みから逃れるのが生物の本能だ。
あえて痛みを受け入れるかのように攻撃を受け止め、反撃を試みるものなど
首を左右に振る。
あえて牙に負担をかける。
歯茎に痛みが走る。
痛みから、苦しみから逃れるため、一層激しく首を振る。
出血。
大量の出血と痛み。
どくどくと口の中に溢れるそれは、己の血液。
折れた牙の歯茎から、流れ出しているもの。
「ほ、本当に人間なんですかネ、あなた……」
血を吐きながら、なんとか距離を取る。
抜けた牙が、巨漢の腹に並んで刺さっている。
「くそっ、血で滑っちまったぜ」
巨漢の両腕は真っ赤に染まっていた。
傷の具合も見えないほどの大量の血。
だが、それに気づいてすらいないかのようにこちらに拳を向けてくる。
状況は圧倒的に有利なはずだ。
こちらは牙が折れただけ。
その牙も、今まさに再生しかかっている。
鮫の牙は何度でも生え変わるのだ。
一方、クロガネは血まみれの満身創痍だ。
背中の皮を剥かれ、両腕を肉まで削られ、腹には幾本もの牙が刺さっている。
にも関わらず、闘志はまったく衰えていない。
「チクチクうっとうしいな、こりゃ」
ぎちり、と音が聞こえた気がした。
腹に食い込んでいた牙が筋肉に押し出され、ぼとぼとと地面に落ちていく。
「は、ははは……これはまともに付き合えませんネ……」
<イソナデ>は思考を切り替えた。
この人間は――クロガネは嬲り喰らうだけの餌ではない。
己に届く牙を持つ、油断ならぬ
敵を相手にするのなら、万策を以って
<イソナデ>の丸い双眸がぎょろぎょろと動き回り、周辺を探る。
マット。これは己が泳ぐ海。
茨の金網。行動可能範囲。棘は<イソナデ>の牙に等しい鋭さ。要注意。
頭上。茨木童子が戦っている。敵は人間の女。戦況は拮抗。援軍は期待できない。
探せ探せ探せ、己が有利をもたらす何かを。
探せ探せ探せ、この限られた戦場の中から。
探せ探せ探せ、あの男の急所となるものを。
「痛い……痛いでござる……」
そして、目が止まる。
リングの端でうずくまる、脆弱な豚頭の小人に。
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