わたしのために、描いてほしくて

紫鳥コウ

わたしのために、描いてほしくて

《父さんは、ナオミの願いを気の迷いだと言ってきかない。ナオミはあの日、ふたりきりの海で、ずっと夜空を眺めていた》


――ツバサは、いくつかのラフのうち、これに決めたという一枚の清書に取りかかった。彼女の家は高台にあるので、閉め切ったカーテンの向こうには、冬らしい澄み渡った夜空があるに違いない。


《ナオミは、自分の病気が治らないことも、子供のころから憧れていた「オトナ」になれないことも知っていた。けど、それを引き受けられるくらいには大人だった》


――ツバサは、親戚の男の子の写真を参考にしながら、人気ひとけのない山道を歩く主人公を描いていく。


《わたしの骨は、この墓の下じゃなくて、宇宙にいてほしい。そうしたことを初めて口にしたのは、お盆の墓参りのときで、父さんは、ナオミを厳しく叱った》


――ツバサは「骨壺」を詳しく見たことがないし、調べてみても、それを自分の手で「イラスト」にすることは困難を極めそうだった。だけど、主人公を後ろ姿にして、胸の前でなにかを持っているように見せる構図にはしたくなかった。


《ナオミの骨を宇宙に撒くためには、この骨壺を持って、どこに行けばいいのだろう。父さんたちに見つかる前に》


――ツバサは、彼女の小説を何度も読み返しながら、この物語に合うイラストを仕上げていく。


     *     *     *


 弘江ひろえは、むかし、こんなことを想ったことがある。

 そしてその想いを、卒業式の日に刊行する部誌に投稿する小説の、冒頭に置いてみた。だけど次の日には、むずかゆいような気持ちになった。


《わたしは、先輩の「胃」になってあげたい。鎖にしばられた先輩の方へと砲身を向け、導火線に火をつけると、しばらくしてドンと響く。砂埃がおさまったとき、先輩の身体の真ん中がすっぽりなくなってしまう。その空いたスペースに、わたしは入り込んで、先輩の「胃」になる。そうすれば、わたしが代わりに食欲を満たしてあげられる。食べなくても、先輩が夢中に絵を描き続けることができるようにしてあげられる》


 かぶりを振って、もう一度、冒頭から書き直すことに決めた。


     *     *     *


 学年で平均以上の点数を取ることができるのは、国語だけしかなく、どれだけ努力しても合格は叶わないだろうと、父親さえ思っていたくらいだったのに、わたしは、第一志望の私立の女子高に入学することができた。

 有名大学に進学する生徒の数だけではなく、スポーツや芸術の分野で活躍する著名人も多数輩出しているこの高校では、必ず部活に所属しなければならないという規則がある。それを知ったのは、入学してからだった。

 わたしは、運動もできなければ、楽器も苦手だ。棒読みの芝居が学芸会で笑われた記憶があるし、相手より一手先を読めるほどの勝負勘もない。茶道や生け花の心得なんてない。中学生のときは、もちろん帰宅部だった。

 消去法の末に、美術部と文芸部の二つが候補となった。


 入学式の日からの一週間が、部活見学の期間だった。わたしはまず、美術室に向かうことにした。

 市松模様の床は綺麗に掃除されていた。複雑な形に編まれたかごに山盛りにされた果物を中心に、円形状にイーゼルが立てられている。張り詰めた静けさの中に、油の匂いが漂っている。

 作品づくりの邪魔にならないように、足音を忍ばせながら、遠目から作業風景を見ていると、肩をとんとんと叩かれた。振り返ると、紺色の体操着姿の女の子が立っていた。部活の見学に来た同じ一年生かと思ったら、胸のあたりに「3-4 オノダ」と印字されているのが見えた。


「うちはストイックなとこだから、見学にきても、運動部くらいキツそうっていう印象を持たれちゃうんだよね。音を立てるとダメだって分かってるから、長居もしないしさ。だからこうして、あなたを連れ出して、直接、勧誘をしてみたわけ」

「見た感じだと、わたしのレベルでは付いていけそうにないです……」

「そうなの? 見学期間の初日に来てくれたから、興味津々なのかと思ったんだけど」

「自分に合った部活が思いつかなくて……」

「わかる、わかる。うちの高校の部活って、中学の時からの延長にあるっていう感じだからね。それで、文芸部を候補にあげる子もいるけど、あそこも、けっこうガチだよ」

「えっ、そうなんですか」

「うん、自分こそが一番だという自信にあふれた子たちが勢ぞろいしてて、学期末に出してる部誌の巻頭を飾る作品を出すために、みんな血眼になってる。部員数も、三十人を越えてるらしいし」

 その言葉に絶句していると、先輩はこっそりとこんなことを教えてくれた。

「でもほとんどは、幽霊部員だよ。名前だけ入れてても、あまり厳しく言われないところだから」

 美術部の部長の前で、「それじゃ、文芸部に入部届を出します!」と思わず宣言しそうになってしまった。失礼なことを言いそうになったこの口は、ふと、ある女の子のことを思い出した。美術道具の展覧会でもしているかのように、いろんな道具の中に自分をうずめていたので、強く記憶に残っている。

 そしてなにより、あまりにも美しかった。

「ツバサでしょう? ほんとうに美人さんだよね。ツバサ目当ての女の子が入部届を出してきたことがあるくらい」

「初めて見ました。あんなに……すごく美しい女の人を」

「スゴイのは見た目だけじゃないよ。昼休みも絵を描いていたいからって、イチゴジャムとマーガリンの代わりに、赤と白の絵の具を食パンに塗って片手で食べてる」

「それは……菓子パンを買っておけばいいだけでは?」

「うん、そう。そうなんだけど、そうじゃないというか」

 そうした奇行が冗談とは思えないくらいに、絵を描くのに命を賭けているのだということを、それこそひとつの作品のように体現している人に思えたから、適切なツッコミを入れることができなかった。

 もうすでに、ひとめぼれをしてしまっていた。


 高校生になって初めての夏休みが訪れた。

 いままでに経験したことのないほどの量の課題が出た。津々浦々、勉強にも部活にも力を入れる学校というのは、どこでもそうなのだろうか。

 休み中も部活がある人たちは、この課題の多さを前に、どういう生活をすることになるのだろう。


 あっという間にお盆が過ぎ、夏休みも終盤に差しかかったころ、美術部の部長の美南みなみ先輩から連絡がきた。結局、文芸部の幽霊部員になったのだけれど、あれから美南先輩とは連絡を取り合う仲になっていた。

 それは、《今度の休みにさ、ツバサの作品を見に行かない?》というお誘いであり、《県のコンクールで金賞を取ったんだよ》という文言から想像されるわくわく感は、さらに、《ツバサも行くって》という最後のメッセージのおかげで、心臓の音はやかましくなった。


 着ていく服に迷った。ファッションに無頓着むとんちゃくなわけではないけれど、着飾れるほど上等な服なんて持っていなかった。人前に出ても恥ずかしくないだけで、オシャレとは言い切れない服しかない。


「なんで制服なの?」と、美南先輩は驚いていた。

 日曜日の午後二時。身だしなみを整えるのに夢中になってしまって、昼ごはんを食べていなかった。

「曇りの日でも暑いね」

「そうですね……ところで、もう二時を過ぎてますけど、ツバサ先輩は?」

「それがさあ。わたしがここに着てすぐに、やっぱり行かないって連絡があって」

「えっ?」

「金賞を取った絵より、一昨日描きはじめた絵の方が良い作品に思えるんだって。まだ完成していないらしいのにね」

「どういうことですか?」

「どういうこと? ああ、そうだね。ツバサは恥ずかしいんだよ。自分の一番の作品ではないものを、わたしたちと見に行くっていうのが」

 期待を裏切られたショックはあまりにも強烈で、ドキドキとしてなかなか眠れなかった昨夜のことがバカらしくなり、一気に空腹が押し寄せてきた。ドタキャンをしたツバサ先輩への怒りとともに。

 わたしたちの目線の先には、多目的ホールの前に立てかけられた看板に貼られている、「金賞受賞作」が印刷されたポスターがあった。今日の五時が、展覧会の最終日だと印字されている。


 幽霊部員だからといって、全くなにもしなくてもいいわけではない。

 美南先輩が言っていた通り、「けっこうガチ」な部活だけあって、一年に一作はコンクールに応募しなければならない。

 夏休み中に、いままで一度も書いたことのない小説を、原稿用紙十枚分のなかに埋めこんだ。郵送をしたのは、締め切りの前日だった。「御中」という言葉を封筒に書くのは初めてで、まるでオトナになった気分がした。


 卒業式の日に刊行される部誌の表紙と巻頭の小説の挿絵一枚を、ツバサ先輩が描くということを知らされたのは、二学期最初のミーティングのときだった。

 去年から依頼されていたということで、イラストを描く練習を夏休みから始めていたのだと、美南先輩から聞いた。そして、先輩が金賞を取った県のコンクールが、三年生の「最後の大会」だったということも。

 でも、十二月にある推薦入試の結果によっては、ツバサ先輩が引き受けるかどうかは分からなくなるとのことだった。

 受かってほしい、と思えない自分がいるのも事実だった。

 すべての部員にチャンスがあるとのことだったけれど、原稿用紙十枚を埋めるのにあんなに苦労したわたしが、巻頭を飾れるはずがない。

 どうせ、上級生の作品にツバサ先輩は絵をつけるのだ。嫉妬のあまり、もだえ死んでしまうかもしれない。先輩と一緒にひとつの作品をつくることができるだなんて、あまりにもうらやましい。


 放課後、美術室の前を通りすぎるふりをして、横目で先輩を探した。あの美術道具の展覧会のような場所は、空白になってしまっていた。もう先輩は部活を卒業したのだということを思い出して、高校生になってはじめて、心が沈んでしまうような悲しみを覚えた。この「ふり」をするのは、すでに一学期で最後となっていたのだ。

「わたし、もう卒業したのだけど」

 諦めきれなくて、折り返しにもう一度美術室を横目で見ていたら、後ろの方からツバサ先輩の声が聞こえてきた。先輩は、光沢のある滝のような髪を肩の後ろへと流して、苦笑した。


「バレてないと思ってたの?」

 ツバサ先輩は、自販機から落ちてきたお釣りをすくって、小さな赤い財布のなかに入れて、紺色の鞄の中にしまった。そして、硬貨を触っていない方の手で、ストローをパックに挿しこんだ。

 公園の隅にある、六角形の木の日よけの下にしつらえられた長椅子に、先輩は腰をおろした。わたしたちは横並びになった。あっちの柵の向こうにある大学のテニス場へと目線を投げている先輩の顔を、ずっと見ていた。

「なにかへんなとこある?」

「いえっ! ええと……ストローのなかをイチゴジュースが上っていくのを見てただけです!」

「ちょっと! 恥ずかしいでしょ。やめてよ」

「すみません……」

 綺麗に笑う音が上の方から落ちてきた。

「美南から聞いたけど、あなたって、文芸部でしょ。ちょっと聞きたいことがあるのだけど、いい?」

 と言って、先輩はわたしをここへ連れてきた。

「あなたって、文芸部なのよね。文芸部の部員のひとって、どんな人がいるの?」

「どんな人?」

「ええ、あなたの思うように言っていいわ。だれにも告げ口しないし」

「ええと……」

「べつに、文芸部に仲のいい子なんていないから」

 並木が落とす影の方へと顔を向けながら、自分は幽霊部員だから、ほかの部員のことを、ほとんどなにも知らないのだと、正直に白状をした。

「そう……文芸部の部室を行き来するときに、ちらちら見ているのかと思っていたのだけれど」

 美術室の前を通り過ぎないと、部室にいけないということを、いまさらながら思いだした。


「たぶん聞いていると思うのだけれど、文芸部の部誌の春号、第百号の記念ということで、わたしが表紙と挿絵を一枚書くことになったの」

 そのことは、部活のミーティングで聞いていることだ。

「一番票を集めた作品を担当させてもらうことになったのだけど、相手がどういうひとになるのだろうと思うと、ちょっと落ち着かなくなってしまって」

 ツバサ先輩はいままで、ひとりで作品を制作してきた。でも、今度引き受けたのは、共同での作業ということになる。そしてその作品は、「合作」として学校の「歴史」のなかに刻みこまれる。気に病んでしまうのは、分からなくもないような気がする。

「あなたは書かないの?」

「わたしは、才能がないんです。おもしろい物語は思いつかないし、書くのもぜんぜん早くないし」

「でも、そういうものでしょう。コピー機で刷っていくわけじゃないんだから」

「うちの高校って、勉強の方だけでも忙しいじゃないですか。そんな中で、才能のないわたしが、腕を磨いていくなんてできそうにないですよ」

 ツバサ先輩はため息をついて、「わかるわ」とつぶやいた。

「わかるんですか?」

「なんで? 忙しくてしかたがないのは、みんな一緒でしょ。だからわたしも、できることしかできない。したいことは、たくさんあるのに」

「したいこと……ですか?」

「ええ、ほんとうなら、彫刻だって、版画だってやりたい。美術なら、なんでもやりたい。でも、あなたが言うように時間って有限だからね」

「こんなに忙しくなるとは思いませんでした。高校生になったらしたいと思っていたことが、ふたつくらいしか叶えられていませんし……」

 イチゴミルクのパックを、絵の具を絞り出すような風に折り畳むと、先輩は、まだ一口しか飲んでいないオレンジジュースを、わたしの手から抜き取ってしまった。

「こっちも飲みたかったけど、持っているお金は増えたりしないからね。うん、やっぱりおいしい」

 わたしの手へと返ってきたオレンジジュースを、先輩と別れてから大切に飲んだ。カーブミラーに映るわたしの後ろの街並には橙色だいだいいろの夕陽が差していて、舌に残っているオレンジの香りのせいなのか、わたしとこの空とが一体になっていくようなヘンな感覚がした。


     *     *     *


《遺骨がもう一度組み立てられていき、その周りに肉がついて血が流れ、記憶と感性が渦をまくように練り上げられて脳を作り、ナオミになってくれはしないか。そう願いながら、朝陽のさす海の方へと骨壺を投げた。後ろの方から、「オトナ」たちの怒号や悲鳴が、一緒くたになって聞こえてきた。まるで春雷のようだった》


――カーテンを開けると朝陽が差しこんできた。コーヒーを飲もうと台所へ行こうとしたとき、携帯が震動して、もう少しで机の上から落ちそうになった。


「もしもし。……はい、大丈夫です。ええ、怒っていませんから。このシリーズが無事に続いていくことが大事なので、これからも執筆に励んでくださいね。……だから、怒ってないですよ。原稿が回ってくるのが遅いなんて毎度のことじゃないですか。……もう先生も寝てください。わたしも、もう少ししたら寝るので。……ツバサ先輩、とか言わないでもらっていいですか。わたしたち、もう高校生じゃないので。……だから、怒ってないって言ってるじゃないっ! もう切りますよっ! 弘江も……あっ、じゃなくて先生も、はやく寝てください!」


 ツバサは電話を切ったあと、本棚の特等席に並べてある弘江と自分の本の背表紙を、人差し指ででた。

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わたしのために、描いてほしくて 紫鳥コウ @Smilitary

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