第3話 国後到着

空想時代小説


 白老を出て、16日目の夕刻、高野主水一行は任地の国後陣屋支所へ到着した。泊川の河口付近にある村に陣屋支所がある。以前、幕府が使っていたものを再利用した施設である。その夜は、今までの主任である遠藤隆信との引き継ぎであった。と言っても酒を酌み交わしながらの話である。

「高野殿、よくぞ参られた。このへんぴな土地も慣れれば天国だが、冬の厳しさは格別ぞ。今にうちに毛皮を用意された方がよいぞ」

「話には聞いておりますが、どのような寒さなのか、想像できませぬ」

「わしも最初はそうだった。寒い日にションベンをすると、つららができるくらいの寒さと言ったら信じるかの?」

「あたたかいションベンが凍るのですか? 信じられませぬ」

「だろうな。そういう日が年に何度かあると思えばよい。ふんどしにションベンをかけると最悪だぞ。すぐに凍り、大事なところが凍傷になる」

「それは大変ですな」

「ところで、高野知哲(ともあき)殿をご存じか?」

「本家の伯父の名前です。私が産まれる前に亡くなっているはずです」

「そうか、ここの初代の主任だ。今から60年ほど前に来て、この支所を整備したと記録にある」

「誠でござるか。国元では、そのような話は聞きませんでした」

「つらい経験をされたからであろう。後で、記録を読まれるがよかろう」

「ありがとうございます」

と言いながら、主水は昔に縁戚の者がここに来ていたと聞き、何かの縁を感じていた。

 翌朝、遠藤隆信一行は国後を去っていった。案内人の鈴木源五郎は体調を崩し、その一行の中に入った。後日、病で亡くなったと知らせがきた。

 国元に帰る面々の顔は晴れやかだった。無事に国元に帰れることを願う主水であった。

 国後陣屋支所は、半円形の陣屋である。南側が浜に接しており、そこに3艘の和船が引き揚げられている。1艘の和船に10人ぐらいが乗れる。残り三方は、高さ2間(3m)ほどの土塁である。内側には階段があり、すぐに登れるが、外側は滑りやすい粘土で固められており、登りにくくなっていた。陣屋の大きさは、東西30間(50m)ほどである。その中に5つの建物があった。中央には本部となる建物で、主水と2名の分隊長の部屋があった。会議もここで行う。右には、家臣の建物と倉庫があり、左には使用人用の建物と倉庫があった。使用人は、通訳のアテナイと白老で雇ったアイヌ人10人である。女性のアイヌや子どものアイヌもいた。主な業務は炊事や洗濯である。男のアイヌは狩りも行った。中には言葉がわかるアイヌもおり、アテナイは手持ち無沙汰となっていた。厠は、川沿いに2棟あった。川の水を使った水洗式である。

 国後は8月が一番いい季節である。9月になると一気に色づき、10月末には雪が舞ってくるという。まずは、隆信が言い残していったように、狩りにいそしんだ。主な獣は野ウサギや鹿である。熊を仕留めると、アイヌ人は大騒ぎだった。毛皮が重宝だからである。この毛皮を使えるようにするには、苦労がある。そのまま乾かすとひびが入り、使い物にならない。なめすことが大事で、交代でなめし作業をした。もちろん主水もその作業に携わった。それと肉は塩漬けにし、魚は日干しにした。冬には食料を得られないので、今のうちに蓄えなければならない。家臣の中には、

「戦に来たのではなく、これじゃ島ながしだな」

とぼやいている者もいた。口にはしないが、主水もそう思う時があった。何日かして、記録の中から日誌を見つけた。初代の高野知哲の日誌である。それを何気なく見ると、すさまじい生きざまが書いてあった。抜粋すると、

 4月10日 函館を安宅船3艘にて出航す。総勢560名。船は窮屈だ。

 4月20日 白老の浜に到着。補給を行い、言葉のわかるアイヌを雇う。

 4月30日 オンネエルム(襟裳岬)にて嵐にあう。近くの浜に避難。船修理を行う。嵐が強く、白老までもどる。

 5月14日 再度出航する。しかし、またもやオンネエルムで嵐にあう。前回よりも風が強く、白老までもどる。

 5月20日 しばらく出航を断念する。補給と船の修理を行う。

 5月26日 わけのわからぬ病におそわれる。吐き気と熱。隔離を行う。

 5月28日 100人ほどを隔離する。

 6月 3日 死亡者1名。火葬し、感染を防ぐ。

 6月 5日 死亡者3名。火葬す。

 6月10日 新たな感染者はいなくなる。

 6月25日 3度目の出航。

 6月30日 オンネエルム通過。南風を受け順調。

 7月 3日 大きな川沿いの浜に到着。水と食料の補給を行う。

 7月20日 アッケウシイ(厚岸)の浜に到着。今までの浜で一番大きい。休養をとる。牡蠣がうまい。

 7月21日 アイヌにおそわれる。家臣10名が戦死する。捕まえたアイヌから話を聞くと、牡蠣を盗んだからだということだった。知らぬこととはいえ、軽率だった。

 8月 1日 ノ・サム(納沙布岬)を越える。ここから北の海(オホーツク海)にはいる。

 8月10日 ニ・ムイ(根室)に到着。幕府の陣屋があり、訪問。補給と休養をする。

 8月12日 アイヌとの戦いに巻き込まれる。

 8月15日 アイヌが引き揚げる。家臣15名が戦死。50名近くが負傷する。

 9月 8日 ニ・ムイ出航。

 9月10日 クンネ・シリ(国後)到着。およそ半年かかった。

 ここまで来ることができたのは、400名に減っている。亡くなった者、29名。けがで動けなくなった者、11名。各地の浜に残った者が120名である。

 ここで、一冊目が終わっていた。主水は、自分の経験がさしたる苦労ではなかったということがわかり、先祖の並々ならぬ体験に涙するところもあった。わけのわからぬ病は、おそらく人が多くなったことによる不衛生からきたものだと思われた。排泄物の処理がうまくされないと、流行る病と同様だったのである。

 2冊目はさらに、壮絶な記録だった。

 9月15日 幕府が残した陣屋では狭いので、建屋を増やす。半数の200名が過ごせるように、20棟作ることにした。

 9月20日 畑を耕す。冬でも食べられる葉野菜などの種まきをする。

 9月30日 畑を荒らされる。イノシシだろうか、野生動物の足跡が見られた。 

10月 6日 深夜、野生動物におそわれる。イノシシではなく、オオカミだった。家臣10名が負傷する。

10月10日 深夜、熊が襲ってきた。勇敢にたたかった家臣2名が亡くなる。だが、熊の毛皮を入手できた。アイヌ人の話によると、熊の毛皮は貴重だということだ。

10月13日 狩りに行き、熊におそわれ、家臣3名が亡くなる。冬場が近くなり、熊の気が荒くなっている。

10月20日 雪がふる。寒さもひどくなってきている。家臣の足元を見ると、ぞうりをはいている者がいる。わら靴をはくように指示する。

11月 4日 雪がつもる。わら靴だけでは寒さに耐えられない。足の指が凍傷になる家臣が続出する。

11月 5日 アイヌ人が毛皮で作った袋に足を入れていた。そこで下駄に皮を巻き付けるように指示をする。

11月10日 深い雪では、皮を巻いた下駄では役に立たず、アイヌ人のように毛皮で作った袋の方が効果的。

12月 5日 船に居住していた家臣が凍死した。船では寒さに耐えられぬ。小屋は狭いが、寒い船よりはましだ。

12月16日 吹雪が続く。

12月20日 食料が不足しがち。このままでは冬を越せない。1日1食とする。

12月25日 久しぶりに太陽を見る。暖かさを感じない。まるで月みたいだ。

 2冊目はここで終わっていた。

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