第7話 閃光

夜の0時を過ぎて、アリステアはアルバイトから帰宅する。なるべく音を立てぬように鍵を開けて玄関に入った。息を潜めて、そろそろと廊下を歩く。難所の叔父の部屋の前を抜けて、階段を上がった。叔父の低いいびきが聞こえてきて、ほっと一息をつく。

自室に入り、服を脱いでベッドに潜り込んだ。自分を抱くようにして、呼吸をする。深呼吸を意識していると、徐々にささやかな眠気が訪れた。とろとろと微睡んでいると、夢を見た。

夢の中で、アリステアは大きな爆弾を手にした爆弾魔だった。その爆弾を赤ちゃんのように大事に抱えながら、誰もいない街を歩く。どこで爆発させようか、何を吹き飛ばそうかと考えてアリステアは自爆を思いついた。

ぐにゃりと歪んだ景色に辿り着いたのは、自分の家だ。アリステアは靴のまま家に上がり、叔父の部屋の前に立った。

さよなら。吹き飛んじまえ。

白い閃光が目を刺す。

「…。」

ふわっとした浮遊感と供に、アリステアの意識が浮上する。しばらく呆けたように天井を見つめて、もそもそとスマートホンの時計を見る。目覚めた時刻を見れば、朝6時を少し過ぎたところだった。遮光カーテンの隙間から青白い光が射し、窓ガラスを僅かに叩く水音が響く。どうやら雨が降っているようだった。

まだ登校の準備をするには早い。かといって、二度寝をするには時間が物足りないだろう。

少し考えて、アリステアはベッドから出て朝の散歩をしようと思い立った。Tシャツに薄手のカーディガンを羽織って、サンダルを突っかける。とん、と足のつま先を地面に叩き、整えた。

家を出て、空を仰ぐ。太陽が出ているのに小雨が降る、狐の嫁入りという美しい名前を持った現象だった。

「おはようございます。」

柴犬の散歩をする近所の老婆に挨拶をして、アリステアは行く当てもなく歩き始める。

新聞配達のバイクや、ジョギングをする女性とすれ違って

神社の前を通りかかった。石段を見上げ、朱色の鳥居が金に輝き出す様子を見て朝日が昇ったことを知る。

朝日は次第に街中を照らし出し、瑞々しい空気の粒子が目映く光るようだった。今日も一日が始まるのだ。

一日は積み重なり、毎日となって過去になる。日々を重ねて未来は近づき、今日は夏祭りの日となった。


夕方。甲斐は賑やかなクラスメイトと供に、夏祭り会場である神社に訪れていた。女子たちは浴衣に身を包み、それを見た男子がそわそわと落ち着かない様子でその姿を見てテンションを上げた。

「ねえ、森野くん。一緒に回ろうよ。」

2グループに別れることになった際、一人の女子に声をかけられ断るのも面倒なので、甲斐は頷いた。女子の名前は田口はるかと言うらしく、友人に後押しされるように甲斐の隣を歩く。はるかは紺地に朝顔の浴衣に身を包み、短い髪の毛を頑張ってお団子ヘアにしていた。いくつものヘアピンで髪の毛を支えているものの、後れ毛が項に幾本か零れている。一緒に来た男子たちが、その後れ毛が良い、と囁きながら色めきだっていた。

そんなものか、と甲斐は思う。はるかはおしゃれでカラーコンタクトを付けていたので、甲斐の範疇に無かった。

人工の色より、自然の光彩が好きだ。何故、わざわざ汚すのだろうと思う。もったいない。

「何か食べる?男の子は、焼きそばとかたこ焼きとかガツンとした物が好きなのかな。」

上目使いで、更に甘ったるい声が響く。それだけですでに胸焼けを起こしそうだった。

「軽く夕飯は食べてきたから。田口さんの好きな物を食べなよ。」

「えー、いいの?」

はるかは嬉しそうに手の指を絡ませて、迷う素振りを見せた後にりんごあめを選んだ。

小さく口を開けて、舌先でりんごあめの赤い飴の部分をすくい取る。一部の男子がはるかの様子を見て、何故かドギマギとしていた。どうやら彼女の赤く染まる口元が魅力的らしい。

「んー。美味しい。森野くんも食べる?」

はるかの申し出に、周囲のクラスメイトたちが囃し立てる。

「やだ、はるかったら。大胆!」

「俺にも一口ちょーだーい!!」

若者らしい騒ぎに、はるかがたじろぐ様子を見せた。

「ええ?そんなつもりじゃ、」

慌てて手を横に振るものだから、弾みでりんごあめが地面に落ちた。

「はるか、ドジっ子ー。」

「大丈夫?」

「あーあ…。もう、食べられないかな。」

はるかは溜息を吐きつつ、歩行者の邪魔にならぬように拾い上げて設置されているゴミ箱に直行した。

「残念だったね。」

「え?」

甲斐の声がけに、はるかが顔を上げる。

「りんごあめ。気分を変えて、違うことしようか。」

「あ、ああ。りんごあめ、ね。うん、そうだね。」

何故かがくりと肩を落とすはるかに、甲斐は首を傾げる。クラスメイトは苦笑していた。

「あ!ねえ、金魚すくいしない?」

女友達に誘われて、はるかは駆けていく。その隙に、甲斐は男子たちに囲まれた。

「鈍感か、お前。」

「こういうときは、間接キスしたかった、ぐらい言っておけよ。」

「…いや、気持ち悪いだろ。」

甲斐が言うと、別の意味に勘違いした一人の男子が額に手を当て天を仰いだ。

「そりゃ、好きでもない男に言われたらキモいだろうけどさあ。たぐっちゃんの顔見てればわかるじゃん?お前、好かれてんだよ。」

「あ、やっぱり?やっぱり?俺もそう思った!」

盛り上がる思春期男子を見て、甲斐は人知れずに溜息を吐くのだった。

「そんな、推測で話を進められても。」

「何でそんな冷静なんだよ!鈍感もそこまで行くと、罪だぞ!」

「罪作りの男ー!!」

甲斐が盛り上がる男子たちに呆れていると、女子たちが彼らを呼んだ。

「ねえ、さっきから何こそこそ話してるの?」

「こっちにきて、金魚取ってよー。」

「今、行きます!」

華やかな浴衣姿の女子たちに手招かれて、ミツバチのように男子が吸い寄せられていく。

祭りも後半に差し掛かり、アルコールを飲んで酔っ払っていた大人たちが腰を上げてフィナーレを飾る花火の準備のために動き出す。

甲斐はちらりとスマートホンを確認すると、アリステアからメッセージが入っていた。

【裏から行く。鳥居で待ち合わせし】

慌てて夏祭りの会場に来てくれようとしているのだろう。書き途中のまま送られたメッセージを読み、甲斐はようやく気分が浮上するようだった。

金魚すくいで盛り上がる集団からフェードアウトして、甲斐は朱い鳥居へと向かった。祭り囃子を録音したCDが流れ、明るい裸電球と手作りの提灯が混ざる現実離れした喧騒の中で金魚の尾ヒレのようなくしゅっとした帯を締めた子どもが眠気に勝てず、保護者に背負われていた。この空間にいる誰もが浮かれているようだ。

鳥居の周辺は祭りの会場から少し離れていて、人気が少ない。いるのは恋人同士が数組で、静かに談笑していた。待ち合わせするなら、まあ、都合が良いだろう。

「!」

祭り会場遠くで歓声が上がり天の川のような花火が、点火するのが見えた。スマートホンの時計を確認すると、夜10時を30秒ほど過ぎたところだった。どうやら開始に、アリステアは間に合わなかったらしい。

およそ10分間行われる、フィナーレの花火は着々と進みいよいよ最後の大型の筒の花火の番になってしまった。

着火された花火が金色の炎の粒子を撒き散らす。

「…。」

まるでアリステアの瞳の輝きのようだと思う。彼の出自について以前、訊ねたことがあった。


『俺の親?そんなこと聞きてーの。』

学校の帰り道。甲斐の問いに、棒付きのアイスを囓りながらアリステアは首を傾げた。

『うん。』

甲斐は頷く。瞳の色と言い、髪の毛と言い、日本人離れしたものだと常々思っていた。

『ああー…。名前も名前だし、まあイギリスの血筋は入ってるよ。』

がりり、と溶け出したアイスを囓る音が響く。

『名前?』

『え、逆に聞くけど何で疑問形?普通、真っ先に名前聞いたら疑問に思うだろ。…って、お前まさか。』

アリステアの口元からぽろ、とアイスの棒が滑り落ちる。『アリステアの目色のルーツが知りたかっただけだけど。あ。めっちゃ外国人じゃん、名前。』

『遅っ!?そして、やっぱり目なんだ!』

声を出して、アリステアは笑った。

『ぶれないなあ、甲斐は。』

『そう?…そうか、イギリスなんだ。』

まだ行ったことのない異国の地に思いを馳せる。アリステアと似た目色の人々が住む国。とても良い。

『うん。母の祖父がイギリス人。俺はクォーターなんだ。』

『かっこいいね。厨二病みたい。』

『…それって褒めてんの?』


何時ぞやの会話の記憶を引っ張り出して、甲斐は思い出し笑いを浮かべる。

もう直に花火が終わりそうだ。

「…甲斐…。」

小さく呼ばれた自らの名前に振り向くと、そこにはギャルソンの服のままのアリステアが立っていた。白いシャツに細身の黒いベストが彼の体躯のしなやかさをよく際立たせている。

「アリステア、汗びっしょりじゃん。」

「走ってきたんだよ。あーあ…、結局間に合わなかったか。」

息を切らしながら、アリステアは首筋に流れる玉のような汗を手の甲で拭った。

「そうでもないよ。ほら。」

甲斐が指差した先、筒の花火が金色から朱く光の色を変えた。花火会場の周囲は白い煙幕に覆われて、朱色の火花が散る様子はその名のごとく花が咲くようだった。

「おー。久しぶりに見たな。」

アリステアは眩しそうに目を細めて、花火を見た。その瞳の中に宿る火の熱に甲斐の心が焼かれる。

甲斐は遠くの花火を見るアリステアの頬に触れていた。彼の視線がゆっくりと、甲斐を捉える。

「…。」

アリステアは微睡むように甲斐の手のひらに顔を傾けた。汗で冷えた肌が吸い付くようだった。滑らかで丸い頬を撫で、その指先がアリステアの目の縁をなぞった。触れるか触れないか、ギリギリの距離に反射的に瞬きを繰り返す。その刹那、長い睫毛が甲斐の指の爪をくすぐった。

甲斐の背後が一瞬、夜の闇に包まれた。全ての花火が打ち上げ終わったのだ。拍手と供に、再び祭りの裸電球たちに光が灯る。それを合図にしたかのように、祭りに訪れていた人たちがぞろぞろと神社から排出されていく。屋台も片付けを初め、まるで夢から覚めたかのように夏祭りの終焉を迎えた。

鳥居をくぐり裏道を行こうとする人の気配を感じ、甲斐はアリステアから離れる。

「…アリステアのバイト、まだ終わらないの。」

「え?ああ。0時までだから、まだ。今は休憩時間だけど。」

そっか、と甲斐は呟き、アリステアが走ってきた道を歩き出した。

「バイト先まで、送るよ。」

「…うん。」

アリステアに先導を任しつつ、彼の隣を歩く。

「祭り、誰かと来てたんじゃないのか。」

「クラスメイトと来てたけど。まあ、はぐれちゃったって言えばいいよ。」

猫のように笑う月の光は白く、二人の影が色濃く地面に縫い止められる。

「もうすぐ、夏休みだね。」

甲斐の言うように、あと一週間もすれば学校は終業式を迎えて夏休みに突入する。

「夏休みもバイト?」

「そのつもり。」

アリステアの答えに、うーん、と甲斐は首を傾げて考え込んだ。

「何?」

「いや…。ねえ、アリステア。それ変更できない?」

今度はアリステアが首を傾げる番だった。

「僕の親戚の別荘に、一緒に行こうよ。」

甲斐は夏休みになると毎年、今は亡き叔父が建てた別荘がある避暑地に赴いていた。たった一人で別荘で過ごす時間は何の遠慮もなく気楽なものだったが、加わる登場人物がアリステアなら良いと思った。

「…考えてみる。」

「うん。考えてみて。」

話をしているうちに、『52Hz』の路地裏に到着する。二人は別れがたく、相手を引き留めたいけれどその術を知らずに無言のまま立ち尽くす。

「…休憩ってもう終わる?」

「そう、だな。30分までだから。」

スマートホンを見ると、午後10時25分を回ったところだった。もう、5分もない。

「アリステア、ちょっと。」

甲斐はアリステアの手を引く。急な動きにバランスを崩したアリステアが甲斐の胸に手をついた。

「ごめん、」

「ん。」

身長差から眼下にあるアリステアの髪の毛を、甲斐は食んだ。

「えーと…。甲斐?」

「アリステアの髪の毛って飴細工みたいだよね。」

甲斐は口に含んだアリステアの髪の毛を、ぶつっと噛み千切った。

「っ痛!?」

一か所を強く引っ張られた頭皮を庇うようにアリステアは甲斐から飛び退く。

「やっぱり甘くはないかあ。」

甲斐は数本の飴色の髪を口に含んで咀嚼している。

「当たり前だろ…。ていうか、髪の毛って消化されないから腹壊すぞ。」

「あ、そうなん?」

アリステアの助言を聞き、甲斐は素直に口の中の髪の毛を指先で摘まみ出した。

「でもさ、消化されずにずっと体の中に残るって良いよね。」

「…甲斐って、SなのかMなのかわかんねー。」

「アリステアのえっち。」

はいはい、とアリステアは呆れたように手のひらをひらひらと振る。

「馬鹿を言ってないで、俺は職場に戻りまーす。」

アリステアは甲斐に背を向けて、『52Hz』の裏口からバックヤードへと向かった。そして扉が閉まる前に甲斐に向かって振り向いて、あかんべーをするように小さく舌を出すのだった。

「うん。頑張ってね。」

甲斐は手を振って、アリステアの背中が見えなくなるまで見送った。残されたのは、手のひらに数本のアリステアの髪の毛。ぎゅ、ぎゅ、と手の開閉を繰り返しているうちに、その髪の毛もするりと風に舞って行ってしまった。

「…。」

まるでアリステアの存在そのもののようだと思う。彼はいつ間にか消えてしまいそうな危機感を孕んでいた。

「帰ろう。」

本当はアリステアを連れ去りたい欲求を抑え、甲斐は次の行動を言葉に示した。


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セクスアリス 真崎いみ @alio0717

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