16:胸の炎
小さい子供のようにしがみついて泣くわたしの背中を、ローワンさんは優しく、なだめるように撫でてくれていた。
涙が落ち着いてきて、そうしたら急に恥ずかしくなって、どんな顔をすれば良いのかわからなくなって、顔があげられない。
それでも、ローワンさんには、わたしが泣き止んだことが伝わってしまったみたいだった。
「イリスさん、落ち着きましたか?」
「えっと……はい。その、ごめんなさい」
しがみついていたローワンさんの服を離して、そっと見上げる。
ローワンさんはほっとしたように目を細めた。
「いいえ。落ち着いたなら良かった。それで、その、何を気にしているのか、話せそうですか?」
優しい緑色の瞳に覗き込まれる。
その瞳に促されて、わたしは口を開いた。
「……うまく、描けないんです。さっき描いたこれだって、指の長さがおかしい気がします。棒の長さだって違うし。ちゃんと見た通りに描けなくて」
一度泣いて冷静になったからか、口を開けば、駄目なところはたくさん言葉になってあふれてきた。
「なるほど」
ローワンさんはわたしの言葉を肯定も否定もせずに、頷いた。
わたしの前に置いた帳面に、目を落とす。
そこには、不恰好な手が描かれている。
見れば見るほど、おかしく見える。
指の曲がり方もおかしい。
「僕は絵については門外漢なので、今のイリスさんに的確なアドバイスをできる気はしません。その上で、僕の意見を言いますね。誤解しないで聞いて欲しいのですが」
ローワンさんは、またまっすぐにわたしを見る。真剣な眼差しで。
わたしもまっすぐに見返して、頷いた。
「正直に言えば、イリスさんよりも絵が上手な人はたくさんいるでしょう。イリスさんは、ついこの間までペンも持ったことがなかった。素人のようなものです。素人にしては、上手。絵の評価としては、そうなるかもしれません」
ああ、やっぱり、上手くはないんだ。
自分でもそう思っていたからか、それほど哀しい気持ちにはならずに済んだ。
わたしは小さく「はい」と頷いた。
「それでも」
ローワンさんは帳面に描かれた、手のスケッチを指差した。
二本の棒が、鳥のくちばしのような形でぶつかっている、その部分。
「このスケッチは、イリスさんの言う通りなら指の長さだとか曲がり方だとか、おかしな部分があるのかもしれません。けれど、こうやって持つ、こういう形状の食器がある、ということが僕にはわかります。このスケッチを見ながら、僕は二本の棒を持って、この持ち方を真似ることができます。僕にとっては、何よりそれが一番大事なんです」
わたしは瞬きをしてローワンさんを見る。
上手く描くこと。
それよりも大事なことが、ローワンさんにはある、らしい。
「……どういう、こと、でしょうか」
ローワンさんは、わたしを見て微笑んだ。
「イリスさんのスケッチは、特徴が描かれているんです。ちゃんと、僕が記録しておきたいと思った特徴的な部分が、わかるように描かれている。僕がイリスさんに期待しているのは、そういうところなんです。伝わりますか?」
「えっと……その」
返事をしたいのだけれど、ローワンさんの言葉がなんだかうまく飲み込めない。
考え込んでいると、ローワンさんは言葉を続けた。
「最初からそうでした。イリスさんには観察眼がある。物事の特徴をうまく捉えることができる。僕にとっては、それが重要なことでした。だからあのとき、イリスさんを選んだんです」
「観察眼……」
前の村でも、そう言われた気がする。
わたしには観察眼がある、と。
ローワンさんがわたしに期待しているのは、その観察眼。
胸の奥に、炎が灯る。
ローワンさんの言葉が、光と熱になって、わたしの体に満ちるような気がした。
ローワンさんがわたしの顔を覗き込む。
「それに、絵はきっと、描いているうちに上手くなります」
微笑むローワンさんに、わたしの胸の炎が大きくなる。
それでわたしは頷きを返すことができた。
見て、特徴を捉えて、描く。
たとえ上手く描けなくても、見つけた特徴がローワンさんに伝われば、それで良い。
それに、描いていれば上手くなってゆく。
そう思うと、また描けるような気がしてきた。
「イリスさん、あなたがいてくれて良かった、と思っています。あなたで良かった、と。本当ですよ」
「……はい」
わたしの返事に、ローワンさんは嬉しそうに微笑んだ。
「さて。冷めてしまいましたが、夕ごはんを食べてしまいましょう。明日も調査を続けますから、食べて、体を休めないと」
「はい、あの……すみません、冷めてしまって」
「謝らないでください。それよりも」
ローワンさんは、わたしの両肩を掴んだ。顔を覗き込まれる。
真剣な表情に、わたしは息を止める。
「何かあれば、すぐに相談してください。一人で悩まないで。僕じゃ、頼りないかもしれませんが」
「頼りないなんて、そんなこと思って、ません」
「じゃあ、次は相談してくださいね。その……」
そばかすの白い頬をほんのりと赤く染めて、ローワンさんは目を伏せた。
「僕たちは一応……夫婦、なわけですし」
「えっあの……はい、わかり、ました」
改まって言われて、なんだか急に恥ずかしくなってしまった。
視線をどうして良いかわからずに、うつむいてしまう。
ローワンさんの両手が肩から離れて、夕ごはんを食べ始めても、わたしはなんだか恥ずかしいままだった。
ローワンさんもあまり顔をあげずに黙って食べていたから、もしかしたら恥ずかしかったのかもしれない。
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