5:調査というもの
翌日には本当に、結婚の申請手続きというものをした。
なんの実感もないけれど、ローワンさまと夫婦になった、らしい。
それから、洋服屋に行って、旅の間の服だとか着替えだとか、それから下着なんかも買ってもらった。
「仕立てたものでなくてすみません。仕立てはどうしても時間がかかるので」
「いえ、わたしなんかに、上等すぎるくらいです」
本当に、今まで着ていた服が恥ずかしくなるくらいには、上等な服だった。
少し手直しが必要ということで、それの出来上がりは翌日。
次には、たくさんの大判の帳面。そして、不思議な魔法のかかった高級なペン。
ペンなんか特にわたしには高級すぎると思ったのだけれど、ローワンさまは「良いものを使ってください」と言って、どんどん購入を決めていった。
そうしてもう、三日後には旅立つことになった。
そこから馬車を乗り継いで何日かかけて国境を通りすぎ、そこからまた何日もかけて隣国の街に辿り着いた。
ローワンさまはその街の貴族に、出国申請の書類と貴族からのお手紙を見せてご挨拶をした。
そしてその街で少し休んで保存食なんかを買い足して、また出発。
そこからさらに──何日過ぎたか、もうとっくに数え損ねてしまった。
そうしてようやく辿り着いたのは、広い森にくっついているような村だった。
そこが、今回のローワンさまの調査の対象なのだという。
そうして、ローワンさまは早速調査を始めた。
ローワンさまの主な調査は、人の話を聞くことだ。
わたしはこの村の言葉はわからないから、ローワンさまが何を話しているかはわからない。
ただ、違う言葉を話すことができるなんて、ローワンさまはさすが、とても物識りなのだと思うだけだ。
言葉を話せないわたしにできることは、絵を描くことだけ。
それだって、どのくらい役に立つのかわからない。
けれど、わたしは村の人たちの姿をよく見て、それを線にして紙に留めてゆく。
男の人も女の人も、長い髪を編んで背中に垂らしている。
その頭には、ちょうど額を通るように、細いベルトのような織物が巻かれている。
織物の模様は様々だ。葉っぱのように見えるものもあるし、モチーフがあるかどうかわからないものもある。
髪色は黒い人たちばかりだ。
わたしの髪色も黒だから、ここではあまり目立たなくて、ほっとする。
瞳の色は黒っぽい。ちょっと茶色く見える人もいる。
織物の布を肩から羽織って、それを腰のところで織物のベルトで結んで留めている。
羽織の模様は、草木が多いように見える。その中に、獣や鳥、虫などの姿が見え隠れしている。
羽織の下は、無地の布ですとんとした服を着ている。
男性も女性も足首まであるズボンを履いている。
足は木靴。木靴の中がどうなっているかは、ズボンの裾が長くてわからない。
頭の飾りや羽織の模様が様々なので、わたしはできるだけたくさんの模様を紙に描いていた。
見かけた模様を全部描けるとは思わないけど、それでもできるだけ、たくさん。
ローワンさまはそうやってたくさんの絵があると喜ぶから。
模様だけじゃない。
籠にものを入れて運ぶ姿。その籠の編まれ方。
何かわからないけど走ったり止まったりして遊ぶ子供たちの様子。
子供たちは織物を羽織っていないこと。あと、髪を編むのもしていない。
それから、軒先にぶら下がっている何かの植物。
何の意味があるのか、家のドアに飾られた葉っぱ。
そんな光景を、見える限り、描ける限り、たくさん描いてゆく。
ああ、それに、森が近いからだろうか。湿った、独特の匂いがする。
もちろん、匂いは絵に描けないのだけれど。
いつの間にか話を終えていたローワンさまが、わたしの手元を覗き込んでいた。
わたしはびくりとしてローワンさまを見上げた。
ローワンさまはわたしを見下ろして、苦笑のような表情を浮かべる。
「すみません。邪魔をしないようにしてたのですけど……気にせず続きを」
そう言われたのだけれど、見られていると思うと、気になって手が震えてしまった。
どうしよう、と困ってうつむく。
それでもローワンさまは、怒ったりしなかった。
「ああ、では……いくつか質問しますね」
柔らかな声でそう言うと、わたしの帳面のページをめくる。
そうして、そこに描かれた羽織の模様を指差した。
「ここの模様、ここの色は覚えていますか?」
「ええと……」
わたしは自分の絵を見ながら、それを描いたときのことを思い出す。
確か──。
「ここは黄色で、ここが白。そこにこう、緑色が差し込まれる感じの」
「なるほど」
ローワンさまは頷いて、わたしの絵の脇に文字を書き込む。
そうやって、ローワンさまはわたしにいくつも質問をして、わたしが答える。
わたしが答えるたびに、ローワンさまは絵の隣に文字を書いてゆく。
ローワンさまが文字を書いているのを見て、ふと、わたしは文字を書けないから、と思った。
どんな色だったか、どんなふうに見えたか、何を描いたのか、わたしが自分で書けないから、ローワンさまがこうやって書いているのだ。
いちいち、こうやってわたしに確認をしながら。
「この絵の子供たちですが、どういう動きを……イリスさん?」
呼びかけられて、ぼんやりしてしまっていた自分に気付く。
いけない、と思ったけれど、ローワンさまはすでに心配そうな表情になって、わたしの顔を覗き込んでいた。
「すみません、立ちっぱなしで。疲れましたよね。一度戻って少し休みましょうか。何か飲んだり、少し食べたりとか」
「あ、いえ、あの、わたしは大丈夫ですから」
このままではローワンさまの調査を中断させてしまう。
慌てて大丈夫だと言ったのだけど、ローワンさまは微笑んで首を振った。
「僕も少し疲れました。ゆっくりと座って書き留めたいこともありますし。とにかく、一度戻りましょう」
自分の情けなさにうつむいて、でも他にどうしようもなくて、わたしはただ頷いた。
「はい。ごめんなさい」
「謝らないでください。あなたは何も悪くありません。むしろ、頑張りすぎなくらいですから」
ローワンさまはそう言って歩き始めた。
わたしはうつむいたまま、ローワンさまの後についてゆくだけだった。
わたしはローワンさまの足を引っ張っている。
文字だって書けない。
できることは絵を描くことだけ。
だからせめてもっと、描かなくちゃ。
描いて、役に立たなくちゃ。
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