3:はじめてのペン

「イリスさんという名前なんですね。僕はローワンといいます。よろしくお願いしますね」

「はあ……」


 先ほど庭先で声をかけてきた男の人。

 その人が穏やかな笑顔を浮かべて、わたしと向き合っていた。


 ローワンと名乗るその人は、あのあとすぐに家を訪ねてきた。

 そしておじさんとおばさんに、わたしと二人で話がしたいと頼んだ。

 おじさんは難しい顔をした。


「この娘は売り物になる予定がある。誰とも知れない男と二人にするわけには」


 その言葉に、ローワンさんはちょっと目を見開いてわたしの姿を見た。

 それから慌てたようにおじさんに向かって言ったのだ。


「それはいくらですか? 場合によっては、その分のお金を僕が払います」

「なんだい、それは」


 おじさんは、胡散臭いものでも見るように目をすがめた。


「あんたがこの子を買い取ってくれるって言うのか?」

「買い取る……ええ、はい、そういうことになりますね。場合によっては、僕が彼女を引き取りたい。そのために、少し彼女と二人で話をさせてください。これは前金です」


 ローワンさんは思いつめた顔をして、いくらかのお金をテーブルの上に置いた。

 それを見て、おじさんとおばさんは顔を見合わせた。


 それでわたしは、その、ローワンさん──ローワンさまと呼んだ方が良いだろうか、おじさんとおばさんには「粗相のないように」と言われたから。

 ともかく、彼と二人で話すことになったのだった。


「それでさっそくなのですが」


 ローワンさまはそう言って、手帳とペンを取り出した。

 手帳のページを開いてわたしの前に置く。それは白紙のページだった。

 ペンの方はわたしに向かって差し出してくる。


「これで、ここに絵を描いてみてください」


 わたしは困って首を振る。


「む、無理です。わたし、絵なんて」

「描いてましたよね。地面に」

「あれは、絵なんてものじゃ」

「良いんです、あれで。あれを描いてください、さあ」


 穏やかなのに有無を言わせない調子で、ローワンさまはわたしの手にペンを握らせた。

 滑らかな握り心地のそのペンは、とても高価なものに思えて、恐ろしくなる。


 どうしてこんなことを、と思う。

 でも、ローワンさまはわたしの様子をじっと見ていて、どうやらわたしが絵を描くまでは引かないつもりみたいだった。

 仕方なく、わたしは手帳の白いページにペンを置いた。


 インクが、ページに染みを作る。

 初めてのことが恐ろしくて、すぐにペンを持ち上げてしまった。

 恐る恐る見上げれば、ローワンさまはなんてことないように頷いた。


「その調子です。さあ、さっき描いていたみたいに」


 わたしはもう一度、手帳にペン先をつける。ペンを滑らせる。

 震えた線が引かれた。

 わたしが手を動かした通りに、線が引かれた。


 もう一度、線を引く。

 さっきよりは震えずに引くことができた。


 次は──描かれた母の姿を思い出す。

 風になびく髪の毛は、柔らかな線で──そう思ったのに、そこに引かれたのは固く震えた線だった。

 微笑んでいたはずの母さんの目元は、泣きそうで、ぐちゃぐちゃになってしまった。


「ごめんなさい。描けません」


 絵のように泣きそうな気持ちで手を止める。

 ローワンさまは手帳を持ち上げて、しばらくその絵──絵とも呼べないぐちゃぐちゃな線を眺めていた。

 わたしはきっと怒られる。うつむいて、その言葉を待つ。


「ペンを使うのは初めてですか?」


 けれど、かけられたのはそんな言葉だった。

 言葉は穏やかで、怒っている様子もない。


「え、えっと……はい」


 思わず見上げると、ローワンさまは怒っている様子もなく、どこか満足そうに頷いていた。

 それから、手帳のページをめくると、それをまたわたしの前に置いた。


「初めてなら慣れが必要でしょう。では次は……そうですね、僕の姿を描いてみてください。頭から足まで、全身です」

「あの、でも、わたし……うまく描けないと思います」

「そうですね。ですから、ペンに慣れるためと思って。お願いします」


 ローワンさまの言葉は穏やかだけど、有無を言わせないものがあった。

 わたしは仕方なくローワンさまを見る。

 何かを見て描くなんて、これまで考えたことがなかった。どうすれば良いんだろう。


 頭から足まで。頭がこの位置で、体があって、足があって。

 足先は、革靴を履いている。きっちりと足首まである靴。

 柔らかそうなズボン。ゆったりとした上着。

 赤みがかった金髪は肩よりも少し長いくらい。後ろで一つにまとめられている。

 白い肌にはそばかすがあって、優しそうな顔立ちをしていて。

 濃い緑の瞳は、今はわたしの手元をじっと見ている。


 ときどき手が震えてしまったけど、さっきの母さんの姿よりは、ましな絵になった気がした。

 少なくとも、男の人が描かれているのだとわかるくらいには。


 ローワンさまはそれからも、わたしにいくつかのものを描くように言った。

 目の前にある椅子を描いたり、窓枠を描いたり。

 あるいは、花や鳥といったものを思い出して描いたりした。

 そうやっていくつか描いているうちに、ペンというものに少し慣れてきたような気もしてきた。

 勢いよく動かしてしまった方が、震えずにまっすぐな線が描ける。

 力を入れるとインクの線が太くなる。力を抜いてそっと紙から話すと消え入るような線になる。

 それは、ちょっと面白かった。


 そうやっていくつかの絵を描いて、それからローワンさまは今度は、わたしが描いた絵を指差した。


「これはマヨイドリですか?」


 柔らかく問われて、わたしは困ってうつむいてしまった。


「あの……わたし、名前は知らなくて。ただ、ときどき庭にくる鳥を思い出して描いただけで」

「大丈夫ですよ。では、この鳥の色を教えてください」


 わたしは何度か瞬きをして、慌ててその言葉に応える。


「茶色です。その、土の色よりも濃い茶色。でも、お腹の辺りは白っぽくて。それから、黒っぽい色の模様があって」

「その模様がこの部分ですよね。とてもよく特徴が描けています。素晴らしいですよ」


 ローワンさまはそう言って、わたしに向かってにっこりと笑った。

 わたしはぽかんとしてしまった。


 だって、わたし──今、褒められたのだろうか。

 自分が褒められるなんて、信じられなかった。

 わたしはいつも、怒られてばかりで──そんなわたしを、この人は褒めた。


 それはまるで、心の奥に炎が灯ったみたいに、温かな気持ちになった。

 だけど、そんな気持ちは初めてのことで、わたしはどうして良いかわからないまま、ぼんやりとしていた。


 だからただ、そのままローワンさまを見上げていた。

 ローワンさまはわたしを安心させるかのように、ゆっくりと頷いた。

 それから、まっすぐにわたしを見て、落ち着いた声で言った。


「ぜひ、僕と一緒に来てください」


 わたしはわけがわからないまま、心の奥の炎に促されて、頷いてしまったのだった。




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