2:はじまりの話

 きっかけは、もう何日も前──ずいぶんと前のことのように思う。

 あの日は、そう──。


「イリス! イリス!」

「はい」


 わたしはおばさんの声に、慌てて返事をして台所に向かった。


「イリス! パンの残りが少ないじゃないか。まさかあんた、つまみ食いなんかしてないだろうね!?」

「してません」


 わたしは首を振ったけど、聞いてはもらえない。


「素直に謝れば許そうかと思っていたけど、まったく、こっそりと口をつけるなんてなんてみっともない子だろうね。今夜はあんたはパンなしだ。台所仕事もしなくて良い。何するかわからないからね」


 わたしはうつむいて、その言葉を受け入れる。

 パンをこっそり食べるなんてしていないけれど、これ以上言っても仕方がないことはわかっている。


 きっと、パンが足りないのだ。

 おばさんの家族が食べる分のパンしかない。

 だからわたしは食べられない。


 パンが足りないのが、本当に誰かが食べたせいなのか、最初からなのかなんて、わからない。

 だから、今更わたしが何かを言っても仕方ない。


「そうやっていつまでぐずぐずしてるんだい。さっさと洗濯にお戻りよ。ぼんやりしてる時間なんかありゃしないよ」

「はい」


 わたしはうつむいたまま返事をして、台所を出た。

 家の脇にある井戸、その隣に放り出してきた洗濯物に、また手をつける。


 それがわたしの毎日だった。


 十二のときまでは、母さんと二人で暮らしていた。

 それだって裕福ではなかったけれど、母さんは優しくて、二人でなんとか生きていた。


 けれど、母さんが病死して、それから親戚だというおばさんを頼ることになった。

 それからの四年間は、ずっとこんな暮らしだった。


 洗濯を絞って、広げて、洗濯紐にかけて、並べて干してゆく。

 これが終わったら掃除をして、そのあとは夕飯の支度。ああ、でも、今日は台所に入るなって言われているんだった。

 わたしが食べ物に手をつけないように。

 もしかしたら、夕飯に呼ばれることもないかもしれない。


 小さく溜息をつく。

 ちょっとだけ、ちょっとだけ休もう。そう思いながらわたしは地面に座ってぼんやりと空を見上げる。

 穏やかな青空が広がっている。白い雲が風に流れている。

 風は柔らかく、洗濯物を揺らしている。


 そんなふうに景色を見ていると、思い出す絵がある。


 わたしは手元に落ちていた小石を握る。

 その小石で、足元に線を引いてゆく。


 あの絵も、背景は青空だった。

 風が吹いていたのだろう、そこに描かれた女性の髪は柔らかくなびいていた。

 まるで、風の形を見せるように。


 そこに描かれた女性は、わたしの母さんだ。

 母さんが大事に持っていた絵。

 それは、わたしの父さんが描いたものだと聞いていた。

 わたしの父さんは旅の画家で、だから家にいないのだと。

 でもいつかまた戻ると言って、母さんの絵を描いて置いていったのだと。


 わたしはその絵を眺めるのが好きだった。

 こうやって、真似して地面に線を引いて再現しようとするくらいに。

 もちろん、絵の具で描かれた絵を石で引いた線で再現することなんかできやしないけど。

 でも、自分の思い出を辿るくらいの役には立つ。


 あの絵は、母さんが死んだ後に手放すことになってしまった。

 それはいくらかにはなったけど、そのお金はあっという間になくなってしまった。


 地面に描いた母さんの笑顔に、わたしは胸が締め付けられるような心地になった。

 こんなところおばさんに見られたら、また何を言われるかわからない。

 ああ、早くこの絵を消して、今度は掃除をしなくちゃ。

 そう思うのに、わたしは自分で描いた母さんの姿から目が離せなかった。

 それは、きっとわたし以外には、何が描かれているかわからない線の塊でしかないと思うけど、わたしにとっては確かに母親の姿なのだ。


 そんなときだった。


「あの、これ、あなたが描いたんですよね?」


 どこから入ってきたのか、見知らぬ男の人が地面の母親の姿を指差して、わたしを見ていた。

 赤みがかった金髪を後ろで一括りにしている。瞳は厚い葉っぱのような濃い緑色。白いミルク色の肌にそばかすが浮いている。

 わたしよりもずっと背が高く、年も上に見える。大人の男性だ。


「あの、あなたに頼みたいことがあるんですが」


 その人はわたしを見て言葉を続けている。

 こっそりとやっていたことが人に見られてしまって、わたしは怖くなってしまった。

 何より、おばさんに知られたらまた何か言われて、きっと怒られる。

 慌てて小石を手放すと、足先で地面の絵をぐしゃぐしゃと消す。


「なんでもないんです! これは、なんでもないんです!」

「ああ、いや、落ち着いてください。僕はただ……」


 そのとき、家の中からおばさんの声が聞こえた。


「イリス! イリス!」


 今度はなんだろうと思ったけれど、今はこの見知らぬ男の人の前から逃げ出せることにほっとする。


「はい! 今行きます!」


 おばさんの声に答えてから、わたしはちらりと男の人を見る。


「僕はあなたと話がしたくてですね」


 その人はなおも何かを言っていたけど、わたしはそれを無視して家の中に逃げ込んだ。


 呼ばれて家に入れば、おばさんだけでなくおじさんもいた。

 二人で椅子に座って真面目な顔をしている。


 座りなさい、と言われて二人に向かい合うように座る。

 おじさんは真面目な顔のまま、口を開いた。


「イリス、残念だけど、お前を売ることにした」

「売る……?」

「そうだ。その金で、俺たち家族はしばらく暮らしていける」


 そうか、わたしは売られるのか。

 わたしはそう、ぼんやり思っただけだった。

 売られることの意味はなんとなく知ってはいたけれど、わたしの心は特に動かなかった。




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