第52話 エピローグ

「次も失踪人捜索の単独調査?」


 小山の問いに木下はジン・トニックのグラスを傾け、それをカウンターの上に戻してから頷いた。


「またそんな結果の出しにくい調査をそれも単独でやらせたら、うまく行かなかったときに萎縮しちゃうんじゃないの?」


「そうはいっても、うちはそこまで人員の層が厚いわけじゃない。

 新里の人当りの良さや誠実な対応は、結果の出しにくい失踪人捜索では特に重要になるからな。

 前回のボーカル捜索でも、発見できなかったにも関わらず顧客からの評価は悪くなかった」


 ただ、と木下は付け加える。


「本人は何やらいじけて落ち込んでたようだったが」

「そういうときに、ちゃんと励ますとか慰めるとかするのが上司の仕事じゃないの?」


 言って、小山はドライ・マンハッタンで口中を湿した。

 それから、木下のグラスを見て眉をひそめる。


「よくそんなジュースみたいなモノが飲めるわね」

「そちらさんこそ、よくそんなアルコール度数の高い酒を水みたいにグイグイと…」

「ショートグラスなんだから、ちびちびやってたらぬるくなっちゃうでしょ」


 言って、再び小山がグラスに口をつけるのを、木下は半ば呆れ、半ば感心した表情で見る。

 どれほどアルコール度数の高い酒をどれだけ飲もうが、小山が酔う姿は一度も――小山姓に変わる前も変わった後も――見たことがない。


「久保から聞いた話じゃ、新里には優秀な刑事の兄がいて、ボーカル失踪の裏にあった大掛かりな密売事件を解決したらしい」

「久保君? 新里君と席は隣だけど、そんな仲良かった?」

「何となく落ち込んでる風だったから飲みに誘って、終電ギリギリまで愚痴を聞かせまくったら、それにつられたんだか新里のほうも愚痴をこぼしたそうだ」


 小山はどれだけ飲んでも酔わないが、久保はかなり酔っても自分や周りの人間が何を言ったか覚えているという、一種の特技がある。


「要するに、優秀なお兄さんと比べて自分は駄目だって、落ち込んでたって話?」

「それが全てじゃないようだが、少なくとも調査が思うように進まなくていじけてた原因はそこだろうな」

「だったら尚更、励ましの言葉なり何なりかけてやるのが上司の役目でしょ。

 入社2年目であの長ったらしい顧客対応マニュアルをあそこまで使いこなせる子って、そうそういないわよ」


 特にうちみたいな零細事務所には貴重な人材なのに…と、小山はぼやく。


「顧客の評価については総務から伝えてくれ。電話を受けた本人から直接伝えたほうがいい」

「私からだとどうしたって事務的にしかならないし…。立場的にもだけど、優しい言い方って苦手」


 それはよく分かってると木下は内心で思ったが、顔にも言葉にも表さなかった。


「優しい言い方をすりゃ、いいってもんでもないしな。優秀な兄貴と比べていじけやすくなってるなら子供の頃からの話で根が深いだろう。

 だったら上っ面の励ましじゃ響かないし、下手な慰めなんて逆効果になりかねん」

「だったら?」


 ドライ・マンハッタンを飲み干し、小山は聞いた。

 木下が前を向いたままなので、その横顔に問いかけた形になる。


「本人が自力でどうにかするのを待つしかないだろ」

「そんな悠長なことを言ってる間に、辞められたらどうするのよ。

 そのときになって引き止めようとしたって無駄よ?」


 木下はロンググラスを両手で抱えるように持ったが、口をつけることなくそのままグラスを見つめる。

 そして、そこに答えがあるかのようにグラスを見つめ続けた夜を思い出す。


 あの夜も今も、あるのはただ透明な液体と透明な氷と、くし型に切られたライムだけだ。


「もしそうなったら、縁がなかったってことだ。

 人と人とのえにしなんて、放っておいてもうまく行くときもあれば、どうあがいても駄目なときは駄目だ」


「…そうね」


 視線をカウンターの上に戻し、小山は言った。

 見るともなく、自分の左手の薬指を見つめる。

 そして、ドライ・マンハッタンのお代わりを注文した。


***


 1週間後の土曜、謙太と朱里はインターネットカフェのオープンスペースでPCを前に並んで座っていた。


 謙太は話を聞くだけでもいいと思っていたが、朱里が『虚空への旅』のDVDが借りられたと電話してきたので、インターネットカフェに来たのだ。

 古い映画だからかレンタル用DVDは余り出回っていないし、インターネット配信もされていないようだ。

 個室のほうが落ち着いて映画を見られると謙太は思ったが、今の朱里との距離感でそれが無理なのは分かっている。


 オープンスペースなので、1つのイヤホンをふたりで片耳ずつ使って音声を聞いた。

 土曜だからかそれなりに混んでいて近くに他の利用者もいるので、DVDを見ながら交わす感想の言葉も小声になった。

 その結果、自然な形で朱里の側に寄ることができて、謙太は嬉しかった。


 DVDが終わった後もふたりは小声で言葉を交わしていたのだが、もう映画は見終わったのだから場所を移せば普通の声で話せるのだと、朱里が気づいた。


(そこ、気づいちゃいましたか…。まあ、気づくよな)


「じゃあ、カフェかどこか行きますか? それとも、ちょっと早いけどランチ?」


 映画は見終わったし感想も話したのだからもう帰ろうと朱里が言い出さなかったことで謙太は安堵していたし、同じように朱里も感じていた。


「朱里さん、何か食べたいものとか――あ…」

 スマホで近所の店を探そうとして、謙太は途中で言葉を切った。


「なんか俺、星野さんのことを下の名前で呼んじゃってましたね。すいません、馴れ馴れしくて…」


 謝った謙太に、朱里は微笑する。


「先週の土曜から、ずっとその呼び方ですけど」

「えっ? 全然、気づいてなかった…」


 謙太はやや慌てて再度、謝ったが、朱里が不快そうな様子も見せずに微笑んでいるのでほっとした。

 そして、できれば自分も下の名で呼んで欲しいと願ったが、KENの本名と漢字一字違いの同じ名なので暫くは無理だろうと、残念に思った。



 ふたりは、インターネットカフェからほど近いカジュアルな雰囲気のイタリアン・レストランに入った。朱里はリゾットを、謙太はハンバーグのセットを注文する。

 料理が来るまでの間、朱里が以前、話していた以外にどんな映画が好きなのか、謙太は聞いてみた。

 そして、好きな映画について語っているときの朱里は生き生きとして木漏れ日のような輝きがあって、やはり魅力的だと改めて思う。

 映画の内容については興味を引くものもそうでないものもあったが、朱里の姿を見、声を聞いているだけで心地よかった。

 ほどなく料理が来たので2人は食べながら雑談を交わし、食べ終わった後に映画の話に戻った。


「実は私、あの後、小説のほうも気になったので、シャーロック・ホームズを買って読んでみたんです」

「えっ、どの話ですか? この前、話したって言うと『His Last Case』の元になった『最後の挨拶』? それとも『アベ農園』?

 3つのワイングラスのうち、1つだけにワインのおりが残っていたことから、実際に使われたグラスが2つだけだったとホームズが見抜いたっていう事件で『僧房屋敷』とも訳されるあの――」


 一気にまくし立ててから、またやってしまったと謙太は思った。

 だが朱里は困惑した様子も悲し気な表情も見せず、穏やかな微笑を浮かべたままだ。

 映画『His Last Case』から、KENの遺書ではないかと危惧した『Song Of My End』を連想して朱里が辛くなることはもうなさそうだと、謙太は安堵する。


「本当に、新里さんはシャーロック・ホームズがお好きなんですね」

「ええ、それはもう。前にも言いましたけど、彼は『神』ですから」


 その後ひとしきり謙太はホームズの小説、映画、ドラマについて思いの丈を語った。

 朱里はそれを聞きながら、誠実な態度は顧客対応マニュアルに従っただけだと言っていた謙太の言葉を思い出す。


 確かに穏やかで落ち着いた笑顔の謙太は仕事用の顔をしていたのだと、朱里は思った。

 今、こうして崇拝する「探偵の神」について熱く語る姿が、謙太の素顔なのだろう。

 まるで少年のように目を輝かせていて仔犬のような可愛らしさすら感じられ、4歳年上だと思えない程だ。


 朱里が仕事用の顔の謙太しか知らなかった頃は、少しでも長く話を聞いていて欲しくてこじつけや捏造してまで話を繋ごうと必死だったが、今はふたりで一緒に映画を見たり小説の話をしたりしていられるのが純粋に楽しく、無理をしなくともそういう時間が持てることが嬉しい。


 謙太は、蒼司から電話で事情聴取の為に呼び出された時、警察署に向かう電車の中でSNSをチェックしていた。

 その時すでに≪ブリリアント・ノイズ≫のアカウントは削除されていて、ノース・エンタープライズの公式SNSで≪ブリリアント・ノイズ≫との契約は解除されていること、違法薬物とプロダクションが一切、無関係であることが強調されていた。


 それでも、どこかから情報が漏れたのか単なる憶測が元だったのか、ノース・エンタープライズが違約金の支払いを強制したせいで、それまで薬物密売には関わっていなかった駿たちまでが密売に手を出そうとしていたのだという噂が、後になって広まった。

 その噂の影響もあって、一方的な契約解除はKENの死という不可抗力の結果なので違約金は請求しない、受領済の違約金は3人に返却すると、ノース・エンタープライズはSNSで告知していた。


 その後もインターネット上では様々な噂や憶測が飛び交い、「KENの作った歌詞が意味不明だったのはドラッグの影響」「本当は過剰摂取オーバードーズの事故じゃなくて、反社の情婦おんなに手を出して殺された」「KENは涼に弱みを握られていて逆らえなかった」等々、まことしやかに語られていた。


 警察の捜査が進んだと思われる頃、謙太はもっと詳細を知りたいと思って蒼司に電話したが、「詳しく知りたければ公判が始まってから傍聴に行け」と断られた。

 事情聴取に呼ばれた夜、ある程度詳しい話を聞かせてくれたのは、昼の聴取の際の素っ気ない態度に対する埋め合わせだったようだと、謙太は思った。


 映画を見る為にインターネットカフェを訪れたその日、ふたりのどちらも事件のことは口にしなかった。

 謙太も朱里も、穏やかに流れる平穏な時間を大切にしたかったのだ。



 ランチタイムの終了と共にイタリアン・レストランから近くのカフェに移動したふたりは、夜はバーとなるその店のバータイムが始まる頃まで話に興じた。


「今日は長い時間お付き合いいただき、ありがとうございました」


 できれば夕食も一緒にと謙太は思ったが、朱里にも色々と都合があるだろうからと考え直し、その日はそれで帰ることにして、そう言った。


「あ…いえ、私のほうこそ色々と興味深いお話が聞けて楽しかったです」

「俺もとても楽しかったので、もし良かったら次の休みの日にでも一緒に名画座に行きませんか?」

「それはすごく楽しそう――ですが…」


 目を輝かせて朱里は言ったが、すぐに表情が暗くなる。


「私なんかがご一緒していいんですか?」


 私――朱里がその言い方をするのを、今までに何度も耳にしている。

 俺も同じだ、と謙太は思った。

 いつの頃からか、兄と勝手に比べて勝手にいじける癖がついてしまっていた。

 そのせいか何かが思うようにいかないと、兄との比較を持ち出すまでもなく自分を否定してしまう。


(だからって朱里さんに、『気持ちは分かる』なんて言うのはおこがましい。

 俺は虐められてもいないし、空想に頼らなければ耐えられない程の心の痛みを負った経験もない。

 だから…。いや、それでも……)


「先週の土曜、俺に優秀な兄がいるって話をしましたよね」

「あ…はい。確か、刑事さんですよね?」


 謙太は頷いた。


「刑事として優秀なだけじゃなく、スポーツ万能でクールなのに優しくて、学校では女子にモテたし男子にも人望があって、とにかく弟の目から見てもカッコ良い兄貴で、昔から憧れてました。

 でも、逆立ちしたって兄には敵わないって分かってからは、勝手に兄と比べて勝手にいじけるようになってしまって…」


 朱里は、黙って相手が続けるのを待った。

 姉の美しさが自慢で、誰よりもきれいで優しくて大好きだと、何の躊躇いもなく言っていた幼い頃の自分を思い出す。

 そして、その素直な賞賛が歪んだ嫉妬に変わってしまった頃のことを。


「同じ日に、朱里さんは『His Last Case』について『ホームズがいくら優れた名探偵であっても、ワトスンにはワトスンの良さがあるのだから、ホームズのようであろうとする必要はない』って話してましたよね?」

「はい。それが映画の隠しテーマなんじゃないか、映画の中ではワトスンは見事に名探偵ぶりを発揮したのだから、逆説的だけれども…って、そんな感想をお話をしました」


 バータイムが始まり、喫茶目的の客たちは帰ったが酒を飲みたい客はまだ姿を現さず、店内はがらんとしている。


「あの時、俺は深く考えもせずに『深いですね』とか、もっともらしいことを言って適当に話を合わせたんですが、何となく何かが引っかかったって言うか、心に残ってたんです」


 謙太が何を言おうとしているのかぼんやりと予想しながら、朱里はただ頷いた。

 謙太は言い淀み、一旦そらせた視線を照明の落とされた店内にさまよわせ、それからまた相手に視線を戻す。


「うまく言えないんですけど……後になってから朱里さんの言葉を思い出して、俺は少し救われた気持ちになったんです。

 ホームズや兄みたいに優秀になれなくても、ワトスンにはワトスンの良さがあるんだから、俺も――」


 謙太は途中で言葉を切り、微かに赤面して視線を逸らした。


「…いやでも、ワトスンは医学博士だし勇敢だし、そこが魅力とは言えエキセントリックな面のあるホームズに比べれば実直な人柄で、ホームズが認めるほど色々と優れたところがあるし、確かにワトスンにはワトスンの良さがたくさんあるけど、俺なんかが同列みたいに語るのは、ワトスンに対して失礼っていうか……」


 視線をさ迷わせたまま、途中からはほとんど独り言のように謙太は早口で呟いた。

 朱里は締め付けられるような胸の痛みを感じながら、口を噤んだままでいる。


――私なんかがご一緒していいんですか?


 謙太が先週の話を持ち出したのは、自分が思わず口にしたその卑屈な言葉が原因なのだと、朱里には分かっていた。

 美しい姉を嫉まずにいられない妹と、優秀な兄にどうしてもかなわずに足掻く弟――自分たちは、同じ痛みを共有している。


(だから、一緒にいるとこんなにも心地よいのだろうか?

 これは、ただの傷の舐めあいに過ぎないのか…?)


「ええ…と、要するに俺が言いたいのは、俺はホームズや兄のようになれないのは勿論、ワトスンにだってなれない。

 でも俺は俺なんだから、兄のようになろうとする必要もなければ、なれないからって卑屈になることもない。

 …ということを言ってもらった気になって、救われた気持ちになれました。あなたの優しさと、思いやりのおかげです」


 まっすぐに朱里を見て、謙太は言った。


 朱里はすぐには何も言えず、目を伏せた。

 『His Last Case』を見た時に、ワトスンはワトスンのままでいいのに、と思った。

 でもそれを自分に置き換えて考えることはできなかった。謙太が言ったとおり、ワトスンにはワトスンの良さがある。

 何の取柄もない自分とは違うのだ。


 だが謙太は、自分がホームズにもワトスンにもなれないと認めながら、自分をきちんと受け入れている。

 今も「俺が同列みたいに」と言ってしまうほど兄への劣等感コンプレックスは根が深いのだろうに、その呪縛を断ち切ろうとしているのだ。


 口を噤んだまま、朱里は内心で自問した。


 そんな謙太と一緒に過ごすことで、自分も呪縛から逃れられるのだろうか?

 自分が重荷になってしまうことで、かえって謙太の足を引っ張ることになりはしないのか?

 KENに愛されているという空想で自らを慰めていたように、謙太に縋りついてもたれ合いたいのか?

 それとも……。


 朱里は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。

 それから目を開け、笑顔を見せる。


「さっき新里さん、『俺なんかが』っておっしゃいましたよね?」

「――あ……つい、癖で」

「私も、よくそういう言い方をしてしまいます。ついさっきも言ってしまいましたし」 


 穏やかな口調で、朱里は続けた。


「姉や母からはたしなめられますし、自分でも良くないと思ってはいるんですけど、癖みたいになってしまっていて」

「…俺もです。直したいとは思ってるんですけど」

「だったら、罰金制にしませんか? 今後どちらかが『俺なんか』『私なんか』って言ったら、相手にお茶をおごるとか」


 笑顔で言った朱里に、謙太も笑った。


「じゃ、1回目はお茶で2回目はランチ、3回目は…フルコースのディナーとか?」

「フルコースはちょっと、ハードルが…」


 言って、朱里はくすくすと笑った。


「ハードル上げなきゃ、罰則にならないですよ。5回目は満漢全席とかにしましょう」


 わざと真剣な顔を見せて、謙太は言った。

 それからすぐに笑顔になり、朱里と2人で笑った。


 これがただの傷の舐めあいに終わるのか、呪縛を断ち切って前向きにみずからと向き合えるようになるのか、これからの自分次第――自分たち次第――だと、朱里は思った。

 そして、ほぼ同じことを、謙太も思っていた。


***


 数か月後。


『よほどの緊急事態が起きない限り、今度の日曜は帰れるはずだ』


 蒼司は無事、警部補昇任試験に合格し、昇任後研修を終えて勤務に復帰していた。

 そして、今度こそ本人も交えてお祝いをしたいという両親の希望を叶えるため一度、実家に帰ると電話で伝えてきたのだ。


「ホントに? そりゃあ楽しみだ。巡査部長昇進で伊勢海老の刺身が出たんだから、警部補だったら何が出るんだろう」

『それは母さん、ずいぶんと奮発したな』


 電話の向こうで、蒼司は明るい声で言った。


「母さんだけでなく、父さんも気合入ってるから。うちでは今まで仕入れたこともない高い酒を用意するって言ってるし」

『そんなに無理しなくていいのに…。でもまあ、楽しみにしていると伝えてくれ。次の日曜なら、舞も都合がつくと言っているし』


 何気なく言った蒼司の言葉に、謙太は耳を疑った。


「え…ちょっと待って。兄ちゃんが両親に会わせたい人って、まさか舞ねえちゃん? 別れたんじゃなかったっけ?」

『確かに一度は別れたが、5年くらい前に舞から連絡があって…』


 途中で、蒼司は言い淀んだ。

 そんな風に兄が口ごもるのは珍しいことだし、何だか変だと、謙太は気づく。


「…もしかして、今、そこにいる?」

『詳しい話は後でする』


 蒼司がそう言った時、電話の向こうで微かな笑い声がした。


(何だよもう、二重どころか三重におめでたいっていうか、良いことずくめっていうか、とにかく兄ちゃん、最高だよ)


 蒼司が舞とよりを戻したと知って、謙太は心から安堵し、嬉しいと思った。

 同時に、朱里の存在がなかったら、きっとまた自分と兄を比べていじけていたに違いないとも思う。


 実際、美羽の想い人が8歳年上の刑事だと聞いた時には、それが兄の蒼司ではないかと危惧し、陰鬱な気持ちになった。

 優秀な兄と美しい姉ならお似合いのはずなのだが、そうなったら自分も朱里も、妙なわだかまりを持たずにはいられなかっただろう。


 結局、謙太の危惧はすぐに杞憂に終わった。

 美羽の恋人は鳥取県警の刑事なのだと、朱里から聞かされたからだ。

 美羽が中学生の時に男たちに絡まれていたのを助けた若い警察官で、助けたのは職務だからと言って、美羽の想いを受け入れることを拒み続けていた。


 だが美羽は東京に引っ越した後も諦めずにずっと連絡を取り続け、やがて2、3か月に1度はどちらかが会いに行くようになり、今ではそれぞれの家族に紹介するまでに進展している。


「おめでたい話って言えば、鳥取県警にいる兄ちゃんの友達の藤本刑事も婚約したんだっけ?

 東京に住んでる21歳の女性で、すっごい美人らしいね」

『…どうしてお前がそれを?』


 驚いたように訊いた兄に、謙太は満面の笑みを浮かべる。

 そして、言った。


「『私たちにも外交上の秘密がありましてね』」



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