2 びしばし嫌な予感

「やあっ!」


 可瀬かせは容赦なく刃を振り下ろした。ずぶりと腐った表面に刃がめり込み、手にぞわぞわとした感触が伝わる。この祟り魔は相当に濃い闇をまとっている。


(でも問題ない。このまま祓える)


 銀朱の光は祓いの力。彼女は柄を握る手に力を込めた。

 しかし、彼女が下ろした刀を振り抜こうとした刹那、ただの塊だったものからどす黒い手が生えた。

 そしてそれは、ぐいぃっと伸びて可瀬の首元めがけて襲いかかってきた。思わず可瀬は後ろに飛び退く。その拍子に裳の裾を踏んでしまい、彼女はみっともなく尻もちをついてしまった。


 奈宅なたくが、「ああ、いけない!」と声を上げた。


「可瀬さま、言い忘れていましたが」

「はい?」

「大人しく見えて、わりと凶暴な魔のようです」

「やっぱり、あなたも祟り魔だって思っているんじゃないですか!」


 奈宅に毒づきながら、今はそれどころではないので目の前の祟り魔に集中することにする。にょきっと生えた不気味な手が、獲物を探しているかのようにうねうねと右左に揺れていた。

 奈宅が困った様子で可瀬に耳打ちした。


「不用意に近づくと、あの手にやられますよ。私もね、やられそうになったんですよ。まいりましたな」

「いやもう黙っててくれます?」


 ぴしゃりと言って可瀬は奈宅を黙らせた。この家人、面倒臭いとは思っていても絶対に困っていない。


(こんなことなら衣裳きぬもではなく衣袴きぬばかま姿で来れば良かった)


 それでも今はこれでやるしかない。可瀬は気持ちを切り替え、再び大刀たちを構え直した。

 その時、祟り魔の手がぴたりと止まった。自ら静止したというより、硬直したようだった。予想外の動きばかりするが、止まったのであれば好都合である。その隙を可瀬は見逃さなかった。


 くるりと体を回転させ、可瀬は勢いをつけて再び祟り魔に切りかかった。素早く腕を切り落とし、そのまま流れる動作で本体部分を斬り払う。

 刹那、祟り魔の表面を銀朱の光が覆い、祟り魔が闇を引き裂くような声を上げる。同時に、ぼろぼろと体が崩れ始め、黒くただれた表面が霧散し始めた。


 可瀬は、ふうっと肩で息をつく。後ろで奈宅が「おお」と感嘆の声を上げれば、中から丸くうずくまった男の背中が現れた。

 そこで初めて、可瀬は奈宅が「これは人だ」と言った意味を理解する。主の男は祟り魔に憑依されていたという訳だ。


真人まひとさま、起きてください」


 奈宅が歩み寄り、まるで寝た子を起こすような声をかける。可瀬は刀を鞘に収めつつ奈宅に言った。


「きっと気を失っていますよ。祟り魔に憑かれていたのですから」


 個人差はあるし、憑いた祟り魔の強さにもよるが、憑依された人間は無傷ではすまない。祟り魔を祓えたとしても、体調を崩したり、正気を失ったり、最悪の場合、死ぬことだってある。しかも今の場合、人だと見分けがつかないような状態であったから、それなりの害を受けているはずで、死んでいないだけましだ。

 可瀬は奈宅の隣で膝をついて、うずくまる男の様子を伺った。背中に耳を押し当てれば、しっかりとした心臓の音が聞こえた。そして何より、さっきまで祟り魔に憑かれていたとは思えないほど力強い気を感じる。


 可瀬は感心しつつ表情を和らげた。


「とても強い気の持ち主ですね。死んではない。寝間に運びましょう」


 顔を上げて奈宅に指示を出す。と、気を失っているばずの男がぴくりと動いた。


「え?」


 驚く可瀬の前で、彼は両手をついてむくりと起き上がった。隣で奈宅がやれやれと息をつく。


「真人さま、可瀬さまがいらっしゃいましたよ」


 奈宅の呼びかけに、彼は気だるそうに顔を上げた。青みがかった黒の瞳は、とても澄んでいて夜の湖水を思い出させた。両耳の辺りで結われた髪が乱れ、整った顔にはらはらとかかる。

 彼は可瀬の姿を認めると、朱色の薄い唇に笑みを浮かべて、なんのためらいもなく彼女の手を取った。


「はじめまして。ええと、俺の──妻?」


 可瀬は思わず体を強ばらせる。確かに妻としてここに来た。そうではあるが、しかし、


「いいえ、違います」


 びしばし嫌な予感がして、可瀬は即座に否定した。

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