月虹影 Case.3 ――歪み――

ダイ大佐

上級国民はかつて苛めた同級生の夢を見るか

「もう一度言ってみなさい!この阿婆擦れ――!」楠間早苗くすまさなえ――政商、楠間麻雄くすまあさおの妻は怒りに満ちた顔で、元同級生で現在自分の護衛役を務めている七瀬サキを睨み付けた。


 サキは全くそれを意に介していない。


 2124年春、札幌――


 発端は都市を管理するコンピュータが早苗の護衛を務める相手にサキを選んだ事だ。


 二人は高校が同じだったが――確執が有った。


 サキの双子の姉シキを早苗が苛めていたのだ。


 コンピュータはそれを知ってか知らずか二人をマッチングした。


 早苗は、最初からサキを馬鹿にしていた――人も羨む結婚をした自分と、賞金稼ぎ風情に身をやつしている独身女とでは話にならないと言った調子だ。


「貴女には想像もつかない人生でしょう――」二人が再会した時の早苗の第一声がこれだった。


「結婚は一生ものの就職よ。自分磨きをしないから貴女は結婚できないのよ」


 サキは早苗の口元を見つめた――良く喋る女だ――サキは早苗がテレビのコメンテーターとして人気を博している事を知っていた。


 伝統的な価値観に帰れ――性的な事は汚れた事だ――貧しい人は努力が足りない――世界は平等だ――国家が個人に優先する――全てにこんな調子だ。


「貴女は楠間麻雄という一人の人間を愛しているのではない。彼の金を稼ぐ能力と名声を愛しているだけ」サキがそう言ったことが早苗の逆鱗に触れた。


「私の愛が偽りだって言うの――」


 サキは早苗の目を黙って見つめていた。


「何よ、その目!」早苗はテーブルに有った灰皿を投げつけた。


 サキは微動だにしなかった。


 人工水晶の灰皿が見当違いの方向に飛んでいく。


「私の夫がその気になれば貴女の市民資格なんていつでも抹消できるのよ。取り消しなさい、今の言葉!」


 サキは沈黙したままだ――暫く二人は睨み合う。


「もういいわ。さっさと消えなさい――目障りだわ!」沈黙に耐えられなくなった早苗は叫んだ。


 サキは回れ右をすると部屋から出た。


 部屋の中から派手に食器を割る音が聞こえてきた――。


「また奥様と衝突なさったのですか」メイドがやれやれといった調子で聞いてくる。


「とばっちりは私達に来るんです――控えて下さい」


「恨むならコンピュータを恨んでください」サキは取り付く島もない。


 メイドの恨めし気な視線をサキは無視した。


“自分の感情は自分の責任。他人の感情は他人の責任”早苗がサキの双子の姉シキを泣かせた時に吐いた言葉だ。


 今の早苗に言ってやりたかったが、サキはその言葉を飲み込んだ。


 一人で笑う――相手の言葉を引用すればまるで地獄のような気分になる――トルーマンの言葉がこれ程似合う状況も無かった。


 大体、夫の楠間麻雄自体、賄賂と学閥、そして血縁の力で今の地位についたいわば金と権力の亡者だ――サキは上級市民をまるで信頼していない。


 汚い手段で成り上がっていかにも善良な市民面をしていると有名な男だった。


 出来るだけ相手をしないで契約期間を満了しよう――サキはそれ以外の事を考えていなかった。


 狭い世界でマウント取りに拘っている夫婦の事等知った事では無かった。


 サキには他に気にかかっている事が有った――もうすぐ恋人のシキが子供を出産する、そちらの方が早苗達よりはるかに重要だ。


 与えられた個室――物置小屋と言っても差し支えない狭く埃っぽい小部屋だ――で横になるとシキに通信アプリで連絡を取る。


 妊娠中のシキを驚かせてはいけない。


“大丈夫?”一言だけ送信した――シキは通信無精だ――携帯端末の画面を閉じると天上を仰ぐ。


 シキはサキが早苗の護衛役になると聞いて本気で心配していた――彼女の本性を知っているだけに。


 端末がアラーム音を立てる。


 珍しくシキがすぐに返事を返してきた。


“こっちは大丈夫。それよりサキちゃんこそ大丈夫?”


“心配いらないわ。市の人材斡旋コンピュータの電子回路はいかれてると思うけど”


“苛めにあってない?”


“どうってことないわ”心配させる文面かも知れないが、嘘をつくよりは良いだろうと思った。


“あと一カ月で契約は終わり。それでもう一切の関係は無し”サキは安心させる様に気を遣って文章を書いた――気を遣っていると思われない様に。


 実はその間には麻雄がサキに言い寄って来たことが有った――端末に全てを記録しているというとすぐに引っ込んだが――その中には麻雄が市当局に圧力を掛けてサキの市民資格を取り上げると脅した言葉も有った。


 麻雄には自分を拒む女がいること自体信じられない事だった――金と権威を見せびらかせばどんな女も一夜を共にするだけでなく、愛人にしてくれと頼んできた。


 麻雄は五十代半ば、妻の早苗はサキと同じ学年――サキが数えで二十三、早苗が二十四――早苗の方が五カ月ほど早く生まれていた。


 浅くまどろんでいると携帯端末がアラームを鳴らした。


 早苗が出演するバラエティー番組の収録に向かう時間が近い。


 以前はメイドが時間を伝える役を担っていたが、サボタージュで時間を伝えられない事が有り、それ以来サキはスケジュールを事前にコンピュータ経由で把握するようにしていた。


 早苗は相変わらず不機嫌そうな顔をしている。


 サキは早苗が感情を隠さずにメイドに当たるのを斜から見ていた。


 三ヶ月の契約期間の三分の二は終わっている――その間に家に帰れたのは数回しかない。


 早苗達の苛めも端から想定済みだった。


「努力が足りない弱者を救う義務は市には無い。市の予算は有限で、全てを助ける事は出来ない」得意げに語る舌の根の乾かぬ内に株式のインサイダー取引を指示しているところも見た。


「男が太陽で女が月、男に従うのが女の喜び」そう言った最中に男性視聴者からのメールを気持ち悪いと言った事も有る。


 序列で少しでも上の者にはこびへつらい、下と見た者には不遜に振る舞う。


 自分が傷つく事には大声で喚き散らすが、他者を傷つけても良心が痛まない。


 欠陥人格――サキの早苗に対する人物評を一口で言えばそうなる。


 男を見下しているくせに、男に頼らなければ何もできない。


 フェミニストの主張と反フェミニストの発言の都合のいい所だけをつまみ食いし、結果自分の主張に矛盾が有っても気付かぬフリをする。


「何を突っ立ってるの――さっさと車に入りなさい!」メイドを怒鳴りつけていた早苗は急にサキに矛先を向けた。


 サキは白けた気持ちで車の戸を開け、さっさと乗り込む。


「主人にドアを開けるのが務めでしょ――」


「契約には車のドアを開けねばならないとは書いていません」


「貴女の雇い主は私なのよ――」


「対等な契約を結んでいるだけです。上下関係ではありませんよ」


「本当に使えない――これだから混血児は」早苗は鼻白んだ。


 サキとシキには白系ロシア人の血が流れている。


 属性を元にした人格否定だが、早苗にはその自覚すらない。


 サキはその過ちを正してやるつもりは毛頭無かった。


 死ぬまでそのままでいればいい――最後まで地獄を這いずり回るのがこの女にはお似合いだ。


 番組の収録会場につくまで早苗はヒステリックに喚き散らしていた。


 会場に着くまでサキは周囲を警戒していた、こんな女でも、いやこんな女だからこそ襲ってくる相手もいるかも知れない。


 恨みだけは一人前に買っている――年収が一定以下の男には生きる資格が無いとネットで呟いて炎上したのはたった半年前の事だ。


 車は会場に着いた――喚く早苗を無視して下車したサキはブラスターに手をかけるとあたりを見まわした。


 不審な車や物、ドローンや人はいない。


 早苗が車から降りる。


 付き添いのメイドが鞄を持ってその後に続いた。


 早苗を先頭にメイド、最後にサキの順で会場に入る。


 会場警備役の人造人間レプリカントにICチップ入りの市民カードを見せると収録スタジオに入る。


 番組のホストは最新式のAIだった。


 早苗は時事ニュースにいつもと同様のコメントを――差別発言丸出しのそれだった——を述べていく。


 歯に衣着せぬ物言いと褒めそやされていたが実際は権力者に都合の良いプロパガンダに過ぎなかった。


 レプリカントにも限定的な人権を認めるかという問題に、早苗はロボットに人権は要らないと大見えを切った。


 これだけでも自我に目覚めたレプリカントの恨みを買うには十分すぎる。


 そして市政府広報のCMの後、各コメンテーターの思い出話を語るコーナーで早苗はやらかした。


「貴女は夜に映る新月――僕の心は貴女のもの――」早苗に送られてきたラブレターをAIホストが紹介する。


「なにこれ、気持ち悪いわ」早苗は一刀のもとに恋文を切り捨てた。


「貴女は僕にとっての女神――」


「やめてよ、本当に気持ち悪い」


「どなたからの手紙かご存知ですか?」ホストが尋ねる。


「知るわけないわ。こんな気持ちの悪い文章を書くなんてゴミみたいな老人の弱者男性でしょう」


「では、このラブレターを書いた本人に登場願いましょう――楠間麻雄さま」


 早苗は一瞬その言葉を聞き流しかけた――内容を把握して真っ青になる。


 仕切りのカーテンが開くとそこには怒りに頬を引きつらせた早苗の夫の姿が有った。


「楠間様、何かコメントを――」ホストAIは麻雄に屈託のない言葉を掛けた。


 AIには人の心を察する能力など無い。


 単純に早苗に関する重大事と思われる事をネットから拾って紹介しただけだ。


「楠間様――?」不幸な事にAIには自分が何を言っているかを判断する能力も無かった。


 早苗と麻雄はAI推進論者だった。


 この番組にAI司会者を導入するよう働きかけたのも二人だ。


 開発会社に恩義を売る代わりに賄賂を受け取っていた。


 番組がAIを使うようになるとCMに登場して大々的に宣伝した。


 AIによる画期的な番組進行、真に客観的かつ中立の視点、人的ミスの減少、人件費の削減――そんな謳い文句だった。


「楠間様、コメントを――」


「貴様、ふざけ――!」怒りに震えた麻雄はしかし咄嗟に己を押さえた。


 テレビで怒り狂う姿を全市に生中継されれば政治生命どころの話ではない。


 肩を震わせながら後ろを向くと大股に歩み去る。


「楠間様、どうなされました?楠間様、コメントを――」麻雄が去った後もオウムの様にAIは繰り返した。


 スタジオに押し殺した笑い声が響いた――瞬く間に全員が吹き出す。


 スタジオは爆笑の渦に包まれた――サキも吹き出した。


 赤っ恥をかいた早苗は立ち去る事も出来ない。


「楠間様――?皆様、何卒お静かに――番組の進行に関わります。皆様――何卒――楠間さま――」


 サキは笑った――これ以上ない位に笑える出来事だった。


 *   *   *


 番組の収録が終わった後、サキは帰りの車が来るまで早苗を警備していた。


「あのクソみたいな司会者――忖度も出来ないの?」早苗は自分のミスを棚に上げAI司会者を罵った。


 やってきた車に乗り込む、今度はサキが最後だった。


「愚民が私達を笑うなんて百年早いのよ――そう思うでしょ、アキナ」


「さようでございます」重々しくメイドは頷いた――それ以外の反応は許されていない事を知っていた。


「何か言いたそうね、サキ」不機嫌さを隠さずに早苗はサキを睨む。


「別に」サキはとぼけた。


「言いなさいよ」早苗の目に陰険な光が宿った。


「“自分の感情は自分の責任、他人の感情は他人の責任”――貴女の言葉ですよ、中森早苗」サキはわざと早苗を旧姓で呼んだ。


 早苗は言葉に詰まった――顔が白くなる——数拍後茹でられたタコのように真っ赤になった。


「如何にも侵略国家の劣等民族の血を引く末裔の言いそうな事ね」


「かつての日本もそうだったのですがね。歴史で学びませんでしたか」


「自虐史観の反日教科書なんて嘘しか書いてないわ」


「だと良いですね」サキはそれ以上早苗を追求しなかった。


 今日は十分良い思いをさせてもらった――早苗は麻雄に派手に絞られるだろう、まさに自己責任だ――。


 車の中を緊張した空気が覆う――サキはその緊張を心地よく思った。


 *   *   *


 予想通り早苗は麻雄に怒鳴りつけられた――それだけでは無く数回顔を殴られた。


 顔の傷は消去処置で消えたが、テレビの仕事は暫らく出られなかった。


 その間にサキが知ったのは早苗がメイド達に性的奉仕をさせていた事だ。


 サキは以前からそれを疑っていた。


 メイドの年齢はどう見ても十代前半にしか見えない少女から三、四十代の熟女まで幅広かったが、全員美形揃いだった――それがサキに疑念を抱かせた。


 早苗はストレス解消にメイドたちを使っていた。


 そういう事だったのかとサキは納得した。


 同時に何かあった時の為にその様子を映像と音声で記録しておいた。


 同性同士の恋愛は自然の摂理に反する――そうテレビでのたまっていたが何の事は無い、自分自身の性癖を覆い隠す為だったのだ。


 市内保守派の支持を取り付ける為の言葉でもあった――早苗は次回の市議選に出馬予定だった。


 早苗が歪んだ欲望を自分に抱いている事は分かっていた。


 早苗が家から出ない間はサキは護衛任務をしなくて済む。


 出来るだけ早苗から離れて、シキと通信アプリのやり取りを楽しんだ。


 あと三週間、あと二週間――時間はカタツムリの様にゆっくり過ぎていく。


 任務完了まで残り十日の晩、明日は新しく入れ替えたAI司会者の出る番組の収録日だ――早苗が自分を犯そうと部屋にやってきた――証拠を残さぬ様一人で来るとの予想も当たった。


 *   *   *


「サキ――起きてる?」早苗の声が聞こえた。


 サキは携帯端末の録音モードを作動させる――早苗の声は猫撫で声だった。


 問いには答えない――部屋の鍵が勝手に外され、ドアが開いた。


 薄物を羽織った扇情的な格好の、手に古風な電気ランタンを持った早苗がいた。


 サキはその姿に欲望は覚えなかった――散々自分とシキを差別し嬲っておいて、今更愛を交わそうなど虫が良すぎる。


 もうすぐ子供が生まれるのに、シキを裏切りたくはなかった。


 早苗は後ろ手に音を立てずに扉を閉めた。


 床にランタンを置く。


「起きてよ――サキ」鼻にかかる様な声色だ。


「貴女だってわかってるでしょ――私の気持ち」欲望を抱けば誰にでも同じ言葉を言っているのだろう――サキは心の中で毒づいた。


 無意識にブラスターの位置を確認していた。


 早苗はサキの枕元までくると頬を撫でた。


 サキは何も感じなかった、快不快を通り越して無感動だった。


 こんな女に悦びを与える程自分は聖者じゃない。


 そして、こんな女を犯して楽しむほど品性下劣でもなかった。


「男なんてみんな同じ――気持ち悪い屑だわ。ねえ、貴女だってそう思うでしょう」


 男と寝る時にはそんな事はおくびにも出さないだろう――サキは早苗の言葉を無視する。


 サキの性的指向は女性だが、男性を毛嫌いしている訳では無かった。


 自分の興味を惹かないだけで、男性が気持ち悪いという早苗の感覚が理解できない。


 気持ち悪くても金と権力のためなら男に抱かれるという心根には軽蔑さえ覚えた。


 普通に暮らしていこうと思えばいくらでもそうできるのに、そうしない。


 生きていく為に身体を売るしかない娼婦の方がまだ正直だと思う。


 早苗の手がサキの胸元に伸びてきた——サキはそっとブラスターを抜く。


「そこまでよ――」ブラスターを早苗の顎に突き付けた。


「貴女は私に抱かれるわ――賭けても良い」早苗はまるで驚いた様子を見せなかった。


 サキはその態度に怒りと同時に一抹の不安を覚えた――嫌な予感がする。


「貴女、シキと肉体関係を持ってるでしょ――それだけじゃない、違法な妊娠治療で彼女に自分の子を身籠らせたわね、この事実を明らかにされたら貴女達は破滅よ」早苗はあくまで優しく言った。


「何の事?」サキは冷静さを崩さなかった。


「ハッカーを雇ったの。貴女達のことは何でも知ってる」早苗は左手でサキの胸をやわやわと揉み始めた―—両脚を擦り合わせて自分の女性自身の疼きを癒そうとする。


 右手はブラスターの銃身を掴んでいた。


「だから――ね、良いでしょ」


「その事を知ってるのは?」


「今の所は私だけよ――そうじゃないと脅しにならないもの」


「そう、なら、消せばいいって事ね」身体を弄ばれながらサキは安堵した――獰猛な笑みを浮かべる。


「私が死ねば貴女達の事をマスコミに公開するよう契約してるわ――だから殺すのはやめなさい――」早苗はまだ落ち着いた様子だった。


 サキの唇を奪う――口腔を犯そうとして拒まれる、暫くそれを続けたが結局無念そうに口を離した。


「信用できないわね――貴女は。生かしておいてもいつ情報を売るか分からない」


「銃声が響けば、貴女がやった事はひと分かりよ」


「静音モードで撃てばいい。ブラスターの事をまるで知らないのね」サキは引き金に力を込める。


「待ちなさい――待って、私が悪かったわ。契約金を倍にする、だから――」撃たれるかも知れないという恐怖が早苗の演技力を上回った。


 サキは大袈裟に溜息をついた――隙があると早苗は勘違いした。


 太腿に吊ったホルスターからスタンガンを抜く――サキに突き立てようとして――スタンガンが内側から膨らんで破裂した。


 サキのブラスターから硝煙が上がっていた。


「貴女はスタンガンで私を麻痺させて襲おうとした――これで正当防衛ね。楠間麻雄の妻が同性愛者だとバレるだけでも貴女と夫にとっては致命的よ。貴女が私達のことをバラすなら今夜の事と貴女の女趣味をバラさせてもらう」


 早苗は一瞬悔しそうな顔をしたが、サキの言う事に従うしかなかった。


「せめて私と一晩――」早苗は諦め切れない様子で言った。


「撃つわよ」サキはにべもなかった。


 早苗は首を垂れた――ランタンを拾うと名残惜しそうに部屋から出ていく。


 それから契約満了まで早苗はサキを襲おうとはしなかった――代りにメイド達を嬲って憂さ晴らしをした。


 サキはその様子を超小型ドローンに撮影させ端末に収めて保険にした。


 そして十日、ようやく仕事を終えたサキはシキの待つ我が家へとバイクを飛ばした。


 一カ月後、シキの出産に立ち会い、親になった喜びを彼女と分かち合った。


 一方早苗は警察を動かしてサキ達を逮捕する事は出来なかった――サキは先んじてダークウェブの情報屋に情報を流し、万が一彼女達が襲われれば早苗も只では済まない様に手を打っていた。


 そもそも警察を動かすほどの権力を早苗達は持ち合わせていない。


 一介の政商では高望みが過ぎた。


 楠間早苗は政界に打って出る望みも絶たれた――AI開発会社との癒着がネットメディアにすっぱ抜かれたのだ。


 市内のみのメディアならともかく、多数の都市国家に支社を持つ大メディアだった。


 こうして、楠間早苗の野望は泡と消えた――ライバルに格好の好餌を与えた麻雄も汚職を弾劾され、刑事訴追された。


 暫くは表立って活動できない大打撃だった。


 楠間の一族の凋落を見ながら、サキは権力を手にしても救われない上級市民を憐れんだ。


 金が有ろうと無かろうと不幸な人生というものは有る――それがサキの得た教訓だった。


 偏見に満ちた目で世界を眺める事しかできない、自分自身の無知の奴隷、他者を甚振れば自分の魂の傷が塞がれると勘違いする精神異常者――まさに自業自得だ――。


 願わくば、もうあんな人間とは関わらずに済みますように――サキは宇宙の何処かに居るであろう神に祈った。


 そしてできるなら少しでも長くシキと娘アイと安らぎに満ちた日々を送れますよう――。


 サキには分かっていた――その願いが叶うかどうかは、まさしく神のみぞ知る事だと。


 2124年春、札幌、七瀬サキは家族と慎ましやかで幸せな日々を送っていた――いつまでもそんな日が続くことを祈って――それが傲慢だとは思ってはいなかった。

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