僕が撮る景色に君は
kanimaru。
第1話
春の風を受けて、僕は顔をしかめた。
「もう春か、嫌な季節がやってきたな」
「そんなこと言わないでよ、私は好きなんだから」
花のような君が不満そうに僕に向かって文句を垂れる。目を吊り上げるその姿すら美しいと僕は思ってしまっている。
「申し訳ない。つい心の声が漏れてしまったんだ」
「じゃあお詫びに、私の写真を撮って」
僕は困り果てた。僕が何かするといつもこの調子だ。なぜだかずっと僕に写真を撮らせようとしてくる。
「何度も言ってるだろう。僕は風景を撮る写真家なんだ。人を撮ることは仕事じゃない」
「売れてないくせに、偉そうに」
心にぐさりと刺さった。クリエイターの弱点だ。どんなこだわりも意識も、この言葉の前では歯が立たない。言い返すこともできず、僕はバツが悪くなって笑うしかなかった。
僕らのやり取りを公園にいた子供が不思議そうに見ている。そしてその親が僕らに気づくと、それがまるで子供に見せてはいけないもののように、わかりやすく子供の視界に僕らが映らないようにしていた。
確かに平日のこんな昼間に仕事もしないでいるのはおかしいよなと自分でも思う。
学生と名乗るには僕は老けすぎた。誰が見てもいい年した大人にしか見えない。君はまだまだ現役で行けそうだけど。
「ねぇ、覚えてる?」
君は唐突に僕へと問いかけた。
「何を?」
「去年この公園で私が思いっきり転んだの。めちゃくちゃ笑われてさ、恥ずかしかった」
「覚えてないな」
「えー、雨の後で泥だらけになったのに」
肩を落とした君を見て、そんな昔のこと覚えてないよ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「記憶力は良いほうなのにね。私のした些細なこともいつも覚えてるのに」
「最近忘れっぽいんだよ」
おじさんみたいなこと言わないでよ、という君の言葉がやけに耳に残って、僕は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「ほら、おじさん。撮って」
「傷つくからやめてくれよ。それに、撮れないって言ってるだろう」
「昔はよく撮ってくれたじゃん」
君は振り返って僕の目を見つめてきた。
僕は思わず君から目をそらした。
「ちょっと前まではお願いして撮ることだってあったのに」
「ちょっと前でもないよ。ずっと前の話だろ」
「なんでもいいよ。とにかく、なんで変わっちゃったの」
そりゃ、人は変わるものなんだよ。
誰もが君のように、子供でいられるわけじゃないんだ。
君にそう言おうとしたが、俯いて口ごもるだけだった。
そんな僕を見て、君はくるりとミヤコワスレの咲く方に振り向いて両手を広げ、風を浴びた。
「せっかく最高の天気なのになぁ。花もたくさん咲いているのに」
「だから僕も、花の写真を撮りに来たんだよ」
君の言葉に僕は反駁せずにはいられなかった。
「じゃあ私を連れてこなくてもよかったのに」
その言葉に僕は何も返せなかった。僕が口下手なのか君が達者なのか、僕は君との口げんかに勝ったことがない。
「ほら、撮ってよ」
全くしつこい。諦めるということを知らないのだ。それも魅力の一つなのだけど。
「だから、無理だってば」
「なんでよ」
何か言おうと口を開く。
しかし何も出てこない。僕は口をすぼめた。
その代わりに、心の中で言葉を吐いた。
なんでって、その理由は君だってよくわかってるはずだろう。
だというのに、僕に言わせないでくれよ。
「とにかく、ダメなものはダメなんだよ」
まるで納得しないこどもを押さえつけるような言い方になってしまった。
だが口下手な僕には、これ以外の言葉を選ぶことができなかったのだ。
「…ケチ」
小さくこぼすと君はその場に座り込んでそっぽを向いた。完全に拗ねている。
僕は頭をかく。こうなると君はいつも頑固だ。
「悪かった、ごめん」
少しでも寄り添おうと座りながら、僕は君の背中に頭を下げる。
「いっつもそれじゃん」
「違うよ、ほんとに悪いと思ってるんだ」
「じゃあ撮ってよ!」
君は勢いよく立ち上がると僕を睨んだ。
僕は戸惑わずにはいられなかった。
なんでそんなにこだわるのかわからない。
写真なんてどうでもいいじゃないか。
それよりも僕と話してほしい。僕はその時間を大切にしたい。
君といれたら僕はそれでいいんだ。
その時、僕の手になにかが落ちた。温度のない何かが。
次の瞬間、僕はハッとする。
涙だ。
「なんで撮ってくれないの、ねぇ」
君はしゃくりあげながらどうにか言葉を絞り出している。
僕は何も答えない。答えてはならない。
震えながら、君は口を開いた。
背すじが凍る。君が何を口にしようとしているのか分かったからだ。
ダメだよ、それを言っちゃダメなんだ。
言ったらそれは現実になってしまう。
僕はまだ受け入れてないんだ。
頼む、頼むよ。言わないでくれ。
しかし、いつだって願いは叶わない。
「…私が死んでいるからでしょ」
世界が反転する。僕のすべてを覆す。
違う、そうじゃない。君は死んでなどいない。
そう言おうとした。でも言葉は出てこない。真実は覆らない。
八年前の、高校生の時の春に確かに君は死んだ。事故死だった。どんな日だったかは忘れてしまった。
君の死を聞いてすぐに僕は現実から逃げ始めた。
そうしている間に僕は年を取り、高校も大学も卒業していた。
高校生のころから少しずつ写真を仕事にできていたが、君を失ったことで僕の世界は色を失っていた。それは写真家にとって致命的で、僕はまともな写真が撮れなくなっていた。
絶望に暮れる毎日をただ浪費していた時に、君は何故だかまた僕のもとへとやってきた。君の姿はどうやら僕にしか認識できないらしかった。
でもそんな細かいことはどうでもいい。
君は生きている。
そう思うと、僕の世界に色が戻った。
たとえ違うと理解していてもその安心から逃れて真実を受け入れられるほど、僕は強くなかった。
「…でも撮ってほしいの。お願い」
彼女は涙をぬぐいながら僕に頼んだ。
「ダメだよ、ダメなんだ」
「なんで…風景を撮るのが仕事だから?」
違う、違うんだよ。
僕は訴えかけていた。
もっと矮小で独りよがりな理由なんだ。
ずるい男だ。君に届かないよう、言葉にはしないのだから。
でもしょうがないじゃないか。
君はありえないほど強くて、僕はありえないほど弱いんだ。
君の涙が君の白い頬を伝う。
「…撮ったらきっと、君はそこに写らないじゃないか」
ああ、とその瞬間に思った。だがもう遅かった。
君の流れる涙を見て、こらえれるはずもなかった。
僕は意志も弱い男だ。何もできない。そう思いながらも、溢れる言葉を止めることはできなかった。
「君が生きていないんだと示されたら、今度こそ僕はどうにかなってしまう。君にいつまでもそばにいてほしい。それが君を縛り付けることだってことはわかってる。でも」
僕は弱いから、君が必要なんだ、という言葉は君の抱擁によって音を作ることはなくなった。
「ごめんね、辛いよね。でも私にも、あなたの写真が必要なの。私が何であなたを好きになったかわかる?あなたの写真を撮るときの真剣な表情が、世界一かっこいいからだよ。わがままかもしれないけれど、もう一度私が一番好きな表情を見せてほしい」
意識せずに、僕は嘆息していた。
やっぱり僕は、どうしようもなく弱い男だ。
愛した女性の頼みを断ることができなかった。
僕はカメラを構える。
枝垂れ桜の木の下を君は選んだ。
うん、君によく映える。
僕は一人そう呟いた。
カメラは残酷なほど正直だ。きっとこの写真に、君は映らない。
そうなってしまったら今度こそ僕は狂ってしまうと思っていた。
でも今はそれでもいい。
ポーズも構図も何も決めない。
ただ君のやりたいように。
そうやってやればいい。
それが僕にできる最小で、最大なんだ。
君に合わせようと、僕も必死になってレンズの向こうの君を覗く。
一枚、二枚とシャッターを落とす。
その時、視界が揺らいだ。
ああ、ダメだ。ダメじゃないか。
このままでは君がよく見えない。
手が震えて、思うようにシャッターが切れない。
君が笑うのがレンズ越しに見える。いや、消えていく。
僕は声を発することもできずにいた。嗚咽だけが漏れる。
思いは形にならない。
それでも伝えなければならない。
今が最後なんだ。君に思いを伝えられる最後のチャンスなんだ。
だが、言葉にはならなかった。
ぐちゃぐちゃになった視界に、君がほほ笑んでいる。
今こそ、シャッターを切らなければならない。
写真家としての本能だった。今が最高のシャッターチャンスだ。
だが切ったはずのシャッターの音は聞こえない。
ただ頭の中に、君の楽しそうな声が響いた。
「大好き、ありがとう」
「まもなく、初受賞となった狩谷元春さんのインタビューに移りたいと思います」
僕の隣でテレビのカメラに向かって話す若い女性のインタビュアーの声が耳に入ってきた。
女性はカメラの向きを確認すると、僕へと向き直った。
「狩谷さん、改めて受賞、おめでとうございます。素晴らしい枝垂れ桜の写真で、私自身とても感動しました」
「ありがとうございます」
僕はカメラに向けてぎこちなくお辞儀をした。
女性はそんな僕を見ながらすぐに言葉を継いだ。
「狩谷さん、改めて受賞作のタイトルを教えていただきますか?」
はい、と僕はうなずいた。
この映像は君に届いているだろうか。
ふとそんなことを考えた。
きっとこれを見たら君は笑うだろうな。僕にスーツは似合わないから。
温かな風が僕の頬を撫でていく。
それはまるで君のようで、僕は君に呼びかける。
ほら、もう君と出会った季節だ。
相変わらず僕はこの季節が嫌いだよ。
でもね。
僕の中で君に出会えるのが、楽しみな季節になったよ。
いつの間にか微笑んでいた。
僕はすうっと息を吸う。
「この写真のタイトルは、『僕の撮る景色に君は』です」
僕が撮る景色に君は kanimaru。 @arumaterus
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