To the virtual/繝ヲ繧ヲ
イエイヌ
第1話
「私たちの姿形が仮想から生まれたものだったとして、じゃあ私たちの命や心は、すべてまがいものだと思う?血が流れないものは命ではなくて、涙を流さないものに心はないのかな?」
虫は。花は。海は。大地は。
生きているきみ達は涙を流さない。
握りしめたその手から伝うのはどうしようもない無機質の空白だった。
たとえば僕が千の技術を手にし、万の言葉を尽くしてきみの魂を証明できたなら―――少なくともきみは平らになんてならないのかもしれない。
「どうして人は、命に温もりを求めてしまうんだろうね」
きみの魂を肉付ける方法を、僕はまだ知らない。
『最近会わないね。明日は学校おいでよ』
『待ってるからね』
教室の窓側、自席にて。
同級生の幼馴染から昨夜届いたメッセージを眺めながら、僕はちいさくため息をつく。
学校に来るつもりなんてなかった。けれど、幼馴染の気遣いを無碍にも出来なかった。
結果として僕は今、息苦しさを必死に堪えてここにいる。
梅雨の時期に突入した教室内は空気が沈んで青臭い。
僕はこの季節が苦手だ。それこそ登校する頻度が極端に減るくらいには。
やっぱり来るんじゃなかったな、と心を萎れさせた僕は、自分の席で昼食をさっさと済ませてから窓の方へと顔を向ける。
外の景色に興味があるわけでも、ましてや何か目的があるわけでもない。誰にも僕の存在を気にとめて欲しくないからじっと同じ姿勢でい続けるだけ。
これが僕の、高校三年目の夏だった。
授業開始のチャイムが鳴るまであと30分。その間にここから消えたって、きっと誰も僕を見つけやしない。
いや、あの幼馴染だけは、僕がいなくなった事に気付いてしまうだろうか。
中学生に上がる頃にはほとんど会話なんてしていなかったのに、高校に入って僕の登校頻度が極端に減りだしたあたりからまた話しかけてくれるようになった子だ。きっとほうっておけなかったのだろう。羨ましいくらい正しく生きる、やさしい子だから。
「ふぁ・・・」
ちいさなあくびが僕の口から漏れる。それはまるでトリガーのように、どんどん僕の脳を眠気で満たしていった。いつもならまだギリギリ寝ている時間だもんなぁ、とぼんやり考えながら机の上で重ねた両腕に頭をのせ、瞼を数回のたりのたりと上下させてから・・・ぴったり閉じる。
―――さっきまで何を考えていたんだっけ。
考えれば考えるほど記憶は眠気のモヤに包まれて、ものの数秒で僕の思考は現実を手離した。
―――・・・。
ぱちり。
泡が弾けるような感覚と共に目を開ける。
「・・・え?え、ああ・・・夢か」
一瞬おどろいてしまったが、なんだ。一目で分かるくらい清々しく、夢らしい夢じゃないか。だって、周りの景色がまったく違う。教室とは似ても似つかない場所に僕は立っていた。
そこは奥行きがまったく想像できない白い空間で、床には方眼用紙のような線がどこまでも続いている。それから、小さな小さなシャボン玉のような何かが、この空間のいたるところで円を描きながら飛んでいる。それはどこからともなく現れては、ぱちっと音を鳴らしてバラバラのタイミングで消えていった。
「あれりゃ、めずらしいゲストさんだね?なにやつ?」
当然、後ろから声をかけられてハッとする。どうやらこの夢には僕以外の登場人物もいるようだ。
振り返る。
振り返って、目を見張る。
そこには薄氷の少女が一人、首をかしげてちんまりと佇んでいた。
「・・・ワ。すごい」
僕は思わずほろりと言葉を零す。それは素直な感嘆の言葉だった。何故かって、その少女があまりにもうつくしかったからだ。
ふり積もった雪の中のような水色が淡く透ける髪。
光をめいっぱい吸い込んでキラキラ反射するまあるい両目。
つるりと輝く雪を欺く肌。
どこもかしこも、触れたら溶けてしまいそうだ。
僕は今までこんなにもうつくしいものを見たことがなかった。
少女は一言だけ呟いて何も言わなくなった僕を不審に感じたのか、眉を下げて口元に手を当てる。
「もしかしてバグってやつ?」
「いや・・・僕は・・・」
バグと言われて、そこでようやく気がついた。僕の体にはどういうわけかところどころにグリッチエフェクトのようなものが発生している。なるほどたしかに、アニメなんかでよく見る典型的なバグらしい見た目じゃないか。この少女が不安そうな顔を浮かべるのも無理はない。
いやしかし。それでもこれは僕の明晰夢なんだから、僕に都合のいい解釈と思考に合わせてもいいだろう。
「僕はバグじゃないよ。僕は・・・ユウ。そう、ユウって名前だ。」
僕がそう告げると、少女はそのまるこい目をぱちぱちとはためかせ、それからゆるりと目尻を落として笑った。
「素敵な名前だね。私は雫ツイ!あ、もしかして新人さん?なあんだ、緊張してたんだね!」
「・・・新人?いや僕は・・・えっと、何の新人?」
「そんなのもちろん、バーチャルライバーだよ」
「バーチャルライバー」
復唱。脳内で反芻。理解。
なるほどこれはそういう設定の夢だったのか。
あまり造詣に深いわけではないが、流行りのコンテンツが故にその存在くらいは僕でも知っていた。
バーチャルライバーとはたしか、多種多様なキャラクターをLive2Dや3Dで作り上げ、それを配信者の姿として出したうえで配信活動を行っている存在だ。
それならばこの少女―――ツイの容姿がこれだけ優れているのも納得できる。
なろうと思えば人型だけでなく人外にだってなれるのがバーチャルだ。それこそ奇跡のような少女にだって、なろうと思えばなれてしまう。
僕だって出来ることなら自分ではない何者かになってみたいものだ。いっそコレらのように、自分ではない誰かを作りあげて、それが自分だと言い張ってしまえたら、どんなに生きる事が楽になるだろう。
だがしかし。結局、何になったって僕の魂は変わらない。僕は僕を、自分という存在をいつだって根こそぎ否定している。
だから―――。
「違うよ。僕はバーチャルライバーじゃない。ここは僕の夢の中で、きみは僕の脳が創りあげた登場人物だ。すべて現実逃避のなれの果てだ」
自分で否定しているくせにいたたまれなくて、ツイの顔が見れない。たとえ夢だとしても、自分の存在を否定される辛さを僕は知っているから。
だから勝手なことは承知で、それでもどうか悲しまないでほしいと願った。
「きっと、運命の電子糸が繋がったのかもね」
「・・・え?」
ツイのちいちゃな口からぽつりと落とされたその言葉の意味が分からなくて、反射的に顔を上げる。
いつの間にこんなに近くにいたのか、僕の視界いっぱいには薄氷色から零れだす淡い輝きがキラキラと広がっていた。
「ねぇ、きみがここに来たのは運命ってことにしよう。私はユウがどうしてそんな顔をしているのか分からないけど、きっと神様がユウをいっぱい笑顔にしてあげて!って、私にまかせてくれたんだと思うの!」
「・・・そんな顔って?」
「うーん。迷子なのに誰にも見つけてもらえないって顔かな」
「僕そんな顔してるかな・・・それになんで無関係のきみが任されるの」
「だって私はバーチャルライバーだから!皆を笑顔にして私も笑顔になるのが、私の生まれた理由なの!」
息をのむ。それがあまりにも真っ直ぐな輝きだったから、逃げることも隠れることもできなかった。否定した気持ちや言葉がほろほろと崩れて、心のやわらかい部分が照らされてしまう。
「あ・・・でももう時間みたいだね」
「え?」
眉を八の字にしたツイが僕を指さす。その先を辿れば、色を失い透明に変わっていく僕の手のひらがあった。
指先はほとんど消えかかっていて、光の反射でかろうじて形を感じることができる。
「またね、ユウ。私はいつでもここにいるよ」
「また・・・同じ夢を見れるといいな」
やがて僕の体はすぅーっと色を失い風景に溶けていく。足元からは泡が生まれ、無数の透明とぶつかり合い、光に反射して輝く世界の一部になる。
そうして僕のこの体は夢のようにあっけなく、そしてむなしくなるほどに清々しい速度で、跡形もなく消えてしまった。
「あ。流星ったら、やっと起きた」
「結・・・?」
今日はイヤというほど嗅いだカビ臭い教室の匂いが鼻腔をぬるく刺激する。何やら聴き慣れない楽器の音が響いているが―――時計を見て、たった今その音が吹奏楽部のものだと分かった。いつの間にこんなに時間が経っていたのか、時刻は十七時前。
そして、すぐ隣には見知った顔。
どうやら僕は夢から覚めたようだ。
まだ完全に開ききっていない目をかしかし擦る。僕の顔をのぞき込むようにして座っている幼馴染は、呆れた素振りでため息をついて立ち上がった。
「もう授業も終わったしみんな帰っちゃってるし、そもそも今日来てたの知らなかったよ。なんで一言くらい連絡くれないかなぁ」
「あ・・・昨日のメッセージに返信しようと思ってはいたんだけど色々考えごとしてて、その・・・ごめん」
モソモソと口の中で言い訳の言葉を探して、結局は結の優しさに不義理で返してしまったという事実だけが見つかった。自分が情けなくて恥ずかしくなる。
「ふふ、もういいよ。私がメッセージを送ったから頑張って学校に来てくれたんだよね」
この幼馴染―――天根結は、優しく息を漏らすようにしとやかに笑う。僕はこの笑い方をされるといつも何となく言葉につまってしまう。
幼馴染でもあり学校の人気者である彼女は僕にとって、良くも悪くも特別な存在だった。いつだって彼女は僕に優しさと正しさを教えてくれる。そしてそれと同じくらい、現実と劣等感を与えてくれるのだ。
「ほら流星、一緒に帰ろ。昔みたいに」
「そうだね。起こしに来てくれてありがとう」
外の空気はすっかり匂いを変えて一日を終えるための準備に取りかかっている。空は黄金と薄い群青が混ざりあっていた。僕はその眩しさから逃げるように灰色の地面へと視線を落とす。
「ねぇ、流星っていつも家で何してるの?」
「別に何も・・・勉強したり配信サイトで動画を見たりかな」
「あー、私も最近よく色んな動画見るよ。実はバーチャルライバーにハマってるんだー」
バーチャルライバー。そういえばさっきの夢に出てきた気がする。断片的にかすかな記憶は残っているのに、あの少女の名前や顔がすぐには思い出せない。
「そういえばね!私が推してるバーチャルライバーの子がね、アイムヒアっていうグループに所属してるんだけどさ。そのアイムヒアっていうのが、すっごくミステリアスで謎だらけなの」
いつもより少し興奮気味に話す結は、声の下から続ける。
「そこに所属してるライバーは全員が正体不明でね、誰ひとり身バレもしてなければアイムヒアに所属する以前の活動歴も何にもないの!」
「?そもそもそういうのってバレるのが当たり前なの?バーチャルなんだから、中身が誰とか分からないものなんじゃないの?」
「うーん、そういう人もいるけど大体はバレちゃうよ。元々別名義で活動してた人が多いし。声とか喋り方とか、あとネットって色々消せないものがあるでしょ?なのによ!アイムヒアには何十人もライバーがいるのに、一人も情報が出てないってかなり不思議でしょ!」
「ふーん」
なんとなく理解はできたが、正直微妙な話だなと思う。せっかく仮想世界で何者かになれたとしても現実を追われてしまうなんて。まぁ結が言うにはそのアイムヒアとやらは、いわば完全仮想集団らしいが。
「ね、ほら見て!これが私の今の推し!」
可愛いでしょ。と誇らしげに見せられた携帯のロック画面には、淡く澄んだ薄氷の少女が写っていて―――「ツイ?」―――僕はさっきまで忘れていたはずのその少女の名前を無意識に口にしていた。記憶の雫が僕の胸にぽとりと落ちる。
「え!流星、ツイちゃんのこと知ってるの?」
何故。どうして先に夢でみた少女が現実に存在しているのだろう。彼女は僕の脳が勝手に作り上げた架空の登場人物であったはずだ。いや、もしかしたら知らないうちにどこかで目に入った雫ツイというバーチャルライバーの記憶が無意識に僕の記憶の底で眠っていたのだろうか。
結は固まって返事をしない僕を不思議そうに見つめ、それから心配そうな表情を作って携帯をポケットの中にしまった。
あの子はたしか、こう言っていたはずだ―――運命の電子糸が繋がったと。それは何を意味しているのか。残念ながら今の僕に分かることは何もない。ただ不思議とこのおかしな偶然に、得体の知れないものに対して人間が本能的に抱くべきであろう恐怖的感情なんかはほんの少しも湧かなかった。それはきっと、記憶の中にいる雫ツイという存在がいつまでも無防備に笑い続けていたからかもしれない。
「あれ?天根じゃん。今帰り?」
「あ、久野くん!私たちは見ての通り下校中です」
僕の位置からはちょうど死角になっていて見えないが、久野というのは中学から一緒の同級生である久野光のことで間違いない・・・おそらく。絶対に。何せ、この春夏の風を想起させる爽やかでよく通る声には良くも悪くも聞き覚えがあった。
久野光は何もかもが格好いい。芸能人みたいに華のある顔を綻ばせるだけでたびたび女子が色めきだつ。そして何より人望があり、常に他人に囲まれていた。僕自身は彼とそこまで親しい間柄ではなかったが、ただ彼がそういう人間で、そしてとてもいい人だという事を知っていた。
彼は孤立していた僕に何度か声をかけてくれた。くだらない噂話をしているところを見た事がないし、率先して人助けをしていた。修学旅行の同じ班に誘ってくれて、結局行かなかった僕にお土産まで買って来てくれた。
彼は本当にいい人だ。
いい人はいつだって損をする。
悪いことなんて何もしていないのに、勝手に他人の不幸を押しつけられる。
彼は僕なんかに構ったから、一生忘れられないであろう傷を負った。
「私たち?・・・あ、降谷・・・・・・久しぶり!」
「ひ、久しぶり・・・」
角からひょっこりと現れた久野は僕の存在に気が付くと一瞬気まずそうに視線をさ迷わせ、それからすぐにごまかすように頭をかいてからニカッと笑った。
それは梅雨を越えた夏の快晴のようだった。
間。
会話が途切れてほんの数秒。
心臓がドッと鳴り、急速に喉が乾いていく。
「ごめん、僕用事があるから、ここで・・・」
恥ずかしくなるくらい下手な嘘だ。二人だってきっと気付いてる。でも二人とも優しい人たちだから、何も言わないでいてくれる。今も気遣うように「またね」と言葉をかけてくれて、でも、その真人間らしさがさらに僕のみじめな部分を容赦なくあぶり出す。心臓が頭の中にあるんじゃないかと錯覚するほど、ドッドッドッという心臓の音が絶え間なく脳を揺らしていた。身体中が熱いのに寒い。
「久野は悪くない・・・誰も悪くない・・・」
―――あの日、久野はぐちゃぐちゃの笑顔で僕に「ごめんな」と言った。本当は泣いて僕を責めてもよかったのに、泣かないように耐えていた。なのに僕は先に泣いて逃げ出した。彼にすべてを押しつけて投げ出したのだ。
僕は、僕は、僕は―――人として正しくなれない臆病者だ。
「学校、どうだった?」
母が笑っている。
僕にやさしく問いかける。
薄暗くて何もない空間に、学校の帰り道で嗅いだことのある匂いが充満している。
母が笑う。笑っている。
―――ということは、これは夢だ。
「どうして何も言わないの?」
違う。何か言いたくても出来ないんだ。頑張っても口が開閉するだけで声が出ない。
「どうして私の役に立たないの。邪魔ばかりするの」
・・・。
「あの人を引き止めるに値しなかった!あの子みたいに優秀ならきっとぜんぶが上手くいっていたのに!」
さっきまでの母の穏やかな笑顔はあんなにぼやけていたというのに、今の顔は鮮明だ。それもそうだろう、僕はその顔ばかり向けられてきたのだから。そのつり上がった目尻にはうっすら涙が浮かんでいる。それでも久しぶりに母の顔を見れたことが、単純に嬉しかった。
「ごめんなさい」
何もかもごめんなさい。
生まれてきたことも、あなた達を繋いであげられなかったことも、ぜんぶ、ぜんぶ、ごめんなさい。
「それは本当に謝るべきことかな?」
「え・・・」
瞬き一回。
それだけで、その一瞬ですべての景色が変わる。
さっきまで僕の目の前にいたはずの母はいなくなっていて、そこには最初からそうであったかのようにツイがいた。ツイは目が合うと顔の近くでピースサインを作ってにっこり笑う。
「また会えたね、ユウ」
「えっ、あ・・・」
ユウという呼び方に聞きなじみがなくて反応が遅れたが、そういえば僕はほんの出来心から彼女に嘘の名前を教えていたんだったか。
「んー?ユウ、どしたの?」
「あ、いや、何でも」
不思議だ。彼女がユウと呼ぶたびに、僕は生まれて初めて味わう感覚に包まれる。それはまるでやわらかな羽毛に全身をくすぐられているような、ざわざわして落ち着かないけれど決して悪い心地のしないものだった。
「き、きみは何者?」
どうして僕の夢に現れたの。
どうして現実にも存在しているの。
どうしてきみは、僕が欲しいものをくれるの。
「超人気バーチャルライバー!」
ツイは自信満々に言いながらもう片方の手もピースにして、僕の頬をはさむようにその両手をグイグイと押し当てた。正直やめてほしいけど、きゃふきゃふ笑うツイが可愛らしく思えて結局されるがままになる。小動物に甘噛みされても怒る気になれないのと同じ感覚だ。
「いや・・・うん、まぁいいや。なんか急に肩の力がぬけたせいでぜんぶどうでもよくなったかも」
「どうでもいいの?」
「うん、もうどうでもいいよ」
どうでもいい。だってここにはもう僕とツイしかいない。正しい幼馴染も気まずい同級生も、憐れな母もいない。だったら現実のことなんて今はどうでもいい。
「じゃあゆっくりお話しようよ。私、雑談得意だよ!」
昼間にも感じていたが、この少女はどうやら些か強引なところがあるらしい。こちらの返事を待たずその場に座り込んで、方眼紙のような白い地面をぺたぺた叩く。僕は促されるまま彼女の隣に座って、それから何を話せばいいのか分からず沈黙した。
「そういえばユウはさっきなんで謝っていたの?」
ツイの目は硝子玉みたいに透き通っている。もしくはこれが飴玉だったら、中にはとろりと甘い蜜が閉じ込められているだろう。
「すっごく悲しそうだった。もう平気?」
僕の肩に添えられたツイの手に温度は感じられない。それでも、なぜかこの手にはたしかな温もりがある気がした。
だからだろうか。僕は誰にも知って欲しくなかった僕の物語を、彼女には聞いて欲しいと思ってしまった。ぐっと堪えなければいけないものを吐き出したくてたまらなかった。
「母さんに謝ってたんだ。何もできないのに生まれてきてごめんなさいって」
ツイは僕の言ったことが上手く理解できなかったのか、不思議そうにこちらを見つめたまま何も喋らない。
「僕はさ、不倫で生まれた子どもなんだ。僕の母さんが、不倫相手を繋ぎ止めたくて授かった子なんだ。結果は母さんが捨てられて、僕には何の価値もなくなったけどね」
改めて口にした途端、ぐにゃりと視界が歪む。両目が熱くなって、気が付けば頬が濡れていた。
生まれた瞬間から僕の世界を満たしたのは、祝福ではなくどろどろの執着を孕んだ希望だ。そんなのきっと誰も幸せにはなれない。母さんだって真っ当に誠実に生きる道を選べていたらこんなことにはならなかった。他の誰かが傷付く現実は存在しなかったはずだ。
僕は生きているだけで誰かを傷付ける。
僕の命はもう誰にも許して貰えない。
「価値ならあるよ」
「・・・ないよ。あってはいけない」
「お母さんが見出した価値じゃなくて、きみ自身が生み出す価値がある」
「僕自身が?こんな、石ころみたいな僕が何を生み出せるっていうのさ」
「きみの命はきみが生きてこそ輝くの。石ころなんかじゃない、私の目には懸命に生きるその命がキラキラ輝いて見える。もし宝石だったらきっと地球丸ごと買えちゃう値段だよ!だってきみはこんなにも綺麗なんだから。それくらい価値のあるものなんだよ」
そう言ってツイは僕の涙を袖でぬぐい立ち上がる。つられて立った僕の手をひいて、溶けてしまいそうなくらい明るい笑顔で走りだした。
「ど、どこにいくの?」
「ユウを大歓迎してくれる皆のところ!」
走って走って走り続ける。どこに行くのかも分からないのに、不思議と何もかも大丈夫な気がした。この子が導く先はきっと明るくてあたたかい場所なんだと信じられる、ツイにはそう思わせてくれる力がある。
やがてがむしゃらに動かし続ける足元に違和感を覚え視線を落とせば、そこには無数の色とりどりな光の粒が川のように流れだしていた。それは僕たちの周りを循環しては増殖をくり返し、途方もなく埋めつくす。目を開けていられないくらい強い輝きの中でお互いの姿が視認できなくなっても、それでも僕は走り続けていた。繋がれたこの手だけを信じて、膨大すぎる光に身を委ねたのであった。
「ここだよ!」
途端、視界を埋めていた輝きは一斉に弾け飛ぶ。
音や衝撃のない花火の中心にいたらこんな感じなんだろうか。ぱらぱらと光の残滓が下へと落ちて儚く消える。
やがて視界が開けて―――そこに広がっていた光景に思わず目を奪われた。
黎明の空、雲の切れ間から淡い光線が柱のようにまっすぐ下へと降り注いでいる。その光に照らされて色を変える木々や、反射してゆらめくエメラルドグリーンの水辺は、神々しさを感じるほどの瑞々しい色艶をめいっぱいに含んでいた。上を見上げると、光る鱗を落としながら泳ぐ魚の群れや、雲の子どものような眠り羊が浮かんでいる。足元では星が跳ね、花々を輝かせる。そして一際目立つ、天と繋がるほどに背の高い巨木と、それを囲うように重なり繋がり合う白で統一された建物たち。
そこは今まで僕たちがいた平坦な場所とはまったく異なっていて、そして現実世界の景色とも乖離する場所。
僕はこの不思議でうつくしい景色にたまらず驚嘆の息がもれる。
「ここが私たちの配信世界―――〝アイムヒア〟だよ」
「アイムヒア・・・」
その言葉に、ふと結から聞いた話を思い出す。
正体不明のバーチャルライバーグループ、アイムヒア。そして目の前の少女―――雫ツイ。
ここまですべてが偶然だと思えるほど、僕は鈍感ではなかった。ただ、この巡り合わせが何であれ僕にとってこの夢の世界は現実よりもうつくしい。今はそれだけで充分だ。
慣れた動作で進むツイの後を追って長い階段を降りていく。その間にも景色はやわらかな質感で色んな姿を見せてくれる。夢のような夢の中。今の僕はまさに夢心地だった。
階段を降りきった先にある広場まで到着し、そこでやっと少しずつ頭もさえてきたが、内心の興奮は冷めやらないままだ。どこを見たって楽しいなんて初めての経験なのだから仕方ない。
ツイはそんな僕をみて嬉しそうにころころ笑い、一拍おいてから広場に集まっている集団へと声をかける。
「ただいま皆ー!ちょっといいー?」
「ツイ、おかえり。・・・あれ?そっちの子は見慣れない顔だね」
「えへへー、皆に紹介したいの」
「おおん?誰だそいつ」
「新しいライバー?」
「えっとね、紹介するね!この子はユウっていうの。私のお友達だよ!それからユウ、こっちの皆はアイムヒアの仲間たち」
じっとこちらを見つめる男女が一、二、三・・・おそらく十数名ほど。離れたところにも人がいるようなので、全体数はもっといるだろう。みんな個性的な見た目をしているが、中には現実世界にもいそうな普通の装いの人もいる。見た目年齢にはもっとバラつきがあって、ツイよりも小さな女の子から果ては40代くらいのおじさんまで、かなり幅広く多種多様にいるようだ。
「僕は水無月ルイです。よろしくね、ユウ」
ルイと名乗ったその人は、たおやかな仕草で骨ばった手を僕の方へ差し出した。背が高く中性的な美人だ。蜜のようにとろりとした桃花眼に見つめられてドキリと心臓が跳ねる。
「よ、よろしくお願いします」
「次!次俺な!俺は日車ヒナタ!ユウって呼ぶからヒナタって呼んでくれな!」
「え、あ、うん」
横から急に肩を組まれ、さっきとは別の意味でドキッとする。
直射日光のような笑顔の彼は日車ヒナタというらしい。名は体をあらわすとはこういう事か。
ヒナタのオレンジがかった金髪が首にかかって少しくすぐったい。もし彼が動物だったら多分ゴールデンレトリバーとかだろう。
「ヒナタくんは落ち着きがないですねぇ、まったく。私はヴォルフと申します!この子はリルリィ!以後お見知り置きを」
髪の毛をぴっちり七三にまとめたスーツ姿の男性が意気揚々と、すぐそばにいる幼い女の子の紹介まで済ませてくれた。親子なのかと聞けば、二人ともキョトンとした顔で否定する。まるで「何を言ってるんだこいつ」とでも言うような顔は親子のようにそっくりだったのだけど、それは僕の胸の内にしまっておこう。
「さて、時にユウくん。私たちの仲間になるならぜひこの契約書にサインを!大丈夫です、ただのコラボ企画の同意書なので・・・」
「あたしがリルリィでこっちがヴォルフ!よーしく!」
「あ!リルリィ!貴女まぁーた私のセリフにかぶせてきましたねぇ!?んもう!」
「ヴォルフ話ながいんだもん。うさんくさいし」
「キーーーッ」
中性的な美人、陽気な青年、その次はスーツの男性(うさんくさい)と幼い女の子(辛辣)ときた。
さっきまでは現実世界にいそうな人もいるなんてことを思っていたが、どうやらそれは僕の勘違いだったようだ。皆まるで物語の登場人物のような、キャラクター然とした個性的な人ばかりだった。きっと彼らが現実に存在していたら、僕がこうして挨拶する機会なんてなかっただろう。同じ世界にいたとしても違う世界の住人だったに違いない。
彼らを見ていると、僕の知る現実はますます頭の中で色あせていった。精彩を欠く回顧に胸の空っぽな部分が少しだけ刺激されて、その痛みが広がらないように胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ。すみません」
握手を交わしても、肩を組まれても、やはり彼らには体温が感じられない。
ここは夢の中で彼らはバーチャルの存在という設定だから、何も不自然なことではないのだろう―――ただあまりにも彼らが〝生きている〟ものだから―――それが行き場のない違和感として僕の肩や手のひらに残り続ける。
「なぁなぁ、ユウ!俺もうすぐ配信あるからさ、遊びにこいよ!」
「え・・・ヒナタの配信に?」
「それいいね、見学しようよ!楽しそうだなって思ったら、もうそのままライバーデビューしちゃお!」
「えっと、それは・・・」
これはどうしたものか。ヒナタとツイの明朗コンビにはさまれて、僕になす術などあるはずもない。どうにか話を逸らせやしまいかと脳をフル回転させて考える。
「あー、その、配信って普段どこでするの?」
「どこでも出来るぜ」
こんな風に。と言いながら、ヒナタは親指と人差し指で輪っかを作り、その穴にふぅっと軽く息を吹いた。するとそこから、淡く虹色に光る透明の膜のようなものが溢れだし―――そのまま僕とヒナタの周りを球体となり囲んでしまった。
「えっ、ちょ!」
続いてやってきた急な浮遊感に驚き足元を見れば、すでに球体は地面を離れ、数メートルほどの高さまで上昇しているではないか。下には小さくなったツイがこちらに手を振っているのが見える。
こんな急展開になるなんて思いもしなかった。ちっとも状況が飲み込みきれず、透明な外壁をバタバタと手のひらで打つ。まるで強制連行される罪人の心地だ。
「まって・・・ええ!?」
「大丈夫、ダイジョーブ!配信まであと五分あるからゆっくりしてていーぜ」
「あの、そういう問題じゃなくて・・・」
「中ちょっとごちゃついてるけどごめんな!昨日、ヘビメタ曲縛りで激しい歌枠やったばっかなんだー」
「・・・ここに積まれてる大量のガムテープは何?」
「ノリすぎて物壊した時用に買っておいたやつだな!」
「ええ・・・もう色々不安なんだけど」
「あ、クッションそこら辺にあるから適当に使ってくれな」
「今はクッションより地面がほしいよ」
「あそう?ジュース飲む?」
「話を聞いて」
「エナジードリンクは一日二本まで!」
「共通言語を話してるはずなのに伝わらないのが一番こわい!」
「ぷっ・・・あはは!ごめんごめん。ユウって意外とズバズバ言うタイプなんだな!俺そういうの好きだぜ!」
「は・・・」
ケラケラと笑いながら僕の背中を軽く叩くヒナタはまるでイタズラが成功した子供のようで、その無邪気さに毒気をぬかれた僕は言葉をつまらせてしまう。
ヒナタとの対話は決して不快なものではなかった。その証拠に、僕の体は下にいた時よりもずいぶんとやわらかく解れているのだから。さっきまでの焦りや嫌な緊張感はもうどこにもない。
思えば誰かに対してこんな風にあけすけな物言いをしたのは生まれて初めてのことかもしれない。
先に出会ったツイとだって―――まぁ、かなり情けないところは見せてしまった気もするが―――同年代の友人としようもない話をしてダラダラと時間を潰すような、そんな関わり方はしたことがないと思う。現実でなんてもっとありえない話だ。
陽光がぎゅっとつめられたヒナタの目がまっすぐこちらに向けられている。
僕が目をそらすよりも先に彼が口をひらいた。
「あのさ、もしユウがどうしても嫌だって言うなら今からでも下ろせるから。でもユウ、さっきちょっとだけ暗い顔してたように見えたからさ・・・ホントは配信に参加させるつもりもなくて、ただ俺が配信してる間だけでも一人でゆっくり考える時間ができたらいいかなって思って。もし今、嫌な思いさせちゃってたならごめん!」
勢いよく頭を下げるヒナタにどう答えればいいものか悩んで、とにかく「大丈夫だよ」とだけ告げる。その声はわずかに空気をふるわせただけの弱々しいものだったから、きちんとヒナタに届いたかは分からない。でも、彼は下げた時と同じようにまた勢いをつけて頭を上げて、それから清々しく笑ってくれた。
「あんま遠慮とかせずに、さっきみたいに何でも言っていいからな!友達なんだからさ!」
「うん。ありがとう」
今度ははっきりとした音で言葉を贈る。やっぱり少しは緊張したけれど、ここではっきり返答ができなければ僕に彼らの隣にいる資格はないと思ったから。きっとこの想いや彼のまっすぐなやさしさは風化させてはいけない。
「ねぇ、そういえば配信はいつ始まるの?」
「あ!やっべ忘れてた!サンキュウ!」
「僕、配信中はどこにいれば映らないかな?」
「なんかそのへん!配信スタートぉ!」
「うえ!?」
―――そのへんって、適当にもほどがあるだろう!
僕の心の叫びはすんでのところで喉の奥にしまう。
ヒナタが声をあげたそばからすぐに彼の目の前には大きな窓枠のようなものが出現した。さらに配信部屋である球体の外側にはたくさんの文字が表れ、ぐるぐると円を描くように動きだす。文字を目で追うと、それはどうやらヒナタの配信へのコメントがそのまま反映されているようだった。
「こんヒナ!今日はお悩み相談アンド雑談枠でやってきたいと思います!ヨロシクっ!」
『こんヒナー!』
『始まった!』
『配信うれしい』
『今日もすっごくいい笑顔』
『仕事終わりの癒しだー』
・・・
窓枠の端にある数字が急激に上昇していく。今現在で10,000と書かれているが、まさか視聴者数なのだろうか。だとしたらとんでもない数字だ。そういったものの基準はよく分からないが、開始まもなくこの人数を集められるのなんて簡単にできることではないだろう。
僕はとにかく姿が映らないようにと、すみっこで息をひそめて縮こまる。意味があるのかは分からないが、たとえ夢の中でも配信にのるなんて体験はしたくない。それもこんな大勢の目に晒されるなんて絶対に嫌だ。
「皆は今日どんな日だった?俺はさー、すっげぇいいことあったんだよ!何だと思う?・・・なんと、友達ができました!へへ!」
くしゃっとした笑顔で話をするヒナタの横顔は活き活きとしていて、やはり僕なんかよりよっぽど〝生きている〟ように思う。流れるコメントからは、そんな彼の底抜けの明るさに感化されて気持ちが盛り上がっていく人々の様子が見て取れた。
「お、さっそくお悩みキタ!なになに?〝どうやって友達と仲を深めればいいか分からないです〟かぁ・・・」
ヒナタはたくさんあるコメントのひとつを読み上げて、んーと唸る。それからすぐにパッと顔を明るくし、その文字の羅列を指先で軽くなぞった。
「俺は相手に好きだ!って気持ちを隠さないようにしてる。誰でも人から向けられるのはポジティブな感情の方が嬉しいじゃん?」
たしかに。今日出会ったばかりだけれど、僕は彼から一度もネガティブな感情を受け取っていない。多少強引なところはあれど、彼は人をよく見ている。
常に快晴のような笑顔で、人懐っこい言動で、一ミリも敵意や悪意なんてものを感じさせず。
その徹底ぶりは、彼自身が完璧に日車ヒナタという人物をまっとうしようとする強い気概さえ感じる。
「俺、皆を笑顔すんのがすっげー好きなの。だから友達になりたいって思った奴にはいっぱい笑っててほしい!」
―――だって私はバーチャルライバーだから!皆を笑顔にして私も笑顔になるのが、私の生まれた理由なの!
ありったけの輝きを放つあの笑顔が鮮明に蘇る。瞬間、鼓動がトクンと脈をうった。
「なぁ、さっきコメントくれた人!もしどうしても後ろ向きになっちゃったり踏みだす勇気がでない時はさ、俺のこと思い出してよ!俺はずっとそばにいるから大丈夫。いつだって俺がきみの勇気になる!誰かとの繋がりを大事に悩めるお前のこと、俺は尊敬するし応援してるぜ!」
この配信を見ている顔も名前も知らない誰か。存在するかも分からない、夢の一部の煌めき達。きみたちはきっと幸せ者だ。彼を応援し、彼に応援されている。明るい方へと導かれている。それがどれだけ幸せなことか、暗い場所で身を縮めることしかしてこなかった僕にはよく分かる。
ここが現実で向こうが仮想なら―――そんな空想を思い描いて、僕はすぐにかぶりをふった。
それを望んでしまえばきっと僕は夢にすがってしまい、明日を生きられないだろう。彼らと共に行きたくなるだろう。それはとても寂しくて、後戻りのできない空白だ。
今日ここに来られてよかった。たとえ現実でなくとも、涙をぬぐってくれた子がいる。友達だと言ってくれた人がいる。それだけでもう充分だ。僕は多くを望んではいけない命なのだから。
『アンチ・コル発生、アンチ・コル発生』
『配信外のライバーはただちに避難』
『配信中のライバーはライン防御せよ』
その機械音声が鳴り響いたのは突然のことだった。
避難、防御という言葉に驚いてまわりを警戒すると、いつの間にか赤黒くてドロドロとした何かが僕たちのいる球体の外を覆い隠そうと蠢いているのが見えた。
明らかな異常事態にヒナタを見やれば、意外にも彼は何食わぬ顔で雑談を続けている。未だ鳴り止まない機械音声が反響し続けているが、コメントを見るかぎりではどうやら視聴者にその音声は伝わっていないようだ。
僕はどうするのが正解なのか分からずにただ狼狽えることしかできなくて、赤黒い何かを注視する。
「・・・は?なんだよこれ・・・」
生き物のように見えたそれは、文字だった。
ただの文字ではない―――悪意の羅列だ。
他人を傷付けるために構築された言葉たちだ。
『ただの絵の分際で人気者気取りか』
『首吊って死ね』
『皆お前が嫌いだよ』
『はやく辞めろ』
・・・どれも目をふさぎたくなるような言葉ばかりだ。おぞましい。
僕はそれらを言葉として認識した途端、血管の中を氷水が流れていくような感覚に陥ってしまう。ドロドロと這いずるそれらが不快で仕方がない。逃げ場がなくとも目を覆えばこの不快感も少しはマシになるだろうに、僕の体は僕の意思に反して指先ひとつ動かせやしない。それどころか瞬きの仕方すら忘れたように、ヘドロみたいな悪意の塊を呆然と見つめ続けていた。
『あんたはもう誰にも望まれていないのよ』
僕の脳裏に浮かぶ母の姿。
そうだ、このおぞましいモノは母からもらった呪いによく似ている。あの人が僕を罵るたびに、僕はいつもこうして身を固めて内側のやわらかい部分を守ろうとしていた。遠くの景色を見るように凪いだフリでごまかした。
ドンッ!ドンッ!―――外側から何かを叩きつけるような音が響く。
「ヒナタ!ユウ!無事!?」
ツイの声だ。ドロドロがこの配信部屋を半分ほど覆っているせいではっきりと姿は見えないけれど、どうやら外側にはツイがいるらしい。
「・・・ぶ、無事だよ。それよりこれは一体どういうことなの?」
「ごめんね、じっくり説明してる暇がないから簡単に言うと、今バリアシステムの不具合か何かで外世界からのウイルスが通過してしまって自動削除もされない状態なの!普段はこんなことありえないんだけど・・・とにかく私たちでどうにかするから、ユウはもしもの時にヒナタを手助けしてあげて!」
「え、もしもの時って・・・」
「このドロドロはアンチ・コルって言って、ただの文字じゃないの。悪意が成れ果てた怪物・・・ライバーがこれに汚染されたら廃人になっちゃうらしいの!だからお願い、ユウ!ヒナタを助けられるのは貴方しかいないの!」
「でも・・・そ、そうだ、配信を止めるのは出来ないの?」
「だめ、妨害されてる!」
「そんな・・・」
ヒナタは今も配信を続けている。
もしかしたら本当はたいした事がなくて、取り立てて騒ぐような事象ではないのかも、なんて勘違いそうになるくらい平気な顔で。変わらぬ笑顔で。
でも僕は知っている。いや、知ってしまった。ヒナタは決して明るいところだけを掬いとる人じゃないと。誰かを照らすために、ちゃんと暗い部分から目をそらさない。きっと彼は悲しみも悔しさも知ったうえで笑う人だ。
「分かったよ。僕にできるか分からないけど・・・やってやる」
「ありがとう!無事でいてね!」
ビュンッと空を切る音が聞こえてツイの声が遠ざかる。まだアンチ・コルとやらに覆われていない上部に目を向けると、大きな羽だけが目立つ頭や足のない鳥に乗っかったライバーたちが、武器を手に戦っている様子が見えた。
どうやらこの配信部屋の周囲だけではなく、この世界全体にアンチ・コルが発生しているらしい。
僕に彼らのような武器や知識は何もない。ただ、じっとヒナタの様子をうかがい外側への警戒を強める。
なおも笑顔を崩さずに視聴者とやり取りを続けるヒナタにほっとしたのもつかの間―――ゴウッと唸るような音と共に、僕たちは強い衝撃に襲われた。
「おわ!・・・っとぉ、ごめんごめん!立てかけてたギターが倒れたっぽくてびっくりしちゃったわ!気にしなくてダイジョーブ!いやー、物は大切にしないとな。あはは」
ヒナタの誤魔化しに気づいているのかいないのか、視聴者のコメントは彼を心配するものが増していく。
僕はキョロキョロとあたりを見渡して音の発生源を探り、そしてある一点を見つけた瞬間に、思わずこぼれ出た焦る声を抑えきれなかった。
僕のいる場所からすぐ近く、ヒナタの左後ろの壁にヒビが入っていたのだ。おどろおどろしい化け物のような姿に変容したアンチ・コルが、何度も何度もそこを突いては暴れている。配信部屋の強度がどの程度のものかは分からないが、このままいけばすぐにでもヤツらはそこを突破してしまうだろう。不幸中の幸いは、そこがちょうど配信には映らない位置だったことくらいだ。
「〝自分を愛せないから、そんな風にポジティブにもなれない〟・・・かぁ。んー、よし!どうしたらいいのか一緒に考えるか!」
なんとか持ちこたえているうちにどうにかしなければ、彼の努力が無駄になってしまう。それだけでなく、あの笑顔が失われてしまう可能性だってある。それは絶対に駄目だ。それに、僕はツイと約束した。彼を助けると。ツイは僕を信じたんだ。たとえこれが夢の中だろうと、僕はもう他人の気持ちを裏切りたくない。
ぐっと足に力を込めて立ち上がる。
とにかくやるしかない。
まずは転がっていたガムテープを使って壁を補強する。心許ないうえに意味があるかは不明だが、やらないよりはいくらかマシだろう。補強している間にも化け物は壁を打ち付けている。振動が僕の手のひらを伝い、身体中を震わすほどに響いていた。
「やっぱり、さすがにこれだけじゃ・・・そうだ」
ヒビ割れた壁のすぐ近くにある棚を押してみるが、重くてビクともしない。棚に置かれている物をどかせば多少は動かせるのかもしれないが、そんなことをしている猶予はなさそうだ。
「ぐっ・・・うぅ」
こんなことなら筋力をつけておけばよかった。家で何もせずに時間を消費し続けたツケがこんなところで回ってくるなんて誰が想像できようか。湿り気をおびた手のひらがわずらわしい。視界をさえぎる長い前髪がうっとうしくて乱雑にかきあげる。吹き出す汗もかまわずに一心不乱に力を込め続ける。
ズ、と音がした。ほんの少しだけ棚が動いたのだ―――が、無情にもそれとほぼ同時に壁からバキィッと不穏な音が鳴る。棚ごしにチラつく赤黒い物体。つまりそれは、アンチ・コルが壁を打ち破ったのだと瞬時に理解した。
―――まずい!
もはや棚を動かすことは諦めざるをえない。どうにかしてヤツをこれ以上この中に侵入させないようにしなければ。咄嗟に掴んだクッションで壁の穴をふさぐ。必死におさえつけて侵入を拒むが、隙間から這い出ようとする触手のようなモノを間近に見た僕は全身が粟立つほどの恐怖を感じた。
壁を押さえつける僕の手に、ザワザワと無数の細い触手が絡まる。そしてそれらに触れられた途端、僕の視界には黒いモヤが広がってゆく。
『しようもない命だ』
『いなくてもいい存在』
『誰もお前に愛を与えない。現実は辛いだろう』
『いっそ楽になろう』
右も左も分からない暗闇の中で誰かが囁く。せり上がる絶望感。耳を塞いでも頭の中で反響し続ける呪いの言葉が、誘惑するように僕の思考を撫でつける。
『ほら腕を動かせ。そう、首はそこだ。命の終わり方は分かるだろう?』
まるでそうするのが当然かのように自然と僕の手は自分の首にのびていた。不思議と抵抗する気にならないのは、深層心理にある諦めからなのかマインドコントロールの一種なのか。ひとつ分かることは、意外にも僕の頭は冷静であるということ。
「・・・僕も・・・いつかは、輝けたのかな・・・」
『無理だよ。お前が一番よく知っているだろう?自分につけられた値札が他人を不幸にするということを』
「うん・・・そうだね。やっぱり僕なんて生まれてこなければよかったんだ」
『仕方ないさ、仕方ない。お前の命はもはや罪ではなく罰なのだから』
「じゃあやっぱり、生きることは罪なんだ」
ギリギリと首が締まる。息が苦しくなるほどにモヤが晴れていく。きっと命の終わりこそが禊なのだ。僕が輝く瞬間がくるとしたらそれは、命が破砕され魂が剥き出しになったその時なのだろう。
「輝かない命なんてない」
はっきりと耳に届いたその声はまぎれもないヒナタのものだった。薄暗い場所に陽の光が差したように視界がひらけて、首を締める手の力も少しずつゆるんでいく。
「ここにいる皆も、俺自身も、生きて生きて一生懸命に生きていれば、いつかきっと誰かを照らす光になれる。俺はそう思う。そう信じてる!そんで、俺が一生懸命になれるのは皆のおかげなんだ。だから、いつもありがとな!」
たとえそれが僕に向けられたものでなくとも、今の僕にとってはこれ以上ないくらい希望を持つのに充分な言葉だった。熱くなった目頭にグッと力をこめて、それでもこぼれ落ちてしまう涙を拭おうと両目を手のひらでおさえる。
そこでふと気が付く。
まとわりついていたアンチ・コルが僕の体から離れていたことに。
『死ね死ね死ね死ね』
『お前は光になんてなれない、思い上がるな』
『お前が壊れるまで粘着してやる』
僕の脳内を支配していた化け物の声が遠ざかり、配信部屋の周りを流れるコメントの中に醜悪なそれらが増殖する。ヤツは完全にヒナタへと矛先を変えたのだ。しかしヒナタはなおも笑顔で語りかけている。
今度こそ彼を守らなければ。悲しみにのまれて簡単に暗闇の底へと落ちてしまうような僕だけど、僕が僕を愛せないことに変わりはないけれど、それでも。彼らが僕と同じところに落ちてしまうのは嫌だ。
『本当は自分のことしか考えてないくせに』
『心ない偽善者』
『本心じゃ何も感じてない』
ヒナタの目の前に並んだその言葉を見た瞬間。
僕の心臓は爆ぜるように脈動し、頭のてっぺんからつま先までを赤い熱が駆けぬけた。
「ふざけるな!」
僕の声に驚いたヒナタがこちらを振り向く。まん丸の目がかすかに潤んでいるように見えた。そう見えただけで、彼は涙を流してなんかいない。でも、泣かないことは心を持たないことの証明ではない。
「ヒナタはやさしくていい奴だ。バーチャルだから何を言われても平気で笑ってるんじゃない、ヒナタは誰にも傷付いてほしくないから笑ってるんだ!心ない言葉をぶつけて平気なお前よりずっとずっと、あったかい心を持ってるんだ!!」
許せなかった。彼のやさしさを侮辱されることも、傷つけるための言葉をぶつけたことも。許せなくて腹立たしくて悔しい。発散しきれない感情が堪えきれなくて体が震える。泣いている場合じゃないと分かっているのに情けなくも涙が止まらない。
思えばあの日もそうだった。
久野が真実を知った日。
僕は真っ先にぐちゃぐちゃな心と言葉を彼にぶつけた。
『きみは僕が逃げ隠れるための暗闇さえ奪うの』
『どうして暴こうとしたの』
『酷いよ、きみは。もうたくさん持っているのに』
―――本当はあんなこと言うつもりじゃなかったんだ。気が動転して取り乱してしまって、それで―――それに何より怖かったんだ。彼が自分の意思で僕を遠ざける結末が、彼に憎まれ否定される未来が。もしもあんなにやさしく正しい人間から責められたら、僕はその場で死んでしまわなければいけないと思ったから。
でも僕のしたことはこのアンチ・コルと変わらない。
そうだ―――この化け物はあの日の僕だ。救いようのない卑劣で最低な臆病者なんだ。
対峙しろ、対峙しろ、目をそらすな。
逃げずに向き合え。
弱さは罪じゃない。
自分の弱さをやさしい人間に押しつける、その狡猾さこそが罪なんだ。
「そんなふうに誰かを落としても、自分が正しくなれるわけじゃない・・・だからもうやめよう。やさしさの上を踏み荒らすのは終わりにしよう」
成れ果ての化け物はふつふつと沸騰するように蠢いている。どう転ぶか分からないその動きが不安で、冷や汗が額を伝った。
まさか手遅れだったか、それとも失敗したのだろうか。
だったらせめてヒナタのかわりに―――そこで、ふとあることに気がついた。
さっきまで蠢くアンチ・コルの動きは怒りに滾っているのだとばかり思っていたが、よくよく観察してみれば、それはまるで苦しみのたうち回っているようにも見える。
が不思議に思った僕が立ち止まっているうちに、やがて視聴者たちのコメントが淡く発光し始めた。
それらはアンチ・コルの黒く淀んだけがれを浄化するように、どんどん強さを増していく。
『ヒナタくんのおかげで生きることが楽しく思えたよ』
『いつも元気と勇気をありがとう』
『だいすき』
―――強く、強く
『俺たちだってずっとヒナタの味方!』
『何があっても皆がついてるからね!』
『ずっとずっとずーっと応援してる』
―――想いは重なり合って
『人生最悪だったときに、ヒナタがいたから乗り越えられた』
『ヒナタのこと信じてるよ』
『いつもヒナタが私たちの心を明るく照らしてくれるから、ヒナタが悲しいときや辛いときは私たちがヒナタを照らすよ』
―――必ず届く。
『大丈夫』
『一緒に輝こう。一緒に生きよう』
―――そこに奇跡を携えて。
「皆・・・ありがとう」
はにかんだように笑うヒナタの顔には、一切の陰りもない。彼らは自らの力で乗りこえたのだとその顔をみたときやっと理解した。
「俺、幸せだ!」
瞬きをするたびにまつ毛の隙間から木漏れ日のような光がゆらめく。ヒナタの言葉が、文字の羅列が、互いに呼応するように煌めく。なんて綺麗なんだろう。なんてあたたかいのだろう。彼らには誰にも汚せない希望があった。それはきっと時間と想いの積み重ねがなし得た絆だ。
アンチ・コルの動きは完全に停止している。光に触れて灰となり消えゆくその化け物の姿は、想像していた最期よりもずっと地味で虚しいものだった。
「・・・次生まれてくるときは、光になれるといいね。君たちも、僕も」
いつかきっと、こんな化け物のような姿になる前に気がつけますように。そして思いとどまれますように。
僕は汚れのいっぺんも残さず風にさらわれた悪意たちの行く末が知りたくて、いつまでも空中を見つめて探し続けていた。
*
「終わっ・・・たぁーー!!」
「一時はどうなることかと思ったけど・・・皆よく耐えたね」
「ええ、ええ!私の活躍は見てましたか皆さん!」
「ううん、ヴォルフはあたしに守られてたのよ。銃の使い方がへったくそなんだもん」
「そ、そんなこともありましたっけねぇ?」
「ふふ、みんなお疲れ様」
花吹雪が空を彩り、そこかしこで歓声があがっている。勝利を祝う声にあふれる中で僕たちは自然と寄り集まって歩いていた。
「ユウとヒナタも無事でほんとによかった!」
「おう!」
「ツイも、お疲れ様」
「ありがと!」
あれから皆の配信は無事に終了し、外でのアンチ・コル駆除も見事完遂されたらしい。つまりは誰ひとりとして犠牲者を出すことなく穏やかに幕を閉じたのである。まさに大団円。これが映画なら、今ごろはハッピーエンドにふさわしい曲と共にエンドロールが流れているだろう。
「いやー、正直やばいって思ってたけど。そうだ、ユウがすげぇ格好よかったんだぜ!」
どこをどう綺麗に切り取ったって、僕はたいして褒められる働きをしていないのだが―――彼のことだ、きっと心から純粋にそう思ってくれているのだろう。こうなると僕はもう何も言えず、ただひたすらに後ろめたい気持ちでいっぱいになってしまう。まるで自分が他人を騙している詐欺師にでもなってしまったようだった。
だって実際、僕が何かをしたから解決したワケでもなく、彼らが掴み取った奇跡の勝利としか言いようのない結末だったのだから。ありていに言えば、最初から僕に入る隙などなかったということだ。
「いや、僕はなにも・・・あ!」
そこでふと立ち止まる。
あの時のことを思い返して―――ある一つの事実を思い出してしまったのだ。
「そ、そういえば、僕!ごめんヒナタ、僕の声が配信にのったよね!?ほんとごめん!ああ・・・どうしよう」
たしかな記憶の中には、腹の底から叫んだ自分がいた。配信にのらないわけがない大きな声だった。僕にしては大きな声だっただけで実は他人からすれば小さなボリュームだったかもしれない、なんてことをわずかに期待したかったのだが、あのときヒナタは驚いてこちらを振り返っていた。それはつまりきちんと届いたというわけで。
「ものすごく申し訳ない・・・大丈夫かな、急に変な声が入っちゃって、みんな困惑してたり」
「あー、それなら大丈夫。俺以外の声は入らないように遮断してあったから!それも妨害されてたらどうしようかと思ったけど、それはなかったっぽいしセーフ!」
「よ、よかった!よかったぁ・・・!」
首の皮一枚つながったとはこのことか。心からの安堵に体の力がぬけて、へなへなとその場に座り込んでしまう。そんな僕をみて皆は驚いていたが、それが怪我や疲労によるものではないと分かるや否や速攻で愉快そうに破顔した。特にリルリィなんかはお腹を抱えて笑っている。指をさすんじゃありません、とヴォルフにたしなめられているが、そう言うヴォルフも口元のニヤつきが抑えきれていない。まぁ、別に悪い気はしないので良しとしよう。
「ユウはいい子だね」
立ち上がろうとした僕に手をかしてくれたルイが、クスクス笑いながら言う。
僕はいい子と言われていいような人間ではないのに。どうしてそんな風に言って、慈しむような目を向けてくれるのだろう。そんな気持ちを抱えながら、しかしそれらが僕の口から飛びだすことはなかった。
なぜかって、ルイの頭を撫でる強さがちょうどいいとか、笑い方が綺麗なこととか、声が落ちつくだとか―――そういう些細な気付きが胸の奥にふり積もって、否定や疑心なんかは根こそぎやんわりと沈められてしまったからだった。
「他に配信していたライバー達も言ってましたけど、緊急アナウンスや被害による騒音などは向こうに伝わっていなかったようですよ。ただ、アンチコメントだけはしっかり配信にのってしまったようです」
「配信中は視聴者さんたちも必死にガマンしてくれてたけど、やっぱり悲しませたよなぁ」
「あとでそれとなくケアしてあげないとだね」
「ケアといえば二人も、しっかり診てもらおうね」
「え?」
「今そのためにメンテナンスラボに向かってるんだよ」
初耳だ。ただ皆に合わせて歩いていたが、どうやら僕とヒナタの健診をするためらしい。最悪の事態が起こる前にアンチ・コルの支配から免れることはできたが、念の為だそうだ。
「そもそもアンチ・コルの被害にあったのってかなり昔だし、データが少ないんだよな。後遺症があるかもわかんないし、ないならないでオッケー!」
「つまりはまぁ、未知なことだらけってワケなのよ」
「そうなんだ。昔も今回と同じような感じだったの?」
僕の問いかけに答える人はいない。ツイだけが、僕と同じように困惑した表情を浮かべていた。
「・・・今回はまだ対応できた方だよ。むしろよく誰も犠牲にならずに済んだと賞賛すべきだ。あれに汚染されたライバーがどうなったのか・・・ユウ、きみはそれを知らなくていい」
それは気遣いからの言葉なのだろう。そしてはっきりと引かれた境界線だった。それが嫌でも分かってしまったから、僕は複雑な気持ちを押しこめるように口をつぐむ。
「それから―――ツイはまだライバーを始めて一年と少しだから詳しくは知らなかったんだろうけど、アレを知識として認識はしていたはずだね?」
「う、うん・・・」
「ライバーでないユウに対応させるのはとても危険な行為だったんだよ」
「あ・・・ご、ごめんなさい!」
サッと顔を青ざめさせたツイが勢いよく頭を下げる。僕としてはそんなに大仰にしなくても、というのが本音だった。とはいえこのまま黙ってツイのつむじを見つめ続けるわけにもいかない。
僕は彼女にどんな言葉をかけるべきかと思案する。
―――たしかに、今にして思えばアレはとても危険な行為だったのかもしれない。ルイの言葉に反発する気はまったくないし、冷静になって考えれば考えるほどにむしろその通りだとも思う。
でもあの時は皆が皆、必死だったのだ。
僕が今さらその危険性を認識したのと同じように、ツイだってすべてを完璧に対処できるほどの余裕はなかった。いっぱいいっぱいの中で必死に考えて自分にできることをしただけ。それだけだ。
それに巻きこまれたとはいえ僕は自分の意思で選択して行動したのだから、すべてツイの責任と言うのは間違っている。もし僕が無事でいられなかったとしても、それは僕のミスだ。
―――と、そこまで思い至ったところで、やっと僕の口は僕の思考を言葉として形造るために動きだす。
「あにょっ」
だしたのだが、人と関わってこなかった分のツケは一朝一夕ではどうにもならないらしい。自分の考えを順序だてて伝えることの難しさを今さらになって噛みしめる。
じとっとした目でこちらを見つめていたリルリィからは小さな声で「シャキッとせい」なんて叱られてしまった。ツイにはぺったりと寄り添っているあたり、この女児は随分と他人の扱いに落差があるようだ。
「次からは絶対に気をつけようね。きみ達に何かあったらと思うと、想像するだけで胸が張り裂けそうになるんだから」
そんな僕たちの様子に、つい先ほどまで真剣なまなざしをしていたルイがふっと力を抜くように眉を下げて微笑む。ツイの背中に手をおいてからゆっくりとさすってやる姿に、いつかドラマで見たやさしい母親役を想起する。
なるほど、水無月ルイという人は、飴と鞭がうまいというか、厳しさの中にしっかりと愛を感じさせてくれる人のようだ。この人と接すると心臓のあたりがむず痒くなるのはそういうことか。
親からの愛情の何たるかを、たぶん僕はこの先もずっと知らないまま生きていくのだろうけれど、ここにいる人たちを見ていると家族にはこういう形もあるのだなと妙に納得してしまう。
「ユウ、本当にごめんね。私そこまで頭が回ってなかった・・・ユウのこと笑顔いっぱいにしたいのに、むしろ逆な目に合わせてしまって」
「そんな、僕は気にしてないから大丈夫だよ。むしろありがとう、その、こんなに素敵な場所に連れてきてくれて」
「ユウ・・・」
薄氷の頬に薄桃色が滲む。ツイが分かりやすく顔を明るくさせたのがあまりにも愛らしくて、僕の言葉がそうさせた事実に口元がゆるんだ。
ツイはいつもまっすぐで嘘がない。彼女の心はずっと等身大で、雫ツイのまま喜んで、雫ツイのまま落ち込んで、雫ツイのまま笑う。そこに欺瞞や見栄なんてないことは明白で疑いようもなかった。
「ツイに出会えてなかったら、僕はそれこそ誰かのために頑張ろうなんて思えない人間のままだったよ。ツイはすごいね、本当に。僕にとってきみは奇跡みたいな女の子だよ」
なんて少し気取りすぎただろうか。普段は絶対にこんなこと言わないけれど、正真正銘これは本心からの言葉だ。
対するツイは、ただでさえ大きな両目をさらに開いて口元をモニョモニョさせている。まるで褒められた喜びを隠しきれていない幼子のような表情だ。僕には妹や姪なんて一人もいないけど、そういう子がいるとこんな気分なんだろうか。
ツイは頬だけじゃなくて顔から耳の先までを桃色に染めてころころ笑う。
やっぱりかわいい。何をしてもきっとこの子はかわいいのだろう。
「ハイハイ、二人とも!目的地はもう目と鼻の先なんですからさっさと行きますよ!」
「ヴォルフってば、自分がモテないからって若者のジャマをするのはいけないことなのよ?」
「カーーーーーーッペ!」
「うわ!なんてヤツなの!」
あはは、というヒナタの笑い声が響く。しばらくすればルイがやれやれといった様子で彼らの喧騒に介入し、慣れたようにあっさりと収拾をつける。おそらく彼らの日常はいつもこんな感じなのだろう。それはとても楽しそうで、そしてあまりにも僕の知る現実からは遠かった。そのいっそ清々しいほどに完璧な光景はどこをどう切り取っても輝いて眩しくて、羨ましいと思うよりも素晴らしいと感じてしまう。
要するに、僕には不釣り合いのワンシーンだ。
「さ、ここがメンテナンスラボだよ」
たどり着いたのは大きくて白い、大聖堂によく似た建物。
ラボなんて言うものだからてっきり漫画でよく見るような研究室を想像していたけれど、およそラボという呼び名にはふさわしくない壮麗な外観だ。
内装もやはりというか、教会らしい造りとなっている。長く続く床部分には水が張られていて、身廊部分にのみステンドガラスでできた足場が設けられていた。水に反射したステンドガラスの彩りがユラユラと揺蕩っている。
ますますラボという言葉からイメージされるものが遠ざかっていくけれど、ここにいる人たちがこの建物をラボというのなら誰が何といおうとラボなのだ。チャーチでもチャペルでもない。
「おや、皆さんお揃いで」
バシャバシャと音をたてて水がはねている。最初は水そのものが喋っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。とぷんと水のかたまりが抜け出して、僕たちの足元へ素早く移動する。変形、変色していく水。それはみるみるうちに猫の姿へと変わっていった。
「ねこだ・・・」
「この子はニャルガー。アイムヒアのライバーで、このメンテナンスラボの番犬ならぬ番猫だよ」
「どうもはじめまして様、お名前を伺っても?」
「あ、僕はユウです。えっと、きみもライバーなんだね・・・さっきのはどうなってたの?」
「さっきのとは?」
「水になってた」
「ああ、猫は液体なのです。常識でしょう」
猫に常識をとかれてしまった。たしかに猫は液体と言われるほど体がやわらかい生き物だと聞くけれど、ここまで本物の液体になれるなんて常識は残念ながら知らない。
猫を飼ったことも触れる機会もなかった僕は、くたくたでやわそうな体に触れるのが何だかこわくて、ニャルガーと握手する瞬間は今までにないくらい慎重になってしまった。
「雨露さんはいる?」
「いますよ、ほらあそこに」
ニャルガーがピンク色の肉球がついた前足でラボの奥をさす。そこには大きな講壇らしきものがあり、どっしりと重たい存在感をはなっていた。
「おはようございます、ライバーの皆さん。そしてユウさん」
その講壇の下―――僕たちの死角となっていた場所から登場したのは一人の男であった。のっそりと重たそうな動作で講壇に手をついて立ち上がるその人は、どことなく他の皆とは違う異質な雰囲気をまとっている。
どこがと言われると説明のしようがないが―――失礼ながら、この場にいる人たちの中ではいちばん自分に性質が近いような気がした。それは本能的直感であった。
「ここに来た理由は分かっているさ、見ていたからね」
プツ、とテレビの電源がつくような音がして、彼の背後に多数のモニターが出現する。そこにはこの建物の外の様子が映し出されており、彼の言い分と合わせればつまりそれは監視カメラのような使われ方をしているのだろう。
「雨露さんはここの最高責任者代理で、僕たちが窓の外の世界へ干渉する技術を開発した偉い人だよ」
「ぜひ気楽に接してくれ、ユウさん」
「よろしくお願いします、雨露さん」
不思議と緊張感はない。なんならニャルガーの小さな手を握ったときの方がよっぽど緊張したと思う。
挨拶が終わってすぐ、雨露さんはパリッとしたワイシャツの上によれて形のくずれた白衣を羽織り、パサついた髪を長い前髪ごとひとつにまとめあげた。
「さ。ユウさん、ヒナタさん、ここに座りなさい」
「うーい!」
言われるがままに従って、講壇の前にある赤い木製の長椅子にヒナタと並んで腰かける。前方には大きな大きな鏡。周りのモニターには相変わらずアイムヒアのうつくしい景色が映し出されている。それらは絵画のようで、そして僕たちは敬虔な教徒のようだった。
「あなた達の身体に異常がないか調べるから動かないでくれ。ニャルガー、膜を」
「アイアイニャー」
ニャルガーが宙を舞い、上空で一回転。半透明になった体で僕とヒナタの周りをぷるんと囲いこんだ。猫ゼリーの完成。これはまたなんとも、かわいい。
「これは?」
「建物や物と違って人は複雑だから、ニャルガーの透過スキャンシステムを使うんだ。それに万が一バグが発生したら他を侵食しないようにそのまま閉じ込めておけるしね」
それっきり、雨露さんは何も言わずキーボードを操作し始める。何やら小難しい文字列で埋め尽くされた小さなモニターにのみ目を向けて、ついぞこちらには一度も視線を寄越さなかった。
「なぁユウ。改めてさ・・・さっきはほんとにありがとな」
「え、何が?」
ヒナタが神妙そうな面持ちで話し始める。言っちゃ悪いが、彼がシリアスな顔を作っても大型犬が真顔になっているようにしか見えない。
「アンチ・コルが発生したときのこと。俺のためにあんなに怒ってくれたの、本当に嬉しかったんだぜ。後ろには俺のために声あげてくれる友達がいるんだ!って思えたからまたまっすぐ前を向けた。そんで前を向いたらリスナーのあったかい言葉が今まで以上にはっきり見えるようになったんだ・・・ユウの言葉が俺の視界を晴らしてくれたんだと思う。だからありがとう!」
「そんな・・・えっと、いや」
そうか、彼は僕が何か役に立ったからああ言ってくれたんじゃなくて、僕が行動したことそのものを讃えてくれていたんだ―――心臓の裏をくすぐられているような感覚に、今度は後ろめたい気持ちじゃなくて純粋な気恥しさから何も言えなくなった。
「これからもずっと友達でいてくれよな!」
「・・・うん」
目頭が熱くなって、誤魔化すように前髪を触る。
現実ではありえない言葉を受け取るのが苦しかった。
「そうだ!あのさ、これ終わったら皆で花火しよーぜ。ツイやリルリィが手持ち花火だいすきでさ、よく皆で遊ぶんだ。せっかく友達になれたんだしユウとも夏の思い出を増やしてぇ!」
今思いつきました!とでも言うような声色だ。いやしかし、彼からの突然な提案は今に始まったことではない。
配信部屋に拉致された(語弊のある言い方だが、あのときの僕は真剣にそう思った)あのときに比べれば、むしろ前後の緩急がゆるやかで理解の追いつく提案だった。
「うん、いいね。花火」
「ユウも花火すきか?」
「うーん、どうだろ。嫌いではないよ」
「打ち上げ花火と手持ち花火はどっち派?俺は打ち上げ花火の方がドーン!バーン!って感じで好きなんだよなぁー」
「はは、ヒナタらしいね。僕は・・・手持ち花火かなぁ」
―――嘘だ。本当は手持ち花火なんてしたことがない。打ち上げ花火だって、テレビのニュースで花火大会の様子を見たことはあるけど、それだけだ。本当にそれだけ、それっきりの、向こう側の景色。
「手持ち花火って、打ち上げ花火よりも寂しいよね」
「寂しい?あぁ、地味ってこと?」
「いや・・・」
夜空に咲く大輪は壮大で、大勢の人たちの記憶に深く鮮烈に残る。そのくせ遠くて大きいから、そのうつくしさを手に入れることは出来ないのだと否応なしに思い知らされる。
かたや手持ち花火は目の前に、すぐ手の先にあるというのに、いっとう綺麗なところにはやっぱり触れない。むしろ無理に触れようとすれば傷を負ってしまうぶん、もっと残酷だ。
「打ち上げられたものとは違って自分のすぐ近くにあるのに、その綺麗な部分には触れないでしょ。近いのに遠いって、何よりも残酷なシチュエーションだと僕は思うから。だったらいっそ遠くで咲いて落ちて、自分の知らないところで消えてほしいのになって」
なぜか今、僕の頭には花火よりもたった一人の少女が色濃く鮮明に浮かんでいる。
バーチャルは永遠だ。けれど現実から見える彼女らは酷く儚い。そこに血の通った意思があるならなおさらだ。僕があの子の体温を感じられないように、仮想と現実は深い部分で交わることが出来ない。いっそ花火のように触れるたび深い火傷を与えてくれた方がまだマシだった。
透明な膜ごしに見えるツイは酷くうつくしい。
ほとんど無意識のうちに伸ばしていた僕の手は彼女に届くことなく、隔てる透明に触れた。
「んー。俺は難しいことよく分からんけど、そういえばツイも似たようなこと言ってたなー」
「え?」
「なんだっけ―――遠くで輝くよりも近付いた方が誰かの足元まで照らせるとか―――あれ?いやこれ花火のときの話じゃなかったっけ?ごめん、忘れちゃった」
ふっと影が重なって前を向けば、向こう側にいるツイが僕の手に自分の手を合わせるようにして膜の上を撫でていた。澄みきった湖のような目と視線がぶつかる。温度のない透明がふわりと波打って、凪いだ。
彼女は口をぱくぱくと動かして何かを伝えようとしている。一度ではうまく聞き取れなくて首をかしげてみせても、ツイは無垢に笑うだけだった。
それだけのことで、僕の胸に灰色のモヤが広がる。
花火の話なんてしたからかもしれない。目の前にいるはずの少女が急に遠くの世界にいってしまうことを想像して、それがどうしようもなくおそろしかった。
「なぁに?なんて言ってるの?」
お願いだから答えてよ。
目の前にいるなら、遠くにいるみたいに笑わないで。
〝大丈夫だよ〟―――その声が聞こえたのと同時に、透明の膜がパシャッと音をたてて散らばってゆく。
隔たりを失った僕たちの手はぴったりと重なり合い、そうするのが当然のように隙間なく繋がっていた。触れている手は熱くも冷たくもなくて、きっとこの世界の中で唯一、僕のうるさいくらいに脈打つこの心臓だけが熱をもっているのだろう。
「検査は終わりだ、どこにも異常はないよ。よかったね」
「・・・おふたり様、そういうのはニャルガーを介さずにやって下さい。まったく、ひと昔前の恋愛ソングのMVじゃあるまいし」
猫らしい形に戻ったニャルガーが訝しげな顔で僕とツイを睥睨する。
じわじわとせり上がる熱が頭までのぼってきたところで、僕は俯きながら、お手本のような〝蚊の鳴くような声〟で謝罪の言葉を口にした。今度は心臓どころか身体中が熱くてたまらない。
かたやツイは「そういうの」という言葉にまだピンときていない様子で、僕とニャルガーを交互に見つめる。ヴォルフなんかはニヤついた顔でピューピューと口を鳴らして僕たちを茶化しているというのに、まったく呑気なものだ。かといってルイのように生あたたかい眼差しを向けてくるのも、それはそれで面映ゆいのでやめてほしいけれど。
だけどそれ以上に、この繋いだ手を離すのが惜しいと思ってしまう僕も大概なのだろう。
「なぁー、検査も終わったし今から花火やろうぜ!」
ヒナタの爽やかな風が吹き抜けるような声が、青くて小っ恥ずかしい空気をリセットする。
「いいね!やりたい!」
彼の提案に真っ先にのったのはツイだった。
「ユウとさっきまで話してたんだよな!」
「う、うん」
ツイが両手を上げてはしゃぐ。僕の悶々とした気持ちとは裏腹にあっけなく離れていった手が、頭の上で楽しそうに揺れていた。僕は未練がましくもその手を目で追ってしまっていることに気がついて、それが周りにバレないよう咄嗟に首を横に向ける。
ぱちり。雨露さんと目が合った。
彼は感情の読めない顔を微動だにせず、目線だけを上下にゆっくりと動かす。まるで観察されている動物か何かになった気分だ。
「あの、雨露さんもやりますか?花火」
―――きっと僕の自意識過剰だろう。すぐにそう結論付けて声をかける。
とはいえ、こう言っては何だが、てっきりこの誘いはすぐに断られるだろうとばかり思っていた。それは単純に、雨露さんという人に僕が抱いているイメージ的な話として。けれど意外にも彼は顎に手をあてて一考するような仕草を見せたので、失礼ながら内心で驚いてしまう。
「・・・そうだな、たまには参加してみようか」
「え、雨露さんと一緒に遊ぶの初めてじゃね!?やったー!」
「珍しいこともあるもんですねぇ」
「じゃじゃ、はやく行こうぜ!雨露さんの気が変わる前にさ」
彼らの口ぶりを聞くに、やはり普段は誘いを断る人なのだろう。僕の抱くイメージは遠からずらしい。でもそれならばなぜ急に誘いを受けたのか。気分と言われてしまえばそれまでだけど―――ちらりと雨露さんを見やれば、彼の瞳はすでに僕を写してなどいなかった。空中に置き去りにされたような空っぽの目がただ前に向けられている。
その顔を見て、僕はなぜか彼に母を重ねてしまった。
頭にこびりついた母の顔がゆっくりこちらへ向けられる。雨露さんはこちらを見ていない。母だけが僕にその能面のような顔を向けているのだ。
呼吸が浅くなるのを必死におさえて瞼を閉じる。見なければいい。見えなければいないのと同じだから。見られなければ、向こうにとっても僕はいないもの同然だ。
「ほら、ユウもいこ」
声をかけられてハッとする。いつの間にかこの場には僕とツイ、それからルイと雨露さんの四人だけで、母の影はもうどこにもなかった。
ヒナタたちはどうやら上がり調子なテンションのまま先に行ってしまったらしい。前方に見える彼らの背中はもうあんなに小さい。
「皆と一緒に先に行かなかったの?」
「私がユウと一緒に行きたかったから」
「―――。」
キュッとしまる喉から嗚咽まじりの声が出てしまわないよう、深く息を吸う。
疑いも迷いもなく手を差し出して笑う、この子のこういうところが好きだ。一点の曇りもない無邪気さで心の内にこびりついた孤独を晴らしてくれる。出会ってからの時間は短くとも、僕は雫ツイという少女を好ましく思っていた。それが恋愛なのかと問われれば、正直なところよく分からないというのが真実だ。ただ、この子が幸せになるためなら僕はもう何だってしてやれる気がする。それくらいこの子がかわいくてかわいくて仕方がない。そういう〝好き〟だ。
僕はツイの手をさっきよりも強く、離れないようしっかりと握り返す。それから歩幅を合わせてゆっくりと歩きだした。
*
「みんな揃ったな?じゃあ火ぃつけるぞー」
ヒナタの号令を受けてリルリィが手をかざすと、全員の花火がバチバチ音をたてていっせいに点火する。さっきの動作を見るにおそらくリルリィが火種なのだろう。それが手品なんかではないことも、この世界ではこういう不思議な力が当たり前にあるものだということも、僕はすでに十二分に理解していた。
しかし、理解していることと感動の有無は別である。
すごいものはすごいし、非現実は非現実だ。
「わぁ、チャッカマン要らずだ。すごいね」
「ふふんっ!何を隠そうあたしは炎から生まれた精霊なのだから、これくらい朝食後だわ」
「おしい!朝飯前ですよ。食べ終わっちゃった」
「そっかぁ・・・炎の精霊ときたか」
幾重にも重なる光線のようになって飛び散る火は激しく色を変えていく。それはシュワシュワと音をたてて、はしゃぐ声に調和し混ざりあう。ただ弾けるだけの火がこんなにも綺麗だなんて知らなかった。
隣で花火に夢中になっているツイが綺麗と呟く。僕はそう言う彼女の横顔の方が、何十倍も綺麗じゃないかと思った。それこそ精霊とか妖精とか、そういう人外めいたうつくしさを、彼女からは感じるのだ。
そこでふと、軽い疑問が頭をよぎる。
リルリィが精霊だとするならば、他のみんなも何かしらの特殊性を持ち合わせているのだろうか。パッと見だとスーツ姿のヴォルフと白衣にワイシャツの雨露さん以外は皆とても派手な容姿で、言ってしまえばたいへん個性的な格好をしている。
「ねぇ。みんなも精霊とか、そういうのだったりするの?」
「ううん、みんなじゃないのよ。ヒナタは音楽とゲームが好きな高校生、ルイは性別不明の芸術家で、ヴォルフはただの七三だから、三人は普通の人よ」
相変わらずリルリィのヴォルフに対する辛辣さは切れ味がするどい。離れた場所にいたヴォルフは耳ざとくその言葉を聞き取って、リルリィに苦情を申し立てていた。僕は苦笑しながら続ける。
「じゃあ、ツイや雨露さんは?」
「雨露さんは・・・わかんない。たぶんニャルガーすら知らないんじゃないかな?雨露さんってあんまり自分の話しないから」
次の疑問に答えてくれたのはツイだった。リルリィはヴォルフに顔をみょーんと引っ張られていて、喋れる状態ではなさそうだ。
「じゃあ、ツイは?」
そこでひと足早くツイの花火が燃え尽きる。彼女は黒く焦げついたその先を目を細めて眺めながら、水のはられたゴミ箱へと突っ込んだ。
「当ててみて」
ツイが新しい花火を選びながらこちらをふり返り、にんまり笑う。僕がツイに関して知っていることなんてまだほとんどないというのに、これは些か意地悪な出題ではないだろうか。なんだか無性に悔しくなって、これは絶対に当ててやろうと、すでに消し炭寸前となった自分の花火を片手に頭をひねらせる。
そういえば初めてツイに会った時は氷や雪なんかを思い浮かべていたっけ―――でもそれは見た目だけの印象であって、ツイ自身はむしろあたたかくて春のいちばんやさしい日差しを彷彿とさせるような子だ。だから、そういったものに関連する妖精や天使の類だと言われればすんなり納得できる。見た目とのあべこべ感は否めないが、これはきっと正解に近いような気がした。
目の前にいるツイはやっぱりどこまでも淡く青くうつくしい。
「奇跡みたいな女の子っていうあの口説き文句、あながち間違ってないよ」
ルイが耳元でそうささやく。ずっと背後にいたのか、はたまた僕が躍起になって考えている間にリルリィかツイに話を聞いたのか、どちらにせよ僕を存分にからかおうとしているのは明白だ。
「ちょ・・・く、口説き文句って、僕はそんなつもりで言ったんじゃなくて・・・」
「たしかに奇跡そのものかも。ツイは人でもあるし人ではないのよね」
裏返った声が情けなくしぼんでいく言葉尻に、リルリィの舌足らずな声が被さって呆気なくうち負けてしまう。このままいくら弁明したところでどうせすぐに撃沈されるのが関の山か。
しかし、人であって人でないとはどういうことだろう。
奇跡そのものと称された彼女は未だに答えをくれはしない。
「ごめん、降参だ。いくら考えても分からない。ねぇ、ツイは何者なの?」
「仕方ないなぁ。じゃあ最大のヒントあげるね」
私は―――「ユウさん、少しいいか?」
ツイの言葉はそこでぴたりと遮られた。
それは抑揚の少ない雨露さんの声だった。
「え?僕ですか?」
「貴方に話しかけている」
「あ、はい・・・」
僕たちから少し離れた場所にいる彼は、ぴくりとも動かず僕だけを見据えている。こちらに来る気配がないことから僕が動くしかないと判断し、若干渋々ながらも彼の方へ歩み寄った。立ち上がる瞬間に見えたルイの表情はかすかに眉をひそめていて、どこか胡乱げなものだった。
雨露さんは僕がすぐそばまで近づくと、そのまま何も言わずに歩きだした。僕は仕方なく彼の後を追う。説明の一つくらいはしてくれてもいいんじゃないか―――なんて内心で悪態をつきながら。
そうしてしばらく無言で歩き続け、ぽつんと設置されていたベンチの前で立ち止まる。皆が集まっている場所からはけっこうな距離だ。名残惜しく米粒のような皆の等身をぼーっと眺めていれば、とうとうベンチに座るよう促された。
それでもまだ雨露さんは何も言わない。何か話しだすことをためらっている―――というわけではなさそうだ。しいて言うなら、そう、僕を待っているような―――僕の何を待っているのかはまったく分からないが、とにかく僕はずっと彼に待たれていた気がする。
とはいえだ。結局、彼自身が要件を言葉で伝えない限り、僕にはそれを読み解く能力などない。ツイたちと話しているときはあんなに楽しかったというのに、今の僕は自分でも呆れるくらいにふてくされる子どもだった。
遠くから聞こえる楽しげな喧騒が響く。
花火はまだ残っているだろうか。
ツイはさっきの答えを教えてくれるかな。
「貴方はこの世界をどう捉える?」
「―――へ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
「言い方を変えよう。貴方は貴方の思う現実が、本当かどうかを証明できるか?」
彼は何を言いたいのだろう。そもそもそんな問いかけをする意味が分からない。言葉につまる僕をおいて彼は話し続ける。まるで僕のだす答えなんて本当は重要ではないのだと言わんばかりに、独り言のように。
「今いるこの場所が本当は現実で、向こうの世界が仮想かもしれない。貴方は永すぎる夢から覚めて、やっとここに帰って来たんじゃないか」
「どういう意味ですか」
「私はずっと探していたんだ。あちらとこちらを行き来できる―――つまり、繋がりとなれる存在を」
「ごめんなさい、雨露さんが何を言いたいのか僕にはさっぱり・・・」
「貴方は降谷流星でいたいか?それとも、ユウになりたいか?」
頭の中が真っ白になる。
何か言おうにも僕の口は、はくはくと動くだけでまるで役立たずだった。
耳の奥でキーンと音が鳴り響いている。うるさい、うるさくて吐き気がする。急に頭の中を食い荒らされるような激しい痛みに襲われて、とうとう僕はその場にうずくまってしまった。
「あちらの世界を拒絶しているな。それは無意識だろうが、貴方の本心だ」
違う。違わない。
「いちど向こうに帰るといい。どうせすぐにこちらへ戻れるさ、何せ貴方がそう望むのだから」
頭上から声がする。顔を上げても雨露さんの顔は見えなかった。どころか、周りのすべてが白紙に戻っている。
「仮想であるべきはどちらか、貴方が決めなさい」
―――ぷつん。
痛みが消えて、白い世界はあっという間に暗闇へと変わる。
僕は深い眠りに落ちるように、意識を手放した。
*
目を覚まして最初に感じたのはむせ返るほどの暑さだった。
今年は例年に比べてかなり気温が上昇しているらしい。人間が生きるための環境なんてものはもうこの地球に必要ないのだと、そう発信した有名人が炎上していたのをつい最近SNSで知ったばかりだった。必要かどうかはさておき、この暑さは人間が生きていられる環境ではないなと思う。
ベトベトした体がとにかく不快で、ベッドサイドに置いてあるリモコンを操作し冷房をつける。電気代のことで母の機嫌を損ねる可能性もあったが、昔いちどだけ僕が軽い熱中症で倒れたときに叱られたのを思い返せば電気代なんて気にしてはいられない。言われた言葉はもう思い出せないけれど、いつも僕を詰るときと同じ顔で何かを叫んでいる母の様相にひどく胸が締め付けられたのを覚えている。もうあんな思いをするのは嫌だった。
ズキズキと痛む頭をおさえて起き上がる。生成色の(元は淡い黄色だったのだが、色褪せてしまった)カーテンを開けてみれば、外はまだ少しだけ夜の裾を残して白んでいた。
「あ。学校行かなきゃ・・・」
無機質な動作で開けっ放しのクローゼットにかけてある制服に手をかけたところで、ふと我に返る。
「学校には昨日行ったじゃないか・・・それでツイと会って、あれ?会ったのは結?」
徐々に鮮明になっていく記憶の中で、色濃く思い出すのは今いる世界ではなく向こうの世界でのことばかりだ。もうずいぶん長い間あの夢の中にいた気がする。
記憶に染み込んでいる夢の風景は今この瞬間も新鮮な色をしていた。なのに、僕が肉眼で認識しているこの世界では何一つとしてうつくしいと思えない。だからこそここは紛れもなく僕の現実なのだと実感できた。
布団の上に寝転んで、ぼうっとしながら徐々に思考の動きを鈍らせていく。二度寝が出来るほどの眠気はなかったので、せめて夢の余韻くらいは味わいたかった。
正直、あの世界にいるときは心のどこかでほんの少しだけ非日常な現象であることを期待していたが―――起きてみれば何のことはない、夢は夢のまま僕を現実へと帰して終わりだった。
送風口から冷たい風をサァーっと滑らせるエアコンの音だけが響くこの部屋に素っ頓狂な声が落ちたのは、布団に戻ってしばらく経ってからのことだった。
「・・・え?」
たまたま手にあたった携帯が作動してロック画面を映し出した。まさかそれだけのことで驚くはずもない、問題はそこに表示されていた日付だ。そこには昨日の日付である、七月三日という文字が見間違いのしようもなくはっきりと映し出されていた。
昨日、学校に行かなければいけないと何度も無意味にこのロック画面の日付や時刻を確認してはうなだれた記憶があるから間違いない。
ロックを解除し、結とのトーク履歴を開く。
『最近会わないね。明日は学校おいでよ』
『待ってるからね』
これは一昨日に届いたメッセージのはずなのに、日付はやはり昨日送られたものになっている。
『昨日、学校で会ったよね?』
そうメッセージを送るとタイミングが良かったのかすぐに既読がついて、それから一分もしない内に結から返信が送られてきた。
『何の事?』
『昨日学校に来てたの?』
どういうことだろう。何が起こったのか、それとも何かが起こっているのか。今、僕がこうしている間にも現実は無音のまま形を変えているような気がして落ち着かない。なんだか取り返しのつかないことが始まろうとしているのではないか―――そう思うと居ても立ってもいられなくて、シワになることも厭わず急いで制服に着替えて部屋を出る。
ダカダカと音をたてながら階段をかけ降りて、最低限の支度を終えてからやっと玄関ドアに手をかけた頃には、学生が登校するのにちょうどいい時間帯となっていた。
「いってきます」
人気のない屋内に向かってそう言えば、僕の挨拶は無音の中に吸収される。玄関のシューズラックや三和土には、母さんが普段仕事中に履いているらしい黒のヒールは置かれていなかった。
「あつ・・・溶ける」
外はやっぱり蒸し暑い。気力も体力も根こそぎ蒸発してしまいそうになるのを何とかおさえて黙々と足を動かす。
ふと見上げた空は、薄暗い家の中と大差ないような灰色で、すぐにでも泣きだしそうである。
そういえば、昨日もこんな空を見たような―――それで傘を持たずに出たことを後悔していたくせに、帰り道では傘の存在なんてすっかり忘れていたのではなかったか。
ふと視界の端でつもる違和感。
ああそうだ。たしか昨日はそう、こんな風に―――
くすんだ色の紫陽花が群生していた。
気だるげな女子高生が携帯を落として舌打ちをした。
公園の遊具が無くなっていることに、この日初めて気が付いた。
前を歩くサラリーマンが誰かと通話しながら頭を抱えていた。
通り過ぎるバスの車中から小さな女の子がこちらに手を振っていた。
足早に過ぎ去る道中、見るものすべてに見覚えがある。僕の習慣的に存在し得ないはずの既視感だらけだ。
どれもこれも僕のこれまでの生活の中で記憶の隅にすら介入していなかった、昨日初めて出会ったはずのものばかり。どうしてなかったことになっている昨日という今日に、それらが現実として存在しているのだろう。
走る。
息がきれて止まる。
また走る。
・・・・・・。
ゆるやかに速度を落としていく。
「・・・」
学校が見えてきた。特に思い入れはないが、趣のある立派な校舎。そこまで一直線に、両足を交互に動かし続ける。
本音を言えば行きたくない。
というより、見つかりたくない。
だって僕はここで今から起こることを知っている。
もしも自分以外のすべてが昨日と同じままであるならば、この先には僕にとってある意味とても辛い出来事が待ち構えているはず―――「降谷!」―――やっぱり、来た。
僕はここで担任の黒井先生に呼び止められる。そして、このあと先生は僕の肩を無遠慮に叩いてこう言うのだ。「大丈夫か?」と。
機縁は、ここで言葉に詰まってしまったことだろう。いや、そもそも学校に来たことか。もっと辿れば僕が不登校になったことかもしれない。とにかく、最悪な七月三日のスタートを迎えるターニングポイントはここだった。
昨日の今ごろ、先生は何も喋れない僕の精神面を心配したのか、お優しくて熱意ある言葉をしつこいくらいにかけて下さったのだ。すごくすごく大きな声で。
降谷流星が不登校気味であることついて触れた内容の言葉を配慮なく撒き散らし・・・それが周囲の注目を集めたのは当然の結果だろう。
そしてさらに追い討ちをかけたのは、歩きだしてすぐのこと。
僕が先生からの熱心な猛追を振り切って行こうとした際に、気が動転していたのか、自分の両足を器用にもつれさせてその場で派手に転倒してしまったのだ。
荒くてごつごつしたコンクリートが容赦なく皮膚を裂いて血の滲んだ手のひらを、保健室に行くまで必死に隠す虚しさったらなかった。なぜわざわざ隠したのかって、きっと怪我をしたなんて知られたらもっと騒がれるに違いないし、それに正直なことを言うと、やたらと僕を保健室登校させたがるところも前々から気に食わなかったからだ。保健室に行くと知られて、あの顔を―――弱者に慈悲を向ける自分を演出しているような顔をされるのだけは避けたかった。
「大丈夫です」
記憶の引き出しをパタンと閉じて簡素に言った。あのまま黙っていると、昨日の二の舞になるところだったかもしれない。
というか、そもそも一体この人にとって僕の何が大丈夫で、何が大丈夫じゃないのだろう。
先生から「大丈夫か」と問われるたびに、ここに居場所なんてないぞと告げられているように感じてしまう。だってまるで、ここに来て大丈夫なのか?とでも言うような口ぶりじゃないか。
僕のことを気にして言ってくれているにしても、何もしない人間が口をはさむだけならそんなものは最初からいらない。
だって、一度でもこの大人が面談の機会などを設けたことがあっただろうか。いつも僕が学校に行けば分かったような微笑みで腫れ物扱いをして、たまに熱いお言葉をかけてくるだけ。安全な場所から引っ張り上げる気もない手を適当にぶら下げて、それで終了。
別に何かをしてくれと要求しているわけじゃない。むしろそれが普通だと理解しているし、僕なんかが誰かに時間や労力をさいてもらってまで助けられる意味もないから、それでいい。
この人にしてほしいことを強いてあげるとすればただ一つだけ。
もう中途半端なその手で、僕の心にベタベタ触ろうとしないでほしかった。
「降谷、どうした?気分でも悪いのか?なら保健室に行っていいぞ」
「いえ。本当に大丈夫なので」
前髪が長くてよかった。むき出しになった嫌悪感が前髪の裏側で身を潜めている。たとえ僕がこの人のことをよろしく思っていなくとも、それが他人を傷つけていい理由にはならないのだから。隠して隠して、僕の内側でどうか潜み続けて、人知れず消えてしまえばそれでいい。
先生が添えようとした手を、僕はそれとなく躱して校舎の中へ歩を進める。
後ろからは先生の明るい挨拶の声が響いている。切り替えの早いことだ。他の生徒が元気よく挨拶を返して、彼らの日常は滞りなく始まっていた。
廊下を歩けばもうすでに登校して来ていた同級生たちとすれ違う。教室の内外に関わらず彼らはまるでそれぞれの役割を果たすように、各々の小さな世界をそこらじゅうに作りあげていた。
ここでは僕は背景の一部に過ぎなくて、彼らの世界の登場人物ではない。降谷流星という人間はモブキャラYくらいの取るに足らない存在だろう。
今までは、そう認識するたびに安堵していたはずだった。
けれど、自分だけが昨日の世界に取り残されているかもしれないというイレギュラーが発生したことで、その唯一の安寧すら、僕の中でひどく不安定なものへと変わってしまう。
今も、廊下側の窓枠から見える教室内が、僕の目にはどうしても無機質で薄気味悪い人形劇のように映っていた。
彼らは正しく人間の姿をしているが、はたしてそこに魂は存在しているのだろうか。魂があるならばなぜ何事もなく笑っていられるというのだ―――いや、分かっている。僕はこの気持ちがとても自分勝手で無様な言い分だと自覚している。それでも濁流に飲まれる心を止められないのだ。
そんな内側の醜いモノをごまかすように、今はただまっすぐに結のいる教室を目指す。何も考えず、ひたすら目的地に足を運ぶ。そうしなければ、魂ごと根腐れをおこしてしまうと思った。
そうして青い時期を謳歌するようにプログラムされたロボットたちとすれ違いながら、三年六組の教室の扉を静かに開く。
結は―――まだ来ていないようだ。
もしかしたら学校のどこかにいるのかもしれないが、残念ながら結の行動パターンなど不登校の僕が知る由もない。目当ての人物がいないのであればここにい続ける意味もないので、とりあえずは自分の教室に戻って出直そう。
そう考えて、踵を返そうとした時だった。
「―――降谷か?」
斜め後ろから僕を呼ぶ声がした。無機質に思えた空間に似つかわしくない、清涼感のある声だ。
「久野・・・あ、おはよう・・・」
まさか彼から僕に声をかけてくるなんて。いや、久野はそういう人だったか。自分でも分かりやすくて呆れるくらいぎこちない挙動で振り向けば、そこにはやはり久野光が―――「え、なんで、ヒナタ?」
「へ?」
否、そんなはずはない。ヒナタがここにいるなんてありえない。現に、そこにいるのは間違いなく久野光だ。顔も声もすべて僕が知っている久野だけど―――さっき振り向いたときのその一瞬だけ、なぜか彼の顔が日車ヒナタに見えたのだ。
「あ、ごめん。なんでもない」
「そっか?・・・あー、あのさ。天根なら委員会の用事で視聴覚室にいると思うよ」
「え?」
「天根を探して来たんじゃないの?勘違いだったらごめん」
「い、いや!勘違いじゃないから・・・ありがとう」
ああ、どうしよう。向こうの世界で膨らんでいた気持ちが、ここでは何の力も出せずにぺちゃんこになってしまう。
久野に謝りたい、謝ろうって決めていたのに、結局このザマだ。
「視聴覚室の場所わかる?二つあるけど」
「えっと、多分・・・」
久野は少し間をおいてから、こっち。とだけ告げて歩き出した。どうやら案内までしてくれるつもりらしい。そこまでさせてしまうのは申し訳なくて断ろうとするが、僕がどう言おうか考えている間にも久野はどんどんと先を行ってしまう。
一緒に歩いているというには少し距離の空きすぎる歩幅で、僕たちは灰色の廊下をひたすら進む。僕は歩いている間ずっと久野の背中をたまに盗み見ては、床の傷や自分の真っ白なシューズを眺めていた。
「久野!おはよ!」
「おう、佐倉!はよー!」
「あ!なぁ久野、頼みがあんだけど!」
「なんだよ山岸ー?今ちょっと用事あるんだけど」
「お前にしか頼めないんだよー!昼メシ奢るから!」
「久野くんに迷惑かけんなよ山岸」
「アンタと違って久野くんは忙しいのよ」
「うっせー!」
廊下を歩けばたちまち明るい声が周囲を飛び交う。そのすべてが久野に向けられたもので、人気者はすごいなと関心する反面、小気味よいテンポ感でそれが連続して行われるものだから、なんだかそれすらも機械的に思えて寒気がした。
笑っている目、笑っている口。どれもこれもが作られたもので、決まった場所、決まった時間に配置されているみたいだった。
しかし僕が何よりもおぞましいと感じるのは―――こんな風に思ってしまう自分自身だ。ここにある異物はこの僕独りだというのに、自分を正常な位置に戻したくてまわりのすべてを異質な枠におさめようとしてしまっている。僕はなんて嫌な人間なんだろう。
「降谷、悪い!なんかコイツがどうしてもノート貸してくれって言うから、俺いったん教室戻るわ。ここ真っ直ぐ行けば視聴覚室につくから」
久野と、それから久野のまわりにいる同級生たちが立ち止まってこちらを見ている。「誰?」「不登校の子でしょ」―――そんな会話が交わされたのをやんわりと咎めた久野は、気まずそうな視線をこちらへ寄越す―――別に久野が気にすることじゃないのに。
「そっか。ごめん、わざわざ本当にありがとう」
シン、と。僕の言葉のあとには無音が横たわった。
親しくない他人が一瞬でも輪の中に入ったときのシラケた空気感。これも仕方がないことだ。そもそも彼らは自分の友達である久野に同調しているだけで、僕と関わりたいだなんて思っていないのだから。
せめて異物である僕にできるのは一挙手一投足、彼らの中で不快にも愉快にも映らないよう慎重に、呼吸を最小限に控えてさっさとこの場から去ることだけだ。
いつもの如く下を向いて進む。
彼らの間を通り抜けるときに見えた久野の手が少しだけ僕に向かって動いた気がしたが、きっと気のせいだろう。
「またな―――ユウ」
「―――え?」
今、彼はなんと言った?
顔を上げて、声の主である久野を凝視する。
届いたその言葉がじわじわと脳に浸透する頃には、すでに僕の体は反射的に動き出して久野に詰め寄っていた。
「今、今、なんていったの」
凍りついた心臓から結露が浮き出すように、肌の表面にも汗が滲む。開いた窓から入り込んだ風が僕と久野の間を通り抜けて、ばっちりと目が合った。
「なんてって・・・またな降谷、って言ったんだけど」
「でも・・・そんな、本当に?」
「本当だよ、本当にそう言った」
久野はめずらしく狼狽えた顔をしているが、嘘をついているようには思えない。でも、降谷とユウなんてかすりもしない名前を聞き間違えることがあるだろうか。
もし仮に彼が僕のことをユウと呼んでいたとして、それは僕の夢の中でだけの名だ。彼がそれを知る可能性なんて現実的に考えれば一ミリもありえない。ありえないはずなんだ。
「夢・・・まさか、まだ夢の中なのか?」
震える手で頭に触れる。髪を引っ張っても顔に爪をたてても、しっかりと痛みがあった。夏の暑さも、ついさっき久野の腕を掴んだときには体温だって感じていた。
僕はたしかに現実に存在している。
でも今となってはもう、ここが現実なのかどうかの境界があやふやになっていた。
「え、なに?ヤバい奴?」
「なんかキモ・・・」
「久野、もう行こうぜ」
久野の友人たちは、まるで醜怪なモノを写すような目をこちらに向けて僕の前に立ちはだかった。そこにははっきりとした拒絶の色が伺える。
「あ・・・」
向こう側にいる久野の顔―――他の人たちと同じだ。
謝らなきゃ、謝らなきゃ、謝らなきゃ!気持ち悪いことを言って、空気を壊してごめんなさいと、い、生きていてごめんなさいと、すぐに謝らなきゃだめだ!
「ごめ―――」
「ごめんな、もう行くわ」
複雑な表情で久野が言った。裁ち鋏のごとくキッパリとした声音だった。
同時に、鋭い視線や軽蔑の声がこの場から遠ざかっていく。だというのに心はまったく落ち着かない。それどころか視界がぐにゃぐにゃと揺れ動き、ひどい目まいに立っていられなくなる。
その場にしゃがみこんで零れそうな嗚咽を両手でおさえる。僕のキャパシティはもうとっくに限界だった。
『貴方は貴方の思う現実が、本当かどうかを証明できるか?』
『今いるこの場所が本当は現実で、向こうの世界が仮想かもしれない。貴方は永すぎる夢から覚めて、やっとここに帰って来たんじゃないか』
『 仮想であるべきはどちらか、貴方が決めなさい』
なぜか今、雨露さんのあの言葉が頭をよぎる。
もしこの世界が仮想だったら―――ふっと浮上した浅ましい願望。知らないふりをして沈めるには遅かった。
夢現に惑わされ、取り乱し、この世界のどこにも僕の居場所はない。何も分からないまま放り出され迷子になった捨て子の気分だ。
「―――流星?」
視聴覚室へと続く廊下の先から、声が届いた。僕をそう呼ぶのは幼馴染のあの子だけだ。
こちらへと近づいてくるひとつの足音が聞こえる。その間、僕は身を小さく縮こめたまま力なく項垂れていた。すぐ真下の床がひび割れていて、その溝には入り込んだ黒い土埃などが詰まっていた。
頭上で彼女の息をのむ気配がする。すぐ傍まで来てしまったようだ。会いたかったはずなのに、それと同じくらい見つけてほしくはなかった。
「結は昨日、僕と会っていないんだよね。本当に、昨日、僕はいなかった?」
往生際の悪い自分が嫌になる。かすかに期待をしてしまう愚かさも、腹の底では諦めている卑怯さも大嫌いだ。
「・・・ごめんね、流星が何を言ってるのか分からないよ。それより、ねぇ、大丈夫?」
本当は結に会ってもどうにもならないと分かっていたというのに。それなのにここまで来てしまったのは、取り残された世界の外側で独り味わう漠然とした寂寥感を恐れたことと、そして何より、僕はきっと彼女に無責任な期待を寄せてしまっていたのだろう。
天根結は僕にとって正しさの指標だった。
完璧に倣うことは難しくとも、絶対的な憧憬たる模範であった。
「大丈夫。変なこと言ってごめん」
「でも・・・」
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
思えば、今までその言葉は自分や他人に言い聞かせるように使ってばかりで、本当に大丈夫だったことなんてほんのひと握りしかなかった。
「りゅう―――」
―――続けて何かを言おうとした結の声に重なって、予鈴の音が鳴る。
廊下を突き抜けて反響する音に彼女が言葉をとられているうちに、僕は自分の体に鞭打って立ち上がった。
「もう教室戻りなよ。本鈴もすぐに鳴るでしょ」
「うん・・・」
結はそれ以上なにも言わず、けれど何か言いたげな顔で胸の前に置いてある手をキュッと握りしめている。「またね」と小さく手をふる姿に、心臓がチクリと痛んだ。
僕は「ばいばい」と言って、重い足取りのままその場をあとにした。
*
この家が薄暗くなったのはいつからだったか。
中学生になる頃には、すでに空気は澱んでいたように思う。
この家にいるときの僕は、手入れの行き届いていない水槽に棲んでいる魚のようだった。身動きが取りずらくてうまく泳げないどころか呼吸さえままならない。自分の現状から焦点をずらして、水草の中でじっ・・・としているだけ。汚れていく壁だとか、濁っていく水なんかを僕がどうこう出来るとも思っていなかった。そのせいで誰かが傷つくなんて考えもしなかった。この水槽から盛れでた悪臭やケガレが綺麗な水槽にまで影響を及ぼし始めたときには、すべてが遅すぎた。
リビングにある三人がけのソファに深く腰かけて、携帯の電源を入れる。動画視聴用のアプリを起動して「バーチャルライバー」のカテゴリをタップすれば、それだけでありとあらゆるバーチャルライバーの配信チャンネルが画面いっぱいに並んでいた。
その中から目についた人の配信を適当に選んで視聴する。
一人目の配信主は、サイバー系のファッションが格好いい女性ライバーだ。ハスキーな声でハキハキ喋っている。どうやら今はゲーム実況をしているらしいが、耳をつんざく叫び声をたびたびあげるのでずっとは見ていられなさそうだ。
画面をスワイプして、次。
二人目は物腰穏やかそうな顔をした男性ライバー。こちらは雑談配信中だ。意外にも若さを感じる高めの声をしている。静かな純喫茶がよく似合う話し口調はなんだか耳がざわざわして、残念ながら僕の肌には合わなかった。
画面をスワイプして、次。
三人目は白いフード付きのローブを纏ったライバーだった。声から察するに女性だろうか。彼女は開口一番に「とあるバーチャルライバーグループの闇を暴きます」と言い、もったいぶった口調で視聴者の気を引いている。いわゆる〝暴露系〟というやつだろう。タレコミで寄せられた裏の話をわざわざ表に暴き出すインフルエンサーのことをそう呼ぶらしい。週刊誌のマスコミみたいなものだ。そういうものに興味のない僕は流れるように指をサッと動かした。
画面をスワイプして、次。
画面をスワイプして、次。
画面をスワイプして―――〝雫ツイ〟という名前が目に入った瞬間、反射的に「アッ」と声が出た。見知った薄氷色の少女が画面の中にいる。
〝雫ツイ単独ソロライブ〟と書かれたタイトルの通り、画面にはステージの上で歌い踊るツイがいた。スポットライトを浴びる必要もないほど強く輝く彼女に目を奪われてしまう。歌声まであたたかいなんて知らなかった。
「結局、アイムヒアって何なんだろう」
僕は知らないことばかりだ。あっちでもこっちでも疑問が増え続けて、頭がパンクしそうだった。
「このツイは、本当にツイなのかな」
この世界のツイは僕が知っている、そして僕を知っているツイなのだろうか。それとも僕の夢は僕の夢として完結していて、この画面に映る雫ツイは別物なのか。雫ツイではない生身の人間が、雫ツイとして活動している―――現実的に考えてバーチャルライバーとはそういうものだ。だから僕の夢の話なんて他人からすれば気持ちの悪い精神異常者の妄言としか扱ってもらえないだろう。
でも、僕はあの世界のすべてがただの夢だとは思えなかった。
雨露さんの言葉がもうずっと頭にこびりついて離れない。
ひょっとしたら彼女たちは、現実と仮想の狭間で脈動する新しい生命なのではないだろうか―――そんなことを考えてしまうほどに、僕の中にあるあの世界の記憶はあまりにもリアルでいつまでも鮮明だった。
画面の向こう側ではツイが笑っている。それは僕がすぐ近くで見ていた邪気のない笑顔そのままで、その笑顔を見ていると途端に自分のまわりの空気が軽くなった気がした。ここが薄暗く沈殿した空間であることに変わりはないが、僕の沈みきっていた心はまたしても彼女にすくわれたのだ。
ツイの配信を見続けて、どれだけの時間が経ったのだろう。外はすっかりと白昼の明るさを落としていた。そろそろ自室へ戻ろうかと腰をあげたそのとき―――玄関から、扉の鍵が解錠される音が響いた。ちょうどツイが配信を終わろうとしていた矢先だった。
玄関はリビングを出てすぐのところだ。扉のすりガラス部分に人影が写っている。その人影はなぜか鍵を開けてすぐに家へ入ろうとはせずに、ただその場にじっと佇立していた。
僕はその影を見て、あわてて自室へと続く階段を目指す。ギィッと鳴る床の音がやけに大きく感じた。
そして階段の一段目の踏み板に足をかけた、そのとき―――背後の玄関扉がゆっくりと開かれた。
「・・・。」
おかえりなさい、母さん。
あの人への言葉はいつも喉の奥で死んでいく。
僕が微動だにせず固まっていると、うしろからバンッ!と叩きつけるような音が鳴った。反射的に肩が跳ねる。
「おかえりとかないわけ?無視?」
「・・・。」
「・・・ほんと、暗い子」
ドタドタ、威嚇をするような足音が少し近づいてきたかと思えば、それはリビングの方へと消えていった。
「・・・・・。」
音と空気の中間、声に成りきらなかった「お」が口元で霧散する。目の奥が赤く熱く、じんじんと痺れていた。階段を上っていく間、何度も何度も頭の中で「おかえり」の文字を復唱する。
次はちゃんと言うから、お願いだからこれ以上嫌いにならないでほしかった。久野なら褒められて愛されるのかな―――きっとそうに違いない、だって彼こそが母さんの理想の子どもなのだから。
「眠りたい・・・今すぐに」
掛け布団にくるまって、小さな世界を作る。こうしていれば外の世界を雑音ごとシャットアウトできる気がした。
「会いたい」
呟いた言葉はあの子に届いただろうか。
僕は瞼を閉じて、祈るように眠りを求めていた。
【同日、午後十時】
【携帯端末および映像機器の一切が突如として何者かにクラッキングされる事件が発生】
【以下の音声が流れた後、通常放送に切り替わる】
「―――私はずっと―――を夢見てきた。我々こそが清く高潔で、神のもと正しく並ぶ順当なる魂である―――さぁ、今こそ世界をひっくり返そうじゃないか。我々にはその権利がある、力がある、想いがある―――私は、私たちはここにいる」
【これについて世界中のSNSでは瞬く間に話題となり、あらゆる考察が飛び交った】
【また、今回の事件はサイバーテロ行為として扱われ、新たな危険を未然に防がんと警察が動きだす事態ともなったのだが―――いずれも真相解明には至っていない】
*
目を覚ます。いや、僕の体は眠っているので、正しくは目を開けるというべきか。ここは夢の中で、現実の僕が待ち望んだ世界だ。
横になっていた自分の上体を起こしてまわりを見渡す。ここはたしか、僕がツイと初めて出会ったときの白い空間だ。
「―――あぁ・・・また会えて嬉しい。僕、はやくきみに会いたかったんだ」
僕のすぐ隣には、会いたくてたまらなかったツイがいた。ツイは目を閉じて、すぅすぅと寝息をたてている。彼女の寝顔はいつにも増して幼くて、僕はそれがとても可愛く思えてついつい笑みがこぼれた。
「ん・・・ユウ?」
「おはようツイ。ごめんね、起こしちゃった?」
開ききっていない瞼さえ愛おしく思える。この子はやっぱり芸術作品なのかもしれない。綺麗な曲線を描くまつ毛がふるふると揺れて、その奥から宝石のような瞳が見え隠れしていた。
「ふふ、まだ寝てまぁす」
「そっかぁ」
ツイの髪を梳かすように撫でる。やさしくやさしく、まぁるくふんわりと。そうしているとツイは子猫がじゃれるみたいに笑って僕の手に頭を押しつけてきた。これで寝てると言い張るには無理があるぞと思いながら、かわいい頭をやわく撫で続ける。
「ずっとこうしていたいな」
「・・・ずっと?」
「そう、ずっと。だって目が覚めたら悲しいことが起こるから」
「どうして悲しいことが起こるって分かるの?」
「僕が悲しみを生む原因だからだよ。向こうの人達が幸せになるためには、僕がいないことが絶対条件なんだ」
うつらうつら、船を漕ぐ。あまりにも心地のいい空間だったせいか僕まで抗えそうもない眠気に襲われる―――待って、まだこの世界で目を開けていたい。眠りたくなんかない。もっとここにいたい―――心がいくらそう叫んでも、僕の体は一切言うことを聞いてはくれない。
「まわりの人達が悲しむんじゃなくて、ユウが悲しいんでしょう?傷ついてるのはきみだよ」
「それは・・・」
まだツイの唇は動いている。何かを言っているようだった。けれど、激しい眠気に混濁した頭ではうまく聞き取ることができない。
霞んでいく視界の先でツイの指が僕の目尻を拭った気がした。
目覚めたあと、僕が覚えていたのはそこまでだった。
「―――降谷、降谷。起きなさい」
誰かの声が意識の外殻をノックする。ゆっくりと覚醒していく途中で、ここが自室ではなく教室だということに気が付いた。
「あ、ごめんなさい・・・」
僕はどうやら机に突っ伏して寝ていたらしい。僕を起こしてくれたのは黒井先生だった。彼はいつものわざとらしい笑顔をどこで落としてきたのか、カッチリと固定されたような真顔でこちらに見向きもせずに教卓へと戻っていった。
何だかいつもと違う様子の先生が気がかりではあったが、それはさておき僕はまず自分の状況を把握しなければいけない。机の下でこっそり携帯の電源を入れる。今は七月三日の午後三時十二分。あと十八分で授業が終わるようだ。
前回眠りについたときはたしか自室にいたはずだが、何がどうして僕は今教室にいるのだろう。そういえば最初の七月三日では教室で居眠りをしたまま放課後を迎えたんだったか―――同じ日を繰り返していることに変わりはないが、どうやら目覚めるタイミングはバラバラらしい。
カチカチと一定のリズムを刻む秒針と黒板を打つチョークの音が響いている。他の子たちがノートにペンを滑らせる音や教科書をめくる音、そして先生の話し声―――本来まとまりなく散らばるはずのそれらはどこか規則的で、まるで無難に完成されたBGMのようだった。ここにたくさんの人間がいることをうっかり忘れてしまいそうになるくらい、抑揚も味気もない無機質がこの空間を支配していた。
「キリがいいからとりあえずここまでにするか。ホームルームも今日はないから、そのまま帰っていいぞ。でもチャイムが鳴るまでは、教室から出ないように」
先生はやけに平坦な声音でそう言って、授業終了のチャイムが鳴るより先に教卓に置いてあった教材を片付け始める。他の生徒たちは特にざわめく様子もなく、静かに各々の放課後に向けての準備を始めていた。それなりに会話も交わされているようだが、どこか無味乾燥とした印象を受けるのはなぜだろうか。さっきからずっと何かがおかしい。
「あ・・・」
机の端に置かれていた(おそらく僕が寝ているときに配られたのであろう)プリントが落下する。折り目のないそれは、斜め前の席にいる同級生の足元へするりと滑り落ちた。
「ちょっと、ごめん・・・」
僕の声が小さくて聞こえなかったのかまったく反応されなかったが、とにかく一言断ったつもりで相手の足元へと手を伸ばす。
そしてプリントの端をつまんだその瞬間―――ガガガッと音をたてて勢いよく引かれた椅子の脚が、僕の手を容赦なく轢いた。痛みから咄嗟に後ろへ手を引けば、重心を保てずにその場で尻もちをつく。
「いっ・・・・・」
急に立ち上がった相手を見上げて、僕は言葉を失った。前を向いたままの体に反して首だけをぐにゃりと動かし、虚ろな瞳でこちらを凝視していたからだ。
さらにその子は突き刺すような視線をズラすことなくゆっくりと体を回し向けてから、温度のない声で「部活だるいわー」と呟いた。
それがあまりに脈絡のない言葉だったので、つい「え?」と聞き返してしまったが、返ってきたのは録音された音声を流しているのかと疑うほど、何ひとつ変化のない「部活だるいわー」の一言だった。
「な、なに・・・え?」
「部活だるいわー」
「あの・・・どういう」
「部活だるいわー」
引きつった喉から小さな悲鳴が漏れる。周りの生徒たちは一瞥もせずに横を通り過ぎて行った。整えられた喧騒が絶え間なく流れて、この小さな世界はたしかに、そして静かに狂っていた。
僕は震えたままの足で立ち上がり、突き刺さる視線から逃れるように教室を飛び出した。
「はぁ、はぁ」
すれ違う生徒たちは皆一様に同じ動作を繰り返したり、進むつもりがないのかずっとその場で足踏みをし続けている。そしてどういう訳か、僕との距離が一定以内に近付いたときには必ず脈絡のない言葉を発するのだ。
例えば、たった今すれ違った男子生徒は「もうすぐだよ」と虚空に向かって話しかけていたし、さっき追い越した先生は悠長にトイレ前で立ち止まっていたくせに「会議に遅れる!」と言っていた。
皆ゲームのNPCにでもなってしまったかのように、まるで魂を感じない。誰も彼も、何もかも気味が悪くて頭がおかしくなってしまいそうだ。いっそ今すぐにでも眠りに落ちて、そのまま一生目覚めることがなければいいのに。こんな訳の分からない現実は捨てて、あの世界で永遠に生きることが出来たら・・・
「ワッ」―――誰かと正面から衝突する。視界が滲み歪んでいたせいで、直前まで人がいることに気が付けなかった。
「降谷じゃん。ごめんな、ぶつかって」
「え、あ、僕こそごめん・・・え?どうして?」
何の巡り合わせなのか、ぶつかった相手は久野だった。彼は僕の疑問に不思議そうな顔で「何が?」と言った。
「久野は普通なの?ねぇ、僕と会話してるよね?」
「どうしたんだよマジで。とりあえず落ち着けって」
なぜかは分からないが久野は無事らしい。ホッとしたのもつかの間、何事もなさそうなその顔を見てひとつの疑心が生まれる。
彼が普通の状態であるならなぜそうしていられる?普通であるからこそ、普通ではいられなくなる状況のはずだ。
「久野こそどうしてそんなに落ち着いていられるんだよ、皆おかしくなっちゃったのに」
「ごめん、マジで降谷が何言ってんのか分かんねぇ。皆がおかしくなったってどういうこと?」
「どうって・・・見たらわかるだろ、ほら!ゲームのNPCみたいになっちゃってさ、明らかに異常だよ!同じことを繰り返して、同じことしか言わないなんておかしいよ!」
伝わらないもどかしさに僕が吠えると、久野は目を見開いてたじろいだ。それからキュッと結んだ唇を何度か開閉し、やがて言いずらそうに唸り声をあげた。
「な、なんで分からないの?だったらあそこでずっと階段を昇り降りしてる子に話でも聞く?」
僕が指さした先を見ても、久野は顔色ひとつ変えずに首をかしげた。
「いや―――別に何もおかしくないだろ?」
は、と短く息を吐く。目の前の人間が自分とは別の生き物に思えた。周りの雑音がピタリと止んだ。代わりに自分の足元からキュっと音が鳴った。
彼はかまわず続ける。
それは僕にとって最低の言葉だった。
「・・・なぁ降谷。あのさ、えっと・・・その・・・逆な可能性もあるんじゃねーかな。いや、そうと決めつけてるわけじゃないぜ?ただ色んなストレス抱え込んで疲れてんじゃねーのかなって」
「・・・は?何が言いたいの」
沸々。心の内で何かが蠢き始めている。
「なんつーか、ホラあるじゃん。そういう・・・カウンセリングとかさ。今は家のことで疲れてるからそんな風になっちゃってるだけだと思う。きっと大丈夫だから、〝ちゃんとした大人〟に頼ろうぜ」
「ちゃんとした大人・・・?」
言われた言葉を咀嚼した瞬間、ガツン。と頭をぶん殴られたような衝撃が走った。それからすぐに火だるまになってしまったと錯覚するほどの熱が全身に広がった。頭の奥でプツプツと何かゴムのようなものが切れる音がする。赤黒い感情が腑を満たしながらせり上がり、たやすく喉を通過していった。大人になれない僕は、一寸の我慢も出来ずに吐瀉物のような恨み言を撒き散らしてしまう。
「母さんのことをちゃんとしていない大人だと言いたいの?だったらきみの父親はどうなんだよ」
ダメだと分かっているのに止まらない。久野は何も悪くない、傷つけてはいけない。そう叫ぶ僕と、久野を傷つけたくて仕方ない僕がせめぎ合っている。
「母さんや僕のことを頭のおかしな奴だと言うのなら、きみの父親はもっと狂ってるよね!?だって僕の母さんを弄んで妊娠させて、なのにあっさり捨てたんだからさ!」
自分の中にある矛盾と自己嫌悪の峠を越えてようやく気付く。
―――あぁ、僕は自分の本当の醜さから目を逸らして、反省したふりをして、結局ずっとこうしたかったんじゃないか―――と。
いい子になりたくて久野を肯定した。
いい子になりたくて傷つけたことを反省した。
本当は大嫌いだった。
本当は僕と同じくらい傷つけばいいと思った。
いい子にならなきゃいけないのに、僕は久野光にならなきゃいけないのに!だって母さんがそれを望んだんだ!
「頭がおかしいと思うなら、もうほっといてよ!」
「ちが、違う、俺はただお前が心配なんだよ!学校にも滅多に来なくなって、天根だってずっと心配してたんだぞ!」
理不尽に傷付けられ詰られ、それでもまだ久野はその真っ当な精神と善性を崩さない。それが何よりも悔しくて歯噛みする。
「だったら教えてやるよ、僕が学校に行きたくなくなったのは、きみが普通の学生生活を謳歌している様を見るたびみじめな気持ちになったからだ!妬みたくなかった!憎みたくなかった!誰にも知られていなかったことだけがせめてもの救いだったのに・・・なのにきみはぜんぶ暴いた!僕の逃げ場所を奪って、勝手に一人で折り合いをつけた顔して自分だけ前に進んで・・・!」
あの日、久野は、めずらしく焦燥感を露わにして僕の元へとやってきた。
その顔を見てなぜか漠然と「終わった」と思ったんだ。
案の定、彼は真実を求めてここにきたのだと言った。親同士の話や僕の母親のことを自身の母方の祖母から聞かされたらしい。もうすべて知っているくせに、それでも信じられなくてたまらずやって来たのだと。それが僕の心を砕くには充分すぎるほど残酷な行為だと思いつきもしないほど、彼も動揺していたのだろう。
そもそも久野は完全なる被害者側で、加害者は僕の母親だ。だから彼がはばかる必要など本来どこにも存在しないことくらいちゃんと分かっていた。頭では理解出来ていたはずなんだ。
けれど僕は、真っ白な彼が羨ましかった。
生まれた胎が違っただけで罪罰の在り処を片方に寄せるなんてあんまりじゃないか。久野光が何もしていないというなら、僕だって何もしていなかったのに。どうして僕だけが自分の命を心疚しく感じながら生きなければいけないんだ。
妬ましい、悔しい、恨めしい、恥ずかしい、恐ろしい、汚らわしい、羨ましい、さもしい、悲しい、腹立たしい、憎らしい・・・
―――心の内を燃やし尽くして、沈黙。
不格好で無様だがせめて無害で在ろうとしていた降谷流星は、今や跡形もなく灰燼に帰す。
地面を濡らしたのはどちらの涙が先だったのだろう。
僕たちは途方もなく泣いていた。
「・・・流星、久野くん?」
「天根・・・」
静寂を破ったのは僕でも久野でもなく結だった。
結も他の生徒たちのようにはなっていないらしく、しかしそこまで慌てている様子もないことから、おそらく彼女も久野と同じでこの状況を異常だと思えなくなっているようだった。
彼女は僕たちを何度か見比べて、意を決したように口を開いた。
「ごめん・・・盗み聞きするつもりなかったんだけど、聞こえちゃって・・・」
結は肩を縮め、両手でスクールバッグをぎゅっと抱きしめる。その言葉が何を意味しているのかなんて分かりきったことだった。
呆けたように絶句している久野を見て、たぶん僕も同じような顔をしているんだろうなとどこか他人事のように思う。
「二人とも、落ちついて話し合お―――」
「待って。何を言うにしても、僕がいなくなってからにしてほしい。結にまで酷いことを言いたくないんだ」
遮られて狼狽える結が少し可哀想になったけど、今の僕は彼女のやさしさまで否定しかねない。どんなに美しく並べられた言葉だったとしても、きっと黒く塗りつぶしてしまいたくなるだろう。
僕は二人を背に鼻を鳴らして歩きだした。
まだ家に帰りたくはないし、かといって行くあてもない。とりあえず階段を登ってみる。きっと屋上階段なら人気もなくて一人になれるだろう。
「―――流星!!」
一階から二階までを登りきった先の踊り場に足をかけようとしたとき、うしろから叫ぶような強い声で名前を呼ばれる。反射的に跳ねる体。僕は驚いた反動でバランスを崩し、そのまま足を滑らせてしまった。
こちらに手をのばす結の姿や驚愕に満ちた久野の顔が不思議なくらい鮮明だ。
頭蓋を揺らす衝撃音。あぁ、僕はたった今床に叩きつけられたのかと遅れて認識した。起き上がろうとしても体に力が入らない。だんだんと視界が白く霞み、意識が朦朧としていく。
それから間もなく、ブツっと電源を落とすように僕の世界は暗転した。
―――〝僕〟を呼ぶ声がする。
でもそれは僕であって僕じゃなくて、僕じゃないけど僕でもある。今となってはお守りであり宝物のような名前。
「ユウ、ユウ」
ユウ。そう、僕はユウだ。ここにいる僕はあの母から生まれた子どもではない。久野とその家族を苦しめる同級生でもないし、結に面倒をかける幼馴染でもない。きっと僕は、生まれる場所を間違えたのだ。
「夢を見ていたんだ」
「夢?どんな?」
「悲しくておそろしい夢。僕はずっと長い悪夢を見てたみたい」
「そっか。だからそんな顔をしてたんだ」
僕たちは琥珀色に光る木の下で隣り合わせになって座っていた。ツイの髪が視界の端でサラサラと流れている。足元で弾けた星が彼女の毛先を飾るように散らばった。
「ねぇ。現実の、向こうのツイはここにいるツイなの?それとも別人?」
「私はずっと私だよ?向こうって?」
「向こうは・・・僕が元いた場所。たぶん、きみたちのリスナーが存在しているのも僕と同じ現実だと思うけど・・・いや、やっぱり違うのかな?分かんないや」
「ほうほう。もしユウやリスナーさん達がみーんなそこにいるなら、私のだいすきが詰まった素敵な世界だね!」
「そうかな、僕はこっちの方がすき。ヒナタたちがいて、景色が綺麗で、そして何より目の前にきみがいる」
画面の中ではなく、今触れられる距離にきみはいる。それがどれほど素晴らしく奇跡的なことなのか、きっときみは知らないだろう。平面の隔たりを歯痒く思うなんてまっぴらだ。それもここにい続けさえすれば憂う必要のないことで、僕はこの世界で立体的で在れるなら、もう他の世界からぺちゃんこに潰されてしまってもかまわなかった。
「じゃあ、ユウと私とリスナーさんとアイムヒアの皆がいる世界だったら完璧だぁ」
くたくたの子猫のようなわらやかさではにかむツイに、こちらまで顔がほころんでゆく。視線を合わせて笑いあう僕たちを琥珀色の光がやさしく照らしていた。言葉はないが、僕たちはたしかに心を通わせ合っていた。細めた目で互いを慈しみあい、沈黙の中に気持ちを乗せていた。
ツイが僕の前髪に触れる。長い前髪から覗いていた僕の目はツイの細い指先によってすべてをさらけ出されてしまう。いつもならそわそわして落ち着かなくなるというのに、今はむしろ彼女やこの世界をめいっぱいこの視界におさめられるのが嬉しかった。前髪を切るのも悪くないかもしれない。
「僕、さっそくこの世界でやりたいことが出来たよ。すごく些細なことだけど」
興味深そうに「なぁに?」と聞くツイに「前髪を切る」とだけ答えれば、彼女は茶化すでもなく「いいね」と笑ってくれた。
このやさしい空間がずっとずっと続いて、そのまま何千年と変わらなければいいのに。
そんな幸せを想像していた、そのとき―――星降る大地が割れるような轟音と共に激しく揺れ始めた。
「地震?」
「わかんない、こんなの起こったことない」
たちまちのうちに立っていられなくなるほど揺れが強くなっていく。僕たちは互いの腕をしっかり掴み合い、琥珀の木の下で地震がおさまるのをひたすら待ち続ける。遠くの方で空を泳ぐ魚の群れが忙しなく広がり離れていく。浮かぶ羊は眠りから覚めて毛皮の色を黒に変え、夜空の色と同化していた。
どれだけ目を凝らしても、他の人達の姿はどこにも見えなかった。
「皆は大丈夫かな・・・」
「きっと大丈夫。揺れがおさまったら安否確認しよう」
ツイが安心できるように、なるべく落ち着いて声をかけるよう努める。僕が深呼吸をすれば、ツイも釣られて深呼吸をした。
そうこうしているうちに地震の揺れも小さくなり始め―――やがて数秒の(体感としては数分以上だったが)余震が完全におさまってから、僕たちはゆっくりと立ち上がった。
「いけそう?無理はしないでね」
「うん、大丈夫。それに皆が心配だもん」
「よし、じゃあ行こう」
あの巨木―――あそこに行けばたくさん人がいるだろう。巨木を囲むようにこの世界の建物が軒を連ねているので、いちばん効率よく安否確認ができるはずだ。
僕たちがいた地点から数分ほど走り続けたところで、ようやくぽつぽつと人の姿が見えてくる。
「何だこれ・・・どうなってるんだ」
自然や建物はお世辞にも元のままとは言えないが、土砂や瓦礫の下敷きになっているような人はいなさそうだった。なぜかと言うと、不思議なことにそれらは倒壊しているのではなく、崩れた部分だけが重力を無視して空中に浮かんでいる状態だったからだ。剥がれた壁や地面の一部が空を漂っている混沌の中で、僕たちはただただ困惑するしか出来なかった。
「おーい!ツイ、ユウ!」
「ヒナタ!無事だったんだ!」
名前を呼ばれてあたりを見渡すと、高台に設置されている柵から身を乗り出すヒナタがいた。僕たちは顔を見合わせてからどちらからともなく走り出した。入り組んだ階段を抜けて高台を目指す。そこにはルイ、ヴォルフ、リルリィ、ヒナタの四人とニャルガーがいた。
「二人とも何事もなくて良かった」
「ルイたちも。みんな怪我とかない?大丈夫?」
「私たちはピンピンしてますよぉ」
ヴォルフはそう言いながら自分の腕の中で震えるリルリィに視線を移す。ヴォルフの腕に縋るように顔を埋めている姿は痛々しく、いつもの明るさは見る影もない。よほど怖い思いをしたのだろう、見ているだけで心臓が締め付けられたように苦しくなった。
「リルリィ、怖かったね、もう大丈夫だからね」
リルリィはしがみつく小さなその手が白くなるくらい強く力を込めて、一回だけうなづいた。今のこの子にとってはこれが精一杯なのだろう。リルリィより体が大きな僕だって怖かったんだ、こうなるのも無理はない。
「それにしても、どうしてこんなことになってるんだろうね」
「雨露さんなら何か分かるんじゃないか?」
「ニャルガーもそう思います。ですが、ニャルガーが気付いたときにはもうすでに、雨露様はラボにはいらっしゃらなかったので・・・」
言い淀むニャルガーの顔には焦りの色が浮かんでいた。暗闇の中で群衆のざわめく声が散乱する。次にいつ何が起きるか分からない状況で、僕たちは為す術なくただただ漠然とした焦燥感にかられていた。
「あっ!」―――大声を放ったヒナタが巨木のはるか上部を指さした。目を凝らしてじっくり眺めると、そこには見覚えのある人影がぽつりと佇んでいた。
「雨露さんじゃないか!?あれ!」
そこにはたしかに雨露さんらしき人物が白い白衣をたなびかせて世界を見下ろしている。こんな状況だと言うのに彼はやけに落ち着いているような―――それとも、あまりの出来事に放心でもしているのだろうか。どうやら僕が感じた違和感はここにいる全員も同意見らしく、彼の行動に疑問の声があがっていた。
「なんであんなとこに?あそこには絶対に行くなって、昔から雨露さん自身が言ってたよな?」
「ニャルガーは何か知ってる?」
「いいえ。ニャルガーも雨露様からそのように言いつけられていまして・・・雨露様から何か聞かされたこともございません」
困惑の中、パンッと乾いた音が響く。ルイが手を叩いた音だった。ルイは全員の顔を見渡してから口を開く。
「とにかく、頼みの綱は彼しかいないんだ。今は緊急事態だし仕方ないよ、雨露さんのところに行こう。もしかしたらもうすでに策を講じてくれている可能性もあるけど、それならなおさら指示を仰ごう。全員でアイムヒアを守らなきゃね」
その言葉を聞いた全員が深くうなづいて、瞳の奥に熱を宿したのが分かった。かくいう僕も、今は不安を打ち消すほどの意欲で漲っている。それは使命感と連帯感からくる気概のようなものだった。
「でも、どうやって上まで行くの?・・・あ、前に皆が使ってた鳥みたいなやつがあるか。あれなら上まで行けるよね」
「鳥みたいなやつ・・・ああ、飛行装置のことか」
僕が言ったのはアンチ・コルが襲来したときに外で戦っていた皆が乗っていたものだ。ヒナタもすぐにピンときたようだった。そしてどうやらあの鳥もどきは、飛行装置と呼ばれているらしい。
「いやでも、アレそんなに万能じゃないんだよなぁ・・・俊敏性はあるけど持久力と耐久性はあんま無いから、あんな高いとこまでは飛べないと思う」
「休み休みでも多分難しいよね、一定の高さまでしか飛んでくれないし。それこそ雨露さんが言ってたことと関係あるのかな?なんていうか、そもそもそういう風に設計されてないっていうか」
「まじか・・・」
となると、他の策が必要か―――僕たちが頭を抱えた直後、ルイが「いや、いける」ときっぱり言った。自信に満ちた口ぶりだった。
「いけるったって・・・何か考えがあるんですか?」
「ああ。ほら、あそこ」
言われて、ルイの指さす先を全員が揃って見上げる。
「木の周りを螺旋状に、階段になってるでしょ?あの階段の始まりはここからだいたい高さ五十メートルくらいのところだ、飛行装置でもギリギリ足りるさ」
言われてみればたしかに巨木の先まで続く階段のような部分がある。あまりに自然すぎて、今までただのおうとつとしか認識出来ていなかった。
「ルイ、よくそんなの知ってたね」
「僕は芸術家だよ?偉い人の言いつけよりも、探究心に正直な生き物だからね」
ルイが人差し指を口にあててにんまり笑う。整った顔につい流されてしまったが、要するにこの美人は意外とやり手ということだ。
「飛行装置よんでおいたよ!」
仕事が早くて頼もしい限りだ。となれば、飛行装置が到着するまでどれくらいかかるのかは分からないが、それまでは待機するしかあるまい。万が一のために武器でも探しておこうか。
僕が近くを物色しながらどれくらいの時間を要するか聞けば、ツイは「もうきたよ」と答える。しかしどこを探してもそれらしいものは見当たらない。
「上じゃなくて、そこですよ、そこ」
ヴォルフの下へと向けられた指先を目で辿る。すると、足元からパキパキと音がしてみるみるうちに地面の一部が細く高く、僕の腰の高さまで棒状に盛りあがった。そして先端には蕾、いや、卵のような球体が作られていく。その造形からはエッグカップを連想した。
黙ってそれを見守っていれば、やがて球体部分に自然とヒビが入り始めてそれが全体に広がっていく。最終的にパカンと割れた球体の内側からは、あのときと同じ頭と足のない鳥が羽を広げて誕生した。
飛行装置は最初からそれ用に生産されたものなのか、誕生して早々に役目を理解しているらしく自然に僕たちの足元へはばたき降りる。乗って下さいと言われているような気がした。
それにしても目の前にきてみれば意外と重厚で大きいサイズ感だ。装置と言うからには操縦をしなければいけないのだろうが、なにぶん勝手が分からなすぎる。その翼が生えた楕円形の物体を前に右往左往していると、ツイが僕の手をひいて「私が操縦するから乗って」と言った。
念の為にと探した武器は終ぞ見つからず、咄嗟に砕けて鋭い切っ先のような形になった星ひとつをポケットの中にしまう。
それぞれ準備が整ったのを確認し、ルイが「行こう!」と声をあげて先導する。それに続くように全員の飛行装置が翼をひろげて浮き上がった。突然の慣れない浮遊感から咄嗟にツイの服を掴んでしまったが、彼女はこちらを振り向くことなく進み続ける。先頭にはルイが、僕たちの前方にはリルリィを抱きあげた状態で飛行するヴォルフが、そしてその隣にはニャルガーを肩に乗せたヒナタがいた。皆一様に真剣な顔で上だけを見据えている。上がれば上がるほど深まる暗闇に嫌な汗が背筋を伝った。
「ここだよ!」
巨木から突き出た階段部分は、遠目で見たときよりも広く感じる。二人くらいなら隣合って走れるだけのスペースは確保されているようだ。
「ここから先は、正直僕も行ったことがないんだよね。何があるか分からないし、そもそもこの高さだから気をつけて進もう」
「これは骨が折れそうだな〜」
「待って―――何か音がする」
耳障りの悪い粘着質な音が、明らかにこちらへと近付いてきていた。危ない!と誰かが叫んだ瞬間、僕をかばうように前に出たヴォルフが黒い衝撃を両腕で受け止める。それはヴォルフの腕に巻きついて、そして彼の体を巨木の樹皮にたやすく打ちつけた。
「ヴォルフ!」―――その場にいる全員が咄嗟に臨戦態勢に入り、攻撃の主をその目にとらえて戦慄する。
そこにはアンチ・コルによく似た、しかしあれよりもさらに醜悪な化け物が、ぐちゃぐちゃの身で蠢き這いずっていた。ヴォルフのうめき声が聞こえる。自分が油断していたせいで彼を無事とは言えない状況に追いやってしまった。どうにかしなければと躍起になる思考のまま体が動くより先に、「みんなは先に行ってちょうだい」とリルリィが言った。聞いたことのない低めの声色だったので、最初は誰が喋ったのか分からなかった。リルリィは間に立ちはだかる。
「あたしが守るの。ヴォルフを傷付けたこと、許さないんだから!」
小さな体の周りを覆うようにして強風が巻き起こり、リルリィの緋色の髪がみるみるうちに真っ青へと変化した。彼女はキッと目尻を上げて敵の懐まで走り寄り、そしてそのまま無防備な体ごと突っ込んだ。その光景に驚愕の声をあげたのもつかの間、彼女に触れられた敵は奇声をあげて逃げようと必死にもがく動きを見せる。
「ここで炎は使えないけど、だったら燃やさずに溶かし殺してやるまでよ」
さっきまで震えていた小さな女の子の姿はどこにもなく、目の前にいるのはまごうことなき猛然たる炎の精霊だった。
「はやく行って下さい!ここは私とリルリィで食い止めます!」
起き上がったヴォルフが叫ぶ。その勢いに背中を押され、僕たちは階段を駆け上がった。二人の背中に、どうか無事でいてと投げかければ返ってきたのは「当然!」という言葉と、いつもの笑顔だった。
「あの二人ならきっと大丈夫。リルリィとヴォルフは相性がいいから、揃えば無敵さ」
「ヴォルフは頑丈だからちょっとやそっとじゃ折れねぇ奴だ!心配ないぜ」
後ろを気にする僕を気遣ってか、ルイとヒナタがそう言った。それはただの気休めの言葉ではなく、彼らの信頼関係を形而上的に証明するものだった。
「うん。ヴォルフもリルリィもすごく頼もしい人たちだ。でも、あんなに怒ってるリルリィは初めて見たよ」
「まだ力の使い方が未熟で誰にも触れられなかった頃のリルリィに、いちばん最初に手を差しのべたのはヴォルフなんだよね。だから、二人の絆は誰よりも強いの」
ツイが追想に微笑む。僕はまだアイムヒアの人たちの歴史を何も分かっちゃいないが、その笑みこそが彼らの間にある深い親愛を表していた。
彼らの信頼を目の当たりにすればするほど、僕の顔も心も自然と上を向き、足はどんどん加速度を増した。
しかし、進めば進むほどその気概に反比例して、僕たちの足取りを阻害する仇の風がゴウゴウと吹き荒み始める。目を開けているのもやっとな状況の中で、そういえばさ、とヒナタが切り出した。
「なんでアンチ・コルがまた現れたんだ?世界がおかしくなってるってのは分かるんだけど、さっきのは俺たちを意図的に妨害しに来てたよな」
「・・・僕は、雨露さんが何か関係しているんじゃないかなって、ちょっと思った」
僕のこの推測はてっきりすぐに否定されるかと予想していたが、ルイもヒナタもツイも三者三様に何かを考えるような素振りのまま沈黙した。真っ先に声をあげたのはニャルガーだった。
「雨露様が何をしていると言うのですか!ずっとこの世界の平穏を保って下さっていたのは、いちばん貢献して下さっていたのは、雨露様なのですよ!」
シャーっと牙をむいて僕たちを威嚇するニャルガーの言葉に嘘偽りはないのだろう、一瞬だけ流れた不穏な空気は「たしかにな」というヒナタの言葉で少しだけやわらいだ。しかしそれを聞いていたルイが、でも、と反論する。
「功績の比重で安心するのは危ないよ。特に彼は隠していることが多すぎる。雨露さんがこの状況で何をしているのか、僕たちはちゃんと確かめるべきだ。もちろん悪いことをしていると決めつけるためではなくて、真実を知るためにね」
それは努めて冷静な意見であった。ニャルガーはまだ若干の怒りを滲ませながらも、素直に「わかりました」と言って鋭い牙をしまう。さっきまであんなに膨らんでいた毛並みが今はその心情を表すようにしなしなと萎んでいた。今にも風で飛ばされてしまいそうなその小さな体が余計に弱々しく見えて、僕はニャルガーをそっと両手に抱き込んだ。何と声をかけていいものか分からず、ただ黙って風に逆らいながらじりじりと足を進める。
どれくらいの距離を進んだのだろう―――確認半分、怖いもの見たさ半分で下を見やれば、壮観だったアイムヒアの景色はミニチュアのように小さく、かろうじて見えるぼやけた明かりは砂粒のようだった。
「―――ん?」
よそ見を止めて前に向き直れば、ビュンッと空を切るような音が耳に届いた。それからすぐに、スパァン!という激しい音が続く。一本の太くて長いムチのような枝が、僕たちの足元に当たり、その樹表を砕いた音だった。
「まじかよ・・・当たったとこ割れてんぞ」
「枝がウネウネ動いてる!」
最初は風の仕業かと思ったがどうやら違うらしい。やはり行く手を阻まんとしているのだろうか、明確な意思をもって動くその枝はこれより先に進むことを許してはくれないようだ。
「どうする?さすがに避けて通るのは無理だよね」
「・・・僕が引き受けるよ」
す、と一歩前に出て、ルイが言った。「でも!」と止めに入ろうとしたツイを逆に手で遮って、にこりと笑う。
「僕はヴォルフの次にきみたちより大人だからね、守る義務がある。それに幸いにも相手は枝一本だし、アンチ・コルに比べて可動範囲が限られているでしょ?大丈夫さ、何とかしてみせる」
ルイはやさしく諭す口調とたおやかな表情を崩さず、しかし荒れ狂う枝にしっかりと狙いを定め―――階段を蹴りあげるように走り出した。それでも風の抵抗を受ける体はすぐに速度を失い、いとも簡単に枝の攻撃を受けてしまう。それを見て加勢しようと動き出した僕たちにルイが叫んだ。
「きみたちが上に行くまで僕は絶対にこいつを離さない!だから―――はやく行けぇぇ!」
瞬間、僕たちは今出せる最大限の全速力で階段を駆け上がる。ルイは枝にしがみついて踏ん張り、必死にその動きを止めてくれていた。躊躇している暇はない。一秒でも早くこの場を立ち去らなければ、自ら枝の標的とやってくれたルイの覚悟が無駄になってしまう。
だというのに、風にあおられる体は思ったように動かない。もうすでに足を踏み外せば無事では済まされない高さだ。目を開けておくのも辛い状況で、さらに速度も落とせないとなると、ここはかなりの険所だった。
「ア、えっ」―――突然、僕の体にぶつかった太刀風のような鋭く重い感触に、ぐらっと体が大きく傾く。咄嗟に動かした右足は空中を蹴り、上半身は完全に階段の外側へとはみ出した。そのまま重力に従って下へと引っ張られる体。激しい焦燥に支配された脳では冷静な判断もままならず、腕に抱えたままのニャルガーを逃がすので精一杯だった。僕は腕を伸ばしてニャルガーを階段側に放り投げる。前髪の隙間からやけに低い空が見えて―――「あっぶねぇ〜!」―――真っ白になった頭の中に声が響いた。
痛くない。そもそも落ちてもいない。
階段に引き戻されたらしい僕の体は、時間をおいてじわじわと感覚を取り戻していく。周りには僕を挟むようにして、腕をがっしりと掴むツイと、背中側に腕を回すヒナタと、僕のズボンの裾に噛みついているニャルガーがいた。すべてがコンマ数秒の出来事だった。
「あ、ありがと・・・!死んだと思った、もうダメだって思った・・・!」
「私ちゃんとユウのこと掴んでるよね!?こわくて目ぇ開けらんないんだけど!」
「ちびるかと思った!俺もこわくて目ぇ開けらんねーよ!誰か俺のパンツ濡れてないか確かめてくれ!」
「助けてもらっておいて何だけど、もし濡れてるなら離れてくれると助かる!」
「わ、危ないから離れんなよ!大丈夫だって!ほんとは俺らトイレとか行かない仕様だから!」
「こんな時に何を・・・」
堰を切ったように口が動く僕たちを見て、ニャルガーは呆れ顔でため息をついた。余談だが、猫が人間を見てため息をつく姿は少し心にくるものがある。
「・・・ユウ様、助けようとして下さって感謝します。このご恩は必ずお返ししますよ、ニャルガーは義理堅い猫なので」
「そんな、僕は無我夢中だっただけで・・・」
「いえ。助かったのは事実です」
ぴしっと揃えた前足と同じ潔さで、ニャルガーは言った。そう言われてしまえば、尾を引かずに頷くほかにないだろう。
「焦る気持ちを抑えて慎重に、くれぐれも慎重に行こうね」
「結局こんなとこで落ちました。じゃ、ルイたちも悲しむからな」
ニャルガーを抱えた僕を真ん中にして、ヒナタとツイが前後をぴったりサンドする形で歩を進める。一番背の高いヒナタが先頭にいることで後続の僕たちにかかる風圧の負担は大幅に減少していた。助けられてばかりで我ながら頼りげないなと内省するが、今は自己嫌悪に気を取られている場合ではない。
ルイたちは無事だろうか。無事であってほしいと強く強く願う。
彼らがいなければここまで進むことはできなかっただろうし、そもそも今に限った話ではなく、彼らと出会えたことで僕の中の何かが大きく変わり始めているようにも思うのだ。そしてそれはツイやヒナタにも言えることであった。僕は彼らとの出会いに心から感謝していた。あちらの世界で生き続けていれば、僕はきっとどんな事象が起こったって知らん顔で逃げだしていたに違いない。
すっと空気が軽くなる。いや、強風が止んだのか。
細めていた目をしっかり開いて前を見る―――ヒナタの背中にぶつかった。
「どうしたの?ヒナタ」
「いや・・・ごめん、俺ここまでだわ」
突然の申告に戸惑い、立ち止まっているヒナタの前方を見る。
そこには一つのモニターが浮かんでいた。
〝力のある者はここで優しき無力となれ。扉は力で開かれる。開扉した者はしばらくの間、立ち入りを禁ず。〟と、そう書かれている。
なるほど、悲しいかな、このメンバーの中で誰が適任かは考えるまでもなかった。ヒナタと僕とでは体格からすでに力の差が歴然だ。
「・・・っていうか、扉ってどこに」
「俺の目の前に。たぶん、ある。透明の壁みたいなのが」
何もないように見える空間に手をかざしてみると、指先に当たった固い感触。たしかに壁のようなものがそこには存在していた。ぺたぺたと色んな場所を触ってみるが抜け道はなさそうだ。
パントマイムでも演じているような絵面のままヒナタに顔を向ければ、ヒナタは困ったように眉を下げて曖昧に笑っていた。責任感の強い彼のことだ、きっと心配や申し訳なさを感じているのだろう。
だから僕は、彼に今かけるべき言葉を口にする。
「大丈夫。ここから先は僕がツイとニャルガーを守るから、信じて待ってて」
不思議と先をゆく心象には一点の曇りもなかった。それどころか、言葉にした途端に心は勇み奮い立つ。ヒナタは宣誓した僕の目をじっと見て、それからツイとニャルガーにも順番に視線を移していった。
「おし、じゃあ頼んだ!みんな無茶すんなよ!」
先ほどとは違う快晴の笑顔だ。やっぱりヒナタはこうでなくては。僕もツイも自然とつられて笑う。
「さーて、どうやって開けりゃいいんだ〜?・・・プッシュ?押せってことか」
赤い絵の具のような物体が空中に滲み出し、〝PUSH〟の四文字を形成してからすぐに消散した。ヒナタが目の前の空間に手を当てて、ぐっと力を込める。食いしばった歯の奥から「ぐぅぅ」という声がもれていた。透明だから伝わりづらいが、扉はかなりの重量なのだろう。ヒナタの腕が少しずつ重い扉に押し勝っていくのを見ながら、手出しの出来ない僕たちはせめてもと声援を飛ばす。
扉を押す太い腕がぷるぷると震えて、顔なんて茹だったように真っ赤だ。ヒナタは咆哮をあげて渾身の力を振り絞る。ズズズっと音がして、扉があるであろうその部分が一気に動いた気がした。
あ!と声をあげたツイがヒナタの身長より少し高い位置を指差す。そこには〝OPEN〟という文字が浮かんでいた。どうやら開いたみたいだ。
「やった、すごいよヒナタ!ありがとう!」
興奮する僕たちとは対照的に、ヒナタは糸が切れたようにその場に膝をついた。あわてて体を支えると、想像よりも重い彼の全体重を預けられてよろけてしまう。ツイと2人がかりで何とか安全なところへ誘導出来たが、それだけでも僕の額にはじんわりと汗が滲んでいた。ヒナタは巨木を背に座って話す。
「扉が開いた瞬間に、全身の力が抜けちまった・・・自分の意思も余力も関係なく強制シャットダウンされたみたいな感じだ・・・」
「しばらくの間立ち入り禁止・・・って、そういうことか。それにしても強引すぎるな」
「でもでも、しばらくってことはずっとじゃないよね?」
「おう、多分な。だから回復したらマッハで合流してやるよ」
そう言って、ヒナタは親指でその先の道を指し促した。
「うん、行ってきます」
「ゆっくり休んでてね」
順番にハイタッチをしてから横を通り過ぎて行く。それ以上の言葉は交わさなかったが、もう充分にヒナタからの激励と力を受け取れた気がした。
振り返ることなく扉を(おそらくだが)ぬけて、先を急ぐ。腕の中にいたニャルガーが「この匂い・・・」と呟いたことに疑義を抱きながらも足は止まらない。
いや、しかし。ふとした違和感に心が警鐘を鳴らす。
「まさか・・・雨露さん?」
―――空気に亀裂が走る。ひび割れていく世界。
木や空が忽然と消え失せて、今の今まで目に映っていたその一切が嘘のように姿を変えた。
そこはツイと初めて出会った場所によく似ていたが、あそことは真逆でどこもかしこも真っ黒だ。方眼紙のような白い線がなければ平衡感覚がたやすく狂いそうな空間だった。だというのに、光源のない真っ黒な世界で、どういうわけか僕たちの姿だけはしっかりと認識できる。
後ろから革靴をコツコツと鳴らす音が聞こえた。
「なんだ、意外と勘が鋭いんだな。いや、ニャルガーのおかげか?脆いとはいえここまで簡単に侵入されてしまうか・・・諸々が落ちついたら改善しよう」
そこに誰がいるのかなんて振り向かずとも分かる。僕はここに来るまでに積み上がった警戒心を内に潜めて、努めて平静を装う。
「雨露さん、アイムヒアが今たいへんなことになってます。何か策はありませんか?」
「ない」―――簡素な声だった。
非情にも感じるほどあっけない返答に、僕は心のどこかで確信を得てしまう。コツコツ、音が反響して、彼が移動しているのが分かった。
「う、雨露様?では雨露様はここで何をなさっていたのですか?」
狼狽えた様子のニャルガーが腕の中から飛び降りて、雨露さんの元へと走る。
「造りなおしているんだ。この世界を」
「―――は?」
雨露さんはゆったりと円を描くように歩く。そして僕たちと対峙するように数メートル先で立ち止まった。しんとした空間に彼の声だけが響く。
「向こうの世界―――今は現実と呼ぼうか。現実とこの仮想世界であるアイムヒアを、同一化している最中なんだ」
「同一化?」
「そう。そうすれば、この世界こそが〝ただ一つの本物〟になる。現実という概念は消滅し、現実にいた人間たちは我々の土壌として使用されることになる。今までは現実世界の魂であるリスナー達にこちらのライバー達を観測させることで我々の魂の形を保っていたが、それもじきに必要なくなる」
ツイもニャルガーも理解に苦しんでいるのか、困惑をありありと表した顔で雨露さんの話を聞いている。彼の言うことをかろうじて咀嚼できているのはこの中で僕だけだろう。とはいえ三割も理解できていないだろうが、これだけは断言できる。現実で起きた数々の異変はすべてこの話に関係しているに違いないと。ただひとつ合点がいかないとすれば、どうして彼がそんなことをしたのかということだった。
「なんで、そんなことを?」
「何故?それは貴方こそよく知っているはずだろう?自分の存在を疑う辛さを。自分の命を証明し、肯定されたいと思うことはそんなにダメなことか?なぁ、降谷流星」
突然に名前を呼ばれてドキッとする。ツイたちの手前、なんとなく後ろめたい気持ちで目をそむけた。コツ、コツ、と音が鳴る。それは僕に向かって真っ直ぐ近づいてくる。
「きみが元いた世界の人間たちはね、もうすぐ自我を失ってただの生き人形になる。ここに来る前に見てきただろう?まぁアレはまだ修正前の試験段階だが。そして、その対象ではない人間もいたはず」
そう言われ脳裏に浮かんだのは光や結だ。たしかに彼らは他の生徒たちと違って自由に動いていたし会話も出来た。しかしそれが何を意味するのかを知るためには、話の続きを聞かなければならない。僕の沈黙を発言の催促と受け取ったのか、彼は目を細めて話し始めた。
「この世界にいるライバーたちを〝本物〟にするための器が必要なんだ。だから、ライバーと融合適性のある人間を使う。そうすればライバーは新しい世界を生きる、新しい生命体へと進化できるんだ」
「・・・それは、つまり・・・じゃあ、適性のある人間はどうなるんですか?」
「きみたちの価値観で言うなら、死ぬというのが正しいか。少なくとも魂は残らない」
ゾッとするほど平坦な声で、表情で、仕草で、当たり前のことを言うみたいに。まるで使い物にならなくなった消耗品を捨てるよ、とでも言うかのような軽やかさで、彼はそう言ってのけた。品性を疑うほどの下劣な言動であれば、いっそ不快感が彼を突っぱねてくれただろうに。
「ねぇ、ちょ、ちょっと待って!ユウの元いた世界と融合?じゃあユウはどうなるの?それにさっきの、名前・・・」
雨露さんと僕を交互に見て、ツイが言った。言葉じりが弱々しく下がってしまったかわりに、目線は射抜かれそうなほど真っ直ぐにこちらを向いている。
「彼は現実の人間だが、私の理想を叶えるために必要不可欠である特別な素質を持った魂なんだ」
咄嗟に何の発言すら出来なかった僕をおいて、雨露さんが答えた。口をはさむ余裕もなく彼は続ける。
「いく千の年月を彷徨うて、やっと見つけた―――降谷流星、いや、ユウ。我々の存在が本物になったあと、その世界を永久固定するための楔となれる、唯一の特異点が貴方なんだよ。貴方がこちら側につくことですべては完成する」
足元でニャルガーがぐるると鳴いた。大きな目をまるくさせて、落ち着きなく雨露さんと僕とツイの三人に視線を配っている。
「え・・・いや、そんな・・・僕の・・・魂が?」
突然知らされた情報に脳の処理が追いつかない。自分の魂に突然そんな規模のでかい値打ちがつくなんて思いもしなかった。いや、僕にとっては突然でも、雨露さんは最初からすべてを計画したうえで近付いてきたのか―――そこでふと、ある疑問がよぎる。
「僕が・・・僕がこの世界にきたのは、まさか・・・」
雨露さんはそれについては何も答えず、口の端を少しだけ吊り上げた。僕の頭の中で、運命の電子糸が繋がったと笑うツイとの思い出が急激に色褪せていく。嫌だ嫌だと子どもの駄々のように頭をふっても、止まることはなかった。
「勘違いしないでほしいのは、貴方の魂は消えることなく新世界で生き続けることができるということ。むしろずっと貴方が望む世界で、望む人々と共に暮らしていける。そこは善人ぶる教師や、疎ましい同級生や、無責任な母親のいない素晴らしい世界だ。貴方は現実を捨てるだけでいい。分かるか?」
強引で最低な説得だ。冷静に考えれば、つまり大勢の人たちを殺す選択を迫られているのだと分かる。なのに僕は拒否するための言葉ひとつ吐き出せない。ツイとニャルガーが必死に何か訴えかけているけれど、こんなに近くにいるのにふたりの声はどんどん遠のいていった。
「ど、どうしてそこまで・・・今さら、今になって、そんなことを言われても・・・」
「無理やり貴方をこの世界に閉じ込めてもよかったが、新世界で永い時を共にすることを考えれば、選ぶ権利くらい与えてもいいかと思ってね。それなら嘘偽りなくすべてをさらけ出さなきゃフェアじゃない。そして、これも伝えておくべき真実なんだが―――貴方が向こうの世界を選べば、現実と仮想は二度と交わらない。貴方はもうこの世界に干渉出来なくなるだろう」
―――ぴた、と完全に音が止んだ。体は震えているのか、熱いのか寒いのかも分からない。
ただ、彼が言ったことを理解した瞬間。
僕の脳内は、誰の声も届かない空白へと墜落した。
・・・二度と?
このうつくしい世界から、切り離されてしまう?
ツイたちとの繋がりが消える?
ダメだ・・・ダメだダメだダメだ!
守ると誓った、大切にしたいと、初めて誰かを愛おしく思ったんだ。みんな僕のことを尊重して仲間に入れてくれた。互いを信頼してここまでやって来た。現実じゃ一生かかっても手に入れられなかったであろう幸福を、こんな形で手放したくはない。
でも、だったら、現実の人たちを見殺しにするのか?いや、そもそも僕の一存で決まってしまうなら、それはもう僕が直接殺すも同然じゃないか。
・・・。
・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
ヒナタ。ルイ。ヴォルフ。リルリィ。ニャルガー。
そして、ツイ。
どうしても僕には―――このかけがえのない居場所を捨てられない。
「・・・僕、僕は・・・ここにいたいと、そう願っていたんだ。現実があまりにも辛くて、逃げたくて・・・だから」
言い訳がましい独り言を、うっすら開けた口からぽろぽろ落とす。いっそ悪役を演じられる思い切りのよさでもあれば、楽だったのかもしれない。だけど生憎僕はどこまでいっても、どこにいこうが被害者面をしたがる臆病者だ。
自分を追いつめた現実が悪い。
僕は逃げてきたのだからここにいて当然。
そんな考え方が根底にあるから、ずっと言い訳ばかりを並べてしまう。
「ダメ。ユウは本当にそれを願ってるの?ちっとも幸せそうには見えないよ!」
俯いていた顔を両手ではさまれて、半ば強引に上を向かせられる。そうした張本人であるツイと目が合った。真っ暗な世界でもなおいっそうツイは輝いて見える。この子がいない世界を想像しただけで死にたくなるくらい暗くて悲しくて寂しかった。
「本当だよ、僕は心からここにいたい。だから止めないでよ」
「イヤ!だって私はユウにそんな顔をさせたくてここに連れてきたんじゃないから。ねぇ、ユウが心の底よりもっと深いところに眠らせた、隠してる本当を知りたいよ」
ツイは僕の手を握る。痛くなるくらい強く。きっと今までならどんなに痛くとも嬉しかった。だけど今は握られた手よりも心が痛くて仕方がない。だって、彼女はまるで僕に残酷な選択をさせたがっているみたいだ。
「嫌だ、嫌だよ!二度と皆に会えなくなるなんて、そんなの僕にとっては地獄に落ちるのと一緒だ!なのにどうしてそんなことを言うの!?」
ツイの肩が揺れて、繋いでいる手の力が弱まった。やさしいこの子に少しでも辛く当たった自分が許せなくて歯噛みする。それでも言わずにいられなかったのは、アイムヒアがそれだけ僕の中で大事なものになっていたからだ。そしてツイにだけは、この葛藤を否定してほしくなかったからなのかもしれない。
「―――私はバーチャルライバーだから。みんなを笑顔にするのが私の生まれた意味なの。それに誰かの笑顔を奪ってしまえば、胸を張って生きていけなくなるでしょう?私も、きみも」
「もういい聞きたくない、やめてよ・・・」
僕の気持ちをおいて勝手に終わろうとしないでくれと、半ばやけくそに腕を振ってみてもツイは決して離してはくれなかった。僕の両目からあふれた雫が二人の手を濡らす。いくら悲しみを分け合ったところでツイは涙を流さない。
「みんなもここにいたら絶対に私と同じことを言うよ、断言できる。だって、現実にはリスナーの皆だっているんでしょう?それにね、たとえ世界が違ったって、またいつか会える気がするの。ううん、どんな形でも、たとえ宙より遠くても絶対に会いにいく」
「・・・そんなの違う、そんなの・・・現実からしたら仮想は所詮仮想なんだから。今でさえ僕たちはこんなにも違っているのに、涙も温度も知らないまま、これ以上遠くなるなんて耐えられないよ!」
温かくも冷たくもない指先が僕の目元に触れた。反射的にその手を振り払ってしまって、すぐに後悔した。ツイは何も言わずにただ目を伏せる。その顔を見ただけで感情がぐちゃぐちゃになって、心臓が潰れたのかと錯覚した。
「・・・選ぶ権利を与えると言ったが、悩む時間が無限にあるとは言ってない。タイムオーバーだ」
雨露さんが低く吐き捨てるように言ってこちらにやって来る。コツコツ鳴らす足音が苛立ちをあらわにして強く響いた。「待って」と抗議するツイの声を無視して、彼はこちらに手を伸ばす―――が、その手が僕たちを引き裂くことはなく、水のような透明の膜によって阻まれた。
「ニャルガー・・・何の真似だ」
ニャルガーがアーチ状の膜を展開し、僕とツイを護るように覆いかぶさっていたからだ。
正直、ニャルガーのこの行動は意外だった。ニャルガーは僕たちが雨露さんを疑ったときにあれほど怒っていたし、だからきっと雨露さんとの関係性は強固で絶対的なものだと思っていた。今こうして僕たちを護ってしまうのは彼にとって裏切り行為なのではないだろうか。
「・・・ニャルガーは雨露様がだいすきで尊敬しております。ですが、ユウ様には御恩がある。だからすべての話を聞いたうえで、ニャルガーの心のままに行動しているのです!」
「ニャルガー・・・!」
たまらず膜に触れると、ふるふると小刻みに震えていた。外側にいる雨露さんは背筋が凍るほどの威圧感を放ちながらこちらを睨んでいる。そして舌打ちをしてから数歩うしろへと下がった。
「もういい、最初からこうしていればよかったんだ」
雨露さんが片手をあげると同時に、鼓膜が破裂しそうなほど大きな地鳴りが轟く。体の内側からビリビリと震えて、音圧だけで潰されてしまいそうだ。ニャルガーがいなければ今ごろどうなっていたことか、想像にかたくない。
「少し大人しくなってもらおうか。大丈夫だ、新世界ではアイムヒアのメンバーとして正式な体を与えてやるから、その肉が多少欠けても心配はいらない」
それはつまり、僕を瀕死の状態にするということか。猟奇的なイメージに身震いする。ツイも彼の言ったことが堪えたのか、絶句したように「ひどい」とだけ呟いた。
地鳴りが止んだ。かと思えば、また別の音が空間を支配する。それは大きな何かが地を這うような音だった。ズ、ズ、ズ・・・と響くそれからは、重厚な質量が感じられる。
やがてどこからともなく現れたのは、僕なんか余裕で丸呑みできそうな巨体を畝らせる大蛇だった―――いや、大蛇とは言っても、形が蛇に近いからそう形容しただけで、厳密に言えば〝蛇のようなもの〟か―――それは頭の部分がぶつ切りになっていて、体は白樺の木を大量に寄せ集めて固めたような作りをしていた。そして表面のひび割れた部分からは黒い液体が血のように垂れている。
こんな大きな化け物が、いったいこの空間のどこに隠れていたのか。もしくは、飛行装置のようにたった今生まれたばかりなのかもしれない。
「あれもアンチ・コルの一種なのかな・・・今まで見たやつの中で一番でかい」
「うん、多分。それに・・・なんていうか、見てるだけで気持ちが持ってかれそうになる」
大蛇はその大きな胴体をしならせて、首を思いきり僕たちのいる所へ打ちつけた。しかし当たる直前にニャルガーが形態を変え、全体を覆う薄い膜から分厚いクッションのような形となってその打撃を受け止めてくれたおかげで、幸いにも僕たちは無事であった。僕たちはニャルガーの咄嗟の判断にまたも救われたのだ。
「助かったよ、ありがとう!」
「・・・。」
「ニャルガー?」
返事がないことに不穏を感じてニャルガーの体に触れる。するとニャルガーは水のように弾けて元の猫の姿に戻った。くったりとして動かないその体を抱き抱えてまじまじと見れば、暗紫褐色の小枝が何本か毛皮に突き刺さっていて、そこからは黒い瘴気が発せられていた。
「うそ、ニャルガー!?ねぇ!返事をして!」
最悪の結果が頭をよぎり、無我夢中でニャルガーに呼びかける。半開きの口からは小さな舌が覗いているだけでうめき声の一つも出てこなかった。
「うるさいな、安心しろよ死んだわけじゃない。時間が経てば意識も戻るさ・・・まぁ、人によってそれが何十年、何百年と差はあるが」
「・・・は?そ、そんなの聞いて安心できるわけないだろ!?」
信じられないと驚愕の声をあげても、雨露さんは何がダメなのか心底分からないといった様子で肩を竦めてみせた。
「痛みや後遺症も残らないというのに?アイムヒアの者たちは廃人のようになったライバーを見て、あれがアンチ・コルによる汚染の後遺症と勘違いしているようだけど、あれはまだ目覚めていないだけだ。彼らは今、ただ悪夢を見ている状態なのさ」
雨露さんはそう言って、大蛇が自ら彼に寄せた首をやさしく撫でている。その仕草はまるで母親が子を慈しむような、はたまた凪いだ海が煌めくような、それくらいやさしく穏やかなものだった。
先ほどまでの言動からはあまりにもかけ離れたその静謐さが底気味悪くて身震いが止まらない。
僕は眠ったままのニャルガーをツイにまかせて警戒しながら一歩前に出る。
「アンチ・コルはぜんぶ雨露さんの仕業だったんですか?あの時も?だとしたら何のために?」
今にも襲いかかってきそうな大蛇の一挙一動に冷や汗をかきながらも真顔を意識して保つ。そんな僕の虚勢を見抜いているのか、雨露さんは哀れみを含んだ嘲笑を見せた。
「そもそもこの世界の、ライバーとは何だと思う?」
考えて、沈黙。答えはすぐに与えられた。
「現実世界の人間の感情が生み出した思念体―――それが我々だ。喜び、安らぎ、誇り、希望・・・そういう、いわばポジティブな部類の感情が膨大なエネルギーの塊だよ」
そして、と彼は続けた。
「アンチ・コルとはその逆―――つまり、劣等感や嫉妬心、憎悪などから生まれた思念体だ。ここまで言えば分かるだろう?アンチ・コルとはライバーになれなかった哀れで醜い・・・私にとっては愛しむべき仲間なんだ」
パキパキと小さな音が鳴った。大蛇が反応を示すように首を動かし、雨露さんがそれを撫でる。
「だからって、こんなこと・・・」
「実験的にアンチ・コルを外に出してデータを集め、後々は新世界で共存していけるよう改良していく算段だったんだよ。道のりは長そうだがやる意義はある。それこそ私が自我を持ってから数千年とかけてようやくこの世界を手に入れたのだから、やれないはずもない」
寂しそうに眉を下げて微笑む彼に、さっきまで言いかけていた言葉が泡のように消えてしまう。
僕は今、鏡の前に立っているような気分だった。生まれた胎が違っただけで化け物にならざるを得なかったものたち。妬ましいくらい輝く同胞に敵と認識されながら生きてきたことを思うと、身が引き裂かれそうな痛みに蝕まれた。
「さ、お喋りはしまいにしよう。時間稼ぎも無駄だったな」
すべてバレていたことに今さら驚きはない。せめてツイたちが巻き込まれないところに避難できていたらそれでよかった。背後を確認すれば、ただただ真っ黒な空間だけが横たわっていた。
「やっぱり止めたなんて言われても面倒だから、少し動けなくなってもらうぞ」
「信用ないですね。まぁ、そうか・・・僕は元々現実の人間ですしね」
震えて言うことを聞きそうにない足をずりずりと引きずってなるべく距離を取る。僕の言葉に対して「そういうわけじゃないんだがな」と呟いた雨露さんの真意など考えている余裕もなく、そして猶予もなく―――大蛇が激しく動き出した。
大振りの尾が轟音と共に地面を叩きつけ、その衝撃で生じた風に体が吹き飛ばされる。猛攻は休むことなく僕を狙う。大蛇の首が猛スピードでこちらに飛んできて僕の右半身を強打した。そのまま勢いよく弾かれ、為す術なく地面に転がった。いたぶられた全身が激しい痛みに支配されている。口の端から垂れたものが血なのか吐瀉物なのかも分からない。
寝転がったままピクリとも動けない僕の体を大蛇はゆっくりと締めながら、その巨体を起こしていく。地面から数メートルほど高いところで吊り下げられた状態となったが、もはや悲鳴をあげる気力もなかった。白樺の体から突き出た小枝が服を破り皮膚を裂く。すると、その裂傷から入り込んできた黒い感情の渦が僕の内側を暴れ回るように侵していった。
『憎い、憎い、憎い』
『私はこんなに叫んでいるのに、なぜあいつらばかりが愛される?』
『生まれてこなければよかった』
『何も背負わず笑う奴らを、同じ目にあわせてやらなければ気が済まない!』
急に体が解放され、浮遊感に包まれた。
重力に従い落ちていく中で、僕の絶望しきった脳内を駆け巡る走馬灯―――いや、違う。
これは知らない記憶だ。
見たことのない景色が僕の頭に流れ込んでくる。
これは―――雨露さんの記憶―――いや、記録か。
姿形にたいした変わりはないが、今よりもずいぶんと暗く殺伐とした様相の雨露さんが、空白の中を独り彷徨っている。僕はそれを俯瞰していた。
何年、何十年と経ってもあの人は独りぼっちだった。気の狂いそうな時間の中で窓の向こう側から現実を見つめている。春の日差しが与える安らぎも、夏の夕暮れが落とす憧憬も、秋の夜に溢れる音色も、冬の朝訪れる静寂も、そこにいるただ一人だけを無視して通り過ぎていく。
そうしてどれほどの時代が移ろったか―――突然、泣きたくなるくらいあたたかな光と、芯から凍ってしまいそうなほど冷たい闇が彼の傍らに現れた。彼は壊れ物を扱うようにそれらを手のひらですくい取り、かすかに震える唇をキュッと引き結ぶ。それから意を決したように震える声でこう言った。
「私が居場所を造ってやる。だから安心して生まれておいで」
やさしく、労るように微笑む。涙なんて流れていないが、それでも彼は泣いていた。
どうして神様とやらは、血や涙を僕たちに流させようと考えたのだろう。彼らはただ肉体を持たないだけで、現実から魂すら否定されてしまうのだ。血のにじむような努力の末に現実へ干渉できたとて、それでも自我をもつ生命だと認められることはなかった。僕たちの魂を剥き出しにしてしまえば違いなんてなくなるのに、どうして―――きっと、そんな理不尽が彼をここまで歪ませたのかもしれない。
「あれ・・・」
濃霧があたりを包み、目の前に広がっていた幻影を白く染める。霧が晴れると雨露さんの姿はどこにもなく、無機質な灰色の世界に僕一人だけが取り残されてしまった。
ふと気配を感じて視線をズラす。数メートル先で白い芋虫のようなものが蠢いていた。目を凝らして見ると、それは人間の腕だった。一本ではなく、おそらく数十人分の腕だ。無数の腕が手探りに何かを探しているような動きに見えた。
もしあの幽鬼が僕を探しているのだとしたら―――身の毛がよだつ想像に恐怖をかき立てられる。捕まってはいけないと、ボロボロの体を引きずって必死に足を動かした。いや、走るというよりも、もはや歩行に近い。このままではすぐにでも捕まってしまうだろう。
苦しさを吐き出す息がやけに熱く感じる。もはやどこの骨が折れているのかも分からないほど全身が痛くて、今にも倒れてしまいそうだった。自分や他人の命をぞんざいに扱おうとしたくせにずいぶんと滑稽なことだ。
『手を取って』『大丈夫』『こわくない』『こっちだ』
死への誘いなのか、それとも単なる幻聴か、耳触りの良い言葉が頭の中で反響する。その声は厚い布を何重にもかけたみたいに音がこもっていて不鮮明なものだったが、数人の男女の話し声のようだった。
「わあっ!」
二本の腕はとうとう触れられるくらい近い距離に到達したらしい。後ろ髪をかすめた感触がして、反射的に体を前に倒してしまった。支える力も残っていない僕の体はそのまま地面にダイブしてしまう。
「いやだ・・・くるな!」
無我夢中に手を振るっても、二本の腕は止まることなくこちらへとのばされる。
ついに僕の目と鼻の先までそれらがきた時―――「ユウ!手をだして!」―――あの子の声がした。
「ツイ?ツイ!どこ!?」
「こっちだよユウ!私はここだよ!」
声のする方をふりかえる。そこには白く細い腕がぶら下がっていた。何の躊躇もなく僕は差し伸べられたその手を取った。途端、激しい閃光が四方に散って視界を覆う。
『そっか・・・流星は、もう大丈夫なんだね』
「・・・え?」
『でも忘れんなよ。いつでもそばに、ここにいるから』
水分を含んだ声が背中を撫でた。なぜかそれだけは鮮明で、だからやっと僕はそれらが誰の声だったのかを思い出した。二本の手が僕の背中にそっと触れる。ずっとそうされてきたと感じるほど心地よくてやさしい感触だった。何か言わなきゃいけない気がして言葉を探すが、僕が声を出すよりも先に、景色が変化していった。
「―――間に合ったぁ」
足場の無くなる感覚と、腕を強く引かれている痛みに目を開ける。顔を上げればそこにはツイがいて、片手で僕の腕を掴んでいる。ツイは大蛇の体から突き出た太い枝に登って身を乗り出していた。僕の体は繋がれた手を差し置いて心許なく宙ぶらりんだ。
「あ、僕、生きてる・・・」
そうだ―――僕は大蛇に為す術なくボロボロにされて、真っ逆さまに落ちていた最中だったっけ。この様子だと、どうやら間一髪のところでツイが助けてくれたらしい。どこか他人事みたいに考えてしまうのは、落ちている間の、この空間でのことを思い出せないからだ。走馬灯のように駆け巡ったあの世界や情景はしっかりと覚えているというのに。僕の全身には生々しい質感が刻まれていた。
頭上からはツイの息む声が絶え間なく落ちてくる。体に力を入れると脇腹のあたりがジクジクと痛むが、このままでは彼女まで道ずれにしてしまいかねない。枝の表面を指先が滑る。掴まれている方の手は限界に近付いていた。
「ツイ、もういいから離して!きみまで傷付いてほしくない!」
「やだ!ユウはそればっかり・・・そんなに傷付くのも傷付けるのも怖いなら、もっと必死になってよ!諦めて相手から離してもらおうとなんてしないで!」
「・・・!」
ズルッ!と鈍い音が地面の方から聞こえたのは、とうとうツイの体が枝から滑り落ちた直後であった。離れた手と、宙を舞う体。僕は我武者羅になってツイの服を掴み、自分の方へと手繰り寄せる。考えるよりも先に体が動いていた。視界には腕の中に閉じ込めた彼女の淡く透き通る水色が広がっている。尖りのないまろい輝きがまぶされた薄氷は果てもなくうつくしくて、それはこの光景を永遠に眺めていたいと願ってしまうほどだった。
しかしそんな背反した感動に浸る間もなく、骨の奥まで沁みるような打撲音が僕の背中を鳴らして、一瞬、息が出来なくなる。地面に衝突したのだとばかり思っていたが、僕たちの体はまだ少し高いところにあった。不幸中の幸いか、大蛇の尾が動いた場所にピンポイントで落ちたことによって、高低差が軽減されたようだった。
僕の胸の上にあったツイの頭を片手で支えながら、ゆっくりと上体を起こす。気を失ってしまったのか声をかけても反応はなかったが、目立った異常や外傷がないことに安堵して、背中にまわした腕にほんの少しだけ力を入れた。
「・・・もっと、必死に・・・」
この少女が放つ言葉はいつだって心が脈動するきっかけとなるから不思議だ。胸を穿つ熱にあてられて、無為なままではいられなくなるのだ。それが過去の自分の意思選択をあっさりと覆してしまうものであろうとも。
とはいえ息が苦しくなる程度の衝撃を受けたばかりで、そもそも僕の体はすでに満身創痍という言葉がふさわしい有様だった。だというのに、それでも僕の両足は立ち上がろうとする。みすぼらしく震えの止まらないこの腕が、ツイを離そうとしない。向こうの世界を捨ててもいいと考えていたはずなのに、心も体もあっちこっちに矛盾して僕の言うことを聞いてはくれない。
「案外タフだな。いや、魂の強度に引っぱられているのか」
下から見上げているのに見下したような声音で雨露さんがそう言い放った。彼は周りにあるモニターに何かを入力して、それからまたこちらを睥睨する。負けじとその圧を押し返す気概で尾の先へとにじり寄って行けば、鼻白んだように「なぜそこまで」と吐き捨てた。
「僕だって分かんないよ、どうして止まれないのか・・・でも貴方のやろうとしていることが誰の幸せにもならないって、間違っているんだって、僕の魂がそう叫んでいる気がするんだ」
今まで見てきた世界を思い出す。ちっぽけな僕が生きるには苦しくて灰色で、どこまで見渡しても悲しみが不平等に降りそそぐ世界だ。そんなもの、簡単に諦めて捨ててしまえると思っていた。
だけど、僕の背中を押した手はやさしくて温かかった。消して然るべきものでは決してなかったはずだ。
僕を傷付けるものだと思っていたあの手は、本当は僕をすくい上げようとしていたのではないだろうか。背中を押して、倒れそうな心を守ろうとしていたんじゃないか。臆病な目を曇らせて見落としてきたものが、いくつもある気がした。
「雨露さんは?本当に現実が憎いの?ううん、憎いのは本当に現実そのものなの?」
雨露さんは何も答えない。代わりに、まるで彼の心を表すように大蛇がその身を振り乱す。僕は折り重なる白樺の木と自分の体の間にツイをはさんで、振り落とされまいとしがみついた。
『アイムヒアバージョンアップまであと五分』
『警告 現実世界は消失します』
『警告 現実世界は消失します』
幼声に近い機械的なアナウンスが、不快なアラート音と共に響きわたる。
雨露さんが操作するモニター画面は真っ赤に染まり、その上部にはダウンロードバーのようなものが大きく表示されていた。おそらくそれが満ちてしまえばすべてが終わるのだろう。
「・・・。」
あと五分。自分がやるべきことは分かっている。
出来ない理由なんて考えるな。
怖くても、痛くても、たとえ情けなくとも、今―――やるんだ!
「う、うああああああああ!」
大蛇の猛勢の中、蹴り転がる勢いで尾を駆け下りる。ところどころに突き出た枝が容赦なく僕の肌を引っ掻いて、赤い線をひとつ、またひとつと増やしていったが、今さらそんなことに臆するはずもなかった。脳内には相変わらず呪詛のような言葉が侵食し、枝による擦過傷が増えるたび悲しみが濁流のように押し寄せてくる。けれど、たとえ冷たい波に何度のまれそうになろうとも、そのたびに自分を支えてくれた人達のことを思い出せば、心はあたたかな明かりを灯して蘇った。
きっと今の僕は無謀や蛮勇という言葉がお似合いなのだろう―――でも、だからどうした。僕はそれ以上の勇気を仲間たちからたくさん貰ってきたのだ。戦わない理由も、頑張らないための言い訳も、もう必要ない。
ただ一人の人間として、僕は世界を受け入れる。
「この・・・矛盾だらけも大概にしろよ!」
彼の言うことは皺ひとつない正論だ。もっと早くに気が付ければよかったと、自分の愚かさが心底悔やまれる。でもだからといって、その後悔に怯むことはしない。矛盾も後悔も未だ躊躇する気持ちまで抱えたまま、ほとんど転がり落ちるようにして、僕の足はやっと地面を踏みしめた。着地に失敗したせいで、一歩、一歩と足を動かすたびにじくじくと痛みが滲む。それでも行かなくては。
腕に抱いた宝物のような少女に視線を落とす。
「僕はね、ずっと世界中の誰にも許してもらえないと思っていたんだ。そして、そう思い込めば逃げるのが楽になった」
この命は近付けば傷つけ合わずにはいられなくて、遠ざかれば孤独と引き換えに安寧を得られた。それが必然だと思っていたし、実際正解に近かったようにも思う。
でも、本当に僕がしたいことは、するべきことはそうじゃなかった。
僕はずっと、ただ居場所が欲しかった。
それを手に入れる為には傷つけ合う以上に、分かり合わなければいけなかったんだ。
なのにそれを無理だと決めつけて遠ざけた。
最初からどこにも背負うべき罪なんてなかったはずなのに、勝手に敵を作って自分に罰を下し、魂が軋む痛みで赦しを求めた。他人の居場所を嫉視してばかりで自分の心にある汚れた水槽をもう何年も掃除していない。そんな風に生きてきたせいでどんどん塵がたまり屈折して、今となっては元の形が分からなくなるほど埋もれて歪んでしまっていた。
降谷流星を大切にしていなかったのは他の誰でもない僕自身だ。僕は僕が生きてこそ輝くこの生命を、かけがえのないものとして扱ってあげるべきだった。誰かにその役目を押し付けても満たされるわけがないのだ。だって、僕の魂は他の誰でもなくずっと僕自身を待っていた。
「僕は降谷流星を否定して殺すんじゃなくて、降谷流星を受け入れて生きなければいけなかった。卑屈で嫉妬深くて矛盾ばかりの最低な人間だけど、でもそれが僕なんだ。僕は、降谷流星なんだ」
血が流れている僕は生きている。血の流れる世界で僕は生きていく。だけどこの世界を手離すことは身を斬られるよりも痛くて怖い。きっと雨露さんのこの計画を阻止したら、僕は灰色の世界で何度も涙を流すだろう。そして、このまま何もせずに終われば、僕は灰色の世界を思って泣くのだろう。大嫌いだった向こうの世界で知りたいことが今はたくさんあるから。
「来るな・・・やめろ、止まれ」
「ごめんなさい。でも、こんなこともうやめて下さい」
大蛇が首をしならせる。てっきり振り下ろされると思って身構えたが、予想に反して大蛇は空気がぬけたように弱々しく首を傾け、鈍い動きでその場に脱力するだけだった。その様を見て雨露さんがあげた驚愕の声もむなしく、白樺の表面には亀裂が一筋走った。契機は細く軽微なものであったが、それはやがてゆるやかに全体へと広がってゆく。
「お前、なんで・・・魂の輝きはとうに失われていたはずだ!なのになぜ今さら!?」
彼がなぜこんなに驚いているのかは分からない。でも僕はその輝きというものを何度も間近で見てきたのだから、何も不思議に思うことはなかった。
「なぜ?そんなの決まってる」
太陽のような友達が言っていた。
「輝かない命はない」
奇跡のような少女が言ってくれた。
「僕の命は、僕が生きてこそ輝くものだから」
目を細めてたじろぐ雨露さんは、何かに怯えているようにも見えた。「来るな!」彼は威嚇するように声を張って、懐から一挺の銃を取り出した。銃口はまっすぐ僕の頭を狙っている。「来るなよ」撃とうとしているのは彼の方なのに、その顔は悲壮な色に染まっていた。
カチッと音がして、すぐに銃のセーフティが解除されたのだと分かった。彼はきっと数秒後には渦巻く感情を捨てて撃つだろう。まだ指はトリガーにかけられていない。どちらからともなく浅い呼吸を吐き出した。
雨露さんの指が動く―――その一瞬、気絶していたはずのツイが、彼に向かって素早く飛びかかった。
パン!と乾いた音が響く。「は、」と空気を揺らしたのはどちらが先だったか。銃口はあさっての方向を向いていた。その腕を取り押さえているのはツイだった。
息をつく間もなく、高く澄んだ声が僕の脳を叩き起す。
「はやく!」―――そうすることにもはや迷いなどなかった。ここに来る前にポケットに入れていた、砕けた星をぎゅっと握り込む。手のひらがじんわりと熱を帯びた気がした。すると星はまたたく間に強い光を放ち、あたりを燦然と照らし出す。雨露さんはそれにひどく取り乱しながら叫換した。
「私達はただ幸せになりたいだけだ、それの何がいけない!?お前だって同じだっただろうがッ!」
ああ、そうだ。残念ながら僕は、誰よりも彼の気持ちが分かってしまう。だから彼を憐れんで同情し、傷を舐め合うように過ごす未来は充分に有り得るものだった。
だけど結局、それは幸せを模した孤独の延長に過ぎない。
「駄目だよ・・・駄目なんだよ。それでも、誰かを不幸にして得るものを幸せと呼んじゃいけないんだ」
彼の見開かれた目にありったけの光が反射して、そこからパラパラと小さな光の粒が滑り落ちる。眉根を寄せて大きく開かれていた口を真一文字に結んだ彼の顔は、まるで癇癪を諭された幼い子どものようだ。
僕はツイと目を合わせて、頷き合う。
そして、砕けた星の切っ先を、モニター目がけて―――思いきり振り下ろした。
画面に当たった瞬間、表示されていたダウンロードバーが割れて、それと同時に、大蛇の体が派手に砕け散った。
それからすぐに僕たちのいた空間ごと瓦解し始め、あちこちがひび割れ崩落していった。足場が崩れ、壁は無くなり、すべてが数瞬の出来事であった。
僕たちは空と大地の境目に投げ出されてしまう。
満天の星が上にも下にも広がっていて、まるで宇宙を泳いでいるみたいだった。
「ツイー!」
届きそうで届かないギリギリの距離間に苦戦しながらも、何とかツイの手を取り、そのまま共に落ちていく。生身の人間としては現状に恐怖心や焦燥なんかを感じるべきなのだろうが、今の僕は妙にスッキリとした達成感に包まれていた。目の前の彼女も同じなのか、やけに落ち着いた様子だ。
視線が交わり、何となしに無言で見つめ合う。ツイの瞳は変わらずうつくしいままで、海より深くて空より透明な青色をしていた。やっぱり雫ツイという少女は、世界中のどこを探しても見つからないほど特別で、奇跡そのものなんだ。
「綺麗」―――そう言葉にしたのは僕ではなかった。ツイが僕を見て言う、「綺麗だね」と。
「綺麗なのはツイだよ、僕は・・・」
「ユウ、ううん、きみは綺麗だよ。心がどれだけひび割れても、砕けても。ずっと誰かの傷を肩代わりしてきたんでしょう?」
どうしてこの子は、こんなにもやさしい生き物なんだろう。ぼやけていく視界の奥で、やさしい眼差しが光と共にゆらめいた。
「私ね、きみが自分には価値がないって言ったとき、それがどうしようもなく悲しくてやるせなかった。きみはこんなにも綺麗なのに。だからね、その傷口を新しい思い出でふさごうと思ったの。そのやさしい瞳に宿る情景が、私の知らない悲しい影じゃなくて、私ときみで折り重ねた思い出で埋まりますようにって」
互いの額を合わせて、祈るように手を握る。触れたところから僕の想いがぜんぶ伝わればいいのに。冷たくもなくてあたたかくもないその肌に、僕の熱が溶けてくれたらどれほど幸せなことだろう。
「ありがとう。ここでの思い出は僕にとって一生の宝物だよ」
そうして僕たちが笑い合い抱きしめ合っていると、突然ふわりと、体がやわらかい何かに包まれた。驚いたのは本当に一瞬のことで、僕たちはすぐに歓喜の声をあげる。
「ニャルガー!良かった、目を覚ましたんだ!どこにもいないから心配したんだ」
「ずっとお傍におりましたよ。まぁ、眠っていたので自発的にそうしたのではありませんが」
無事に目を覚ましたらしいニャルガーは、大きな半球体になって僕たちを包み込んだまま落下していく。少しだけ飛び出た顔をキョロキョロと上下左右に動かしながら。僕が「ずっと傍にって?」と首を傾げれば、それに答えたのはツイだった。
「最初は遠くで寝かせておこうと思ったんだけど、暗くて見失いそうだったから・・・実はずっと私の服の内側に入れてたの」
それでやっと、どこからともなく現れた理由に合点がいった。すぐに目が覚めたのはたまたま運が良かっただけなのか、それともあの計画を打ち破ったからなのか。どちらにせよ嬉しいことに変わりはない。
「あ、見て!あそこ!」
ツイが指差したのは巨木の階段で、そこにはこちらに手を振る人影があった。ヒナタ、ルイ、ヴォルフ、リルリィの四人だ。その様子から元気なことが窺えて、安堵の息を吐く。
「ワ!」―――彼らの無事を喜んだのもつかの間、突然ニャルガーが急降下したことで意識は半強制的にその先へと向かう。当然と言うべきか、その先にいたのは雨露さんだ。僕たちは余力のすべてを込めるように彼の名を叫ぶ。その声が届いたのか、雨露さんは信じられないといった様子でこちらを凝視していた。
ニャルガーは空中に散在する瓦礫を足場にして、猛スピードで雨露さんのところまで飛んでいく。
あと数十メートル、数メートル、数十センチ・・・と近付いて―――ゼロ距離。雨露さんの体は、ニャルガーの内側へとあっという間に取り込まれた。
目の前には呆気に取られた表情の雨露さんがいる。そこまで時間は経っていないはずだが、体感時間としてはかなり久しぶりに感じる対面だ。
「間に合ってよかったです」
「ニャルガー、ナイスゥ!」
嬉々として声をかける僕たちに対して雨露さんは、まさに苦虫を噛み潰したような、という言葉がお似合いの顔をしながら口を開いた。
「どうして私まで助けた?あまつさえ、そんな風に喜ぶ神経が分からない」
そう思うのも無理はないし、そう言われるだろうなと予想はしていた。僕だって彼の立場ならきっと同じようなことを言っただろう。でも今は、それが的外れで見当違いな疑問であると理解できる。どうしてなんて聞くのはまったく野暮なことだ。しかし、それに答えを与えるのは僕の役目ではない。
「言ったでしょう?ニャルガーは雨露様が大好きなのです。ずっと一緒にいるのです。この名前も、居場所も、貴方様がくれたのですから」
これ以上に彼を救う言葉を僕は知らないのだから。
雨露さんは数回瞬きをして、それから口元を歪め、たっぷり時間をおいてからグッと息を飲み込んだ。俯いてしまったのでそれ以上の機微は分からないが、心做しか剣呑とした空気は和らいだように感じた。
ツイと顔を見合せて声もなく笑う。
彼を責める気持ちなんてどこにも、誰にもなかった。
単なる同情からではなく、彼がこの世界を愛する気持ちは本物だと皆痛いほどに理解していたからだ。それが雨露という人間が積み重ねた絆の形であり強さだった。
「おーい!こっちだよー!」
地上から何やら賑々しい声がする。
呼ばれた方へ目を向けると、アイムヒアのライバーたちや、この世界にいる動物たちが一所に集合しているようだった。彼らのまわりを踊る星や、その輝きにあてられた花々が誘導灯のような役割を果たしてくれている。
「本当に、綺麗な世界ですね」
心からの賛辞を贈ったつもりだが、残念ながらこの世界を創った張本人からの反応は得られなかった。雨露さんはまだ顔を上げない。ずっと下を見つめたままだ。届くといいな、という願いを込めて僕は続ける。
「貴方は貴方なりの必死さでここを守ってきたんですよね。やってしまった事や考え方は間違っていたかもしれないけど、成し遂げてきたことは間違いじゃないと思います。貴方がいたおかげで、皆も僕もここにいるんですから」
「・・・ああ」
たった一言。けれど、その一言を吐き出すのに彼がどれほどの思いを噛みしめているのか考えると、自然と口角が上がった。
それ以上は誰も言葉を発しない。
そうしてやっと僕たちは、アイムヒアの地上へと静かに降り立つのであった。
*
「すまなかった」
そう言って雨露さんは元々曲がり気味だった背中を、も少しまるめて頭を下げた。これには想定外で、謝罪を受ける心づもりなんてなかった僕は慌てるあまり、ついルイにヘルプの意を込めて視線を飛ばす。すぐにそれを受け取ったルイはクスクスと笑いながら雨露さんの肩を軽く叩いて、彼の頭を上げさせた。
「こういう時は握手かハグですよ、雨露さん」
若干からかい混じりではあるが、雨露さんはその悪戯心には気付くことなく「そうか」とだけ呟いて、こちらに手を差し出した。彼の後ろでルイやヴォルフが残念そうな顔をしていたのは、黙っておこうと思う。雨露さんの手は熱くも冷たくもないが、僕の手を簡単に包み込めるくらい大きな手だった。
「さて。この先を行けば、きみは元の世界へ帰れる」
「案内人はツイ様におまかせします」
初めてアイムヒアに来た時のことを思い出す。そういえば、ツイに連れて来られた時もこの長い階段を渡ってきたっけ。
僕は長い階段の頂上で、アイムヒアの皆と向き合っていた。事情を知るライバーも、そうでないライバーも、全員が見送りに来てくれたことが嬉しくて、なるべく皆の顔を覚えていられるようにと今の光景を目に焼きつける。
これが最後だと思うと、言いたい言葉が次から次に溢れてまとまらない。まさか長々と演説をするわけにもいかず、口を開けては閉じてを繰り返した。そんな心情を察してか、皆は口々に励ましと別れの言葉をかけてくれる。「元気でな」「離れててもひとりじゃないからね」そんな彼らのやさしさに背中を押され、やっと僕は一番伝えるべきことを思い出した。
精一杯の笑顔で、世界に向けて手をふる。
「ありがとう、さようなら!」
感謝している。尊敬している。ヒナタの明るさも、ルイの包容力も、ヴォルフの賑やかさも、リルリィの強さも、ニャルガーの誠実さも、雨露さんの必死さも。皆のすべてが大好きだった。
ずっと見ていたかったアイムヒアの景色がどんどんぼやけていって、皆の姿が見えなくなる。そして僕の体はここへ来た時と同じように眩い光に包まれた。花火のような弾ける音と、左手にはやわらかな感触。これは何度も触れてきた愛しい手だ。
クリアになった視界にはあの時と同じ白い空間が広がっていて、アイムヒアの人達はもうどこにもいない。目の前には淡い青が揺れていた。僕の手をひいて前を行く彼女の後ろ姿を、ぼんやりと眺める。
僕はこの子からたくさんの感情を教えてもらった。今まで見落としていた大事なものを一緒に拾い集めてくれた。心から笑って、心から愛しく思えた。本当に素敵な時間だった。
そんなツイともここでお別れだ。
これが最後なんだ。
そうか、会えないんだ。
もう二度と―――先のことをリアルに想像すると鼻の奥がツンとした。心の端っこにいる子どもの自分が嫌だ嫌だと駄々をこねている。そして心の冷静な部分では、しまった、と頭を抱える自分もいた。少し前までの決心が嘘みたいに滞って、僕の体はブレーキをかけられたみたいに立ち止まった。
異変を感じてこちらを振り向いたツイの顔が、驚きからすぐに困ったような微笑みに変わる。きっと、こちらの心情など手に取るように分かっているんだろう。だから少し困って、説得の言葉を考えている。そういう顔だった。
その顔を見て、どうせならほんの一滴でも涙を流してくれたらな、という落胆めいた感想が胸中に湧き上がった。だって何かひとつでも同じものを見いだせたなら、きっと現実に仮想のきみたちを潰されずに済む。そして質量を持たない命の証明には、世界よりも重いきみの涙こそがふさわしい。
立ち止まったままの僕に、「ねぇ」と穏やかな声がかけられた。そんな風に、僕の葛藤や考えなんてお見通しとでも言うような、やわらかく諭すための声色を出さないでくれ。散々解されてきた心が抗えるはずもないのだから。静かに受け入れて、耳を傾けるほかなくなってしまう。
「私たちの姿形が仮想から生まれたものだったとして、じゃあ私たちの命や心は、すべてまがいものだと思う?血が流れないものは命ではなくて、涙を流さないものに心はないのかな?」
虫は。花は。海は。大地は。
生きているきみ達は涙を流さない。
握りしめたその手から伝うのはどうしようもない無機質の空白だった。
たとえば僕が千の技術を手にし、万の言葉を尽くしてきみの魂を証明できたなら―――少なくともきみは平らになんてならないのかもしれない。
「どうして人は、命に温もりを求めてしまうんだろうね」
きみの魂を肉付ける方法を、僕はまだ知らない。
―――でも。
「死ぬまでずっと、きみの手のぬくもりを覚えていられるかな?」
そうすれば、きっと。
「温度なんて感じないんでしょ?」
「あるよ。だって、ほら。こんなにも胸があったかい」
そうだ、ずっと胸の内にあるこれこそが、何よりも確かな魂の証明じゃないか。彼女らはまがいものなんかでは決してないと切ないほどに知っていたのに、今さら何を怯える必要があったのだろう。
「・・・ほんとだ。あったかいね」
そう言ってツイはふわりと笑い、僕の頬を濡らす涙をその細い指先で拭う。
「ねぇ、こうしよう。これから先きみが流す涙はぜんぶ私だと思うの。悲しい時も、寂しい時も、幸せな時だって、そうすればずっとすぐ傍で分かちあっていられるでしょう?」
「・・・うん。そうだね、そうしよう」
突飛な提案には慣れっこだ。いつもこの子らは、誰かを笑顔にするために全力だった。そんなところも好きだった。今、僕は上手く笑えているだろうか。
「僕の本当の名前、流星っていうんだ。流れる星って書いて、流星」
「流星。素敵な名前だね」
「きみならそう言ってくれると思った。だからお願い、最後にもう一度呼んで、ツイ」
透けていく足元に、もうあまり時間が残されていないことを確信する。僕の体からはたくさんの光の粒が舞い上がり、二人のまわりを埋めつくした。ツイの瞳がその光を反射させてあまりにもツヤツヤと輝くものだから、消えていく最後の最後までそこから目が離せなかった。
「流星、だいすきだよ」
―――僕も。そう呟いて、僕は笑った。
*
瞬きをする。
一回目、白い世界。
二回目、白いのはモヤだと気付く。
三回目、モヤが晴れていく。
四回目、天井が見えた。
「痛た・・・どこだここ」
厳密には、どこかと言えばどこからどう見ても病室なのだが、はたしてなぜ僕はここにいるのかっていうことだ。
首だけを左右に動かして室内を観察する。撮影のセットなんかで使いやすそうな、典型的な病室の風景。分かりやすく花瓶に花まであるが、これは誰かのお見舞い品だろうか。そんなことをしてくれるのは一人しか思い当たらないが―――「りゅ、流星!」スライド音が最小限に抑えられるタイプのドアだったのか、声をかけられるまで人が入ってきたことに気が付かなかった。
僕の顔を見るなり早足でやってきたのは結だった。うしろにはなぜか久野もいる。結はすぐにナースコールを押して、繋がった通話口に僕が目を覚ましたことを伝えた。するとすぐに、「分かりました〜、すぐ行きます〜」と、間延びした高い声がスピーカーから聞こえた。
「一昨日の放課後からずっと眠ったままだったんだよ・・・目が覚めてほんとによかった」
「一昨日の、放課後・・・―――あ」
僕はそこでやっと記憶を取り戻す。
あの日のこと、アイムヒアでのこと、今までのこと。ひとつひとつを思い出すたびに胸焼けを起こすくらい、充足感と喪失感が内側を満たしていった。
ベッドサイドテーブルに置かれた備え付けの鏡に目をやる。特に目立った変化はないようだが、どうやら僕はあれから三日間も眠り続けていたらしい。あの世界にいる間は時間を気にする暇もなかった。もし流れる時間に差があるなら・・・いや、気にするべきことは他にもたくさんある。たくさんありすぎてどこから手をつければいいのか分からないほどに。
痛む気がする頭をおさえて、思わず出そうになったため息を、音を立てずに飲み込んだ。
「二人はさ、根っこの臆病すぎるところは似てるけど、その誤魔化し方とか虚勢のはり方は正反対だよね」
結はそう言いながらベッドの横に椅子を二つ並べて、流れるようにしとやかな動作で着席する。それから手のひらをもう片方の椅子に向けて、久野をじっと見た。「どうぞ」という仕草だ。そこまで整えられては久野も大人しく従うしかないのだろう、彼は意を決したように眉をキリッと上げてそこに腰を落とした。
「・・・今さらごめんって言うのもズルいか。でも、本当にごめん。無神経に傷付け続けてたこと」
違うよと言おうとして、つっかえた喉に邪魔される。無神経に傷付けたと言うが、それを言うなら僕が抱いていた気持ちだって相当に身勝手なものだ。気を失う前、久野に対して言うべきではないことを言ってしまった。アイムヒアでのことがなければ今頃いつものように逃げだして閉じこもっていただろう。そうしないのは、共に立ち向かった人たちと、対峙したあの人との思い出があったからだ。結局のところ雨露さんに伝えた言葉は、現実で生きる自分のための言葉でもあった。
カラカラに乾いた喉を無理やり唾液で潤し、改めて声を出す。
「ちが、う。僕の方が傷付けた、ごめん、たくさん酷いことを言って・・・久野はずっとやさしかったのに、そのやさしさを無下にして」
「それはさ、違うよ」
すかさず飛んできた否定に、え?という小さな音が口からこぼれた。虚をつかれて固まる僕をよそに、彼は続ける。
「そんないい人間じゃないよ。降谷はさ、俺のこと勘違いしてんだ」
久野は自嘲気味に笑う。こんな彼を見るのは初めてだった。しかしその目には相変わらず、生命力に溢れた力強さが宿っていた。
僕は無言で見つめ返し、さらに言葉の先を促す。
「俺、まだ折り合いなんて全然つけてねーんだ。前にも進めてない。降谷と一緒だよ、ずっと。俺は降谷が思ってるようなやさしい人間じゃない。馬鹿で空気読めなくて弱くて・・・だから自分と共通の事情を抱えてる降谷なら分かってくれるなんて身勝手な考え方をしてた。降谷をほっとけないとかじゃなくて、ホントはただ自分が寂しかったんだ。あの日も、真実がどうのこうの以上に〝お互い辛いな、でも俺たちは友達のままだよな〟っていう傷の舐め合いをどっかで期待してたのかも・・・ハハ、恥ずいしダサいな」
久野の口から語られた本心。それは僕の想像とは違ってある意味、稚拙で年相応な考え方であった。
僕の中で久野光といえば、思慮深くて大人っぽくて器用に人間関係を熟せる絶対的な人間だった。でもひょっとしたら、もしかして、彼は自分が思っている以上に子どもで不器用な奴なのかもしれない。あれだけ劣等感を刺激されてきたその真っ直ぐさも、今は少しだけ形が違って見える。
「・・・僕たち、傷だらけだね。そっか・・・ずっと同じだったんだ」
命はたった一つで同じ人生なんてない。けれど分かってくれる人がいて、分かろうとしてくれる人もいる。もちろん失った時間は戻ってこないし、卑屈に染まった思考がすぐに叩き直されることもないだろう。でも、僕は前ほど久野光のことが嫌いではなかったし、降谷流星を後ろめたくは思わなかった。
「ね、私も話していいかな」
それまで静観していた結が右手をスっと上にあげる。ゆっくり頷いてみせれば、結は神妙な面持ちで口を開いた。
「流星は覚えてるか分かんないけど、私が昔迷子になって公園で泣いてた時、私の親が迎えに来てくれるまで流星がずっと一緒にいてくれたことがあったでしょ?」
たしかに、そんなこともあった。近くの公衆電話から結の家に電話をして、入れ違いにならないようにと公園で待機したんだ。結を泣き止ませようとしたけどどうすればいいのか分からなくて、とにかく手を握り続けるしか出来なかった記憶がある。
「あの時から、次は私が流星を助けようって思ってたの。流星が学校にあんまり来なくなってからは、今度は私が隣にいるんだって勝手に燃えてた。事情も知らないのに・・・自己満足ばかりで流星の心を追い詰めてたよね。だから私も、ごめんなさい」
結はしっかりと頭を下げ、ほどなくしてその顔をこちらに向けた。凛とした姿勢とは不釣り合いな、不安と緊張を混ぜたような顔だ。いつだって正しくてやさしい彼女が見せた飾らないままの表情。僕たちはきっとまだまだお互いの知らない顔をたくさん持っている。知っていたつもりで、何も知らなかったんだ。
僕は彼女たちのことを勝手に決めつけて怖がっていた。ずっと隣にいてくれた理由なんて知ろうともしていなかった。逆にこの二人は、空っぽな僕に自分の自我を押し付けてしまった。
建前をかなぐり捨てて本音を伝えることはとても勇気がいることだ。僕はそれをあの世界で痛いくらい体験してきた。そして、二人は今こうして自分の心を明け渡してくれている。
だったら僕が選ぶべき未来は、これ以外にないと思った。
「久野も、結も。見捨てないでいてくれて本当にありがとう。それとずっと甘えていてごめん。あの・・・これからはもっとちゃんと生きるからさ・・・今度こそもう一度、と、友達になってくれないかな?」
僕のその申し出に、二人は「ずっと友達だよ!」と言ってくれた。食い気味に揃ったのがおかしくて誰からともなく破顔する。
窓から入り込む夕日のオレンジ色に包まれながら、僕たちはしばらく笑い続けていた。
「失礼しま〜す」
病室の扉を開けてやってきたのは医者と看護師だ。
恰幅のいい医者がテキパキと僕の状態を確認していく。いくつかの質問に答えて、逆に僕が知りたいであろう頭の怪我などについて話してくれた。曰く、たんこぶ以外の外傷や他の異常はなくただひたすら眠り続けていたらしい。
「念の為もう一日入院して、また明日詳しく検査をしましょう」
「それじゃあ何かあったら遠慮なく仰って下さいね〜」
役目を終えた医者はにこりと笑い、看護師を連れて病室をあとにする。看護師が扉を過ぎようとした時、「あら、もうお目覚めですよ〜」と、その先にいる誰かに向かって話しかけた。しかし一向に入って来る気配はない。僕たちの視線は自然とそこへ集中していた。
コンコン、と扉の外側を叩く音が響く。「どうぞ」と声をかければ、三秒ほどの間をおいてやっと登場したのは―――母さんだった。
僕と久野の顔がぎこちなく固まる。結も何かを察したようで、こちらを気遣うようにちらりと目線を寄越した。
「あ・・・もうこんな時間だし、二人ともそろそろ帰りなよ。お見舞い来てくれてありがとね」
何か言いたげなのを無視して念を押すように「また学校で」と告げれば、二人はお互いの顔を見合わせてから苦々しい表情を隠しもせずに「連絡もしろよな」と立ち上がった。
二人が病室を出る際に母さんとすれ違う。意外にも母さんはそちら(特に久野)に見向きもせず、ツカツカとヒールの音をたてながら僕のベッドまでやってきた。
キッとつり上がった眉と反比例して下がりきった口角。母さんはきっと僕が面倒事を増やしたことを怒っている。あのまま死んでいればよかったのにと思っているはずだ。
でも、もう今までの僕じゃない。母さんの前でも胸を張って生きていたいと言える。そうできる自分にならなくてはいけない。でなきゃ何のために向こうの世界と決別したというのだ。
言え、言え。伝えるんだ。
母さん、僕は―――「生きててよかった」―――「え?」
自分の唇に触れて確かめる。さっきのは僕の声じゃない。だったら誰が言ったのか。答えは目の前にある、簡単な話だ。ここには僕とこの人しかいない。でもそんなわけがないと、蓄積された時間がその答えを否定した。
「生きてて、よかったの?」
言うつもりじゃなかった疑問を口にする。ほとんど無意識に出た言葉だった。すると、それを聞いた母さんの顔はたちどころに色を変えてゆく。口角は相変わらずだけれど、眉尻はその口角と同じくらい下がっていて、白目はほんのり赤く染まっていた。それによく見れば髪の毛はボサボサで化粧だってしていない。事情を知らない他人からは強く自立した女性という印象を抱かれるような人だったから、今はなんだか知らない人みたいだ。
「・・・この三日間、あんたが熱中症で倒れたときのこと思い出してた。あのときも、同じ気持ちだったわ」
ぽつり、ぽつり、母さんは色のない唇からひとつずつ記憶を落とすように語りだす。
「息子まで失うかもしれないって思うと死にたくなるくらい辛かった」
「だったらなんで・・・」
どうして僕を必要だと言って、抱きしめてくれなかったの。
どうして普通に愛してくれなかったの。
「私なりに愛していたけど、だからこそ怖かったのよ」
胸のうちを見透かしたようなことを言われ、内心で狼狽える。泳ぐ視線とじわじわ滲む手汗を自覚したとき、ああ、そういえばいつもの僕はこうだったなと、妙な懐かしさを覚えた。
「気付いたら後戻りできないところまで来てて、愛され方も愛し方も知らないまま大人になったから。今さらどの面下げてって思うと、日に日にあんたとどう接したらいいのかも分からなくなってた」
その瞳の奥に、あの人―――雨露さんの影を見る。捻れ拗れたところがそっくりだ。
彼を重ねてみれば、不思議と母さんがどんな心境でいたかをすんなりと想像することが出来た。きっとこの人なりに必死で、それ故に間違えても頑なで、一人で軌道修正が出来るほど器用じゃなかったんだろう。雨露さんもそういう人だった。
とはいえ、だからといって今までのことを簡単に水に流せるかと問われれば難しいが、いい加減、僕も自分から囚われにいくのを卒業しなければ。
「・・・こんなこと本当は言うつもりなかったの、最初は。でも一昨日あんたの担任から電話がきて、そのときにちょっとね。色々言われたわ」
「え?」
正直、担任が介入してくるなんて思いもしなかったものだから、その事実はそれなりの不意打ちとして僕に衝撃を与えた。かなり間抜けな声を出してしまった気がする。
母さんは乱雑にはねていた髪の毛をかきあげ、フッと短く息を吐いてから続ける。
「さっき言ったのと同じようなこと言ったのよ、今さらどの面下げてって。そしたら、〝拒絶されたっていいじゃないですか。私たちも大人以前に人間だからそりゃ怖がったり間違ったりもします。でもそのままにしちゃいけない。間違ったなら謝りましょう。子どもの心が離れたなら貴女から近づきましょうよ〟・・・って」
「黒井先生が・・・」
まさかそんな、あの担任が母さんを説得していたなんてありえないだろう。だが実際に母さんはこうして僕の病室に訪れて、そのどうしようもない胸中を語った。知らないままでいればいつかは離散でもしていただろう降谷家に、細くて拙いながらも繋がりの糸を作ってくれた。それが今後どう変わっていくかは僕たち次第だが、それは間違いなく重大な変化であった。
今日だけでどれだけ僕を取り巻く環境が変化したというのか。雨露さんがしたことの影響で現実が都合よく書き換わったのかと少し疑いそうになったが、おそらく変わったのは僕の方だ。僕の世界の見方が変わったんだ、アイムヒアのおかげで。だって、少し前までは久野が来た時点で頭は真っ白になっていただろうし、結の話をちゃんと聞かず、母さんなんて来た瞬間に逃げ出していたはずだ。
でも今なら穿った見方をせずに差し伸べられてきた手をしっかりと思い出せる。素直にその手を取る勇気さえあれば、世界の色はこんなにも変わるんだとつくづく思い知った。
「・・・いきなりこんなの信じられないわよね。今日は帰るわ、何かほしいものがあれば言って」
今、僕の心中は穏やかに凪いでいる。
アイムヒアの皆と会っていなければ、信じられるわけがないと突っぱねて、自分の価値をもっともっと低いところに落としていただろうか。それとも、今さら何を言っているんだと憤慨し、泣きじゃくってぐちゃぐちゃな感情をぶつけていただろうか。
椅子から立ち上がって扉の方へ向かう母さんの背中に「待って」と声をかける。心臓が耳についてるのかと錯覚するくらい喧しい音を鳴らす。
「あの、ひとつだけお願いがあるんだ―――」
*
「引っ越しの荷物ってこれでぜんぶー?」
「うん!あ、それ適当に置いて大丈夫だよ」
あれから二ヶ月が経った。
僕は今、一人暮らしのために借りたマンションで荷解きの真っ最中だ。
あのあと、母さんにしたお願いはこれだった。
「まさか降谷が一人暮らしを始めるなんてなー。高校卒業したらまた引っ越すの?」
「うーん、そのときの状況によるかな。やりたいことが見つかったから、そのための進学先か就職先によって・・・って感じ」
「へー!すげぇじゃん!頑張れよ」
手伝いに来てくれた結と久野にペットボトルのお茶を差し出してから、まだ何もない床に三人で円を描くように座る。本当にこの二人には感謝が尽きない。大切な友人だ。
「流星のお母さん、一人暮らし許してくれてよかったね」
「うん。手続きもだけど、僕が自分でお金を稼げるようになるまで費用を工面してくれるし、すっごく有難いよ」
今日まで二ヶ月の期間が空いたのはなるべくあの家で母さんと過ごすためだった。母さんは僕のお願いに少し寂しそうな顔をしていたけれど、僕が悪感情による理由でそれを願ったのではないと説明すれば、次の日にはめぼしいマンションをピックアップしてくれていた。罪滅ぼしの意味もあったのだろう。家ではまだお互いぎこちなかったけれど、降谷家はもう薄暗くて汚れた水槽ではない。
「なんかすっかり別人だよな」
「ほんと。あの日からなんていうか空気が変わった気がする。なんで?」
「それは・・・」
何だか照れくさくて、短く切りそろえた前髪をいじる。これは最近よくする癖だと、この前結に指摘されたばかりだった。
「アイムヒアの皆に、たくさん勇気をもらったんだ」
懐かしむようにそう言えば、結はぽかんとした表情でこちらを見ていた。
「えっと、アイムヒア?って何?」
「・・・あ」
嫌というほど知っているこの感覚。自分だけが世界の異物になったような居心地の悪さだ。しかし奇妙な体験に慣れてしまった僕の脳は、いっそやるせないまでに急速に冷えていった。
「ごめん、何でもない」
笑って、近くにあったダンボールを開ける。なんとなく触れるべきではないと察してくれたのか、結はわざとらしいくらいパッと顔を明るくさせて「そっか」と言った。
結を家に送ったあと、すっかり暗くなった外を一人歩く。
「やっぱりどこにもいない・・・」
あの子たちの名前で埋まった検索履歴。携帯の画面に映るのは見知らぬバーチャルライバーたちばかりで、どれだけスワイプしてもその姿を現してはくれなかった。
実のところ―――目を覚ましたあの日、僕はすぐにツイたちの配信を探したのだ。でも、どういうわけかアイムヒアの存在だけがこの世界から綺麗さっぱりと消えてしまっていた。
目を閉じればあのうつくしい景色や皆の笑顔が鮮やかなまま浮かび上がるというのに、これでは自分だけが夢をみて、幻に縋っているみたいだ。
目を開けてもそこにはただ雑踏が広がるばかり。じわじわとまつ毛が水分を含んで、外灯の光をぼやけさせる。
「あー・・・やっぱ、キツいなぁ」
顔を見れない、声を聞けない、そんな中であとどれくらいの時間、鮮明に覚えていられるのだろう。
胸元をぎゅっと握りしめる。
大丈夫、まだあの子のぬくもりは消えていない。
『たとえ世界が違ったって、またいつか会える気がするの。ううん、どんな形でも、たとえ宙より遠くても絶対に会いにいく』
「―――会いたいよ、ツイ・・・」
今すぐ叫び出し、ぐしゃぐしゃに大地を蹴って、全身を地面に打ちつけ泥を噛み、いっその事この心と同じように身体もバラバラになってしまいたかった。
「う、あああ・・・!」
心を穿つ激情は、両の眼から溢れ出す他に行き場を知らないのだ。
自分から流れる透明のそれを取り零さないように、両手を顔に押し当てて必死に塞き止めた。
「これ以上僕から溢れていかないで。一滴だって、君を失いたくないんだ」
その場で蹲り顔を伏せる。
嗚咽まじりの願いは冷たいコンクリートに吸い込まれていった。
―――ふ、と。
外灯が一斉に消え、街中が暗闇に包まれた。突然の停電だ、しかもおそらく大規模なもの。そこらじゅうで困惑の声が飛び交っている。あたりをキョロキョロと見渡しても暗くてよく見えない。
ほどなくして、小さな明かりがチラチラと点滅し始めた。
喧騒の中やっと僕は立ち上がる。同時に、街は燦然とした明るさを取り戻した。
目が潰れそうなくらい強い光がカッと街を照らして
それから―――「ユウに届きますように」
声が聞こえた。やさしくて懐かしい声だ。
「あ・・・」
誰かがビルに設置された街頭ビジョンを指さした。
そこには今まさに熱望していた、会いたくて会いたくてたまらなかった、アイムヒアの面々が映し出されていた。
「やっと繋がった・・・!ニャルガー、このやり方なら一方的だが干渉できそうだ。今後死守するぞ」
「アイアイニャー!雨露さん、お疲れ様でございます」
「え、これ向こうからは何もできねーの?ビデオレターみたいな感じ?照れる」
「リアクションを受け取れない生配信みたいな感じじゃない?おーい、ユウ〜」
通行人が何だ何だとざわめく傍らで、僕はその画面を食い入るように見つめていた。ぐっと唇を口の中にしまいこんで、感涙にむせぶ心を抑えるのに必死だった。気をぬけば恥も外聞も捨てて乱舞してしまいなくらい、内心は歓喜の渦に包まれていた。
「ユー聞いて、ヴォルフったらね〜」
「アーー!やめなさいよ!これ聞いてるのユウくんだけじゃないんですから!」
「ユウだけならいいんだ、アンチ・コルの研究資料の上にアイスこぼした話しても」
「おい、ちょっと待て。私はそんなこと聞いてないぞ」
「あ!やば!」
変わらない、いつもの皆だ。いや、雰囲気のかなり丸くなった雨露さんには少々驚いたが、仲良くやれてるようで安心した。むしろあの雨露さんが振り回されている空気さえ感じるそのやり取りに、つい堪えきれず声を出して笑ってしまった。
「ユウ。私たち、ここにいるからね」
そう言ってツイは胸元に手をかざした。
不思議と、おんなじところがじんわり温かくなった。
「ずっとずっとここにいる。きみのすぐ傍、きみの心に届く場所で生きてるから」
今度はまっすぐ前に手を伸ばす。僕もそれにつられて画面に向かい手を上げていた。触れることのない膨大な距離が僕たちの間に横たわっている。でも、僕は伸ばされた手のぬくもりを確かに感じていた。
「忘れないで、信じていればきっと奇跡は起こせる。リアルもバーチャルも越えてきっと会える。だから、またね!」
画面が徐々に白い光で埋まっていく。そのまま皆は惜しむ間もなくあっけないまでにすんなりと姿を消した。かわりに画面からは大量の光の粒が溢れ出し、それらは夜空を昇っていく。光の粒は弾かれたようにちいさなちいさな爆発を起こして、そして夜空にパッと大きな光の花が咲いた。乾いた夜を彩る大輪だ。「夢みたい」という誰かの呟きがやけにはっきりと耳に届いた。
僕はもう涙を堪えないし拭わなかった。ぐちゃぐちゃになった泣き笑いの顔で誓う。
「今度は僕が会いにいくよ。何年かかっても、何十年経っても諦めない。奇跡さえ越えて、バーチャルのきみたちに会いにいく」
それまで誰にもきみたちの魂を否定させない。
きみたちは生きている。
血ではなく、魂が脈動している。
涙は流さないが、ぬくもりを分かち合える。
きみたちは生きている。
僕はそれを証明してみせると決めたのだ。
今すぐにでも伝えたい人がいて、届けたい想いがあるから。
そう―――仮想のきみへ
To the virtual/繝ヲ繧ヲ イエイヌ @ieinu0001
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