草森ゆき

 濃い血の味がした。歯が折れたのだと思った。眠ってしまいたかったが許されず、髪を掴んで引っ張られた。

 おれの顔を覗き込むやつの顔はあまり見えない。でも兄貴だとは知っている。先程からずっと殴り続けられていて、いつまでも口の中に血が溜まっていた。吐き出すと家の床が汚れたが、はじめからおれの鼻血や抜けた髪が散らばっていて、これ以上汚れたところで意味はなかった。

 兄貴が帰って来てからほとんど毎日こうだった。

 少年院に入っていたのだが、更生もくそもありはしない。母親ははもう逃げた。父親も最近帰って来ないから、恐らく逃げたのだと思う。

 おれだけが家にいて、兄貴に殴られていて、でもおれは逃げるところなんてひとつも思い付かなかった。


 昼過ぎに中学校に登校した。授業中で、廊下は静かだった。教室にはいつも行かない。保健室に向かって、中を覗いて、養護教諭がいないことを確認してからそっと入った。

「よお村上、今日もボロボロだなー」

 ベッドで勝手に休んでいた島崎に声を掛けられた。黙ったまま隣のベッドに座ると、島崎は体を起こして大きなあくびをした。

 島崎はおれの唯一の話し相手だった。でも仲が良いわけではなく、暇が潰せるくらいのもので、あまり物同士がなんとなく付き合っている程度の関係だ。

「お前の兄貴、ガッコー行ってんの?」

「行ってるわけないだろ」

「そうだよなー」

 兄貴はずっと家にいるわけでもない。島崎のような不良よりも、更にたちの悪い奴らとつるんでいると、本人から聞いた。閉店後の個人商店に押し入って商品や売り上げを奪い取っているという。

 人間のクズだと思う。再逮捕まで我慢すればいいとはじめは考えていたが、どうもその所属している集団は、うまく逃げ回って中々捕まらないらしい。

 ここまでを島崎に話す。島崎はスマホを眺めていたが、おれの言葉が途切れると顔を上げた。

「お前、変な噂知ってる?」

 急に話が飛ぶのは島崎の普通だ。

「知らない」

 答えると、島崎はにやりと笑った。スマホを下ろして、おれの隣に移動してくる。ふっと煙草の臭いがした。島崎の服に染み付いているのだろう。

「気晴らしになる、おもしれー話でも教えてやるよ」

「……何?」

「商店街あるだろ。ちょうどその、お前の兄貴がいるやべー集団がよく強盗に行ってる商店街。そこ越えてさあ、空き地とか更地ばっかのさびれた学区外まで行ったとこに、あるらしいんだよ」

「あるって、何が」

 島崎は含むように笑い声を漏らした。それから言った。

「店の幽霊」


 放課後の中学校を出て、生徒に混じりながら通学路を歩いた。顔は腫れているしあざだらけだから、ちらちらと何人にも横目で見られた。慣れた視線だ。通常の通学路を外れて、商店街の方へと足を向ける。

 島崎の話はこうだった。商店街を越えたところにある更地ばかりの地帯に、見覚えのない建物が建っていることがある。それは何かの店で、入ることもできるらしい。

 でも建っている時間はわからない。昼に見たって話もあれば、夜に見たって話もある。一度帰宅してからやっぱり入ってみようと再訪しても、既にない場合の方が多い。ランダムだ。運が良ければ見られる代物だという。

 夕暮れの中の商店街は記憶よりも寂れていた。いくつか閉店したようで、シャッターの降りた店ばかりだ。閉店のチラシが貼ってある店もある。人の姿は少ない。ぎいぎいと音の鳴る自転車を押している老婆が、すれ違う際に澱んだ目をこちらに向けた。

 店のいくつかは、兄貴のいる集団に潰されたのだろう。このまま抵抗できず、死んでいく場所なのかもしれない。おれと同じだ。

 商店街を抜けると何もない場所に出た。雑草が伸び放題の荒地が続く。虫の声がした。夏だったな、とぼんやり思う。

 適当なところまで歩いて行ってから立ち止まる。辺りを見渡してみるが、特に何も建ってはいない。店の幽霊というものを見てみたかった気持ちはある。でも、構わない。適当な更地に腰を下ろして、誰かが来るのをじっと待つ。

 すべて鵜呑みにするわけではないが、島崎は言った。

 そもそもその幽霊は、建っている時に誰でも見られるわけではない。数人のグループで訪れた際に、二人には見えたが他のメンツには見えなかったらしい。島崎自体も、一度だけ目にした。ビビって中には入らなかったが、その後に通り掛かった親子連れには見えない様子で、商店街に引き返してから戻ってみるともう何もなかった。でも入らなくて良かったと島崎は思った。中にいる最中に店が消えたとしたら、出てこられないんじゃないかと思ったからだ。

 おれはここまで聞いて、一つだけ思い付いたことがある。

 だからここで、呼び出した兄貴を待っている。


 夕暮れが冷めていって、辺りはじっとりと暗くなる。兄貴と兄貴の仲間が来たのは星が見え始めた頃だ。

 兄貴はおれのところに来るなり、無言でおれを蹴った。思い切り腹を踏み付けるような蹴り方で、腕で庇ったが関節がみしりと軋んだ。続けて二回蹴られて、おれが耐えている間、兄貴の仲間たちはゲラゲラと笑っていた。

「で、店ってのはどれだよ」

 兄貴は不機嫌そのものの声で言った。おれは地面に倒れたまま、無言で待った。どれだよ、と兄貴は再び言っておれの背中を何度も蹴った。背骨が折れるんじゃないか、と痛みのあまりに朦朧としながら思った。

 おれの考えが間違っているのなら、兄貴に殺されて死ぬ。合っているのであれば……。

「おい、あれじゃねえか?」

 仲間の誰かが言った。全身痛むがどうにか起き上がり、指されている方向を見た。こんなとこに喫茶店あったっけか。この時間までやってんの珍しくね。閉店作業中なんだろちょうど良いな。全員が口々に言ってそちらへと向かっていく。兄貴もだ。おれを一瞥して、何も言わずに歩き出す。

 何もない方向に向かって、全員が歩いていく。

 おれはそれをぼんやりと見ていた。雑草の広がる荒れた土地には夜の暗闇だけが満ちていて、夜風は少しだけ涼しかった。更地に足を踏み入れた奴らは一人ずつ夜の中に溶けた。一画に足を踏み入れた瞬間にふっと姿形が消え失せて、声すら聞こえなくなった。

 全員がいなくなった後は、虫の鳴き声だけが耳に届いた。おれはよろよろ歩いて更地の上まで行ってみたけど、何もなかった。雑草しかなかった。夜しかなかった。

 その場で朝まで待った。

 兄貴も、兄貴の仲間も、誰も帰ってこなかった。


 島崎の話を聞いて思ったのは、見える人間の傾向があるんじゃないのかということだ。

 グループ内で見える人間と見えない人間がいるからには、時間制でのランダムというわけではない。いわゆる霊感も関係ないだろう。この話を持ち込んだ島崎自体に、そんなものはないからだ。

 なら、どう分けられているのか。見えたらしい人間は主に島崎の友人で、見えなかったと思われる人間は極普通の親子連れ。これだけのサンプルだけど、ふと思い付いた。

 

 島崎を嫌いではないが、あいつは別に良い奴ではない。未成年で煙草を吸っているし、その煙草は盗んで来ることが多い。そんな島崎の友人も万引きや無免許運転などをやっていた人間ばかりだ。警察に補導されることも多いらしい。

 なら、兄貴達には見えるはずだ。殴られる生活をどうにか抜け出したくて、縋る思いで賭けに出た。ほとんど運任せだったが、結果はもう出た。兄貴も兄貴の仲間も中で何をやったのか、店ごと消え失せて影も形もなくなった。

 嬉しかった。朝日が昇る前の未明の時間、兄貴が消えた更地を眺めながらおれは笑った。いつの間にか虫の声は聞こえなくなっていた。風が吹いて、雑草がざらざら揺れた。おれはずっと笑っていた。クソ兄貴、二度と戻って来んなよ、酷い目にあって死んじまえ!

 

 叫ぶおれの目に光が映った。朝日はまだ登っていない。

 目の前にある喫茶店の中からは、橙色の光が漏れている。何かが割れる音がして、叫び声が聞こえてきて、窓辺に黒い人影がふっと現れる。

 兄貴の冷たい両目が、まっすぐにおれを睨み付けている。

 

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草森ゆき @kusakuitai

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