Walking pace

春風 ナグ*Harukaze Nagu

帰り道。

 私たちが電車から降りた頃には、既に時刻は午後四時を回っていた。大粒の雨によって無人駅のホームは、いっそう寂れている。ここから家までは、約二キロ。雨傘は一応、片手に持っている。

「迎えに来てもらおうか」

 永遠の雨音の中、父はそう語りかけてきた。どうやら、電話で母に迎えの車を頼むようだ。

「いや、いい」

 私は特に考えもせず、返答した。実際、私は車よりも歩く方が好きだ。自分の責任で、主体的に動いているような気がするから。

 なお、私は自動車を運転したことなど一度もない。なんせ高校二年生だから。

「ああ、そうか。じゃあ歩くよ」

 戸惑いを含んだ微笑を、父は浮かべている。私は不思議に思った挙句、無視することに決めた。黒の傘と、緑の傘が、開かれる。私の傘は、緑でもビリジアンのような暗いトーンをしている。補足しておくと新品だ。

 傘ごしに、半分だけ打ちつける雨粒を見つめていると、いつの間にか父は数歩先にいた。私も遅れて、視界不良の中へ突入する。傘を伝う振動が、胸の奥で騒めいた。



「オープンキャンパス、どうだった?」

 歩き始めて間もなく、不意に父が話しかけてきた。今日は午前中から、とある専門学校を見学するため、電車に乗って隣県まで足を運んできた。情報系の学校で、事前の申し込み通り、プログラミングを体験したが……。

「なんか違った。校舎とかは良かったけど」

 正直な感想としては、プログラミングへの興味が、自覚よりも少なかったことに気づかされた。確かに、周囲に卒業後の進路を聞かれたら、情報系の専門学校、とは答えていたが、それが漠然としていたことは否定できない。経緯も考えてみれば、周囲から情報系の職業を勧められた後に、私はその業界へ関心を持つようになった。

 もしかすれば、本音では違和感を抱いていたのかもしれない。

 私は現に、こうして文を書いているが、プログラミングよりも格段に夢中になっている。本を読むことは苦手なのに、国語より数学が得意なのに、執筆だけは何となくで続けている。ライターになる気は、毛頭ないけど。

 それはさておき、私は父の横顔を窺う。またしても、精悍な顔つきで笑っていた。

「何かが違う、って分かっただけでも良いさ。通うにしても、朝早くから電車に乗らなければならん。しかも毎日だもんな」

 目の前には踏切があった。左右を確認すると、遠くに雨靄が立ち込めている。この線路の先は、見学してきた専門学校にも繋がっているのだろう。特急でおよそ一時間の道のりとは知っているが、具体的な距離感は掴めるはずもない。地図上では片手に収まっても、現実では片腕をどれだけ伸ばしても届きやしない。

 


 しばし、無言を保ったまま歩き続けていると、父がこちらを一瞥したように目の隅には映った。傘の柄を上昇させて、目と首を一瞬だけ片側に寄せると、しかしながら父の横顔しか見当たらない。私は急いで前方に向き直り、傘を深めに被った。

「まあ、お父さんが今の仕事に就いたのも、なりたくてなったわけではないさ」

 今度は私が失笑する番だった。先ほどは話すタイミングを窺っていたのだろうか。

 父が語り始めたので、私は大人しくする。雨音の中、聞き漏らさぬように。

「高校を卒業して、大学まで行って、なりたいものがなかったから今の職に就いた。現実は本当になるようにしかならん。だから、そこまで悩まなくていいとは思うぞ。ただ、何か本気でなりたいものがあるならば、勉強しなければならんさ。なりたい職業とか、今はあるかい?」

「えっと、決まってないから今は色んな学校へ体験に行ってるんじゃないの?」

 疑問を疑問で返すくらい、自分でもよくわからなかった。

「そうかい。ま、じっくり考えればいいさ。高校生なら、まだいくらでもやり直しが利く。それに比べ、お父さんなんて大変——」

 なんか自分語りを始めたので、そこから先は少しも耳を傾けなかった。

 ちなみに、父は町の役所に勤務している。就職した理由は、一般企業と違って倒産するリスクが少ないかららしい。でも、給料が減っていると、ときたま嘆いている。



 家までは残り一キロ。

 辺りは田畑が一面を占めている。田舎道ゆえか歩道が狭い。

 現在は父が先行して、私が後ろを歩いている。アスファルト舗装の道は、すっかり水びたしだった。靴下の肌触りに眉を顰めつつ、勢いの増した雨中を行く。

 ひとつ傘を傾ければ、灰色の空があった。

 複雑な波紋を描く水たまりを、ひたすらに避ける。

 遠くの山々は、白く霞みきっていた。

 父との間には、沈黙も流れている。

 この空間は、物思いに耽るには十分すぎた。私の心では、今日の経験が巡りゆく。

 在校生の表情に活力があったとか、丸坊主の先生の動きがコミカルだったとか。

 校舎の大きさはもちろんのこと、最寄駅からの経路とか、都会の街並みとか。 

 同じくしてオープンキャンパスに集まった子供たちの目つきとか。

 記憶を巻き戻せば、真剣な光を宿した目も、純粋に楽しんでいる目も、緊張と疑心暗鬼が混じった目も、面倒そうな目も、ひとりひとりに色々な想いが溢れていた。

 皆との接点は一つもない。知り合いですら、誰もいなかった。しかしながら、仲間意識を覚えてしまったのは、どうしてだろうか。——年齢が近いからか。——進路という選択を間近に控えているからか。——同じ時空を共有しているからか。——その全てが化学反応を起こして、私の精神に作用したからか。

 私は不意に、現実に焦点を合わせる。歩きながら見えたのは、大きさは変わらないはずなのに、年を追うごとに小さくなっていく父の背中。

 いくらかの思考を挟んだ後、私は胸中で、なるほど、と呟く。

 連想すれば、妹の背丈が母を追い越しそうなことも、高校の上級生を先生と見間違えたことも、オープンキャンパスで一時を分かち合った子供たちの力強い後ろ姿も、私のみならず皆が大人になっていくことの証拠だ。

 高校で机を共に並べる同級生も、いつかは大人になっていく。

 今まで通ってきた小中学校の同級生も、進学して就職して、大人になって働く。

 立派ではなくても、がむしゃらだったとしても、各々が自分の歴史を歩んでいく。

 誰かは夢をかなえて、誰かはあきらめて、誰かは父のように結婚して私のような子が生まれて、誰かは幸せに、誰かは不幸せに、誰かは何十回目の年をとって、誰かは誰かの死を悼んで、誰もがいつかは亡くなっていく。世の理をなぞるように、誰もがいつしか消えていく。

 いつの日か、父は言った。

「お父さんもお母さんも、いつまでもこの世にいられるわけではないからな」

 今しも歩を進めると、その声音が身体の底から這いあがってくる。重たい響きに、私の胸は痛切に焦がされ、残響が涙腺にまで届くのも、時間の問題だった。

 前方の父には悟られないように、目元を片腕で拭う。久しぶりに、情緒が狂った。

 だが、父の言葉は、自分も含めて生涯で関わり合う全ての人に言えることだ。

 


 とある夏の日、窓ごしに炎天下を覗くと、私の頭には浮かんだものがあった。

 たとえ茹だるような夏だろうが、直射日光も入道雲も向日葵も、その空間の陽気でさえ、今後の人生であと何回ほど出会うのか、自分でも知り得ない、と。

 百歳まで生きたとしても、夏が訪れるのは一生でおよそ百回。無限ではないし、私にはむしろ少なく感じる。春だって、秋だって、冬だって、例外ではない。恨めしい雨の日でも、きっと人生最後の雨の日がある。その時に、健康でいられるかどうかも不明で、今日が人生最後だなんて、わかるはずもない。

 だから怯えて過ごすのではなくて、私はこの一瞬一瞬を大切に生きることにした。

 私なりの大切とは、なぞらえるならば踏みしめること。

 自分の歩幅で、自分の責任で、主体的に歩み続けることだ。

 ただし時には、他人の歩幅に合わせるのも、立ち止まって振り返るのも、いいかもしれない。歩くとは、それだけ個性的で、自由な活動なのだから。



 世界に意識を引き戻せば、いつの間にやら、我が家は目前にあった。

 玄関で傘をたたみ、私たちは、ただいま、と声を投げかける。

 結局は何の変哲もない日常を、今日も今日とて、歩んでいくのだろう——。           

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