第22話 最後の最愛
しばらくの間、学校を欠席した。
俺の数日間の出来事や精神状態を知った両親からも「仕方がない」と許しをもらい、自宅で心身を休めていた。
一方で、このままズルズルと登校拒否をしていても現状が変わらないことも頭では分かっている。けれど、行動に起こせるまでの精神は未だ回復せず、ふと、時々、死にたくなる。そう思うことで、親不孝だと、望んでもいないのに命を落とした潮李からしたら非常に勝手な願望だと感じて自分を責める。負の連鎖。
両親はカウンセリングも視野に入れているらしく、この数日間で本当に世話を掛けてしまっている。「恵まれて生きている」と自覚しなくてはならないのに。
リュックは、しーホルダーがちらついて潮李のことを思い出してしまうので、自分の目が届かない場所に仕舞った。オーシャンソーダが美味しい近所のカフェもそうだ。潮李との思い出を重ねれば重ねるほど、目に映る機会も増え、失った時に悲しい気持ちになる。
無断早退をした日から一週間が経とうとする日曜日。
部屋に居る時、スマホが通話の着信を知らせる振動音を鳴らし、画面に目を通すと、潮李の名前が表示されていた。
ほんの一瞬だけ、実は彼女は生きているのではないかと有り得ない現実を想像してしまった。
俺は応答ボタンに触れた。
「……もしもし?」
「ご無沙汰しています。私、潮李の母です」
一ヶ月半ぶりに声を聴いた潮李母が淡々と答える。電話の相手に納得する反面、潮李の死について何を言われるだろうかと想像すると、若干、背筋が冷える。
潮李母は続けて話す。
「今日、お会いすることって出来ますか?」
潮李母の誘いに乗った俺は、通話を終えた直後、リュックを取り出して、潮李とよく待ち合わせに使用した公園に着く。
早く会えるように俺の家と萩野家から近い場所で集合するという流れになり、決まったのが、二ヶ月の夏を忘れようとしても思い出させてくる、この公園だった。
それから数分もしない内に潮李のお母さんは現れた。
「この度は、本当に、申し訳ありませんでした!」
潮李母が正面に着いてすぐ、俺は正々堂々と、深々と頭を下げる。彼女が俺を呼んだ理由は、潮李に対する軽率な行動への叱責以外にはどうしても考えられないのだ。
もし、また頬を
しかし、そんな予想に反した落ち着いた声色で、
「頭を上げてください」
頭上に冷静に呼び掛けられて、ゆっくりと体を起こす。
「今でも、本当は、修我君のことを心からは許せていないの。けれど……潮李は、あなたに"こんなもの"を遺していたみたいで」
そう言いながら、潮李母は潮李が使っていた水色の手帳型ケースに覆われたスマホを取り出すと、数秒ほど操作する。
──ピコン。
通知音を鳴らした自分のスマホをポケットから取り出すと、潮李宛で一通のメッセージが送信されていた。
表示すると、
「これは……」
そこには、再生マークが被さる潮李の顔が縦に映し出された動画と録音のデータがあった。
まさか、天国へ旅立つ直前に、彼女が……?
「スマホで送るだけだけどね、直接、顔を見て渡すべきな気がしたから。下に送った録音は、動画を観るまでは開かないであげてね」
「──わかりました」
どんな理由があるのか分からないけれどとりあえず了解すると、
「包み隠さずに言うけれど、あなた達、本当にバカなのね」
潮李母は呆れたように笑って、細くなった目に一粒の雫を浮かべた。
「もし、私がその気になれたら、もう一度、
潮李母は地面を差すように手を下に伸ばして伝えると、お辞儀をして、背中を向けた。言葉の意味を理解した俺は、彼女の去り行く後ろ姿に「はい」と答えて、頭を下げる。しばらくして顔を上げると、姿は見えなくなった。
俺はすぐに公園のベンチに腰を下ろし、ポケットから取り出したワイヤレスイヤホンを装着して動画を再生する。
「あ……潮李……」
夜風が吹く中、火照った顔に汗をかきながら若干激しめの呼吸をする潮李が一面に現れる。外で、おそらく俺と別れて家に着く前に撮影したのだろう。それにしては鮮明に潮李の顔が映っているのは、街灯のお陰だろうか。
動画の彼女は明らかに体調がおかしかった。家に到着するまでに体が持たないと判断したのか。夜の海で戯れた時も性的興奮だけじゃない、ずっと、苦しかったのだ。どうして、気づいてやれなかった?
『一日だけなら問題ないかと思ったんだけど、帰る途中で体調が急変して……もうっ、駄目な気がして……最期に、メッセージを遺すことにしました』
彼女の姿は、音色は、そんな時でも美しかった。
『実は、他の人達にも向けて録音を撮っていたけど、修我には、ちゃんと、顔を見せて伝えたくて……動画にしました。今、結構、しんどくって……この動画が、本当に、私の最期になりそうです』
その録音とは、動画の下に送られたデータのことを差しているのだろうか。
自分をラストで特別扱いしてくれることに嬉しく思う反面、「最期」だなんて言葉は聞きたくなかった。
『私達、たった数時間、そばに居ただけなのに……油断、していたねっ……』
そう、笑った時だった。
「ひえっ……」
潮李が手で口を覆いながら数回酷く咳き込み、五回目の咳と共にゴフッ──と真っ赤に染まる液体を吐いた。血だ。その瞬間、ガサゴソと音を立てて画面が真っ暗になる。
思わず、ぞっとして、悲惨な光景から目を背けたくなったが、最後まで潮李を見届けるつもりで視線を変えなかった。潮李は、本当に、この動画の直後に死を迎えてしまったのか……。
少しして、血を拭いた痕が残った顔の、赤い模様が出来た白のワンピース姿の潮李が画面に映る。
『気分を害する姿を見せて……ごめん。だけど……最後まで、見続けて……?』
「当然だよ……」
決して届くことのない声だけど、伝える。
俺のことなんか気にしなくていい。とにかく、自分を優先して。
それから、心なしか落ち着きを取り戻して潮李が話し始めた。
『修我のことは、まず、初めて話した雨の日に、少しだけ、気になる存在になりました』
俺も同じだ。今までろくに女子と会話をしてこなかったから、ほんの少しだけど潮李に興味が湧いた。
だから、俺達が繋がった最初の日から潮李は頭を痛そうにしていたのだ。
『いじめられた私を助けてくれた時には、更に意識するようになって……蟠りが残っていたお母さんと仲直りが出来たあの日に、私は、修我に恋をしているのだと確信しました』
潮李は、はにかみながら、俺に好意を抱いたきっかけを語ってくれた。
そして、
『他の人の前では興味なさそうな顔で笑っているのに、私だけには、ワクワク、キラキラした少年の目を向けてくる所がかわいくて好き。少し鈍感で、たまにデリカシーがない時もあるけど……それでも、修我なりに、精一杯、私のことを気に掛けてくれる優しい所が好き。修我が助けてくれたから、短かったけど幸せな高校生活が送られたから。私も、負けないように強くなりたかった』
「充分、潮李の方が強いよ……」
俺の好きな所を余すことなく潮李は伝えてくれた。彼女が俺をそんな風に見てくれていたとは知らなかった。目頭が熱い。気が緩めば涙が溢れ出してしまう。
結局、俺は、潮李の好きな所をほとんど本人に伝えられなかった。
整った顔立ちで長い黒髪が似合う清楚な容姿に、清らかで涼しげな声と「潮李」っていう名前。一度でいいから、その声で歌を聴いてみたかった。きっと、多くの人を魅了させただろう。
しんどい状況にぶつかることが多い中で、段々と、精神的に強くなっていく健気な姿。叶わなかったけれど、ずっと離さないで守りたいと思えた。
場面場面で変わる笑顔。優しく微笑んだり、時には小悪魔のようにニヤリとしたり、満面の笑みだったり。今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
すべての角度から、潮李を愛している。
『それと、リュックの中身は、さすがに、もう見てくれたよね?』
「は? リュックの、中身……?」
完全に予測していなかった言葉に俺は反応する。
というのも、今、俺の隣に置いてあるこのリュックは、潮李と再びしばらくのお別れをしたことへの寂しさと翌日に永遠のお別れであると知ったショックで、八月三十一日以降、一度も開けていないのだ。今日、持って行く時も、気が回っていなくて中身は確認しなかった。
すぐにチャックを開けると、そこには、青い袋とリボンでラッピングがされたプレゼントが入っている。リボンを解くと、銀色のネックレスと「修我 Happy Birthday」と女の子らしい字体で綴られたカードが姿を現した。
そこで、ようやく、潮李と最後に会った八月三十一日が自分の誕生日であることを思い出した。
『私の方こそ、デリカシーがない、って言われちゃうけど……勝手に、修我のリュックを開けて、ささやかな誕生日プレゼントを忍ばせておきました』
友達もいないし、家族で誕生日を祝い合う機会もほとんどなくなった。何より、あの時は、潮李と会えない辛い日々が続いて、誕生日のことすらすっかり忘れていた。
季節は違えど、まるでクリスマスのサンタのようなサプライズだ。全然、"ささやか"なんてものじゃない。
『サプライズのつもりだったけど、直接、伝えればよかったかも。改めて、お誕生日おめでとう。記念の日に、修我のそばに居られて、本当に良かった』
微笑む潮李を前に、とうとう堪えきれなくなった涙が頬を伝う。
十七歳の夏、潮李だけが、俺を祝ってくれていたんだ。それで、潮李は、あの一日だけ会いたがっていたのか。
「祝ってもらえるって、こんなにも嬉しいものなんだな……」
潮李の誕生日はもう少し先だし、病気が判明してからは彼女のことを意識しないようにしていたから、俺は、潮李の誕生日の企画を考えたことがなかった。
『あ……私の方は、気にしないで? 傘をプレゼントしてくれた七月一日が、修我から貰った、もう一つの誕生日だから』
潮李は、俺の心を見透かすようにフォローと言う名の補足をする。あの時の冗談を覚えていて、あえてここで間に受けてくれるとは思わなかった。相変わらず、気が利く子だ。
祝ってやれなくて本当にごめん。そして、祝ってくれて本当にありがとう。ネックレス、絶対に大切にする。しーホルダーもこれからもリュックに付けるし、潮李と訪れたお店にもたまにソーダを飲みに行く。
すると、彼女の面持ちは途端に神妙になり、声のトーンもいくつか下がってこう話す。
『今頃、修我は、私の死因を知る人達から、すごく怒られて、悪者扱いを受けていると思う。最後の最後で、私のせいで悲しい思いをさせて、ごめんなさい。せっかく両親からもらった大事な命も、駄目にしてしまった。一番、怒られるべきは私なのに、勝手にいなくなって、本当にごめんなさい。私は、真面目でも、正しくもないよ』
「そんなことない。俺が、もっと、慎重に行動していればよかったんだ……」
俯きがちに謝る動画の潮李に必死に首を振る。
『それでも、私は、修我を選んだ。修我のそばに居たかった』
潮李は顔を上げ、画面の中から真っ直ぐな瞳で俺を見据えて言った。
『自分の選択を恨まないで。思い詰めないで。そんなことをされたら、命よりも修我を選んだ私も、あなたから責められているみたい』
安心させるようにこちらに微笑みかけると、彼女は続けて話す。
『バカで、どうしようもない私達は、命を超えてまで、お互いの愛を選んだんだよ。それこそ、本当に、水よりも深い愛で繋がっていたんだよ。こうなっちゃったからには、誇ろうよ』
潮李は、前向きに、悔いが残っていないかのように、この結末を受け入れているように見えた。
彼女を失うことは悲しくてたまらないけれど、不思議と納得してしまう自分もいた。俺達の愛は、どんな物よりも深かったのだと。
『空の上でも、修我が思い出させてくれた笑顔を、絶やさないから……。だから、悔やまないで? 落ち込まないで……一緒に笑おう……?』
再び息が混ざり始めた声で、体調の悪化に耐えながらも潮李が笑いかける。
『でも、これだけは約束して? いくら愛が強いからって、当分、ずーっと当分、私の所には来ないで』
どうにかして声に芯を取り戻し真剣な様子で伝える潮李は、そのまま、俺にある説明をする。
『動画の下に、録音が送られていると思います。もしかしたら、今、学校に行けなくなっているかもしれないから、この録音を、遠藤君、菜子ちゃん、美空の三人に聴かせに登校してください。そして……私以外に、大切に出来る仲間を作ってください。修我の青春は、終わりじゃないから……』
「そんな……」
またも、潮李に見抜かれていた。
このままではいけない。
いい加減、俺も現実を受け入れて、彼女のように前を向くべきな気がしてきた。
心を軽くできる相手は、家族だけじゃない。自分を成長させる為にも、俺には、心から「友達」「仲間」と呼べる相手が必要だったのだ。それに、潮李以外に誰も仲間がいないのは、やっぱり、少し寂しいから。
本当に、潮李からはたくさんのことを教わった。そうだ。そうやって、俺に多くのことを学ばせてくれた所も好きだ。
その時、ガサガサと画面が揺れ動いて体を寝かす潮李が映し出された。俺はスマホを横向きに変える。病状が更に悪くなっていった証拠だ。
それからズームアウトされ、彼女がベンチで横たわっている様子が確認できた。
「あれ? ここって…………えっ」
目を見開いた。今になって気がついた。
潮李は、今、俺が腰を掛けている公園のベンチに体を預けていたのだ。
この場所で、潮李が最期を迎えていたなんて……。無意識に片手をベンチに添えて、あの日の潮李を思い浮かべる。
『修我の隣で愛を深めていく度に、確かに、体は苦しかった……。それでも、修我と居られる時間は特別に嬉しくって、とても心地が良かった……。会えないことの方がもっと苦しくって……ずっと、会いたかった……。しばらく暗かった私の人生に、素敵な夏を与えてくれて、ありがとう……』
苦しそうに、自分に終わりが近づいていると思わせるような言葉を俺に伝える。もう、潮李に届かないことは分かっていても「やめてよ」と言いたくなるが、俺は気持ちを堪えて潮李に別の言葉を掛ける。
「最後まで、痛い思いや苦しい思いをさせて、ごめんっ……。俺の方こそ、ありがとうっっ……」
目を瞑ると、目尻に溜まった大粒の涙が頬を流れる。もう顔はびしょ濡れだ。
その時、
『あれ……? さっきまでは大丈夫だったのに……また、体が……』
ゴプッ──。
潮李が目線を下に向け、画面に向かって勢いよく血を吐き出した。カメラにも付着してしまう。
「潮李っ……!」思わず名前を叫ぶ。
「なあ? 救急車はっ、来ないのか……?」
ついさっきまで普段と大して変わらない調子で話していたので、救急車を呼べば助かる可能性があったのではないかと画面の潮李に呼び掛けてしまう。
──いや?
「もしかして……」
最悪の事態を想定するまでに体調が悪くなって、助けを求めている間にも俺や仲間や家族にメッセージを遺すことを優先したのか?
ふと感じた予想が当たっていそうで、潮李の思いやりに感激する気持ちと時間を戻して止めに駆け付けたい思いに、さっきから
『一番最後に、雨上がりの海で、修我のそばにいられて、私は幸せだったよ。世界中で、修我が一番好き……』
一番最後に、決して思い残すことのないように遺して、動画は切れた。動画と共に、彼女の命もここで尽きたのかもしれない。
潮李は、最期の瞬間まで、涙を流さずに笑っていた。俺も、そんな彼女を見習いたい。
「あぁっ……こんな所で観るんじゃなかった……」
止まらない涙を拭いながら、呟く。
萩野潮李は、強く、自分の意思で生き抜いた。
「俺も、潮李が一番好きだよ……」
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