第21話 引き返せない過ち
家に帰る途中、少し泣いた。
今日の時間があまりに愛おしくて、明日からまた潮李に嫌われないとならないと思うと悲しかった。潮李も、今、俺の見えない所で涙を流しているのだろうか。
しんどいけれど、早く治療薬などが開発されることを願って我慢しよう。
『治療法が見つかって、病気が治ったら、必ずまた会おう』
「治療薬」で思い出したが、あの時はテンションがおかしくて、近距離病の本来の意味を知らない潮李についあんなことを言ってしまった。関係を解消した理由を危うく気づかれる所だった。
しかし……知らないはずの彼女が、どうして、俺にあんなにも距離を縮めてくれたのだろう。あんなに愛し合ったのに、なぜ、彼女は再び別れることに賛同したのだろうか。
とりあえず今日は何も考えたくないので、帰宅後、夕食も入浴もせずリュックの中身を整理することもなくすぐに眠りについた。
九月最初の朝を迎えた。暑い日は当分続きそうだが、暦では今日から秋に変わる。
夏休みが終わって久々の高校へ、寂しいが、あの二人ルートで一人で登校する。遅刻の心配はないけど、おそらく通常のルートでは潮李が友達と歩いているので鉢合わせない為に。
席に着くまでの間、クラスの男子から挨拶や話し掛けられることはなかった。だから、教室に入った所で俺から「おはよう」と声を掛けて返事をもらう程度だった。
──ひとつ、気になったことがある。
「あれ? 今日、潮李ちゃんはお休み?」
ホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴って若手の男の担任が教室に着いた時、北口さんが呟いた。
そう。潮李の姿が見当たらないのだ。
もしかして昨日会ったことが原因で風邪でも引いたのだろうかと考えて心配になっていると、教壇に上がった担任が重たい口ぶりでこう告げた。
「始めに、一点、皆さんに伝えなくてはならないことがあります。夏休み明け初日の朝に非常に悲しい報告ですが、昨晩、萩野潮李さんが持病の悪化により亡くなりました」
一瞬、悪夢でも見ているのかと思った。──しかし、すぐに、これが現実なのだと認識してしまった。
俺のせいだ。
昨日、潮李の病気のことなどお構いなしに彼女と触れ合い、愛を深め合ったからだ。風邪どころじゃ済まないほどに。
容態が悪くなると知っていながら「一日だけ」と、近距離病を甘く見ていたのだ。
神様は、とうとう、俺達を許さなかった。──違う。神様を悪く言うのはおかしい。
俺が、潮李の大切な命を奪ったんだ。
担任が色々と説明しているが何も入ってこないクラクラした頭で席を立つと、今にも倒れそうなおぼつかない足取りで教室を飛び出す。
他の生徒の泣く、悲しむ声や俺を呼ぶ声が聴こえた気がするが、気に留めていられる状態ではなかった。
「潮李、潮李……! 潮李……!!」
いくら探したってもうどこにも居ないのに、訳も分からずにひたすら廊下を走って潮李の名前を叫ぶ。
「今村」
昇降口付近の廊下まで来た時に代わりに耳に届いたのは、聴き馴染みのある男子の声。足を止めて振り返ると、予想通り、目の前に遠藤が立っていた。
「お前、昨日、萩野と一緒に居たか? 昨日の昼過ぎに萩野から電話が掛かってきて『今日だけはそばに居られない』『勝手な私を許して』って」
俺を睨め上げて、淡々と、遠藤が問い掛ける。酷く暗いオーラを放って。
「ああ……。夜まで、一緒だった。本当、取り返しのつかないことをしてしまった……」
今までにないぐらいの低いトーンで伝えて頭を下げると、目的もなくとぼとぼと歩き始める。
直後、遠藤に肩を掴まれ、再びのっそりと顔を向ける。
「歯を食いしばってくれ」
聴こえた瞬間、硬く力強い拳が頬に直撃し、体が僅かに吹っ飛んで尻餅をついた。
痛い。口の中で血と唾液が混ざって不快な気分だ。
体も心も、めちゃくちゃ痛い。
「ふざけんな! 萩野の病気が悪化すると分かっていながら感情の赴くままに動きやがって……! あんまりだろ……」
遠藤は怒りを露にしながら拳を握り締め、目に涙を浮かべていた。当然だ。
「本当に……ごめん……」
床に腰をつけたまま、遠藤と、そして潮李に向けて謝罪の言葉を口にする。
俺は、潮李を大好きな遠藤の心まで傷つけてしまった。
その後、学校でまともに授業を受けられるはずがなく「体調が悪い」と担任に伝えて早退した。
その時に、潮李の葬儀は身内のみで行う「家族葬」であることを担任が話した。急に席を外した俺に改めて説明してくれたのだろう。こんな自分に会う資格なんてないのだから、葬儀に出席できなくて正解なのだ。
潮李の母も、娘の人生を奪った男の顔を見たい訳がない。もう、潮李や潮李の家に踏み込んではいけない。
「修我、今日はどこへ行く?」
気がつけば、俺はいつもの公園に立っていて、目の前の潮李にそう話し掛けられていた。内心、めちゃくちゃ驚いた。
「え? あれ?? 生きて……る??」
「しばらく会っていなかったからって冗談が過ぎるんじゃない?」
潮李がむすっと片頬を膨らまして言う。
「じゃあ、近距離病は? 治ったの??」
「きん……びょう? 何それ?」
「は??」
本当に知らないかのように答える潮李。とぼけているのだろうかと思っていると、潮李が俺の腕をぎゅっと組んできて、
「そんなことはいいからっ。この前の、オーシャンソーダが美味しかったカフェに行かない?」
天真爛漫な笑顔で話題を元に戻した。
いや。とぼけていたのは俺の方かもしれない。
「近距離病」とかいう変わった病は最初から存在しなかったのだ。今までの出来事が悪夢だったのだ。
「……おう。そうだなっ」
笑い返して、また、前みたいに潮李の隣に並んで歩き出した。
閉じていた瞼を開けると、薄暗くなった自室の天井と壁が視界に入る。帰宅後から、部屋の電気も点けずにずっとベッドで眠っていたようだ。沈みかけている陽の光で辛うじて周囲は確認できる。
「そうだ……潮李……!」
びっしょりと寝汗をかいたが気にしている場合ではなかった。
近距離病なんてなかった。潮李は生きている。
いち早く潮李に会いたくて部屋を飛び出した。階段を駆け降り、サンダルを履いて──我に返る。
あれは、一時の夢の中の設定、そして、決して叶うことのない願望だ。
現実では、彼女は俺のせいで消えてしまったんだ。
一瞬、興奮状態にあったテンションは再びどっと沈んだ。
「何をやっているんだ……俺は……」
頭を抱え、しばらく、その場から動けなかった。
いつか近距離病を治療できる日が訪れても、もう、潮李とは永遠に会うことが出来ない。昨夜の別れ際に交わした約束は一瞬にして散ってしまった。「大好き」も、もう伝えられない。
潮李とたくさん笑ったり、行ったことのない場所に出かけたり、恥ずかしがるだろうけどバイト中の彼女を覗ったり──潮李の歌を聴くことも叶わなくなった。
引き返せない。
それから、翌日の学校とバイトは欠席し、金、土、日の三日間は自室に篭った。
何もする気が起きなくて、起きて食べて風呂に入って寝て、などと日常に最低限必要な行動以外は部屋でただ呆然とする自堕落な週末を過ごした。
告白以降、永塚から連絡が来ることもなくて、両親以外の誰とも言葉を交わさなかった。
潮李が亡くなってから、あまりに虚しくて、消え去りたいぐらいの罪悪感に埋め尽くされ、涙はむしろ一度も流れていない。表情も、ここしばらくはまったく変化がなかった。
このまま引き篭もって不登校になっては周囲にも今後の自分のことも困らせてしまうので、週明けの月曜日には半ば強引に学校へ行った。
「おはよう」
決して明るくはない声色と顔色だろうけど、席に向かいながら男子の集団に挨拶をする。しかし、返事が来ることはなかった。
覇気が無いから声が小さかったのだろう。自分もまともに会話が出来る精神状態とは言えないので、気にせずに席に着く。
二限目終わりの休憩時間。トイレから出てスリッパから上靴に履き替えようとするも、自分の上靴が見当たらない。三足置いてあるがどれも違う。誰かが間違えて履いてしまったのだろうか。この時は、それぐらいしか考えていなかった。
仕方なく靴下のまま過ごし、昼休み、購買へ行こうと二階の階段から降りようとした時だった。階段の踊り場付近からクラスの男子数人の怪しい会話が聴こえて、思わず耳をそばだてる。
「んで、あの上靴どうしたん?」
「あー、落書きしてトイレの前に戻しといたわ」
「やっば! さすがにやり過ぎじゃね?」
「いやいや。だってあいつ、一応、"人殺し"だぜ? 少し傷め付けてやんないと」
「まあ、元々冷たいヤツだよな。表面上でヘラヘラしているだけで、内心、これっぽちも人に興味なさそうだし」
──そういうことだったのか。色々と合点がいった。
この数日間で俺の軽率な行動によって潮李が亡くなったという情報を知られてしまい、最低な奴だからと、もしくは誰かが潮李に好意を持っていて恨みから嫌がらせをしてきたのだ。下手したら学年全体に俺の過失が知れ渡っている。
引き返してトイレに向かうと、左右の表面にそれぞれ「クズ」「人殺し」と油性ペンで殴り書きされた養生テープが貼られた上靴が放置されてあった。名前を確認しなくともすぐに自分の物だと見分けがついた。
そうだよな。
本来、いじめや孤立を受けるべきは潮李みたいな健気な子じゃない。俺みたいな、本当にダメな人間の役目なんだ。
「……はっ。もういいや」
乾いた笑いが零れる。おそらく目も心も死んでいる。
こんな上靴はこっちからゴミ箱に捨ててやり、荷物を持って無断で学校を飛び出した。
靴下がグラウンドで汚れたりアスファルトのゴツゴツとした感触に若干痛みを感じるが、そんなことどうでもよかった。
家に着き、二階のベランダに出る。まだ涼しくならない温い風が肌に張り付く。
潮李のいない世界に希望なんてない。心から笑える日はきっと来ない。
それに、潮李は、もう、これから先にある楽しい出来事も流行も知ることが出来ない。想像していた大人にもなれない。たくさんの人に歌声を届けるという夢だって叶わない。潮李が経験できないこの先の人生を価値のない俺が歩めるなんて、おかしい。
こんな世界から早く消えて、潮李と一緒に空の上で過ごした方が幸せだ。
手摺りに掴まり、見下ろす。二階とはいえそれなりの高さがあり、地上に居る時よりも風が強く吹いている。
さあ、いこう。
と、心の中で掛け声を出した時──
「修我? どうしたの?」
背後から母の声が聞こえて、動かそうとした足が止まる。
振り返り、何事も無いかのように返事をする。
「いや? ちょっと風に当たっていただけ」
「ふぅん。てゆーか、学校は? また早退?」
「ああ、うん。ちょっと体調が。九月なのにまだ夏バテかもな?」
俺は笑って誤魔化し続ける。しかし、
「何かあった?」
母が優しい口調で訊ねる。強がる俺を疑っている。
「は?」
「あんたはそうやって笑って、何でも誤魔化そうとするから」
世話が焼けるように母は笑う。
さすがは母親、といった所か。見抜かれた俺の表情からすっと笑みが消えたような気がする。どこまで暴かれるのだろうと想像をすると怖くなり、強張った体で母を見つめる。
程なくして、
「潮李ちゃんって子と、何かあった?」
母は、温かい眼差しと声色で予想にもない名前を挙げた。俺は目を丸くする。潮李に関する話も、俺に彼女がいたことも家族に話したことないのに。
「どうして、その名前を……?」
「だって、修我、うちら家族には話さなくたって潮李、潮李ってしょっちゅう呟いているから。嬉しそうに、時には寂しそうに。お父さんも気づいていた。その子のお陰で、あんた、しばらく顔つきが自然体だったよ?」
その瞬間、生温い液体が頬を伝った。──涙だ。
母には、全てお見通しだったのだ。
潮李を失ったことによる悲痛と罪悪感、学校での孤立といじめ。限界が来て、独りで抱えたまま消えて楽になるつもりだった。けれど、今、ギリギリまで溜め込んだ感情を吐き出して、心を軽くしたくなった。
「潮李が……俺のせいで、潮李が……!」
体が崩れ落ち、手摺りに掴まって、泣き叫びながら自分を苦しめる原因を洗いざらい曝け出した。
打ち明けていく俺に、母は、うん、うん、と程よく相槌を入れながらそっと背中を摩る。
行き詰まった俺には、きっと、辛い思いを吐き出せる相手が必要だったのだ。けれど、友達もいなくて大切な人も失った俺は、受け止めてくれる相手を今の今まで見つけられなかった。
だから、泣けなかった。消えようとした。
「ごめん……ごめんなさい……」
ここまで大切に育ててくれたのに、貴重な命を無駄にしようとして、ごめんなさい。
もっと早く、家族だからって恥ずかしがらずに甘えるべきだったのかもしれない。
「母さんも、もっと早く気に掛けてやればよかったね。ごめんよ?」
母さんはそう微笑んで、頭を撫でてくれる。
正直、気持ちはまだまだ落ち込んでいて、完全には「生きる」意思を取り戻せていない。それでも、少しだけ、心が安らいでいったような気がした。
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