第19話 忘れなきゃダメなのに
「そういうことだから、悪いけど、俺と別れて?」
すぐに雨が降り出してもおかしくない曇り空の下で、私は修我に恋人関係の解消を頼まれた。私との時間をあんなに大事にしてくれた修我とはまるで別人のように、未練がこれっぽちも残っていないかのように。
「私の病気が原因だったら、ごめんなさい。だけど、まだ、二人で居られる可能性が少しでも──」
「可能性なんてないんだよ!」
不意を突いて声を荒げる修我を前に思わず体がビクッと後ろに下がる。今まで優しかった彼からは考えられない怒声に泣きそうになる。
まだ、近距離病でも二人で続けていけると思っていたし、修我も病気の私を嫌がらずにそばに居てくれると思っていた。でも、
「いい加減、潮李の体調不良には付き合い切れないんだよ。もう、面倒くさいって言うか、疲れたって言うか……俺が潮李のことで悩んでいた時に彼女が優しくしてくれて、それが嬉しかったんだよ」
彼はもう、私を受け入れてくれなかった。
恋人とはいえ何でも許してもらえるとは限らない。修我の言い方もさすがにあんまりだけど、私が今までたくさんの迷惑を掛けてきたから、彼にとうとう限界が来たのだ。これ以上は踏み込んだら駄目。引こう。
私は両手で修我の頬に触れると、
「ばか。ひどい。でも、私も、修我に今まで辛い思いをさせてきて、本当にごめんなさい。これからは、美空と幸せになれるよ?」
そう言って微笑んでみせる。我慢していた涙が出口まで到達して、必死に流さないように耐える。最後ぐらい泣きたくない、困らせたくない。
「ごめん……」
修我の口から意図せずにぽろっと溢れたように聴こえた。ほとんど同時に、彼の瞳からは透明な液体が流れる。涙──いや? 雨だよね。私のことなんか、もう、何とも思っていないのだから。
いつまでも彼のそばに居たら邪魔になるので、手を離し「じゃあね」と帰る方向だけを見つめながら言って速やかに公園を後にする。
公園を出た瞬間、堪えていた涙が一気に溢れ出した。両手で顔を覆い、大雨の中、膝から崩れ落ちると、叫びそうになる声を必死に押し殺すようにして泣いた。強くありたいのに、我慢が出来なかった。
悔しい。
どうして、私の体なの?
修我と離れれば命に関わることは無いから不幸だなんて思っちゃいけないのに、修我に見捨てられることがこんなにも辛かったなんて……。
「どうして……」
私の声は、誰の耳にも届かないようなか細く震えたものだった。
その時、精神的に動けなくなった体を打ちつける雨が途端に治まり、そっと肩に誰かの手が乗せられる感触がした。内心、少し怯えていると、
「萩野? おい、大丈夫か??」
隣から馴染みのある男性の声がして振り向く。正体は、私の頭上に傘を掛ける遠藤君だった。
「遠藤君……私……」
弱々しい声を振り絞り答えようとするけど、何を伝えればよいか困り、喉の調子も相まって続きの言葉が出ない。そんな私の背中に温もりが伝わる。
「今は何も言おうとしなくていい」
大きく優しい手で、彼が背中を摩る。その安心する対応がかえって内なる感情を吐き出させるきっかけとなり……
「私っ……修我に嫌われたあぁっ……!」
私は声を上げてさらに泣いた。せめて泣き顔は見せまいと顔を下に向けて、泣きじゃくる。彼は静かに撫で続けてくれる。
「私が体調を崩してばかりだからっ、修我、いい加減、私と居ることが疲れたって……! 美空と付き合うことになったから、もう別れるしかなかったっ……!!」
「それ……本当に今村が??」
頷くと、その瞬間、蹲る私の身が遠藤君のガチッと頼もしい肉体によって包まれた。私達は傘から外れ、大量の雨に一瞬にして体全体を濡らす。
「えっ……!? 遠藤君……?」
「俺がそばに着いている……萩野のことを守る!」
熱意が籠もった声だった。
遠藤君が特別扱いしてくれるのは、やむを得ない状況だからなのか、もしくは、私のことを……?
分からないけれど、今は、寄り添ってくれる彼の前で泣き続けた。
それからの数日間は、修我に振られたショックで何をするにも無気力だった。
普通に生活するだけで彼との思い出が頭をよぎるし、眠ってしまえば夢の中でも彼が笑いかけてくるから、悲しくなる。
話の流れで友達に打ち明けるまでは、これっぽっちも気分が晴れなかった。
修我と別れて九日が経った日曜日。自分の心の中とまるで正反対の真夏日に、私は、遠藤君と駅の外に建つ時計台で待ち合わせをした。
先日、雨の中で蹲りびしょ濡れになった私は、その後、彼の家に招かれ、彼の母のいらなくなった服を借りることになった。それを返したくて、また、散々お世話になったお礼を改めて伝えたくて、チャットで遠藤君と会う約束を決めたのだ。
「これ、この前、遠藤君の家で借りた着替え。返すのが遅くなってごめんね」
合流してすぐに遠藤君に白い紙袋を差し出すと、彼は受け取って中身を確認する。
「丁寧にクリーニングまでしてくれたのか……。母もいらないと言っていたし、このまま貰ってもよかったのに」
「そういう訳にはいかないよ。先日は、本当に、色々とお世話になりました」
頭を下げると、遠藤君は「ちょっと、そんなに畏まるなって」と私に向けて両手を振る。
それから、彼は再び袋に目線をやると、
「てゆーか、お菓子まで入っている……」
「感謝の気持ち、だから」
「いや……こちらこそありがとう! 一生、大事にする!」
「手作りでも専門店のでもないし、大事にしなくていいから。そもそも、期限があるから!」
「はは、そうだよな。それでも嬉しいよ」
何故だか大袈裟なぐらいに喜ぶ遠藤君に突っ込むと、彼ははにかんだ。クールな彼とは思えない一面を見られ、レアな状況に当たったみたいで少し嬉しい。
「それじゃあ、また、学校で」
用件が済んだので、駅構内で軽く買い物をして帰ろうと遠藤君から離れようとした時、
「待って……!」
私の足を止める遠藤君の声がして、振り返る。
「俺、萩野が好きだ。萩野のことを心から大切にしたい」
遠藤君は、突然、真剣そのものの目で私を見据えて、そう告白をした。
好意を持たれている気がしなくもなかったけれど、それが本当だったとは予想もしなかったので驚いた。
誠意を込めて伝えてくれた遠藤君に、私も気持ちに嘘一つなく答える。
「ごめんなさい。遠藤君にはいつも本当に優しくしてもらっているけど、私、遠藤君をそういう目で見たことがなかった。それに、まだ、修我のことが忘れられなくて……」
「そうだよな。だから、俺への恋愛感情がないことを知った上で萩野と付き合いたいと思う」
「どうして、そこまでして……?」
「萩野が、もう今村のことを考えないようにする為だよ。萩野を悲しませたくないんだ。だから、愛さなくていいから俺の隣に居てほしい」
私と付き合う裏には、遠藤君らしい、相手に配慮した理由が隠されていた。
それでも、まだ心の準備が出来ていないし、彼に恋愛感情がないどころか修我に好意を寄せながら交際すれば気まずくなりそうで自信がない。
「そんなので、遠藤君はいいの?」
「いいよ。烏滸がましいかもしれないが、好きな人の助けになれることならしたいだろう?」
表情と口調で彼の熱意が伝わる。
彼は、自分のものにしたい「好き」とは違う。幸せになってもらいたい「好き」なのだろう。そんな遠藤君に頼ってみようかな。
「わかった。迷惑を掛けると思うけれど、それでもよければ、お願いします」
「ああ。全然、頼ってくれ」
お辞儀をする私の手が遠藤君のたくましい手に優しく握られた。
こうして、私達の一風変わった交際がスタートした。
「もうすぐ十二時だし、あそこのハンバーガー屋に寄る?」
付き合い始めてすぐに、彼は駅前の有名ファーストフード店に指を差す。それは、修我との初デートで一番最初に訪れた場所だった。
「あぁ、えっと……」
どう答えようか悩み、言葉に詰まる。
遠藤君と二人で昼食をすること自体に問題はない。ただ、このお店は今は避けたかった。入ればきっと修我を思い出してしまうし、「別れた」と言っても初デートのハンバーガーは修我と私だけのものにしておきたいのだ。
「いや。やっぱり、初デートと言ったらイタリアンだな! 駅構内に旨い店があったから、行こうぜ?」
黙っていると、遠藤君は謎の自論で行き先を変更した。彼のことだから、察して、機転を利かせたのかもしれない。お店のチョイスも女性らしい。
「そうだね。行こう」
少し面白くって、また気分も良かったので微笑んで答えると、遠藤君の隣に並んで駅の屋内を目指した。
遠藤君、他の女性からはきっとモテモテなのだろう。一般的に言われる理想の彼氏だ。私も、彼を好きになれたらきっと幸せだったのかな。
初デートは、イタリアンでランチをしてから軽く駅構内でショッピングをして終わった。
数日後。この日も遠藤君と会う約束をして部屋で準備をしている時、テーブルに置いたスマホが長めの振動音を断続的に鳴ら出した。電話の合図だ。
手に取り、表示された名前を確認して応答する。
「もしもし?」
それから、電話口の相手が私に用件を説明した。
「──えっ……?」
遠藤君と駅前で集合し、彼に「お楽しみに」と言われて案内されたのは、市内の緑地公園。
アスレチック広場やボート乗り場を設ける池がある中、私達はその上を目指して歩き、一面が緑の野原へ到着した。目線の先には真っ青な空と入道雲、小さくなった街の景色が映り、自然の偉大さや美しさを感じる。普通なら絶対に最高の気分転換になったと思う。
私達は日陰になっている大樹の付近に遠藤君が用意したレジャーシートを敷いて座り、彼がコンビニで調達したらしいおにぎりやサンドイッチでお昼にした。そんな用意周到な彼は、ピクニックを提案してくれたのだ。
ランチをしながら遠藤君が話し掛ける。
「まさか公園でピクニックするとは思わなかっただろうけど、良かったか?」
「あ、うん。楽しいよ」
引き攣った笑顔になっていないか少し不安になった。
先日の初デートの中で、遠藤君は気遣って私が修我と出かけていない場所を確認すると、こうして、初めて訪れるとても素敵な場所へ連れて行ってくれた。
人をもてなすことには何をするにも抜かりがない。本当に、私が修我と出会っていなければ遠藤君に恋をしたかもしれない。
けれど、困った。修我と私は出会ってしまった。
修我を忘れようとしたいのに、出発前に掛かってきた電話を機にどうしても彼のことを意識してしまっている。
「たまには、こうして、大空の下でくつろぐのも気分転換になるだろう?」
「……うん」
レジャーシートに座る私から少し離れた芝生の上で足を伸ばす遠藤君に、遅れて相槌を打つ。
彼と目を合わせずに答えてしまったし、声も沈み気味だったかもしれない。楽しいのは嘘じゃないのに。
「萩野」
呼ばれて振り返った時には遠藤君は私の隣に腰を下ろしていて、こっちを見ていた。
「今村のことは、もう忘れよう?」
また私の心でも読んだのか助言をすると、遠藤君は私の背中に手を回すように差し伸べる。感情のない「うん」を言うと期待に応えようと身を寄せて、包容力のある彼の体に抱きしめられる。
決して、嫌ではない。むしろ心地が良いまである。それでも、何となく違和感が生じる。修我を忘れる目的の行為なのに、修我の存在が頭の中からまったく離れようとしない。罪悪感が拭えないまま、遠藤君と抱き合う。
……あぁ。やっぱり、本当だったんだ。
「頭、痛い……」
緑地公園で二時間程くつろいでから、私達は来た道を戻って再び駅前に着いた。
「
「そうだねぇ……」
遠藤君の問いに曖昧に答える。
一般的にはまだまだデートが続く時間帯かもしれないけれど、私から彼に次の行き先を提案する気にはなれなかった。
少しの間、二人で黙っていると、先に遠藤君が沈黙を破った。
「なあ、カラオケにでも行かない?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます