第16話 病の真実

 院内は、白を基調とした飾り気の少ない内装や消毒液の匂いが強く印象に残り、いかにも病院らしさを感じた。

 受付で潮李の病室を伺い、伝えられた場所へ向かう。さすがは大学病院といった広さで、潮李の病室に着くまでに時間を要した。

 病室の扉に貼られた名札は「萩野潮李」のみ。個室だろうから普通にノックをしてみるけれど、返事が来ない。もう一度、叩いてみようとした時、隣から人の気配を感じて振り向く。


「──潮李」

「どうして……?」


 無地のピンク色のパジャマを着用し、細い腕に点滴が繋がれた潮李が困惑した表情でこちらを見つめて立っていた。弱った病人姿の潮李に少々心が痛む。


「近づいたら駄目なのは分かっているけど、入院、って聞いてどうしても心配になって」

「電話でも話したけど、私なら大丈夫だから。気持ちは嬉しいけど、一緒に居るとまた体調が崩れるかもしれないから、今は離れよう?」


 彼女に言われて我に返る。冷静ではいられなくて、体のことを深くまで気に掛けていなかった。甘く見ていた。


「そうだよな。むしろ潮李を悪化させるというのに、俺はホント馬鹿だ。悪い! お大事にな」


 畳み掛けるように伝えてこの場を離れようとすると「でも……!」と潮李が呼び止める。


「ありがとう。顔を見られて、すごく安心した」


 潮李は言葉の通りホッとしたように微笑んだ。


「俺の方こそ。数日ぶりに会えて寂しさが和らいだ」


 お返しに自分の想いも伝えると、手を振って、潮李から離れた。売店でコーラだけ買って、速やかに病院を後にする。

 次に会えるのは二日後の検査日。思いのほか早く再会できることは嬉しいけれど、緊張と少しの恐怖で心臓に負担が掛かる。

 どうか、良い方向へ進みますように。




 不安が残る中で二日間を過ごして、検査当日を迎えた。

 開始の五分ほど前に大学病院の待合室で潮李と合流し、少しだけ距離を空けて二人掛けのソファに座る。潮李母は今日も忙しいようで、退院手続きを済ませると帰ったらしい。

 二日ぶりの再会にちょっぴり感激するも、二分後ぐらいに診察室から大人の男性が現れて二人の時間は一瞬で終わった。白衣を纏った、推定四、五十歳ぐらいの俗に言うイケおじ系の医師だ。


「萩野潮李さんと、今村修我君だね? 初めまして。二人の担当を務める、医師の山瀬やませです」


 クールに微笑む山瀬先生に、二人でほぼ同時に「よろしくお願いします」とお辞儀をする。

 俺達は診察室に招かれ、二つ隣に並んだ丸椅子に腰を下ろす。山瀬先生も座ると、彼は「検査の前に一つ、質問をしたいのですが」と言ってから、こう伝える。


「近距離病の疑いがあると知ってから、二人の間で変化はありましたか?」

「はい。あの、俺達、付き合っているんですが、彼女が体調を崩す度に少しずつスキンシップを控えてきました。でも、効果がなく、むしろ悪化している気がして、今では会うことすらめざるを得なくなりました……」


 俺の答えに潮李も「はい」と俯きがちに同意する。

 先生は何かを考えるようにしてから、


「──なるほど。ありがとう。それでは、検査に移ります」


 そう言って、いよいよ本題の検査が開始された。

 検査は想像していたよりも単純なもので、一般的に見かける血液検査だった。潮李、俺の順で腕から注射器で血を抜いていく。これが思った以上に痛かったけれど平気なフリをしてみせた。


「お疲れ様でした。結果が出次第、再度、こちらに来ていただきたいので、この番号から電話がある際には応答してください」


 と、伝えると、山瀬先生が電話番号が記載された名刺を俺達に一枚ずつ渡して診察は終わった。

 二人で病院の出口へ向かう途中で俺は呟く。


「検査、地味に痛かったなー」

「修我、痛そうな顔をしていたもんね?」

「言うなよ。てゆーか、見せないように表情作ったつもりだけど??」

「え? 出来ていなかったよ?」


 悪戯っぽく潮李が笑う。おい? 馬鹿にしているだろ?


「うわー、会わない間に悪魔要素を取り入れやがって。そう言う潮李はすんごい冷静だったな?」

「うん。全然。先日の点滴もチクリ程度だったし」

「炭酸が好きで注射に強い……覚えておこ」

「なんか……それだけ言うと可愛くない人みたい」

「炭酸好きは可愛いだろう?」

「大人になったらお酒好きの女になりそう、って思われているみたいでちょっと……」


 気がつけば、俺は久々に潮李の隣に居て、そんな風に会話を弾ませていた。

 本当は離れた方がいいのだけど、少し心が軽くなったので今だけは特別だ。これには痛い検査に感謝をしないとな。

 このままそばにいる訳にもいかないので、病院を出た所で「ここまでにしようか」と俺から切り上げて潮李とは別れた。潮李が病院前からバスで帰宅するので、俺はあえて違う道をぶらぶらと歩く。近くのコンビニにでも寄って時間を空けてから帰ろう。

 次の再会は、検査結果を知らされる時。その日までは、我慢だ。




 結果を聞く当日までの間は、夏休みの課題とバイトと潮李との通話の日々を過ごした。──いや。日々、と言うほど長くはなくて、早くも二日後の午前中には山瀬先生からの電話があった。

 その電話で、先生からこんな意外なことを言われる。


「検査結果が出ましたが、今村君一人で来てもらえますか?」

「一人? それは、必ず?」

「必ず、です」


 俺の問いに先生がはっきりと答える。


「……わかりました。いつ伺えばいいですか?」

「直近だと、例えばこれからでも構いませんが」

「では、今から向かいます。十一時頃には着きます」


 といったやり取りをして、俺は病院へ行く簡単な準備を始めた。

 一人で来てください。

 そのワードが心に引っ掛かったまま、徒歩とバスで今週で既に三度目の大学病院へ到着する。潮李に聞かれたらまずい内容なのだろうか。


 診察室に入ると、先生と、男同士、一対一で向き合う。


「検査の結果、萩野潮李さんが近距離病を患っていることが分かりました」


 真面目に、低い声で告げる山瀬先生に「そうでしたか……」と呟く。

 一縷の望みで"違う"ことを願っていたけど、やはり、潮李は、稀な病気の一種の「近距離病」であることが判明した。残念ではあるが、彼女とどう向き合っていくか前向きに考えるしかない。


「あの、近距離病って、どうすれば治りますか?」

「残念だけど、マイナーな病気で、治療法はまだ見つかっていないんだ。今、我々が懸命に研究をしているから、もうしばらく待っていてほしい」

「そんな……じゃあ、一体、どの距離なら彼女と居られますか?」


 本当は今以上に潮李と離れるのは辛いけれど、潮李の体を苦しませたり関係が終わることに比べたらマシだ。治るまでは耐えてみせる。


「とても申し上げにくいのだけれど、近距離病の距離とは"内面"を意味するんだ」

「は……??」


 山瀬先生の発言に、突然、背筋が凍った。詳しく話を聞くまで完璧には理解が出来ないが、悪い予感しかしない。

 察してくれたのか先生が詳細を伝える。


「つまり、身体的なものは関連がなく、お互いの心の距離が近づくにつれて彼女の病状は進行するんだ」

「俺と潮李の仲が良ければ良いほど……?」

「そうだね」


 最悪な真実を知ってしまった。現実味がなくて、体が風船のようにフワフワする。

 ずっと「体の距離」だと思い込んで少しずつ離れる努力をしてきたが、一方で俺と潮李の「心の距離」は今まで以上に縮まった。だから、病状が悪化した。逆効果だったのか。

 言われてみると、たまに意外な時に体調を崩したり、反対に崩さないこともあった。

 それでは、もう、潮李を心から愛すること──潮李と恋人であることが許されないみたいじゃないか。そんな残酷な病気があるのかよ。

 事の重大さを分かっていなかった。


「どうして、検査の前に訂正してくれなかったんですか?」

「ひどい頼み事だと承知した上で伝えるけれど、君から彼女に別れを切り出してもらう為なんだ」

「どういうこと……?」


 先生は深刻そうな表情を演出し、またも俺に衝撃を与えるような言葉を浴びせる。更に理解に困って俺は呟く。


「前回の萩野さんと一緒の時に訂正してしまえば、表面上では別れられても心理的距離を遠ざけることは困難だと思うんだ。それで、先に君一人に真実を伝えた上で、彼女がきっぱり諦められるように別れてもらおうと考えているんだよ」


 先生の伝えようとする内容は理解できた。要するに、完全に心理的距離を遠ざける為に必要な作戦なのだ。

 だが、いきなり「別れろ」と連呼されても心がまったく追い着かない。無責任ながら、どうにか良い方向に流れると思っていて選択肢に無かったからだ。

 声を出す気力が無くて、黙り込む。

 俺は弱かった。

 きっと、悲しい現実を受け入れるのが怖いから、近距離病について何も調べずに、ただ、自分の中で都合よく解釈して、物理的にしか距離を空けなかったのだ。そのせいで、潮李の体調は崩れていった。そうなんだよ。

 それでも、どうしても、素直に受け入れることが出来なくて……


「悲しい気持ちは重々に分かるよ。それでも、冷たい言葉を掛けるけれど、恋人なら今回の彼女は諦めてまた新しい恋を──」

「何を言っているんだ! 潮李の代わりになる人なんてこの世に誰一人いるわけがないだろ!」


 悔しさを上手く処理できずに先生に対して怒声を上げてしまう。俺は今も変わらず弱いまま。


「落ち着きなさい。君の歳なら理解が出来るだろう? 恋愛よりも大事なのは体じゃないか」

「分かっています。分かっているけど……どうにかならないんですか? 俺には、潮李しかいないんです……」


 先生の意見は正論だと思うし、自分の中でもとっくに判断が出来ている。ただ、馬鹿みたいだけど、"現実"だと認めることがすごく怖いのだ。

 まったく、惨めだよな。

 自分が「大切な人」と呼べる相手が潮李だけで、潮李一人に縋っているみたいだ。──いや、みたい、じゃない。事実だ。

 俺の恋愛の仕方は──


「君は、彼女に依存しているんだな……。まずは君の心から治していった方がいいかな」


 先生がため息混じりに言った。

 そうだ。俺は、潮李に依存した恋愛をしていたんだ。俺、いつの間にこんな人間になったんだろう。

 いつの日か遠藤が言っていた。「あんまり、萩野ばかりになるなよ? 『彼女』と『友達』は別だから」と。

 これは、きっと正しかったのだ。潮李と別れてしまえば、俺にはもう、誰もいないんだ。


 ああ……最低だ。最低な気分だ。




「萩野さんのこと、必ず、お願いします。辛くなったらカウンセラーの方を紹介するから、私か病院に連絡しなさい」


 最後、山瀬先生に念押しされて病室を後にした。別れ際に先生と目を合わせたか曖昧なぐらいには暗い顔を俯かせている。

 すでに辛いけれど、カウンセラーと話す気にすらなれないのでとぼとぼと帰路につく。どうせ、他に行く場所もなければすることもないのだから。潮李と笑って話すことだって、もう──


「何かあった?」


 絶望的な思いで一階へ降りるエレベーターを待機している時、隣からどこかで聞いたことのある女性の声に話し掛けられて目線だけを右に動かす。──同じクラスの永塚美空だ。私服だから、一瞬、気がつかなかった。いじめなくなったとはいえ、さすがにまだ彼女から良い印象は受けない。


「どうして、いるの?」

「ちょっと患っている病気があって、その定期検診。最近は軽くなったけど」

「そうか。お大事に」


 さっきから変わらない無表情と一定のトーンのまま答えて、ちょうど扉が開いたエレベーターに乗り込む──所を永塚に腕を引っ張られ、元の位置に戻って来た。


「おいっ。何すんだよ?」

「話、終わっていないって。『何かあった?』って心配しているじゃない」

「いや、いいよ。どうせ永塚に言っても信じてもらえなくて馬鹿にされるだけだから」

「もしかして、近距離病のこと?」


 まさか当てられるとは想像していなかったので、すぐに返事が出来なかった。


「……佐々木から聞いたのか?」

「うん。よかったら相談に乗るよ。私も"患者の一人"だから」

「そうだったのか。…………え??」


 自然な流れで病気を公表する彼女に向かって目を見開く。


「永塚も、近距離病ってこと……??」

「だから、そうだって」


 永塚は当たり前かのように答えると「向こうのソファで話そう?」と言って前に歩いて行く。稀な病気を患っている人が身近に二人もいるとは思わなかった。

 従って着いて行き、ソファに腰を下ろすと、横の自販機で永塚が買ってくれたカフェオレを受け取った。潮李をいじめた割に意外と優しい所があるよな。


「それで、今は潮李に嫌われなきゃならなくて落ち込んでいる所?」

「俺が説明しなくても察してくれるな」

「なら、私と一緒ね。私も潮李から心の距離ってものを遠ざけなきゃならなくて、くだらないいじめしか思いつかなかったから」

「ちょ! ちょっと待て! 衝撃の事実が次から次へと……」


 整理をすると、つまり、永塚は、潮李と心理的距離が近づくと体を壊すから体調が安定するまでいじめて距離を遠ざけていた、ということなのか。

 俺と永塚がほとんど同じ悩みを抱えていたとは、予想外にも程がある。俺の場合、患者は潮李になるけど。


「そんなの知る前まではずっと仲が良かったけどね」


「高校に入ってからいじめられた」と潮李から聞いたので、中学卒業までの永塚はおそらく健康で潮李とも友達だったのだろう。

 俺は、ふと疑問に思ったことを永塚に聞く。


「そういえば、どうして、潮李は永塚が近距離病であることを知らないんだ? あの検査って二人で受けるものだよな……?」

「私一人だったけど。きっと、私の病気を気づかれないように潮李は別日に血を抜いたんじゃない?」

「なるほど……」


 永塚も詳しくは知らなそうだが、彼女の言う通りなら確かに辻褄が合う。

 俺と潮李の場合はたまたま二人で病名を聞いたから、検査も一緒に受けたのだろう。

 すると、彼女は俺にこう話す。


「いじめは、やり過ぎたとは思っている。それでも、今でもたまに頭痛や眩暈に悩まされるから、距離が完全には遠ざかっていないみたいなの」

「それって……」


 いじめの関係に変わっても尚、潮李と永塚の心がどこかで繋がっている、というのか。

 そういえば、潮李が永塚を気にかけていた時があった。「彼女なりに気遣って適温にしてくれた」「寂しそうに見えた」と。あれはきっと、本当だったんだ。俺なんかよりいじめを受けた潮李の方が彼女のことを理解していた。だから、永塚の体は未だに良くならないのだろう。素敵なエピソードなのに、こんなに悲しくなることってあるんだ。


「大事な友達から嫌われるようにいじめて、いじめた本人は今でも大好きって……まったく、残酷な病気よね? やば、ちょっと泣きそう」


 永塚は自分を奮い立たせるように笑うけれど、その瞳には既に一粒の雫が浮かんでいた。彼女はそれを人差し指で拭う。

 なんだよ。それじゃあ、俺の周りのみんな、本当は潮李のことが大好きじゃないか。


「だから、今村の気持ちはよく分かるよ。しんどいよね。でも、そうするしかないからね」


 同情の目で微笑む永塚にもらい泣きしそうになる。

 この時、彼女の容姿が初めてはっきりと俺の視界に入った。

 焦茶色のボブに近いセミロングで、髪色も髪の長さも潮李と佐々木のちょうど中間にあるような所が印象的。僅かに目尻が吊り上がっているがその瞳はくりっとしていて、こうして間近で見ると想像よりもあどけない顔をしている。「一見、取っ付きにくいけど関わってみると意外と好印象」パターンの典型だ。本来の優しい彼女を前に目が潤み、ボヤけてしまう。

 潮李を失うことが、すごく怖い。すごく辛い。

 でも、同じ経験をして、気持ちを分かち合える相手が居ることに自然と心を許してしまう。


「ちょっとー、今村まで泣かない。ほら、カフェオレを飲んで落ち着いて?」


 永塚はそうやって笑いながら、俺の膝にある小さなペットボトルを掴んで俺の顔の前に近づける。


「……あ、ごめん。ありがと」


 我に返って涙を拭うと、永塚からカフェオレを受け取って数口飲む。僅かでも疲れた時やしんどい時は甘いものが心を癒してくれる。

 ──そんな時、俺を見つめる永塚が、突然、しんみりしたムードを大きく一変させるようなことを口にしてきた。


「ねえ、私と付き合わない?」


 思いっきり、むせた。

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