第15話 離れていても

 潮李が熱を出した。

 おかしい。

 ついさっきまで元気にソーダを飲んでいたのに、急に苦しみ出した。この、突然、病に侵される状況はとても近距離病と似ている。しかし、俺達は、軽く触れ合うだけでもう体を密着させたりしていない。

 ただの熱だと信じていいのか、やはり近距離病に関係するものなのか。

 先に二人分のお会計を済ませてから、潮李が座る場所に移動して彼女を背中に乗せるとカフェを後にした。

 早い内に休ませたくて、道のりのことを考えて俺の家を目指す。体調の為にも傘を差した方がいいのだけれど、小雨に変わっていたし背負いながらではかえって危険なので閉じたまま家路を急いだ。


 家に戻るとすぐに自室へ向かい、潮李をベッドへ寝かせて額に冷却シートを貼り、換気の為に窓を開ける。

 少し経過して、大きな変化ではないが、潮李の顔色と息遣いが僅かに落ち着いてきたように感じる。しばらく見つめていると、彼女がゆっくりと目を開いて俺に顔を向けた。


「修我……?」

「おう、俺だ。具合はどうだ?」

「まだ怠いけど、さっきよりは大丈夫……。ごめん。すごく迷惑を掛けたね」


 体を起こしながら言う潮李を見つめて首を大きく横に振る。言葉を並べるよりもその方が伝わる気がしたから。


「私達、一度、手を繋いだだけで、前みたいに接近していないのに……どうして?」

「そうだよな。俺も、分からなくて困っているんだ」

「一体、どうすればいいの……?」


 潮李が悲しそうな瞳で俺を見つめて嘆く。

 彼女も自分が予兆もなく熱を出したことを近距離病の症状ではないかと疑い、改善策が分からないでいる。

 二人の身体的距離が徐々に遠ざかることも不安だけれど、同じぐらいに潮李の体調が悪化していくことへの恐怖も大きい。発熱なんて今までに無かったから。潮李も同じ気持ちだろう。

 ただ、今は悩むよりも弱気になる潮李を慰めることが最優先だ。


「大丈夫だよ。前触れのない風邪だってあるだろう。近距離病だったとしても、また一緒に付き合い方を工夫していけばいいさ」


 言いながら自分の隣に置いてあるスポーツドリンクのペットボトルを渡すと、潮李はそれを待ち構えていたように三分の一ほど飲んでから返事をする。


「そうだね。私も負けないぐらいに修我のことを振り回しているね?」

「振り回し合ってプラマイゼロ、むしろ絆が芽生えてプラスだよ」


 二人でクスッと笑う。潮李の表情が少し明るくなった。


「汗をかいてきたから拭いた方がいいかも」

「これを使って」


 鞄を確認したいのか潮李が立ち上がろうとするので、部屋のタンスからミニタオルを取って彼女に手渡す。

 着替える訳にはいかなかったので、潮李をブラウスとジーパンの私服姿のままベッドへ寝かせていた。それはたくさん汗をかく。


「ありがとう。──じゃあ、少しの間、後ろを向いてもらってもいい?」

「彼氏彼女なんだし、一瞬だけ見ていちゃダメ?」

「……一瞬だけ、なら」


 俺の前で服を脱ぐことに抵抗があるらしい潮李が、悩んでから小さく頷く。心を許してくれたようで嬉しい。

 潮李がボタンを外してブラウスを左肩から下ろすと、前身で左右に膨らむそれを被せる水色花柄の布地の一部がはだけて見える。服を脱ぐ過程で徐々に露になっていき、全体が映し出された。下着姿の彼女を目にして、改めてそれなりには"出ている"のだと知る。愛し合っているとはいえ初めて見たので、ドキンドキンと胸の鼓動が凄まじい。好きな女子相手だから尚更だ。


「ちょっと……見すぎ」


 上半身を腕で隠すようにしてジト目をこちらに向ける潮李。いくら恋人でも、長い間、見られていたら困るよな。

 あまりに興味を惹く光景だったので一瞬の間でも目に焼き付いてしまい、すぐに視線を外すことが困難だった。これが男子のさがなのだろう。


「ごめんごめん! もう下を向くから」

「下じゃなくて後ろね」

「どっちからも見えないって」


 それでも心配そうな潮李に従って俺は体を後ろに向かせる。

 衣擦れやタオルで汗を拭う微かな音に顔を上げたくなる欲を抑えながら待機していると、


「わぁ……!?」


 控えめに驚く可愛らしい声がして、反射的に振り向いてしまった。

 ベッドから外れ、ジーパンを膝まで下げてブラと同じ柄のパンツを身につける潮李の後ろ姿が視界に入る。お尻から太ももにかけてクリアな液体で濡れていて、それが絶妙に興奮を誘う。彼女は自分の汗の量に驚いたのかもしれない。

 潮李が振り向こうとしたタイミングで自分も瞬時に顔を戻す。危ない危ない。反射神経が鈍っていれば確実にバレていた。


 しばらくして、彼女が終わったことを伝えてくれて元の体勢に戻った。


「よく見ると、顔色、良くなってきたな」

「私も、さっきより落ち着いてきた気がする。寝ていなくてもいいかもね?」


 と、潮李は仰向けになることなくベッドの端に腰を下ろす。


「駄目だよ。もう少し横になっていたら?」

「だって、暑いし」

「それもそうか」


 足をぶらーっと伸ばす潮李に同意して、俺も彼女の右隣に座る。見た所、すっかり元気そうで普段の潮李と特に変わりがない。額に触れるともう熱くはなかった。


「治ってきたかもな?」

「やっぱり?」

「一時的な風邪だったのかもしれない」

「珍しいケースな気がするし、近距離病なのかな……? 安心はするけど、油断は出来ないかも」


 潮李の言うように、その可能性が非常に高いと思う。

 それから一時、無言が続いていると、修我、と潮李がまだ新鮮に聴こえる呼び方で俺を呼んだ。


「体に触れるのは今回を最後にして、次からは会うだけにしよう?」

「そうだな。寂しいっちゃ寂しいけど、最善の選択だと思う」


 もし近距離病なら、いくら自分達が「近づいていない」と感じたとしても、潮李の体の判断では体調を崩す距離の時だってある。今は、とにかく彼女の容態を見ながら調節するしかない。だから、


「早く理枝さんから連絡が来るといいけどなぁ」


 可能な限り、すぐに専門医の元で診てもらう他ない。


 しばらくしてから家を出て、潮李を自宅まで送った。

 別れ際に潮李がこう言った。


「今日はこんなデートになってしまってごめんね」

「俺は楽しかったよ? 潮李の為に看病が出来て良かった」


 相変わらず申し訳なさそうにする潮李にフォローかつ正直な言葉を掛ける。「看病デート」と言ったら潮李に悪い気がして心の中で名付けたけど、今日も二人で素敵な時間を過ごせた。

 手を振って、帰路につく。そんな感じで、雨と看病のデートは閉幕した。


 帰りながら、ふと思ったことがある。

 今更だけど、俺達は、相手のどこを好きなのかほとんど伝えたことがない。ひょっとしたら、他のカップルも詳しく聞いたりしないのだろうか。ただ「好き」が伝われば、他の情報は何もいらないのかな。

 気にならないと言えば嘘になる。それでも、今は、こうして想いが通じ合っているだけで満足かもしれない。




 次に二人で会った日は、約束通り、スキンシップをとることはなかった。

 一方で、言葉でも身体的にも愛を伝え合う通りすがりのカップルを見て、


「あの二人、すごく仲が良いね……」

「俺らはあのカップルよりも物理的なものを超えて愛し合っているさ」

「照れくさいけど、全然、負けていないよね?」


 と、身体的距離が遠ざかることでお互いの愛はむしろ深まっていったように思う。

 それなのに、しばらくして、


「潮李? 大丈夫??」

「ごめん……気分が悪くなったみたい……」


 信号待ちの時、突然、潮李が電柱に手を添えて体を支える姿勢になった。熱中症の可能性もゼロではないが、本来の潮李は健康的なので、普通ならそう頻繁に体を壊さない。近距離病が妥当な所だろうか。

 背中を摩って落ち着かせたいが、それすらもかえって悪化させる気がして、しゃがみ込む潮李にただ「大丈夫」を繰り返す。

 それからもあまり良くなる気配が無いので、この日は潮李の家で二人で大人しくくつろぐことになった。お家デート自体は楽しかったが、不安は増すばかりだ。


「本当はこんな提案はしたくないけど、しばらくの間、俺達、会わない方がいいかも」

「私も、そう思った」


 加えて「次に会うのは検査が終わってから、もしくは登校日」「代わりに通話やメッセージでたくさん話そう」と約束して、


「じゃあ……またね?」

「おう。必ずな」


 手を振り合い、お互い、寂しい感情を抑えつけて別れた。これを機に、しばらくは会えない。

 寂しくて悲しいけれど、彼女の為だ。それでも、俺達がこんな思いをしなくてはならないのが悔しくもある。


 その日の夜はいつもより長めの通話で寝落ちして、翌日も時間が合う時に通話とチャットでたくさん会話をした。

 このように電子機器で潮李と繋がっている期間に、俺はふと名案を思いついた。

 ある日の夜九時前。俺は、いつもの通話起動画面の普段は使用しない右ボタンをタップする。使う相手は潮李が初めてだ。

 呼び出し中の画面に自分の情けない顔がアップで映し出される。少々居た堪れない気持ちになるけれど、それよりも潮李が姿を現してくれるかが心配だった。


「……もしもし? ビデオ通話にしたの?」


 画面が二つに分かれて俺の下に映った潮李が声を出す。容姿がいつもより自然体に映っているのは、時間的に入浴後だからかもしれない。

 よかった。潮李は突然の「ビデオ通話」にも参加してくれた。


「そうそう。いきなりだったけど、問題ない?」

「問題はないよ。でも、どうして?」

「オンラインデートだよ。ビデオ通話なら相手の姿を確認できるから、少しでもデートをしている気分になるだろう?」

「それ、名案だね!」


 画面でも伝わるキラキラした瞳で喜んでくれ、ホッと安心した。

 それから、


「今日はどんな一日を過ごしていたの?」

「午前中にバイトがあって、午後からは菜子ちゃんやハートライトの子達とショッピングをしたよ」

「青春しているな〜 あいつらが羨ましいよ」

「もうちょっと我慢すればきっと前のように戻れるよ。修我は何をしていたの?」

「午前中はバイトして、午後からはゲームして寝てた」

「……充実、しているね」

「無理に褒めなくていいんだぞ」


 俺達は普段と変わらない何気ない会話で盛り上がった。

 しばらくすると、


「それ、何を食べているの?」

「カップ焼きそばだよ。通話直前まで寝ていたから遅めの夕飯な。潮李のグラスのそれは……無糖の炭酸水?」

「ただの水だよ! 毎日は飲んだりしないから!」


 お互い、画面の向こうで食べたり飲んだりしたり、


「よーしよしよし」

「──何しているの?」

「下の画面の潮李を撫でている」

「じゃあー、ストップ」

「わー、手が塞がれた!」


 触れ合っているかのように手を動かしたりして、デートしている風を演出してみたりした。

 これが思いのほか楽しくって、目の前に彼女が存在するような気になって寂しさが軽減される。

 この日は、画面内で体調を崩す潮李は見受けられなかった。




 次の日。チャットや通話で潮李を呼ぶが、彼女から一度も返事が来なかった。友達と遊んでいたか、バイトや家の事情で忙しかったのだろうか。

 とはいえ心配になるので、翌朝にもう一度、潮李に電話を掛けた。潮李はすぐに応答してくれて、安堵する。


「よかった……。もしかして、忙しかった?」

「まあ、忙しかったと言えば、そうなんだけど……」


 曖昧に返事をする潮李。次の言葉を待っていると、


「私、昨日から入院することになっちゃって……」


 心底言いづらそうな声色で潮李は答えた。一瞬、恐怖で寒気を感じた。


「入院!? どうして??」

「一昨日の通話が終わった頃に急に高熱が出て、症状が少し重たかったから……。でも、今は落ち着いてきたし、すぐに退院できるみたいだから安心して?」


 と、俺を心配させないように伝えるが落ち着いていられるはずがない。衝撃のあまり言葉を返せない。

 この数日で潮李の体調は徐々に悪化してきている。ただの高熱? いや、近距離病の可能性が極めて高いが、この距離でさえも引き起こす原因に皆目見当がつかない。

 俺達は、これまで距離において試行錯誤して付き合ってきたつもりだ。それなのに、どうして、潮李の体調は変化しない?

 何が正解なんだ?


「それと、検査をしてもらえる日時が決まったよ。二日後の八月十日、午後一時だけど、修我も来れないか? って言われた」

「わかった。必ず行くよ」

「担当の先生が私が入院する大学病院に勤めているみたいで、退院日の十日にそのまま診てもらえることになったから。よろしくね」


 ようやく検査を受けられる日を知れたことが僅かな心の救いだった。

 電話を切ると、すぐに潮李が入院する市内の大学病院へ向かった。会わない約束だけれど、こればかりは距離を空けてでもお見舞いに行きたい。居ても立っても居られなかった。

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