第9話 彼女の体の秘密
潮李の瞳が、俺をじっと見つめる。
ただでさえ暑い季節なのに、心の準備をしていなかったので緊張で汗が出る。
「俺も、あると言えば、ある……」
頼りなく答えて、潮李の腰に手を添える。彼女は少し微笑む。
正直、自分だって潮李に触れたりしたいし、性欲はある。あるけど、潮李は純粋だからあまり興味を惹かれないものだと、今日のデートにはそういった意味は無いのだと勝手に決めて欲を抑えていた。
考えてみれば、今日は手を繋ぐ以外はお互いの体に触れていない。潮李には、ずっと、そうしたい気持ちがあったのかな。
彼女の本心が知れたので、俺も心の内を曝け出す。
「目、瞑ってて?」
「うん」
そっと目を瞑る潮李を確認してから俺も同じように閉じると、潮李の桃色の唇に自分の唇を重ねる。ぷるんと柔らかい感触がして、彼女の熱い体温が伝わる。口紅か何かでお手入れをしてきたのだろう。
欲望のままに動いてしまい口のケアとか考えてもいなかったけど、潮李は不快じゃないかな? 俺だけが心地よい思いをしていないだろうか。
「私、これがファーストキス……」
蕩けるような表情で甘い声を漏らす潮李を目の前にして、彼女も気持ち良さそうにしているのだと分かって安心した。
「俺もだよ。恋人が出来たのだって初めて」
「私も初めてだよ? お互い、初体験がたくさんあるねっ……」
色っぽい声で潮李は微笑む。潮李の想像以上の色気に心が追いついていない。
それからも、俺達は頬や首筋、肩などに口付けをして愛を深め合った。冷房が効いた六畳の部屋で、温度が上昇した体を長らく密着させて。クーラーはついていないも同然だった。
しばらくスキンシップをしてから、
「暑くなってきたな」
「……お茶、淹れよっか」
「……だな」
俺が話し掛けたのを合図に体を離し、最初の数分は若干気まずくなりながら部屋の中で麦茶を飲んで涼んだ。三十分ほど過ごして、十六時半頃には帰り支度をして潮李の家を出た。
「送って行く」と潮李に言われたがそれは男の俺の役目だと思い、玄関先までの見送りにしてもらった。
「今日は一日、楽しかった。ありがとう!」
「俺も! すごく良い一日だった!」
お互いに感想を伝え合う。改めて俺達ならではの楽しい初デートが出来て良かった──その時だった。
「じゃあ、また連絡する……潮李っ──!」
言いかけた瞬間、突然、潮李の呼吸の頻度が急激に速まると正面に立つ俺に向かって倒れ込んだ。どうにか膝を曲げて受け止めると、潮李は息を荒くしながら、苦しい、と言って自身の体を抱きかかえる。顔も青白い。
これ、今までの体調不良とは明らかに違う。
「やばいって……どうしよう……?」
混乱状態になっていると、潮李がなけなしの力で手を差し伸べてくる。俺はそれを両手で包む。
「そうだな。二人ならきっと大丈夫だよな」
潮李の温もりから僅かに落ち着きを取り戻すと、スマホの通話機能で救急車を呼ぶ。手を握ったことに効果があるのか、潮李の呼吸も少しばかり楽になってきた。
しばらくして救急車が到着した。その頃にはまた若干良くなってきたが、それでも顔色は優れないし、呼吸も普段通りとは言えない調子だった。
駆けつけて来た隊員に潮李の容態をなるべく詳しく説明すると、彼らは潮李のそばに寄って呼吸法を促した。ようやく、彼女の様子は落ち着いた。
「おそらく、過呼吸と立ちくらみだね。大丈夫だよ」
安心させようと愛想笑いで簡単に言って隊員が救急車へ戻ろうとする。大したことがないように話すけれど、少し違和感を抱いた俺は呼び止める。
「あの、本当に、それだけですか? 彼女、日に日に体調を崩している気がするのですが……」
「それだけとしか思えないね」
と言って、そそくさと俺達の場所から離れると車を走らせた。救急隊員の多忙さが伝わり、医師の意見だからきっと正しいのだろうとこれ以上の質問は躊躇った。
彼女の体調が良くなって安心する反面、このまま解決で終わらせてよい問題なのか分からずに心の片隅にモヤモヤが残る。
俺は潮李の肩を支えながら玄関へ入ると、そのまま階段を登り、再び彼女の部屋へ戻った。
「迷惑、掛けちゃったね。後は一人で大丈夫だから、修我君は帰っていいよ」
「心配で放っておけないよ。水を持って来るからベッドで横になってて。キッチンでよかった?」
「うん。ありがとう……」
「冷房もつけとく」と声を掛けてリモコンを操作してから部屋を出ると、階段を降り、リビングダイニングの台所で透明のグラスを借りて水を汲む。そうしている間に玄関を開ける音がして、こちらに姿を見せた潮李母と対面した。
やや驚いた様子で俺を見つめる潮李母。よく見ると潮李に似ていて美人な
「あの、お邪魔、しています。今日、潮李さんと会っていまして、またお家へ上がらせてもらっています。今は、潮李さんから許可をもらってキッチンをお借りしている所で……」
焦りながら、変人扱いされないよう言葉を紡いでいく。
「こんにちは。それは全然、気にしなくて大丈夫よ。どうぞごゆっくりね」
しかし、潮李の母は優しく微笑んで言うと、居間を後にしようとする。そこを、あのっ、と俺が呼び止めると潮李母は振り返った。
「潮李さん、さっき体調を崩してしまって、今は少し落ち着いて部屋で休んでいます。隣に居ながらすぐに気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
俺は彼女の状況を報告して頭を下げる。
違和感は抜けないが、とりあえず医師も「大丈夫」とは言っていたので、驚かせないよう救急車を呼んだことには触れなかった。
「そう。あの子が……珍しいわね」
すると、意外な言葉が返ってきた。
本人の言う通り、やはり潮李は決して体は弱くないのだろうか。俺からすれば初めて関わった日から潮李は体調を崩していたので、彼女に対するイメージがまるで異なる。
ということは、
「もしかして、最近、潮李さんが何度か頭を痛そうにしたり貧血で保健室で休んでいたことって知らないですか?」
「それ、本当なの……??」
「本当です」
驚愕、といった表情をする潮李母。こんな所で嘘を吐く理由がない。
この方は、何も知らないんだ。
「全然、知らなかった。私ってば、やっぱり、娘のことなのにちゃんと気に掛けてやれなかったのね」
「きっと、心配を掛けたくなくてお母さんに話さなかっただけです」
自虐しながら苦笑する潮李母に嘘のないフォローの言葉を掛ける。
「本当、あの子らしいわね。何でも抱えて強がっちゃうの」
「そうですね」
性格の点に関しては、潮李に抱くイメージが合致した。
「それにしても、潮李、急にどうしたのかしら……? さすがに心配ね」
不思議そうに彼女は呟く。
潮李母と話したことで、俺はより潮李の体の状態に疑問を感じた。
「ごめん、遅くなった」
部屋へ戻ると、そう言ってテーブルに水を置く。潮李はベッドの端に背中を預けるようにして床に足を伸ばしていた。
「お母さんと話していたんだよね?」
「気づいていたのか?」
「玄関の音がしたから。体調のこと?」
「もしかして聞こえた?」
「ううん? 遅いってことは、きっと、そうかなって」
言いながら首を振る。彼女の勘だったらしい。
「お母さん、驚いていたでしょ?」
「普段は体調を崩さないからどうしたんだろう? って」
「やっぱり」
下を向いて苦笑いをする。それから、潮李は目線を俺に戻すとこう言った。
「私も、同じことを、最近になってずっと考えていた。さっきの症状で確信したよ。私の体の何かがおかしい、って」
潮李自身も体調に疑問を抱いていた。これで、三人もが彼女の体に違和感を覚えたことになる。
やはり、「よくある体調不良」では片付けられない"何か"が潮李の体の中で起きている。
「早い内に病院で検査をしてもらった方がいいと思う」
「私もそんな気がする。周りの人にも相談してみるよ」
「俺も、調べてみる」
「お互い何か情報が分かり次第連絡をする」と決めて、初デートは幕を閉じた。
一概にも明るいとは言えない終わり方だけれど、デート自体は素敵な時間だったし、最後は笑って潮李と別れた。
帰宅後、すぐにパソコンを開いて彼女の容態に当てはまりそうなワードで検索をする。
「頭痛 貧血 過呼吸 立ちくらみ」「夏に急に体調を崩す病気」「女子高生 夏 体調不良」などなど。しかし、これといって可能性が高い情報は見つからない。
次の日にバイト先の人に訊ねてみても、納得がいく答えは得られなかった。
バイト後の夜、スマホに潮李からの連絡が来た。チャットではなく、通話で。
初めての潮李からの着信画面に喜びとドキドキを覚え、応答ボタンに触れる。アイコンが潮李が昨日飲んでいたクリームソーダに変わっていたから尚更かもしれない。
「──もしもし?」
すぐにスマホを耳に当て、問い掛ける。
「もしもし」
お世辞にも良いとは言えない音質なのに、透明感のある声が耳の中をくすぐった。通話でも潮李の声が可愛い。
「急に通話しちゃって大丈夫だった?」
「大丈夫! どころか、普通に嬉しかった」
「よかった」
俺が明るい調子で答えると、向こうもはにかんでいるかのように声を返す。
「あの、明日のお昼の一時にバイトの面接なんだけど、その後、よかったら会えないかな? その時に──」
「会える会える! 何時にどこへ行く??」
初デートは俺から誘ったので、今回は潮李から誘ってくれたことが嬉しくて、興奮が声にまで表れる。面接を受けて来た潮李のお疲れ様記念も兼られるのでタイミングもベストだ。
「えっと……その時に菜子ちゃんも一緒でもいいかな?」
「えっ……」
やや言いづらそうに答える潮李に、テンションが急に元の状態に下がる。なぜ、俺と潮李のデートに佐々木が加わることになる?
「実は、菜子ちゃんに体調のことを相談したら『症状に心当たりのある人がいるから会わせたい』って返事が来て、明日、時間を作りたいみたいで」
興奮のあまり潮李の話を途中で遮ってしまった俺の早とちりだった。恥ずかしい。
それにしても、潮李の症状について早い内に進展があったことには少し安心した。
「わかった。必ず行くよ」
断言すると、待ち合わせ場所と時間を教えてもらい、その後はお互いのバイトやフェス合宿についての何気ない会話をして通話を終えた。
今日は会えなくても、その分、潮李とたくさん話せたから寂しいことはなかった。
翌日の昼下がり。
二日前にも訪れた駅で潮李と佐々木と待ち合わせをすると、左から俺、潮李、佐々木と並び、佐々木の案内に沿って進んだ。学校以外では人付き合いが少ない俺は、集合場所として駅を利用する考えもあるのだと一つ勉強になった。
「潮李、バイトの面接、お疲れ様!」
「お疲れ様」
歩き始めてすぐ、佐々木が潮李にそう伝えたので直後に俺も言う。
「ありがとう」
「どうだった? 手応えは?」
「バイトの面接って初めてだからよく分からないかも?」
「ま、そういうもんだよねー あそこのカフェ、まだ行ったことないんだけど雰囲気どう?」
「私は好きだよ。居心地が良さそうな場所だし、あと、面接中に出してくれたカフェラテが美味しかった!」
「へ〜! めっちゃ好印象なカフェだね!」
そんな感じに女子トークで盛り上がる二人を俺は端で見ていて、ちょっと微笑ましく感じる。やはり、いつも明るく笑っているだけあって佐々木はコミュ力が高いのだと感心もした。
「採用決まったら、今村、彼氏として行ってあげなきゃね?」
「それは駄目……!」
急にこちらに話し掛けてきた佐々木に対し、潮李は俺に向かって両手を前に出す。
きょとんとした顔で佐々木が潮李に訊ねる。
「──駄目なの?」
「だって……恥ずかしいでしょ。今まで働いたことがないから自信もないし」
「そうだな。潮李の気持ちもあるし、無理に行ったりしないよ」
「いやいや、そこは彼氏の今村が応援隊長となって自信を持たせに行ってあげなよー」
「そういうもんか?」
「とりあえず、今はやめといて……」
途中から俺も混じって雑談しながら歩き、バスに乗って、また少し歩いて、俺達三人はある場所に到着した。
「どこに行くのか聞いていなかったけど、ここ、おそらく佐々木の家だよな?」
「それしかないよね。さ、入るよー」
佐々木は平然とした調子で言って、潮李の家同様、一般的な二階建ての一軒家へと進んで行く。その背後を潮李が着く。
女子の家に免疫が無くて戸惑う俺の気持ちも汲んでくれ。潮李の家でも完全には慣れたと言えないのに。
それでも流されるように自分も着いて行って佐々木家の居間に入ると、すらりとした体型で茶色いショートヘアの若い女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。疲れただろうから座って?」
四人掛けのダイニングテーブルを指し示して女性は微笑む。どことなく雰囲気が佐々木菜子に似ている。というか、それって……
「紹介するね。
目の前の女性に手を広げて佐々木菜子は言った。そうだろうな、と思った。
とはいえ、ギリギリまで、今日、彼女が会わせたい人が実の姉だなんて予想がつかなかった。潮李も声に出さずとも驚いた表情をしている。さては俺らの反応が見たくて黙っていたな、佐々木妹よ。
「萩野潮李です。今日は、お時間を作っていただきありがとうございます」
「今村修我です。今日はよろしくお願いします」
佐々木のお姉さんに丁寧に挨拶をする潮李に
お姉さんは「そんなに畏まらなくて大丈夫よ」と微笑むと、
「佐々木理枝です。市民病院に勤めていて、まあ、要するに医者をしています」
どこか照れくさそうに、そう挨拶をする。
通りで潮李の症状に心当たりがあるわけだ。これは想像以上に頼りになりそう。
一通り挨拶を済ませると、俺と潮李の正面に佐々木姉妹が来るように椅子に腰を下ろす。それぞれの席には、理枝さんが用意したお茶とクッキーが並べられてある。
「『コーン茶』と言って、鉄分や食物繊維が豊富で、美容にも良いの。よかったら飲んで?」
理枝さんに目の前のお茶を紹介されて、俺と潮李はそれを一口召し上がる。確かにとうもろこしのやさしい甘みを感じて飲みやすい。隣の潮李に「美味しいね」と声を掛けて軽くやり取りする。
クッキーも香ばしくて美味しい。甘さ控えめなのでこちらも体に良い素材を使っていそうだ。
「さすがは先生! 健康志向!」
「あんたが体に悪いものを好み過ぎなの」
茶化す妹に世話が焼けるような調子で突っ込む佐々木姉。内面は全然似ていないが、なんだかんだ仲の良い姉妹だとすぐに分かる。
理枝さんはコーン茶を一口飲むと、それで喉を潤したかのようにして俺達に言った。
「それじゃあ、本題に入ろうかな」
「お姉ちゃんに大まかには説明したけど、潮李、今村、もう一度聞かせてくれる?」
二人に促され、俺と潮李は顔を見合わせて頷く。
潮李は、夏に入って──つまりは俺と出会ってから急に頭痛と貧血を起こすようになり、二日前には俺と別れる直前に今までに無い酷い症状が現れて救急車を呼んだことを説明した。
俺は「突然だったし自分の体が何か変」と話す潮李に賛同の言葉を掛ける程度で、口を開くことはほとんど無かった。
「──そんな感じです」
「話してくれてありがとう。……やっぱり、本人の話で、更に可能性が高まったわね」
話し終わった潮李に神妙な面持ちで理枝さんは返事をする。
そして、顔つきを変えないまま、彼女は俺と潮李を見据えてこう告げた。
「おそらく、潮李ちゃんは、まだ世間ではほとんど認知されていない『
一瞬、背筋が凍った。
「ほとんど認知されていない」と不安を煽るような説明に加え、全く馴染みのない病名に。
潮李も、不安に怯えそうな自分を堪えるような顔をする。
テーブルの下で、震える手を重ね合わせた。
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