こわいもの知らず

尾八原ジュージ

こわいもの知らず

 死神は猫みたいな外見をしていたし、実際にゃあんと言った。可愛らしい黄色の目をぱちくりさせ、真っ黒な右前足の先をざりざり舐めながら、「あんたの享年は九十歳よ」と私に告げた。

「案外長いんですね」

 私は死神に触りたくてうずうずした。猫好きだが猫アレルギーの私は、普通の猫には近寄ることすらできない。だが、相手が死神なら平気なようだ。たまらず手を伸ばすと、死神は長くて太い尻尾を優雅にくねらせながらサッと避けた。

「今は駄目よ。あんたが死ぬとき、好きなだけ抱っこさせてあげる」

「えっ、でも、その、きゅうじゅっさい」

「あんたはまだ二十五歳だから、ずいぶん遠い未来に思えるでしょうけど、案外すぐよ」

 死神は切符のような紙を一枚くれた。

「特別にクーポン券をあげる。死にたくなったら使いなさい。諸々すっとばして来てあげるから」

 そう言うと、死神はにゃあんと高く一声あげた。すると一瞬のうちに、もふもふの死神も小さなクーポン券も消え失せてしまった。しかし私には、確かにそのクーポンが与えられたということが、感覚的にわかるのだった。

 それからというもの、私にこわいものはなかった。なにしろ九十歳まで死なないとわかったのだし、もしもそれまでに死にたくなるような辛い状況に陥ったら、クーポンを使って死神をモフればいいのだ。翌朝、万能感に満たされたままに出社した私は、いつになく溌溂と皆に挨拶をした。

「今日はやけに元気だね」

 課長がニヤニヤしながらやってきた。

「課長、おはようございます!」

「そんなに元気なら、この仕事を頼んでもよかろうね。締切は今日中」

 いつものように無茶ぶりとパワハラを繰り出してくる課長に向かって、私は反論した。恐れるものがないのだから言いたい放題だ。

「無理です。普通に考えて時間が足りないとわかりませんか? 一日が二十四時間だということをご存知ないのですか? それほど無知なのですか?」

 詰め寄っていると、やがて課長がシクシク泣き始めた。パワハラ野郎のくせになんと打たれ弱いことか。まぁ、死神に会ったことのない人間なんてこんなものか。

 社長とコネがある課長を泣かせたため、私はその日のうちにクビになったが、まぁ何とかなるだろうと思って勢いよく会社を飛び出した。街をウロウロしていると折よく求人募集の貼り紙を発見したので、さっそくそのお店に飛び込み、雇ってもらうことになった。

 新しい職場は便利屋だった。体力には自信があったので、オフィスの移転だとか、山奥に穴を掘るだとか、海に高級車を落とすだとか、そういう仕事を骨惜しみもせず真面目にやった。なかなかやりがいが感じられた。九十歳までは死なないのだからと選り好みせず仕事を片付けていくうちに「お前ヤベーよ」と言われるようになり、出世して、ますます仕事に夢中になった。

 そのうち、いつの間にか三十歳を過ぎていた。

 そういえばクーポン使う機会なかったな――と二十代を振り返っているあたりで、ある男性と出会った。顔がものすごく好みだったし、私はすっかりこわいもの知らずが板についていたから、会って即求婚した。男は「おもしれー女」と言って笑った。とんとん拍子に話が進み、結婚することになった。子供も持たず、家も買わなかったが、おおむね充実した年月が過ぎ去っていった。

 が、破綻は突然訪れた。四十二歳の夏、自宅で汗だくになった私は、ようやく死神のクーポンを使うことにした。

 目の前には夫の死体が転がっていた。彼の不倫が原因で取っ組み合いのけんかになって、はずみで殺してしまったのだ。一度は愛した男の死体を見下ろしながら、刑務所には入りたくないなと思った。不自由な暮らしをするくらいなら、死神をモフモフして死にたかった。

「使っちゃうのね。別にいいけど」ひさしぶりに見る死神はやっぱり猫の姿をしており、滅法愛らしかった。「でもあんた、今死んだらこいつと心中したと思われるような死に方になっちゃうわね。それでもいい?」

「うっ」

 それはイヤだなと思った。一度死ぬほど見下げ果てた男と、誤解にせよ心中したと思われるのはしんどい。ちょっと考えて、私は「やっぱりクーポンとっとくことにします」と答えた。

「仕方ないわねぇ。よくってよ」

 死神はにゃあんと高く一声、そしてぱっと消えた。

 一人になった部屋の中で考えた。こんなことをやっているうちに、寿命なんていつの間にか尽きてしまうものなのかもしれない。いつだったか「九十歳なんて案外すぐよ」と教えてくれた死神の面影を瞼の裏に描きながら、私は逃亡の準備を始めた。やっぱり、こわいものなど何もなかった。

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