七月の七分七十七秒のゆくえ
夢月七海
七月の七分七十七秒のゆくえ
夜七時。外のドアノブにかかっていた看板をひっくり返して、「OPEN」が見えるようにする。これで、今夜の準備は整った。
歓楽街、それも場末と呼ばれても仕方ないような場所に立つバーとしては、夜七時開店は早すぎる気がする。周囲のお店との差別化を狙ったつもりだったけれど、この時間にお客さんは全く来ない。でも、私はこの選択を全く後悔していない。
スローテンポのジャズをレコードにかけて、一曲が終わるタイミング。深緑のドアをガチャリと開けて、最初の、そしていつものお客さんが現れる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの内側で会釈をして迎え入れる。浮かべている笑みは、営業用じゃない、心からの微笑みだ。
白地に黒い筋が縦に伸びた、ボディラインにぴったりと合ったドレスを着た一人の女性が、深い海の色のような長い髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。私に向けた黒い瞳が、温かな笑みの形に彩られる。ただそれだけで、私の胸はときめいた。
「こんばんは。七月だけど、今日はちょっとすずしいわね」
季節の挨拶を口にした彼女は、カウンターの一番端の席に座る。他にお客さんがいなくても、最初に来店した時から、ここが定位置になっていた。
浅黒い肌をした彼女の源氏名はレウコノエ。本当の名前は知らない。故郷の南の島の蝶の学名が由来だと言っていた。この国に渡ってきてから、近くの酒場で踊り子をしている。
「そうですね。これから、どんどん暑くなると思うと、嫌な気持になりますが」
「あら、わたしはここの夏は結構好きよ。湿度が低いからね」
そう言いながら、レウコノエさんは、腕にはめていた時計を見る。丁度秒針が十二の文字盤を指したので、私たちは顔を見合わせる。
レウコノエさんは、この後仕事が控えているので、七分間しか滞在しない。席について、お金を払い終わるまでのぴったり七分を、この五年間ずっと繰り返している。
「今夜は何にしましょうか?」
「そうね。白桃を使ったカクテルをおまかせで」
「かしこまりました」
七分という短い時間では、レウコノエさんが飲めるのも一杯だけだ。私は、この一杯に、自分の持てる技術とセンスをすべて注ぐ。どんなVIPが来店しても、ここまで尽くすことはしないだろう。
冷蔵庫から、昨日買ったばかりの白桃を一個取り出す。白桃は、レウコノエさんの大好物なので、旬が来るといつも用意している。果物ナイフで丁寧に皮を剝いていると、レウコノエさんがカウンターの一番端に置いている花瓶に生けた月桂樹を触りながら、話しかけてきた。
「ねえ、ラウルスは、月桂樹がすきなのね」
「ええ。お店の名前にするくらいですから」
「月桂樹のこかげ」という店名は、私が自分でつけた。レウコノエさんは、この店名に因んで、私のことを「
切った桃の四分の一を小さなボウルに入れて、そこへティースプーン一杯分のシュガーシロップを注ぐ。壁側を向いて、これらを潰して混ぜていると、レウコノエさんが月桂樹の葉を指で弾いている音が聞こえる。
「でも、花を飾っているのをみたことはないわ。どうして?」
「花も綺麗なんですけどね、実は、花言葉が『裏切り』なんですよ。ちょっと縁起が悪いので、飾るのは遠慮しています」
「へぇ。じゃあ、葉っぱのほうは、違う花言葉なの?」
「ええ。『私は死ぬまで変わりません』というものなんです」
「……一つの木に、相反する言葉があるの? 人のこころと同じね」
潰した桃と適量のバーボンと氷を入れたステアグラスを持って、カウンターへ戻る。その時、レウコノエさんはとても物憂げな表情をしていたので、何も返せなかった。
早くとっておきの一杯を提供してあげたい。そんな気持ちで、私は材料を混ぜ合わせる手を少し早める。氷と材料をカクテル用ストレーナーでこしながらグラスに注ぎ、完成したカクテルをレウコノエさんに差し出した。
「お待たせしました。白桃のオールドファッションドでございます」
「ありがとう」
結露したグラスを、レウコノエさんはそれに負けないくらいの涼やかな笑顔で受け取る。そのまま一口煽ったレウコノエさんは、普段のきりっとした美しい顔とは想像できないほど、トロンと眠そうな顔で、満足げに頷く。
この顔にやられたんだよなぁと、いつも見る度に思う。開店してから数か月、いまだ赤字が続く状態で焦っていた当時の私の心を、射止めたのは最初に見せてくれた彼女の笑みだった。
初めてレウコノエさんを見た時のときめきは、単純に自分に無いものへの憧れだと思った。短い髪に、背中から見ると男みたいだとからかわれるほど色気のない私の体とは、何もかも正反対だったから。
例の笑顔を見ても信じられなかったけれど、次の日も、次の日も、開店すれば必ず来てくれるレウコノエさんと言葉を交わすうち、この「好き」は恋なのだと思い知った。相手に深入りして、こちらの気持ちを知られたくないほどに、彼女のことを愛している。
「……わたしね、ここでカクテルを飲むまで、お酒の味がにがてだったの」
「え」
「ああ、別にお酒によわいってわけじゃないけれど、自分から好きこのんで飲もうとはしなかったわ」
唐突なレウコノエさんからの告白に、私は分かりやすくたじろぐ。いつも、度数を気にせずカクテルを作っていたけれど、彼女には迷惑だったのかもと。しかし、そんな不安を吹き飛ばすかのように、レウコノエさんは軽やかに笑いかけた。
「でもね、ラウルスの作ってくれたカクテルはべつよ。お酒って、入れ方だけでこんなにかわるんだって、毎日感動していたの」
「恐縮です」
「むりにでも酔わないと、やっていけない仕事だからね……。あなたと出会えて、本当によかったわ」
レウコノエさんが踊り子として、どんな苦しい思いをしているのか、私は察することしかできない。それでも、私のカクテルが、彼女の心の寄る辺になれたことが、この上なく嬉しい。
きっと、私が生まれてきた理由は、そこにあったんじゃないかとすら思える。レウコノエさんが評価してくれるのが、私のカクテルづくりの腕だけだったとしても、自分の恋慕がどうでも良くなるくらいに、彼女に尽くしたい。
そんな気持ちに溺れていたので、真正面に座る顔が、グラスのカクテルの減り具合と比例して曇っていくことに、しばらく気が付かなかった。
カコンと、カウンターに氷だけが残ったグラスが置かれる。静けさの中、一瞬息を吞んだ私を、レウコノエさんのジェットのように美しく濡れた瞳で覗き込む。
「とても名残惜しいけれど、ここにくるのは今日が最後になるわ」
「……冗談、ですよね?」
「結婚することになったの。相手は大都市にオフィスを構える大金持ち。だから、この町をでるのよ」
おめでとうございます。そう言わなきゃいけない場面なのに、何の音も口から出なかった。レウコノエさんの寂しさを隠し切れない表情が、私の心を握りしめる。
全て分かっている。どれだけ彼女を愛そうとも、何の後ろ盾もない、ギリギリでこのバーを経営している私では、彼女を幸せになんてできない。だから、彼女を愛して守り抜いてくれる人と、一緒になるのが一番、そう分かっているのに……。
「……お会計に、いたしましょうか」
「……ええ。おねがい」
無力な私にできるのは、七分を超える前に、レウコノエさんに別れを告げるという事だけだった。少々ためらいがちに、彼女が頷いたのが、より虚しい。
スツールから立ち上がったレウコノエさんと、お店の出入り口に設置したレジスターへ向かう。結局、カウンターを挟んだ位置関係が変わることはなかったなと思いながら、カクテル代を告げる。
「いつもおもっていたけれど、ここのカクテル、あなたの腕に対して安すぎよ。もうちょっと値段上げたら?」
「はあ、検討します」
真剣な顔で忠告してくるレウコノエさんの褒め言葉に対しても、私はまだ上の空だった。彼女が肩下げ鞄から取り出したお札を受け取って、レジを打って、お釣りの小銭を渡そうとしても、まだ別れの痛みに頭が動かない。
だから、私の掌に乗せた小銭を、レウコノエさんが摘まんで取ろうとした時、初めて
流石のレウコノエさんも、目を丸くして驚いていた。私ははっとして、「すみません」と言いかけたが、それを制するように、レウコノエさんは怪しく微笑んだ。
私が口づけした箇所を、レウコノエさんは、真っ赤な舌でペロンと舐めた。大胆不敵すぎる行動に、私の耳まで紅色に染まってしまう。
「これで、おあいこ」
見とれてしまったことが恥ずかしく、目線をレウコノエさんから外した瞬間、彼女の腕時計に目が行った。「あ」と口に出してしまったのは、来店して七分を既に過ぎていたためだ。
レウコノエさんも、自分の時計を確認して、納得したように頷いた。
「すみません、変なことしてしまったせいで、いつもの時間を過ぎてしまいました」
「いいのよ。今日は、七分七十七秒間だけ、ここにいたってことにするから」
何でもないような調子で屁理屈を言ったレウコノエさんは、夕焼け色のマニュキュアが塗られた爪で、私の胸、心臓の辺りを指さした。もう少しで触れてしまいそうで、余計に鼓動が高鳴る。
「そして、この七分七十七秒は、ラウルスのここにしまっておいて。好きな時に取り出せば、いつでもわたしに会えるから」
「……はい」
彼女の伝えたいことは分かる。この七分七十七秒だけでなく、今まで一緒に過ごしてきた時間を思え返せば、いつでも彼女と一緒にいられる。
それでも、足りなかった。離れていくレウコノエさんに対して、今この瞬間から、会いたいという気持ちが湧き上がってくる。レウコノエさんの、少し舌足らずな喋り方や、年中熱い吐息や、蝶の羽と同じように開閉する瞼が、すでに懐かしかった。
「私は死ぬまで変わりません。いいえ、死んでも変わりません」
「ありがとう。わたしも、夫のことをこころの中では裏切り続けているわ」
ドアを開けた彼女にそう言うと、この上ない返答と満面の笑顔をくれて、彼女は去っていった。ひらりと振った掌の余韻も、閉じたドアが吹き飛ばしてしまう。
……明日から、七時開店はやめよう。あと、ちょっとだけ値上げしよう。目頭と胸中に去らない熱を感じながら、そんなことを考えていた。
七月の七分七十七秒のゆくえ 夢月七海 @yumetuki-773
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