すきまが昇る

雪村 紅々果

すきまが昇る

 冷める夜でした。目に入る何もかもが白んで、古臭いように思われました。

 母の葬儀が終わったばかりの夜です。家の中は静まり返り、鼠でさえ足音を抑えていました。

 私は風呂から上がり、縁側で火照る体を風に当てているところでした。少し足が冷え過ぎる気もしましたが、寒いと言うよりは寂しい気持ちの方が勝っていました。葬儀でも目を絞ったかの如く泣いたのですが、それでもまだ目の奥が波打つように熱くなりました。

 私ももうすぐ学校を卒業する年頃ですから、頭の隅では己の女々しさにほとほと呆れましたが、そう思っていても体は自ら動こうとしませんでした。

 じっとしていても、思うのは母のことばかりです。母は女手一つで二人の男子を育て上げた強い人でした。ただ育てばかりでなく、兄の方は名のある大学を卒業し、東京の方で小さいながらも会社を立ち上げるまで、立派な男子になるまでを支え続けました。

 私は兄ほどではありませんでしたが、大学ではそれなりにやっている方でした。こうして大学で、社会では役に立つのかも怪しい学問を研究できているのは一概に母のお陰としか言いようがありません。

 母が死んだのは、全くの事故でした。階段で足を滑らせ、打ち所が悪く、医者に拠れば即死とのことです。せめてもの救いは長いこと苦しまずに死ねたことでしょう。

 そんなことを思っていると、また、目の奥がじんじんと熱を持ち始めました。それと合わせて頭まで靄がかかったかのようにぼんやりとします。

 私は肩にかけていた手拭いを広げ、顔を吹きました。あまり良い手拭いではないので、肌と擦れる度にひりひりと痛みます。ただ、今はそれが丁度良く思われました。

 夜も更け、風が厳しくなりました。さすがに肌寒さを覚え、部屋の中に入ります。

 電灯を点けずとも月明かりで中を見渡すことが出来ました。それほど広い部屋でも無いのです。布団を敷いてもう寝てしまおう。そう思いましたが、どうやら部屋の中央で何かが横たわっているようです。

 八歳上の兄が、葬儀に出たままの格好で寝ていました。

 兄は背が高く、体つきもしっかりしている方でしたので、横になるとなんだか大きな岩のようでした。起こしてしまうのも忍びなかったのですが、そのままでは私の方も寝られませんので、私は兄の側に腰を下ろすと、兄の肩を揺すりました。

「起きぃや、兄さん。」

 兄は揺すられながらうんうんと唸っていましたが、暫くするとゆっくりと目を開きました。渋々といった風に体を起こすと、私に向かって俺はどれだけ寝ていたか、と聞きました。

 ずっと寝とったで、と私が言うと兄は頭を搔き、低い声でそうか、と呟きました。

「風呂はまだ暖かいだろうか。」

 兄が羽織を脱ぎながら、独り言のように言いました。どうだろうか、と私は返します。

「冷えたかもしれんなぁ、沸かし直すんで?」

「や、かまわん。少し顔を洗うだけだ。」

「ほうで。」

 話しながら、私は兄の口調に訛りが無いのに気が付きました。昔はもっと荒々しく無遠慮に話し合っていたのに、今は他所から来た客人と話しているような気持ちでした。

 また、私の胸を冷たい風が通りました。

「ほなまぁ、兄さんが出てくるまでに布団ひぃとくけん、ゆっくりしてきぃな」

 私は胸にぽっかりと空いた隙間を誤魔化すように、態と明るい声を出しました。兄は特に気にした様子もなく、立ち上がるとそのまま風呂へ行ってしまいました。

 兄が風呂へ行ったあと、しばらく私は兄の布団を探し回りました。散々探した後、兄の布団は客間の押し入れの中で見つかりました。兄が東京へ行ってしまってから、誰も使う者がいなかったので、お客さん用の布団と一緒にしていたのです。私はすっかりそのことを忘れていました。

 布団を抱え、客間から戻っても、まだ兄の姿はありませんでした。私は二組の布団を並べて敷きました。そのまま、起きて待っていても良かったのですが、私はその時とても疲れていましたので、兄には申し訳なく思いながらも、先に布団に入ることにしました。

 布団に入るとなんだか子供の頃に戻ったような高揚感がありました。

 兄が東京に行く前は、兄弟二人、並べた布団で毎夜眠っていたのです。私が眠れない時は、兄が学校で習った昔の日本の話をしてくれました。ヤマトタケルの話や徳川家康の話など、古今の偉いお人の話が多かったような気がします。そういう話を聞いていると私は興奮して、かえって目が冴えてしまうことがままあったのですが、そういう時は大抵母が小さな声で叱りに来るのでした。

 ふと、私は言いようのない寂しさを覚えました。まるで心が真っ黒に濡れていく様な感じでした。一度母のことを思い出せば糸で繋がっている様に思い出がぽろぽろと溢れ出て来ます。ひとつ思い出すごとに、嘔吐く様に腹の底から深い喪失感と倦怠感が蘇りました。

 私は頭まで布団を被り、枕に顔を埋めると、そのまま瞼を下ろしました。

 次に私が目が覚ました時には、遠くの東の空が白み始めていました。奇妙な浮遊感があり、体を起こし立ち上がると、驚くほど体が軽く感じられました。まるで体が羽毛でできている様な心地でした。

 部屋を見渡すと、ほんのりと薄暗く、少し青色がかったヴェールが下ろされているようです。部屋の全体が静寂の青い闇に沈んでいました。

 ふと、兄のことが頭に浮かびました。隣を見ても兄はいません。私は心配になってきました。兄は背も高く力も強いので、私が心配するでもなく、そうそう大事は起こさないでしょうが、それでも何かあったのではと突然不安に思ったのです。

 兄は強い人でした。それは私たち二人が子供の時から変わりません。父親のいない私たち家族にとって、兄は唯一の頼りどころと言っても良かったくらいでした。

 私と母は、兄に強くあることを望みました。そうでなくては、不安だったのです。今のように安定した世の中とは違って、毎日が不安だった頃の話です。父親がいなくなったあとも、慎ましく暮らしていけるだけの遺産がありましたが、そんな遺産も当てにならない世の中だったのです。

 加えて私は幼少時代、同年代の子供達よりも体が弱くできておりました。気がつけば咳を繰り返し、起きていられたのは月に五日ほど。母はほとんど私の方に付きっきりで、いつも気を使われていたのを子供ながらに感じていました。

 兄もそれをよくわかっていたのでしょう。兄は私の前で子供らしいところを見せませんでした。いつも落ち着いており、よく考えてから言葉を発するので、その歳の割に大変寡黙でありました。取り乱したところなど一度も見たことがなく、母に甘えているところも見たことがありません。大抵の事は一人でやっているようでした。

 今思えば、兄にとってこの家は心休まる場所ではなかったのかも知れません。兄は私が学校に通えるようになると家を出ました。

 なんだか、私は自分が取り返しのつかない罪を犯してしまった気がしだしました。居てもたってもいられなくなり、私は寝間着のままで、部屋を出ます。

 意外にも、兄はすぐに見つかりました。

 茶の間に近い縁側で庭を向いて座っています。兄は寝間着の浴衣の上に相済茶の羽織を肩に引っ掛けていました。傍らには三つの杯と封の空いていない酒瓶があります。

 ふと、私は兄の背中に声をかけようとして、やめました。なんと言えばいいのか分からなかったのです。私は兄に気付かれないよう、静かにその場で腰を屈めました。

 もう隣の奥さんは起きているのでしょうか。うっすらと飯を炊く煙が昇っています。空は儚い水色で、手で漉いた薄紙の様な雲が北の山にかかっていました。空気は澄み、ひんやりとしていました。

 兄は黙って空を見ています。いつも仕事に忙しくしていた兄が、らしくないように思いました。

「おい。」

 不意に兄が言いました。私は驚いて素直にはいと返事をしました。

「何をしている。」

「兄さんが隣におらんかったけん、心配で探したんでよ。兄さんこそ、ほんなとこにおって寒ぅないん。」

「おう。」

 兄は低く唸りました。咳払いをする声が湿っています。

「おい、こっちに、来い。」

 兄がまた私を呼びましたので、私は隣まで行って腰を下ろしました。兄と私の間は、人がひとり座れる位の距離が離れています。

 それから、兄はまた暫く黙ってしまいました。兄が再び口を開くまで、私はじっと自分の体を固くしていました。

「……母さんが、なぁ。」

 兄が身動ぎしました。私はまだ黙って兄の横顔を見つめていました。

「次帰ってくる時はなぁ、お前と呑むけん、一等ええやつを買ってこい言っててなぁ。」

 透明な雫が、朝日に光ながら兄の手の中に落ちて行きます。兄の頬から、一粒、また一粒と雫が落ちました。私はそれに気付き、自分は夢を見ているのかと思われました。

 私は、兄が泣いている所を初めて見ました。

「お前がなぁ、初めて呑む酒やけん、ほんまに美味いやつにせなあかんと、思って、なぁ……」

 兄の声が震えていました。落ちる雫は少しずつ増え、兄の頬を濡らしていきます。

「なんでなん……」

 兄の押し殺した声がぽつり、落ちてゆきます。小さな声でした。けれど、固く鋭い声です。空気を穿ち、感情の全てを叩き付ける咆哮でもありました。

 知らないうちに、私の頬も濡れていました。けれど、どうしても止まりませんでした。

「くそっ……」

 兄の呻き声はやがて泣き声に変わっていきました。私はそれを、ただ何も言わずに見ていました。

 兄の背中が丸まっているのを初めて見ました。

 兄が声をあげて悔しがるところを初めて見ました。

 私は、何か言わなければならないようにも、何も言ってはいけないようにも感じました。

 また、静かな時間が過ぎました。

 ふと、私たち兄弟の間に、一本の光の筋が差しました。遠くの山間に目をやれば、もう既に朝日は昇っています。真っ白な光の塊まりです。まるで、東の空にあいた隙間のように思いました。

 兄の横顔が朝日に光りました。ずっと泣いてばかりです。それでも、朝日が昇る限り、私は朝日を見上げ続けねばならぬのでしょう。その間、私たちは確かに生きていくのです。

 私は、ゆっくり、ゆっくりと兄に向かって口を開きました。

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