鬼を喰ふ人

白原 糸

鬼を喰ふ人

 鬼の面を着けた軍隊が列を成す。

 数多の白で刺繍を施された白い羽織は風をはらみ旗のように閃いている。閃き揺れる度に刺繡部分が日の光によって煌めいていた。

 紫紺しこんの軍服を隠すような白い羽織は鮮血と泥によって汚れている。鮮血と泥によって汚れれば汚れる程、国の誉れの証として尊ばれる。

 列を成す軍隊の中で白い羽織をひと際、真っ赤に染めたその人は誰よりも頭一つ大きかった。

 ――〈鬼喰之高堂おにぐいのたかどう〉。

 それがその人の〈二ツ名ふたつな〉だった。

 牙を剥き出しにした鬼の面もまた、返り血を浴びて汚れていた。その人の鬼の面の紐が音なく切れる。金糸の切れぬ筈の糸が千切れて、鬼の面が地面に音を立てて落ちた時、その人の顔を初めて見た。

 漆黒の短髪がよく似合う精悍な顔の人であった。すっと通った鼻筋と〈二ツ名〉に相応しき鋭い銀色の目は面が落ちても慌てる素振りを見せず、無表情であった。

 第一印象は性別の分からない人だった。

 同時に、獣だと、思った。

 その人の瞳孔の開いた銀色の目がこちらを向いた時、背中が粟立つ恐怖を感じた。そして、その目に惹かれてしまった。

〈鬼喰之高堂〉。その名に相応しき軍人が女性であることを知ったのはその後のことだった。


 *

「私の恋人になって頂けませんか」

 そう言って不敵に笑んだのは〈百十世ノ国ももとせのくに〉帝国軍少将の高堂たかどう椿つばき。〈二ツ名〉を〈鬼喰之高堂〉と言うその人だった。

 何回目だろうか。五年前、在原いはら由衣ゆいがマスターとして経営している純喫茶〈わす〉に〈鬼喰之高堂〉である椿が訪れた日から、十回目の告白であった。

 一回目の告白は突然だった。初めての来店にも関わらず、椿は珈琲を差し出した由衣に向かって、言ったのだ。


 ――私の恋人になって頂けませんか。


 冗談だと思って椿を見た由衣は銀色の瞳から目を離すことが出来なかった。あまりにも真摯に自分を見つめる椿に由衣はマスターとしての笑顔を崩さないまま、返した。


 ――ごめんなさいね。


 その時はそれで終わりだと思っていた。他のお客様がいる中での告白。それも拒否されたのだから気まずくてもう二度と来ないだろうと思っていた。

 なのに、翌日、何事もなかったかのように椿は〈忘れ音〉に訪れた。以来、由衣は忘れた頃に椿に告白されるようになった。

 そして前の告白を忘れかけていた十回目。由衣はマスターとしての笑顔を崩さないままに固まっている。そんな由衣を椿は愛おしそうに見つめていた。

「やっぱり、今回も駄目かな?」

 そう言って顔を傾げた椿は誘うように微笑んだ。女性的というよりは男性的な顔をしたその人は切れ長の二重の目を細めていた。不敵に笑うその人の十回目の告白に由衣は直ぐに答えられなかった。

 店内には椿と二人。誰かに聞かれている訳ではないが、思わず周囲を見回してしまった由衣を椿は嬉しそうに見つめながら微笑んでいる。

 その様子に由衣は何とも言えぬ表情を浮かべそうになりながらマスターとしての笑顔を崩さなかった。

「……椿さん。御冗談は止してくださいな」

「後何回、君に告白すれば本気だと信じてもらえる?」

 即座に返された言葉に由衣は今度こそ、動きを止めた。

「……私は由衣さんに一目惚れしたんだ。君さえよければ、私の恋人になって欲しい」

 赤面しそうな言葉を恥ずかしげもなく真っ直ぐに言う椿に対して由衣はマスターとしての笑顔を崩さぬまま立ち尽くしている。

「お断りします」

「おや、それは残念」

 由衣の答えに椿はあっさりとひいた。そしてカップを手に取ると、由衣が淹れた珈琲を飲んだ。

「君と〈婚之結〉したら私が珈琲を淹れたいのに」

「え?」

 思わず間の抜けた声をあげた由衣に対して今度は椿が目を丸くした。

「何かおかしいことを言ったかな?」

「……あの、普通は私の淹れた珈琲じゃないんですか?」

 椿は由衣の言葉にいっそう、嬉しそうに微笑んだ。その微笑みに由衣は思わず、目を逸らしていた。

「君はいつもお客さんの為に淹れているだろう? だから私が君に淹れたいんだよ。……君の淹れた珈琲には敵わないかもしれないけどね」

 そして椿は立ち上がった。椿が立ち上がると由衣の頭上に影が差す。椿は由衣を見下ろしながら言った。

「今日はそろそろ戻らないといけないんだ。お金はこちらに入れて置くね。……また来るよ」

 軍帽を被りながら言った椿は柔和な笑みを浮かべた。

 由衣は椿から目を離せなかった。告白されたからではない。椿の持つ雰囲気がそうさせるのだ。

 性別の匂いさえ感じさせぬ風貌は時折、獣のような目をする時がある。いつだが椿は言っていた。


 ――私は軍人に向いている人間だから。


 目の奥にぎらつくような獣の臭いがする。軍人たる理性を持って本能を抑え込むようなその目にいつしか惹かれた自分がいることに由衣は気付いていた。

 一度、椿が軍刀を抜いた所を由衣は見たことがある。通りで男が子どもに刃を突き刺そうとしていた刹那のことだった。


 ――やはり、獣だと思ったのだ。


 椿は軍刀を抜いた時、相手が丸腰だろうと悪人であれば容赦なくその刃を振り下ろす。

 無表情で返り血を浴びた椿は相手の息の根を止めたのを確認すると、笑ったのだ。笑みを堪えた口元に椿の残酷な一面を垣間見た。

 その時、由衣は笑みを浮かべた椿の銀色の目に獣のような臭いを感じ取ったのだ。あの日からずっと、忘れられない。

 椿が由衣に見せる顔は優しい笑みだ。あの目を向けられたことはない。

 本当ならば、人として、惨いという感情を持つべきなのだろう。なのに、惹かれてしまった。

 どうしようもなく、惹かれてしまったのだ。

 なのに、椿の告白を受け入れられないのは自分が怖いからだ。あの人に惹かれて、いつかあの人を失った時、自分は耐えられるのか、分からなかった。もう二度と、大事な人を失いたくなかったのだ。



 *

 十回目の告白以来、椿は純喫茶〈忘れ音〉を訪れなかった。いつもなら長くても半月程で顔を見せるのに、二ヵ月経っても椿が訪れる気配はなかった。

 軍人の内部事情に詳しい人曰く、鬼との戦争が長引いていることが原因であるらしかった。

「今回は死者の数も相当なものらしい……」

 カウンター席で険しい表情を浮かべながら言うその人は、恋人が戦場に行っていると言った。

 平静を装いながらも由衣は自分が動揺しているのが分かった。お皿に綺麗にのせることが出来なかったプリンが由衣の動揺を告げるように倒れている。

 椿が〈鬼喰之高堂〉と呼ばれるのは前線で軍刀を手に鬼を屠るからだ。その姿がまるで鬼を喰っているかのようだからこそつけられた〈二ツ名〉の意味を、由衣は知らない訳ではない。

 前線で我が身をさらし戦場を駆けるということは死亡率も跳ね上がるということだ。それでも椿が前線を行くのは軍人たる誇りという大層なものの為ではない。

 時折見せる獣の目。銀色の目の奥に隠された本性を由衣は見抜いていた。

 椿は、戦うことが好きなのだ。

 軍刀を振るい、前線を駆ける。御国の為に、ではないことを由衣だけが知っていた。


 ――由衣さん。


 柔和に笑うあの人の無事を祈ったとして、その願いを受け入れてくれるとは思えなかったのだ。

 二十で椿に会ってから五年。由衣はもうすぐ二十五になる。

 もうすぐ、兄の年を越していくのだ。年の離れた兄の年を越していく。兄は年を重ねないまま、由衣の中で生き続けるのだ。

 軍人たる兄の、その姿のままで。



 *

 椿が〈忘れ音〉を訪れたのはあれから一ヶ月後のことだった。その日は客足が鈍く、椿が訪れた時間帯には人が全くいなかった。

「由衣さん。お久しぶりです」

 椿はいつもの口調で由衣に話しかけると、カウンター席に座った。そしていつもの珈琲と、珍しくプリンを頼んだ。

 いつもと違う珍しさに動揺したのかは分からない。サイフォンで珈琲を抽出しながら、ぼんやりとしてしまったのが悪かったのだろう。

「……今回は長かったのですね」

 それは無意識の内に零れた言葉だった。由衣は血の気が引くのが自分でも分かっていた。椿と会話する時、由衣は軍人である椿の職業に触れたことはない。戦争のことも問うたことはない。

 なのに。

「……ええ。鬼がいつも以上に抵抗して来ましたから」

 動揺する由衣に対して、椿の声は穏やかだった。

「今回は流石に、死ぬかと思いました」

「えっ」

 由衣は顔をあげた。だが、椿は穏やかに微笑んでいた。銀色の目の奥に隠し切れない獣の臭いがする。

「でも、生きて帰ることが出来て良かった。君の珈琲を飲むのを楽しみに日々を過ごしていました、から……」

 椿の言葉が途切れ、声が消える。

 由衣は自分の頬を涙が伝うのを感じていた。

「……由衣さん。そちらに行っても、良いですか?」

 だが、由衣は頷かなかった。

「大丈夫ですから」

「……では、こちらに来ていただけますか?」

「え?」

「お願いします」

 椿の懇願する声に由衣は涙をぬぐいながらカウンターの外に出た。すると、頭上に影が落ちた。いつの間にか椿が近くに来ていたことに気付かなかった由衣は戸惑いながらも顔をあげた。

「……由衣さん。抱きしめても、良いですか?」

 恐る恐る問いかけた椿に由衣は目を丸くした。椿は不安に満ちた表情で由衣を見下ろしていた。その表情を愛おしく思った由衣は無言で頷いた。

 椿の手が伸びて、背中と腰に腕が回される。体を引き寄せられて由衣は椿の腕の中で力強く抱きしめられた。軍服特有の匂いと、柚子の匂い。そして、わずかに香る血の、臭い。

(この人は……どこまでも軍人なのだ)

 軍人の伴侶となった人はずっと、死の影におびえ続けて生きるのだ。

 ああ、御国の為に。あなたの為に。

 そんな美辞麗句はこの人の中には存在しない。存在するのは血を追い求める獣の性だ。そんな人を好きになってしまったのは、自分なのだと由衣は思った。

「由衣さん。私では、駄目ですか? 私は……あなたの恋人には、なれませんか?」

 由衣は直ぐに答えられなかった。抱きしめることを許した時点でとうに自分の心に答えは出ているのに、答えたらこの人を失ってしまう気がしたのだ。

「お願いします。何か、言ってください……」

 由衣は椿の体の中にある手を動かした。拒否されると思ったのだろう。椿の体が跳ねるように震えた。その時、由衣は何故か安堵したのだ。

 由衣はそっと椿の背中に縋るように手を回した。

「……死なないで」

 祈る声は思った以上に震えていた。それでも、由衣は続けた。

「お願い。戦争に行っても良いから。戦いを楽しんでも良いから。……生きて、帰って来て。絶対に死なないで。私より先に、死なないで」

 椿の体が一瞬、強張り、そして、先程よりも強く、由衣を抱き締めた。

「由衣さん。知っていたんですね。……私が、戦うのが好きなことに」

「うん。見ていれば、分かるもの」

 椿は由衣の二の腕に優しく触れると、そっと体を離した。そして由衣の、長い髪に触れた。緩やかな癖のある長く、亜麻色の髪。その髪の色を愛でるように触れた椿は、その髪に口づけを落とした。

「そう……。分かっていたんだ」

「うん」

 由衣の返答に椿は満足したように目を細めた。

「私は絶対に死にません。死んだら、もう戦えないでしょう?」

 そう言って笑む椿に由衣は呆れたように微笑んだが、十分な答えだった。あなたの為に行きますと言われるよりも、確かな答えだったのだ。

 微笑んだ由衣に椿は言った。

「由衣さん。私の恋人になって頂けませんか?」

 由衣が静かに頷くと、椿は由衣の頬に手を触れた。由衣が椿の目を見た時、透き通るような銀色の、目の奥に宿った獣の色が自分を捉えたのが分かった。


 ――ああ、この人に喰われる。


 由衣はそうっと目を閉じて椿の口づけを受け入れた。

 深く、深く――喰われるような口づけだった。


 *

 二人が〈婚之結こんのむすび〉をしたのは、それから半年後のことだった。

 由衣は素知らぬことであったが、〈鬼喰之高堂〉が〈婚之結〉をしたとあって帝国軍内では相当な大騒ぎだったらしい。

 由衣は今日も〈忘れ音〉で椿を待つ。戦争に向かい、戦うことを楽しむあの人を、珈琲を淹れながら待つのだ。

(あの透き通るような銀色に隠された獣の本性を、私だけが知っている)

 鬼の面が地面に音を立てて落ちる。

 あの日から、とうに、自分の心は椿にあったのだ。

 珈琲の香に目を閉じながら、由衣は微笑んだ。

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