第51話 離婚届が手元にある

「あなたの新生活を応援してたのに」


 キャロルはひたいに手をやり、ヤレヤレと首を振る。


「でも今度はダニエルをこき使うのはやめて悪魔に変身させるつもりだったから自分は成長しただろう? バカっ。あなたって人は、誰とも結婚すべきじゃないわ。こんなことではコーデリア王女が気の毒でならないじゃない」


「でも」とロジャーは前のめりになって自己弁護に頑張り出す。

「ダニエルだとおれじゃないのは丸わかりだけど、悪魔の変身だぞ? 王女はまぁるで気づかない、気づかないなら平気じゃないか?」


「そういう問題じゃないわ」

「そういう問題じゃないのか」

「そういう問題じゃないのよ。あのね、ロジャー」


 キャロルはしゃっきり背筋を伸ばして、ロジャーと向き合った。

 ロジャーのほうはキャロルの真剣さにたじろいだのか、背筋がぐらついている。


「あなたに良心を求めるのはやめにするとして」

「おれにだって良心があるかもよ」

「ないわ。いい? ないの」指を突き付けて言い聞かせる。

「ないの?」

「ないの! いいこと、ロジャーに良心や真心はないの」

「ちっとも?」

「ちっとも」

「その言い草はひどすぎるんじゃ……」

「悪魔があなたに変身したとしたらね」

「うん」


「コーデリア王女は、すぐ気づくと思う。だって小さい頃からあの悪魔さんがそばにいる生活をしてらっしゃったのだから変身には慣れてるはずでしょう? そもそも悪魔さんだって大切な王女様を騙すような真似するはずないじゃない。ね? そういう点がひとかけらも想像できないあなたに、良心や真心があると思って? ないのよ、ちっとも」


「ちっともないのかもしれない」

「ちっともないのよ。ないの、ね?」

「ない、ちっともない」

「そうよ。だから」


 キャロルは腰の後ろに挟むようにして置いていたクラッチバッグを持ち、中から紙片を取り出した。カサカサと開いていく。そんなキャロルの様子を、ロジャーはぼんやり見ていたが、紙片が何か気づいたらしく、みるみる表情が明るくなる。


「おい、まさか」

「あなた、チェスター公爵に渡しておいてちょうだい」

「まだ持ってたのか。おれはてっきり出しちまったのかと」

「すぐ提出しようとしたの。でもお部屋に行ったらご不在だったから」


 と、キャロルは「あ!」と口を押える。


「あなたもしかしてもう婚約証明書にサインした? まずいわ、重婚扱いにならないかしら」

「それは問題ない」


 ロジャーは、キャロルが差し出した離婚届を、丁重に両手で受け取る。


「まだ何のサインもしてない」

「でも王女と楽しげに挙式やハネムーンの予定を立ててたじゃない。すぐさま取りかかるのかと思ったわ」


「おれは」とロジャーは離婚届を四つ折りにしたりまた開いたりを繰り返す。

「今朝、すぐ早速サインしようとしたんだ。面倒ごとはさっさと終わらせようと思って」

「何が面倒ごとよ。結婚が面倒だっていいたいの?」

「うん。ちょっ、そんな怒るなよ。君も認めただろう。おれには良心と真心が微塵もないんだ」

「デリカシーもないわ」

「三冠王だな」

「褒めてないわよ」

「喜んでもないさ」


 二人は無言で見つめ合った。

 嘆息したのはキャロルだ。


「ともかく、そちらの結婚についてはこれ以上、口出ししないことにするわ。陰ながら応援してたけどね。悪魔さんはしっかり者みたいだし、あなたをきっと真っ当な人間にしてくれるんじゃないかしら」


 それじゃ、とキャロルは立ち上がりかけ、


「悪魔に教育されるなんて」ロジャーが肘をまたつかんで引き寄せるので、着席することになる。


「いい加減にしてよ。わたし、今日帰るの」

「キャロル。おれは今、幸運を手にしている、テッテレー!」

「は?」

「幸運を手にしてる、ヒュー、ラッキー!!」


 ロジャーは四つ折りにした離婚届をこれ見よがしに開いて掲げた。


「まだ離婚は成立してない」

「チェスター公爵に渡せばそれでいいのよ、総司令官だから」

「ウッフフ」


 ロジャーの不気味な笑い方に、キャロルは悪い予感しかない。手を伸ばして取り戻そうとしたが、ロジャーは立ち上がり、


「おれはこうする」


 ビリリッ。離婚届を破いてしまった。


「何てことするのロジャー!」

「おれたちは現在進行形で夫婦だ。良かった」

「良くないわ。わ、わたしが、わたしが」


 キャロルは声が震えて先が続けられなかった。涙まで出てくる。わっ、と泣き伏せるとさすがのロジャーも動揺したのか、すちゃっと即座にキャロルの足元にひざまずいた。


「君だって離婚したくなかったんだろ」

「何てこというの」

「おれにはわかる」

「わかってないわ、この悪党」


「おれはね、キャロル」

「ううう、うううう」

「ちょっ、そんな泣くなって。目がパンパンになるぞ」

「目がパンパンになろうが赤くただれようが、この悲しみを表すには不足だわ」

「泣くことないだろ」

「泣かずにいられると思う? やっと手にした離婚届なのに」


 ロジャーはポケットを探った。キャロルは指の隙間から様子を見ていて、ハンカチを取り出そうとしているのだとわかったのだが、どうやら手持ちになかったらしい。


 きょろきょろあたりを見回し始め、シャツの袖口に指をかけて伸ばしている。あんな場所で拭われてはかなわないと、キャロルは涙声でいった。


「バッグにハンカチが入ってるの。出して」

「これか」

「それはスカーフ」


 ゴソゴソ。


「ない」

「あるわ。刺繍がしてある、そう、それ」

「外ポケットにあったじゃないか」

「そうよ」

「バッグにあるっていうからフタ開けて中を探るだろ」

「あらそう。言葉が通じないみたいね」


 ロジャーはハンカチを見て、げ、とつぶやく。


「なんだ、この失敗した目玉焼きみたいな刺繍は」

「ひまわりよ」

「へったくそだな。捨てちまえよ」

「……わたしが自分で刺繍したのよ」

「なんて素晴らしいひまわりだ。きみはアーティストだったんだな!」


「不満だわ。離婚しましょう」

「ハンカチ一枚で離婚するやつがあるか」


 キャロルはハンカチを奪うように取る。


「あるわ、積もり積もってのハンカチだもの」

「おれがハンカチを持っていたらこんなことには」

「どちらにせよ、またサインしてよ」

「嫌だね」

「ロジャー!」


 叫んだキャロルに、ロジャーはひざまずいたまま下がろうとして、よろめいている。コテ、と横に転がり、「そんなに怒らなくてもいいのに」とブツくさいいながら立ってベンチに座った。

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