第二幕 前編 痴話げんか勃発
1章 かみ合わない夫婦
第6話 到着したリンゴの街
「美しい街ね」
キャロルは馬車から眺めるリンゴの街に感心した目を向ける。ウィンウッド公爵領に比べると野暮ったく、前時代的な装飾の建造物が並び、土が剥き出しの街路は洗練さに欠けているものの、戦闘地帯の近隣にあり、帝国の陣営が設置されていることを思えば、驚くほど平穏無事な光景が広がっている。
「それでもやっぱりちょっと」
侍女サラは窓から顔を突き出して鼻をくんくんさせる。
「煙臭いといいますか、火薬と血の臭いがしますよ」
「そうかしら」
真似るように顔を出し、キャロルは鼻に向けて手を扇ぐ仕草をする。
「煙かしら? 土埃は馬車に乗ってるとするものじゃなくて? 血は思い過ごしよ」
「そんなことありません。そこら中、血の臭いがします」
サラは強情だ。
「ぷんぷんします、ぷんぷん。キャロル様、首を引っ込めてください。いつここに砲弾が飛んでくるかわかったもんじゃありませんから」
乗り出してピシャと窓の木戸を閉じてしまうサラ。キャロルは背もたれに上体を戻すと嘆息した。
「今は休戦中よ。攻撃なんてしてこないわ」
「そう思ってたら被害に遭うのが戦争ですよ。やっぱりわたし反対です。こんな危ない場所にキャロル様がいらっしゃるなんて。早く帰りたくってたまりません」
「わたしだって物見遊山で来たんじゃないわ」
キャロルは木戸を隙間だけ開け、外を見やる。
「離婚届にサインしてもらったら飛んで帰るつもりよ」
さて到着した領主公邸だが、街の中央にあった。
帝国の南部に位置する邸宅らしく、開口部がたくさんある石造りの平屋で、周囲はぐるりと庭園になっていて、鬱蒼と茂る南部特有の植物たちがひしめき合って生えている、少しだけジャングルを思わせる趣向だった。
街の中心部にある割に、贅沢に広がっているこの場所に、帝国の陣営が設置され、主だった司令官たちが滞在していた。もちろんあの頑固なわからず屋の無礼者、キャロルの夫ウィンウッド公爵も。
馬車に掲げてある紋章の効果もあって、門衛に止められることなく敷地内に入ったキャロルたちだが、降り立った表玄関で待っていたのは、並び立つ使用人や兵ではなく、たまたま出くわしたとばかりに立ち止まって興味深げにしている、まばらな数の者たちだけだった。
「なんです、出迎えの一人もないなんて!」
いきり立つサラ。キャロルは長時間の移動で痛くなった腰を、貴族の威厳を失わない程度にこっそりさすりながらあたりを見回した。
「早く到着しすぎたかしら。無事に知らせは届いてるはずでしょう?」
「もちろんです。出発前に一度。出発後に一度。道中立ち寄った宿場からも出発前には必ず一報してましたとも」
公爵夫人の訪問は公式の発表はなくとも、領主公邸にいるものは皆、なんとなく知っていた。でも本当に来るとは思っていなかったのが大多数だった。というのも、穏やかそうに見えても、やはりリンゴの街はいつ戦火にまみえてもおかしくない立地だからだ。
平民のほとんどは街にいて、休戦後は軍人目当ての商売人がむしろ集まってきていたとはいえ、領主の妻子はもちろん、この地の名士たちは大方退避している。そこへ司令官の妻である公爵夫人が来訪するなんて信じがたい。
ましてキャロルは今回、ごく少数の護衛しか連れていなかった。これでは公爵夫人を騙った盗賊団に見られても仕方がないのかもしれない。キャロルたちに向けられる視線は好奇心に満ちてはいたものの、絶対関わりたくないといわんばかりによそよそしかった。
「まったく失礼にもほどがあります。司令官の奥方が到着したんです。こらっ、そこの人」
サラの目に留まってしまった若い兵が柱の横ですくみあがる。
「ぼさっとしてないで、早く閣下を呼んでらっしゃい!」
「か、閣下と申されましても、どの閣下をお呼びしたら……」
まごつく若い兵はコブラに捕まった小鳥のような怯えっぷり。
「はあっ? この方をどなたと心得る。ルビイ大公国の大公女、キャロル——」
サラが目玉をひん剥いて口上を述べていると、
「すーみませーーんっ、お出迎え出来なくて!」
周りを吹き飛ばす勢いで駆けてくる男がひとり。
「ベイカー卿! わたくし、ちゃんとお伝えしましたよねっ」
「はい、はいっ、もちろんです。知らせは何度も受けとりました」
でも午後に到着なさると思い込んでいて。そう顔を真っ赤にして必死の弁解をするのはダニエル・ベイカー。ロジャーの秘書官であり、代理でキャロルの新郎役を務めた茶髪のナイスガイである。
「ダニエル、忙しいのにごめんなさいね」
申し訳なさそうに眉を下げるキャロルに、ダニエルはハンカチで汗を拭いながら否定する。
「いえいえ、何をおっしゃいますか、奥様。もとはといえば」
「そうです、もとはといえば」
——もとはといえば、ロジャーが離婚に同意しないのが悪いのだ。
その諸悪の根源である男だが、彼は訓練場で剣と拳、足と罵声を振り回して、部下を鍛えているところだった。さすが異名「死神」。訓練場には部下の屍が多数転がり、むごたらしい山を作っていた。
「誰が寝ていいといった。馬鹿にしてんのか、立て!」
「……がひゅー、がひゅー(寝ているのでなく気絶です、閣下)」
「昼寝してる場合かよ。訓練中だぞ。まったくここが戦場だったらお前ら全員死んでるからな」
「……(生存者はいるか。いるなら誰か死神を止めてくれぇ)……」
と、そこへ救世主が。
「閣下、どうして執務室にいないんです、探したでしょう」
またまた走っているダニエル・ベイカー。応接室にキャロルと案内して執務室に戻ってみれば、職務を放って消えているロジャーに頭突きしたいくらい腹が立っていた。
「なんか用か?」
きょとんとするロジャーに、「もうっ、こんな汗臭くなって!」とシャツの襟首をつかみ、揺さぶるダニエルである。
「汗を流して着替えてきてくださいよ。キャロル様がご到着です」
「キャロル? 聞いたことある名前だな。コックだっけ?」
できるなら頬にビンタしたいダニエル。ぐっとこらえて叫ぶ。
「あんたの奥様ですよ。いらっしゃると再三お伝えしましたよねっ。到着なさいましたっ。着替えろっ、早くっ。あいさつに行って!!」
蹴飛ばす勢いで追い立てるダニエルの姿に、訓練場に転がる屍たちは感謝の涙で前が見えなかった。「死神の調教師」。それが秘書官ダニエルの持つ、もうひとつの肩書きである。
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