第2話 ふざけた条件

 ソル帝国には五つの公爵家がある。


 そのうちのひとつ、ウィンウッド公爵家は、領土、財力、騎士団の規模で群を抜いていた。ウィンウッド領の中心地は、王都よりも栄えているといわれ、内外を問わず、観光地としても有名だ。


 また、大陸のあらゆるものの動力源になっているのが魔石なのだが、それが採れる鉱山を、公爵家は三つも所有していた。これはソル帝国全体における採掘量の半数以上になる。


 その偉大な公爵家の現当主ロジャー・ウィンウッドは、まだ二十八歳の若者だが、皇帝を伯父に持ち、十五歳で初陣を果たしてから全戦全勝の負け知らず。その名は他国の平民ですら知っている英雄だった。


 けれども彼を英雄と呼ぶ者は少ない。多くは「帝国の死神」と表現する。


 なぜならロジャー・ウィンウッドが通った道は、草木が枯れ、鳥は逃げ出し、虫は息絶えるといわれ、戦場では、剣一振りで一個小隊が全滅する、と恐れられていたからだ。濁りのない黒髪に冷めた灰色の瞳も相まって、ついた異名が『帝国の死神』なのである。


 さて、その死神。

 此度も指揮官として出陣している真っ最中。ロジャーはいつだって戦場にいる。


「ふざけてんのかっ、なんだこの条件は!」


 華麗なる公爵閣下、ロジャー・ウィンウッドは秘書官が渡した公文書をぐしゃぐしゃに丸めると執務机に投げつけた。現在地は戦闘地域にほど近い都市リンゴの領主公邸。そこに臨時で設えた執務室である。


「なぜおれの結婚が和平交渉の条項にあるんだ、おかしいだろ!」

「左様でございますね、閣下」


 秘書官は慣れた仕草で丸まった公文書を持つと丁寧に伸ばしていく。


「ですが、対戦国が提案した条件にそうあるようでして。『ウィンウッド公爵とコーデリア王女のご婚姻』。ほら、ここです、この三段目。他にも諸々条件が……」


 シワくちゃな文書を再度渡そうとする秘書官の手を、ロジャーは鋭く払う。


「こんなバカな要求をしてくるなら休戦撤回だ。任せろ、おれが敵軍をすべて滅ぼしてきてやる。そのままあっちの国に乗り込んで王の首を捕ってきてもいい、そうしよう、話は簡単だ、さあ行こう、おれが勝つ」


「しかしながらですね、閣下。勇ましいお気持ちは賛美に値しますが、残念ながら皇帝がこの条件に乗り気でして。ホクホク顔なんだそうです」


「あのくそ爺めっ」

「伯父上様です、閣下」

「王女と縁つなぎしたいなら息子を差し出せばいいだろう!」

「皇太子様はすでにご婚約しておりますから」

「おい、ダニエル」


 ダニエル——秘書官の名である。ちなみに彼はロジャーより年上の三十歳、独身。十七の頃よりロジャーに仕えている、頼もしい素敵なナイスガイである。


「は、閣下」

「おれの記憶が正しければ、くそ爺の勧めで何年か前におれは結婚しているはずじゃないか、そうだろ?」

「は、その通りでございます、閣下」

「じゃあ、無理だ。重婚は両国どちらにとっても罪だ」

「閣下が罪を気になさるとは……ご成長なさいましたね」


 おもむろにハンカチを取り出して目元を拭うダニエル秘書官。

 ロジャーが脛を蹴ろうとするので見事なステップでサイドに逃げる。


「おいっ、おれには妻がいるはずだ!」

「おります、キャロル様でございます、閣下」

「そんな名前だったか?」

「そんなお名前でございます。キャロル・ウィンウッド公爵夫人。ルビイ大公殿下の御長女でおわします。七年前の春、ミモザの咲く神殿で、閣下とご結婚あそばしました」


「ほらみろ、おれは結婚してる」


 妻の名前はあやふやでも既婚者であることは覚えていたロジャーは得意満面だ。


「だから重婚は無理だ。この要求は成立しない」

「ですから離婚するのです、閣下」

「ハ?」

「ですから離婚するのです、閣下」

「何いってんだ?」


「何いってんだ、ではなくて」


 秘書官は条項の欄を指で示した。


「こちらにそちらについても書いてあります。この段落の一番下から始まります。キャロル様におかれましては離婚後、帝国から和解金がでるようです。ですがまあ公爵家からもそれ相応の金額をお渡しになるのが礼儀かと存じます。そちらにつきましては、閣下の独断ではなく、家門会議にかけまして……」


「待て待て」

「は、閣下なんでございましょう」

「おれは離婚しないぞ、絶対」

「なぜ?」

「なぜっ」


 飛び上がって驚くロジャー。


「離婚なんてそんな簡単にするもんじゃないだろ」

「ああ、閣下がそのような常識ある言葉を聞けるとは。わたしが長年、口を酸っぱくして真人間に育て上げようとした苦労が実ったというものです。泣けます、泣きます」


 目元にハンカチのダニエル。

 ロジャーはちょっと誇らしげに胸を張っている。


「常識あるおれは妻と離婚しないぞ」

「ですが小耳にはさんだ情報によりますと、一足早くこの条件を知ったキャロル様は、それはもう大喜びだったとか」

「何に大喜びだって?」

「離婚に大喜びだったとか」

「どうして?」

「あのような結婚生活では」


 ダニエルは両手を広げ、肩をすくめた。


「当然では?で、ございます閣下」

「どうして当然なんだよ」

「胸に手を当て考えてごらんなさい、です閣下」


 ロジャーは素直に胸に手を当てた。でも彼はちっとも身に覚えがなかった。妻と口論した記憶も、生活費をケチった記憶も、子を産めと急かした記憶も何もないのだから。そもそも相手の顔すら思い出せない、名前だって知らなかったんだから。


「さっぱり理解できない。なぜ離婚を喜ぶ女がいる?」

「理解できないのはあんただけだよ、です閣下」


 ダニエルは丁寧に言い返すと、怒声が飛んでくる前に部屋から飛び出した。

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