七
鈴音が光繁のもとへいくことを、志穂と妙はなかなか許してくれなかった。
何度も何度も説得をして、最後には鈴音の決意に折れてくれたようだ。眠る喜与丸を腕に抱きながら、志穂は静かな声で秘密の抜け道を教えてくれた。
「館の裏手から、外に繋がる隠し洞窟に入れるわ。途中までならそこを通れば安全に進めると思う」
「ありがとうございます、志穂さま」
礼を述べた鈴音のことを、そばにいた妙が何も言わずに抱きしめる。しばらくされるがままになったあとで、鈴音はやんわりと身体を離した。
「鈴姉。これ、持っていって。お守りの代わり」
言いながら、小景が首からさげていた飾り紐を外す。先端には小指ほどの透明な石が揺れていた。鈴音は慌てて首を振る。
「お守りって、それ、お母さんの形見じゃない。そんな大切なものを」
「うん。だから絶対に無事で帰ってきて。約束して」
強い眼差しを受けて、言葉に詰まった。躊躇いはあるけれど、絶対に受け取らなければならない気がした。差し出した手に、首飾りが乗せられる。ひやりとした石を固く握り締め、鈴音は力強くうなずいた。
「いってきます」
護衛として鈴音に従うのは、まだ若い武者ひとりだった。国長の妻や事読みが残っているのに、館の守りを薄くするわけにはいかない。十分だ。
先を進む彼の足手まといにならないよう、鈴音は必死になってついていった。隠し洞窟は暗く、たいまつを持つ若武者とはぐれれば前もうしろもわからなくなる。
何度か休憩を挟みつつ、どれほど進んだ頃だろう。やっとのことで洞窟を抜けると、目の前には明るい林が広がっていた。
「ここを抜け切れば、すぐに着きますよ。さあ」
若武者の声に促されるままさらに先を急ぐ。周囲には背の高い木々が鬱蒼と繁り、むっとした緑のにおいが漂っていた。
鈴音はひたすらに足を動かしながら、幼い頃、緋浦に拾われたときのことを思い出していた。のしかかってくるような葉擦れの音。頼りなく伸びる獣道。襲撃された故郷に父と母を残して、ひとり山林を駆けた日を。混乱と絶望が昨日のことのようによみがえり、胸のうちがぐっと締めつけられる。
ふと、前を歩いていた若武者の足が止まった。
同時に行く手から鎧をまとった者が数人飛び出してくる。鈴音をうしろに庇いながら、若武者は腰にさげていた剣をすらりと抜き放った。
いきなりの出来事で鈴音が固まっているあいだに、激しい戦闘が始まっていた。金属同士のかち合う音が幾重にも増して辺りに響き、耳の奥でわんわんとこだまする。さすがに留守を任されたひとりだけあって、若武者は強かった。あっという間に敵を斬り伏せ、すぐに戦いは終わった。
「大丈夫ですか」
血に濡れた手を差し伸べられてようやく、鈴音は己の脚が震えていることに気づいた。
いつだったか、閃から甘いと言われた記憶が甦る。本当にそうだ、と鈴音は自分に呆れて果てた。戦に出たい、弓が使えるなどと勇ましいのは口だけで、いざとなったら何もできないではないか。
その後も若武者の案内を頼りに進み続けていると、あるとき急に林が途切れた。鈴音の前に現れた光景は、まさしく戦場だった。
灰色の空の下。どこまでも広がる平野で、多くの人間たちが争っている。雄叫びを上げながら刃を交わし、血をまき散らしながらぶつかっている。地面に突き刺さった矢の数々。倒れ伏したままの者たち。方々で上がる火の手を目の当たりにして、鈴音はいよいよ動けなくなった。
同じだ。違うけれど、同じ。村が襲われた幼い記憶と、目の前の景色が重なる。
立ちすくんでいる彼女に向かって、鎧を来た誰かが近づいてくるのがわかった。敵だろうか。それでも浅い呼吸を繰り返すことしかできない鈴音の腕が、力強く引っ張られる。
はっとして顔を上げると、見慣れた青年がそこにいた。
「せ、閃……」
「何やってる、死にたいのか!」
一喝されてようやく身体に力が戻る。味方に出会えたことに安堵しながらも、鈴音は閃の腕を掴み返した。
「閃、光繁さまはどこ? お願い会わせて。伝えなきゃいけないことがあるの」
閃はぎゅっと眉をひそめたが、鈴音の必死な表情を見て何かを感じ取ったのだろう、すぐに小さくうなずいた。
「こっちだ」
彼に手を引かれながら戦場を駆け抜けると、やがて緋色の幕を張った味方の陣にたどり着いた。奥には立派な鎧を身につけた光繁と、その隣に並ぶ時継の姿がある。
「鈴音か? 何故おまえがここに」
出会えた喜びで泣き崩れそうになるのを堪え、鈴音は光繁の前に膝をついた。
「小景の代わりに、〈御伺い〉の結果を伝えに来ました。意味はあまり読み取れなかったのですけれど、この戦に関することだろうって小景が」
それから出来る限り正確に、〈鏡〉で見えたものを言葉で伝えた。赤い魚と白い魚。水面が輝きすぐに消えたこと。話を聞き終えた時継が、顎を覆う無精髭に指をやりながら首を傾げる。
「ふうむ。さっぱりわからねえな。光繁はどうだ?」
「……私もだ。赤と白の魚はおそらく、緋浦と湯白を示しているのだろうが」
唸るような声で光繁が答えた、そのときだった。
空を覆っていた分厚い雲に、ぽっかりと穴があいた。かと思うと、そこから強烈な光を放つ巨大な細長いものが、ゆっくりと垂れ下がってきたのだ。
「な、何……?」
鈴音が驚いているあいだにも、輝くものはするすると地面を目指して降りてくる。まるで白い大蛇のようだった。違っているのは、頭の先に笹の葉のような金の触角がついていることだろうか。
鈴音が何かをひらめきかけるより先に、光繁がさっと表情を険しくした。
「龍神か! くそ、こんなときに」
叫ぶや否や、光繁が陣を飛び出していく。あとに従う閃と時継を追いかけて、鈴音も慌てて駆け出した。
平野では、あれほど苛烈だった戦がぴたりとやんでいた。敵も味方もその場でただただ立ち尽くし、呆然と空を見上げている。その様子を見て、鈴音は町で聞いた老人の自慢話を思い出した。龍神を目にしたとき、あまりの神々しさに身体が動かなくなったと――。
時が止まったかのような戦場を突っ切って、鈴音たちは割れた空の真下近くまでやって来た。
龍神はすでに全身を地上へ現していた。太くて長い身体をとぐろに巻き、金色の瞳で集まった者たちを見下ろしている。走り疲れて呼吸を整えていた鈴音のそばで、時継が苦しげにうめいた。
「なんとまあ、近づくとすげえ圧だな。見えない力で押し潰されちまいそうだ」
「え?」
疑問に思って隣を見ると、閃も額に脂汗を浮かべている。光繁でさえ立っているのがやっとのようだ。自分との状況の違いに困惑する鈴音に向かって、閃が信じられないという表情で口をひらく。
「おまえ、なんともないのか?」
「う、うん。なんでだろう」
本当に、まったく苦しさを感じない。おろおろと周りを見回すしかない鈴音だったが、ふとどこからともなく声が聞こえてきて、驚きに動きを止めた。
『緋浦の国の長、光繁』
耳ではなく、胸のうちに直接語りかけてくるようだった。わけもわからぬまま視線を動かすと、龍神が大きな瞳をまっすぐ光繁に向けているのが見える。不思議な感覚だが、たぶんこれが龍神が発する言葉なのだ。
『おまえを人の世で最も力のある者と認めます。受け取りなさい』
龍神がそう告げたのと同時に、光繁の前に細かな光の粒が集まり始めた。金色に輝く光の粒は、やがてひと振りの剣へと形を為す。刃がいくつも枝分かれした奇形の剣だった。宙に浮かんだその剣に吸い寄せられるように、光繁が震える腕をゆっくりと伸ばす。
瞬間。どこからか勢いよく飛んできた一本の矢が、龍神の首もとに突き刺さった。
あっと思ったときにはもう遅い。龍神は身体を思い切りのけぞらせ、ぴたりと動かなくなった。神々しく輝いていた剣も光を失って、乾いた音とともに地面へ落ちる。
唖然としていた鈴音たちの目に、興奮気味に駆けてくるひとりの老人の姿が映った。何人もの武者を周囲に従え、手には立派な弓を握り締めている。
「……望長。なんということを」
光繁のつぶやくような言葉で、鈴音は老人の正体を知った。望長といえば、湯白の国の長の名だ。長年敵対してきた国を治める者が、降臨した神をその手にかけたのだ。
「ふははは! やった、やったぞ!」
望長はひどく裏返った声でわめいていた。引きつった笑いが静寂の漂う平野に響く。
「これで湯白の国の栄光は永遠のものだ。もう誰にも奪われずに済む。緋浦にも、神にも――」
しかし、言葉は唐突に途絶えることとなった。龍神の傷口から黒い光がふくれ上がったかと思うと、一気に四方八方へと弾けたのである。
とっさに身を縮めた鈴音の耳に、くぐもるような悲鳴が聞こえた。恐る恐る視線を戻したとき、そこにいたはずの老人の姿はどこにもなかった。
息を飲んだ鈴音の胸のうちへ、そのとき淡々とした声が染み込んでくる。
『鱗の子よ。〈水分の剣〉で私を斬りなさい。この身が鉄の穢れに染まり、醜く歪んだ荒れ神へと転ずる前に』
はっとして、あらぬ方向へ首を傾げた龍神を見やる。見ひらかれた金の瞳は、間違いなく鈴音のことを捉えていた。傷口からはどす黒い血のようなものがおびただしく流れていたが、口調は変わらず穏やかだ。
『私の言葉はもはや、鱗を持つおまえにしか届きません。さあ、〈剣〉を取って。私に向かって振り下ろすだけでよい』
鈴音は狼狽えた。どうして自分だけ身体に異変が起こらないのか。鱗とはなんのことなのか。わからないことだらけだが、ここで言う通りに行動しなければ、大変なことになるのだけは理解できた。
恐る恐る地面に手を伸ばし、落ちていた歪な形の剣を掴む。厳めしい見た目の割にまったく重くない。片手でも扱えそうだ。
「鈴音、よせ!」
ただならぬ様子を察したのか、鈴音に向かって光繁が叫ぶ。弾かれたように視線を動かすと、長くともに暮らしてきた者たちが皆、苦悶の表情で地面に膝をついていた。
止めなければ。その気持ちだけが鈴音を突き動かした。彼女は剣を高く持ち上げて、そのまま一気に刃を龍神に振り下ろした。
どこまでも白い空間に、鈴音は立っていた。
正面には矢傷のなくなった龍神がとぐろを巻いて鎮座していた。他には誰の姿もない。手にした剣もいつの間にか跡形もなく消えている。
『おまえ、よく見ると鱗の子ではないね。何故それを持っているの』
柔らかな声が胸のうちに響き、鈴音ははたと我に返った。龍神の視線は首からさげた玉飾りに向けられている。鱗とはこの透明な玉のこと、つまり鱗の子とは事読みのことなのだろう。光繁たちのように神の威光で苦しまずにすんだのも、きっと首飾りせいだ。
「わたしの国の事読みから、預かっているのです。お守り代わりだと渡されて」
畏まって答えた鈴音の頭の中に、包帯を巻いた小景の姿がよぎった。怪我の具合は大丈夫だろうか。急に心配になって表情を翳らせた鈴音を、龍神の金色の瞳がまじまじと見つめる。
『そう。それにしても、度胸のあること。命じられたとはいえ、私に刃を向けるとは』
「わたしはただ、みんなを守りたくて……。そう思ったら、身体が勝手に」
言いながら鈴音は身を震わせた。なんと大それたことをしてしまったのかと、今さら恐ろしくなってくる。このまま望長と同じように、罰を受けるのかもしれない。すくみ上がる彼女を見て、龍神は何故かころころと笑った。
『人間というものは本当に面白い。おまえも、あの矢を射った愚かな男でさえも。先のことが不確かであろうと、己の心を信じて進もうとするのだから。なんと恐れ知らずなのでしょう』
どうやら気に留めていないようだ。それどころか好感を持たれたらしい。拍子抜けする鈴音に向かって、龍神は続けて告げる。
『人の子よ。私は穢れ、一度身体を失いました。もとに戻るためには、しばしのあいだ眠らなければなりません。鱗の子の声にも応じられない。それでも人間は、これまで通り命を繋いでいくことができるでしょうか』
静かな言葉に、鈴音は目を閉じた。神がいなくなった世界。事読みが必要なくなった世界。頭に浮かんできたのはいつもと何も変わらない、小景がいて、光繁がいて、大切な人たちとともに生きる己の姿だった。
「きっと、できます。必ず」
自然と言葉がこぼれ落ちていた。それを聞き、龍神が満足そうに太い尾を揺らす。
『それでは、あとはおまえたちに任せましょう。いつか目が覚めたそのときに、人の世で起きた出来事を余すことなく聞かせておくれ』
金の瞳がゆっくりと瞬いたのを見たのを最後に、まばゆい光が視界を覆い尽くした。たまらずまぶたを閉じると、そのまま意識が遠のいていくのを感じた。
気がつけば、目の前に閃の顔があった。
思わず身体を硬直させる鈴音を見て、彼が不機嫌そうに眉をひそめる。それと同時に、すぐ近くから聞き慣れた声が降ってきた。
「鈴音。無事だったか」
「まったく。龍神に斬りかかったと思ったら、いきなり倒れやがってよ。無茶なことして心配させるんじゃねえ」
安堵の表情でこちらを覗き込む光繁と時継が視界に映った。鈴音は気が抜けたように息をついてから、横たわっていた身体を起こす。もう龍神の姿はない。けれど、先ほどのことを夢や幻だとは思えなかった。胸もとに揺れる鱗を握り締め、鈴音は口をひらいた。
「龍神さまは、傷を癒すため長い眠りにつかれました。目覚めるまでのあいだ、わたしたちに先見の力を貸せないと」
鈴音の言葉を静かに聞いていた光繁が、何かを考えるように目を閉じる。疑われているのかと思ったが、そうではなかった。再び目をひらいた彼はゆっくりと周りを見回すと、大きな声を張り上げた。
「湯白の武者たちよ、聞け!」
戦は中断されたままだった。多くの出来事が一度に起こったことで、未だに混乱しているのだろう。特に湯白の武者たちは、望長がいなくなり完全に戦意を喪失している。もう剣を振るう者はいない。
静まり返った平野に、光繁の凜とした声が響き渡った。
「神は眠られた。これからは、物事を自らの手で選択していかなければならぬ。逃げたい者は逃げよ。力を蓄え挑んでくるなら受けて立つ。もしも降伏する気があるならば、味方として受け入れよう。己の心に従って、道を選ぶがいい」
呆然としていた武者たちがお互いに顔を見合わせ、表情に再び生気を宿す。
賛同した者たちが一斉に雄叫びを上げた。脚を踏み鳴らし、手を叩く音が、地鳴りのように空気を震わせた。
*
うだるような暑さがようやく過ぎ去り、心地よい秋の風が吹き始めた。
館の中庭に立ち、高い位置を流れる雲をぼんやりと眺めていた鈴音は、砂を踏む足音を聞いて勢いよく振り返る。少し遠慮がちな歩みで近づいてきたのは小景だ。いつもの赤い華やかな衣服ではなく、町の娘が着ているような、簡素な格好をしていた。
長い髪をうしろでゆるく束ねた小景が、おずおずと上目遣いで尋ねてくる。
「ええっと、待った?」
「全然。それより小景、服が違うだけでなんだか別人みたいね。よく似合ってる」
鈴音が答えると、小景は照れくさそうに微笑んだ。
龍神が眠りについてから二十日が経つ。頭を殴られ伏せっていた小景もすっかり回復し、なんの不自由もなく生活できるようになった。ただし、すべてがもと通りというわけではない。彼女の血に宿っていた事読みの力は消え、その証として青かった瞳は鈴音と同じ黒色に戻っている。
「なんか変な感じ。もう力を使わなくてもいいなんて。外に出られるのは嬉しいけど」
言いながら、小景がすがるように手を握ってきた。
「怖い?」
「うん。ちょっと」
この日、鈴音は小景と初めて町に遊びにいく約束をしていた。血の縛りがなくなったということは、館からも自由に離れられるということだ。鈴音にとっては喜ばしい変化だが、小景は生まれてからほとんど外に出た経験がない。戸惑うのも当然だろう。
繋いだ手をぶらぶら揺らして、並んで歩き出す。緊張が取れないのか、小景の横顔はまだ硬かった。
「好きなことをすればいい、なんて急に言われても、何したらいいのかわかんないや。ねえ鈴姉、これからわたし、どうしたらいいかなあ」
不安で揺れる瞳に見上げられ、鈴音は微笑みかける。
「大丈夫よ。わたしだってまだ考えてる途中なんだから。一緒にゆっくり探していこう」
もう先のことを教えてくれる存在はいない。成功も失敗も全部を自分の責任として、迷いながらも進んでいくしかない。何ができて、何ができないのか。とにかくやってみなければわからないのだ。
鈴音たちは門の前で一旦立ち止まり、ふたりで顔を見合わせた。それから大きく深呼吸して、せーので一歩を踏み出した。
〈終〉
緋浦の国ひとかたり かかえ @kakukakae
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