燦憺

蒼逸るな

燦憺




 誰かが笑っている。



「悪魔!」

 とヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが低く叫んでその右手で彼の頬を叩いたときでさえ、アントニオ・サリエリは眉のひとつも動かさなかった。衝撃で左に傾いだ顔を戻すこともせず、ただ眼球を覆う膜が湿った音を立てて、その燦爛たる色合いの瞳だけがゆっくりとモーツァルトを見遣った。モーツァルトはみずからの発した声の余韻が響く廊下で耳を澄ませたが、サリエリの呼吸も心拍もまったく平常といった様子で、そこからは怒りの片鱗すら読み取れなかった。

 それにこそ指先の痺れるような恐怖を覚えるモーツァルトに、サリエリ――オーストリア皇帝ヨーゼフ二世に仕える宮廷音楽家のイタリア人――は眉根を寄せ、口端をかすかに上げ、さも困ったように微笑してみせた。その態度は尻尾を丸めて吼える犬を懐柔させるような具合で、モーツァルトの視界に火の粉めいた怒りがぱっと散った。

「あんたの正体を誰も知らない」モーツァルトは続けた。「あんたがまるで人間でないことを」

「たしかに――」

 サリエリは薄い唇を静かに動かした。そのやりかたはモーツァルトが会ってきたどの令嬢のそれよりも密やかで、唾液に塗れた舌が蠢く音がモーツァルトの耳にさえほとんど届かないほどであった。

「気づいたのは君が始めてた。ヘル・モーツァルト。噂に違わず、奇跡的な音楽的才能の持ち主のようだ」

 サリエリが噂でしか知らないのももっともで、彼らはつい先刻顔を合わせたばかりの間柄だった。それでもモーツァルトはサリエリの名を聞いたことがあったし、それはサリエリもまた同様であったらしい。音楽に国境はなく、その名は、噂は、どこまでも届く。

 皇帝ヨーゼフ二世の計らいで一堂に会した音楽家の中に宮廷に仕えるサリエリがいることはなんら不思議なことではなかった。むしろモーツァルトはそれを望んでさえいて、その懐にある楽譜はサリエリの作品を編曲したものであった。ウィーンで仕事を得るためには誰かに目を掛けてもらう必要がある。自身の音楽に絶対的な自信を持つモーツァルトは、ゆえにこそみずからの曲ではなく、気に入らぬイタリア人の編曲を持参した。

 白の鬘ばかりが並ぶ中、サリエリだけは地味な色のそれを被っていたが、、服装は落ち着いた、しかしけして流行遅れではない上品なものであった。表情は常に微笑しているようで、しかし握手を求めたとき、モーツァルトは彼が少しも笑みに値する感情を抱いていないことを悟った。クラヴィーアを叩くために短く削られた爪、それが配された指先は冷たく、まるで氷のようだった。

 子どもじみた奔放さの抜けないために父に繰り返し叱責されるモーツァルトと違って、サリエリは宮廷に仕えるに充分な冷徹さと洗練された振る舞いを身につけていて、特に彼を寵愛しているだろうヨーゼフ二世には深い敬意を払っているように見えた。誰もが彼こそが次の宮廷楽長になるだろうと考えている中で、モーツァルトだけは建物の外から冷たい風が吹き込んでいるかのように震える身体を抑えて余所行きの笑顔を保つのが精一杯であった。

 誰も知らないのだ――モーツァルトは直感した。サリエリ、この悪魔的な男は、まるで人間の皮を被っただけの洞だと。ザルツブルクから来たモーツァルトを他の音楽家が内心で見下し、侮っているのをモーツァルトは理解していた。息遣い、瞬き、衣擦れ、鼓動――そういった音は、モーツァルトに素直に届ける。取り繕った人間の醜い本質を。しかし――サリエリの言葉を借りるなら「奇跡的な」――耳を持つモーツァルトは、ついぞサリエリの内側から侮蔑を盗み聞くことができなかった。間違いなく、サリエリは尊敬すべき皇帝と冷遇すべき田舎者とを平等に見ていた。それは聖人の振る舞いか? 人間を区別せず、羊の群れを見るように向き合うのは。

 だからこそモーツァルトは怯え、しかしかの悪魔を糾弾できるのはみずからのみだと、サリエリの背を追ったのだ。

 果たして、彼らは廊下で向かい合っていた。暖炉もないのにサリエリの瞳は炎を見つめているかのように眩かった。

「君とわたしとの間に、言葉はいらない」

 サリエリが目を伏せると、その目の輝きのために睫毛の影が頬に落ちた。

「なぜなら神は、言葉の前に音を作ったのだから」



 つまるところ、神に傅くものが天使であるのは当然のことで、天使が人間でないのも、また当然のことだったのだろう。

 モーツァルトは彼の背を見ていた。肩甲骨が捥がれた翼のように動くのを。

 そして聞いていた。彼の指先が音を繰るのを。その場にいる全員、それは演者のみならずモーツァルトのような観客に至るまでの息遣い、脈動、瞬き、それらさえもが調和してひとつの音楽になるのを。

 頬を涙が伝うのは、モーツァルトが瞬きを忘れたためではなかった。獣に、芸術は必要ない。だから自分は人間なのだと、身体の内側にある傷をそっと撫でられたような心地だった。

 モーツァルトの埒外の性格と才能は、モーツァルトの意思に反して多くのものを傷つけ、怒らせた。モーツァルトの父は息子をよくできた楽器としては愛していただろうが、果たして人間として愛されていたかどうか自信がなかった。悪魔と叫んだとき、それはまったく同時にモーツァルトの心臓をも貫いた。それはかつて、誰かがモーツァルトに放った言葉、それそのものだったから。そんなモーツァルトでさえ、サリエリの音楽は突き放さなかった。彼は知っているはずなのに――モーツァルトが彼を恐れていることを。

 この顎から滴った涙が砕けて散る響きが、終演だった。モーツァルトとサリエリのオペラ対決はサリエリの勝利に終わった。拍手は夜の中で稲妻のように光った。その合間を縫ってモーツァルトは彼を探した。

 あらゆる悪意さえ許されるのなら。そのときモーツァルトの頬は上気して、早足から駆け足に変わったせいで吐息が荒さを増していった。いるはずだと思った人いきれの中に彼はいなかった。天幕をいくつも潜り抜けていくうちに、モーツァルトはみずからの位置を完全に見失って、手に持った燭台に灯った明かりが風に掻き消されて戻ることもできなかった。

 襞のように蠢く天幕を進んだ果てに、彼は立っていた。まるでモーツァルトの来訪を知っていたかのように。そして夜の狭間にあってなお燦爛するその瞳の本質を、とうとうモーツァルトは知った。神の威光を見つめているから、瞬くことのない瞳。人には直視できない暴威を、恩寵を――繋いで煌めく、盲た瞳。

「ヘル・モーツァルト」

 それでも違わずモーツァルトの名を呼んだ彼の瞳が撓んで、三日月がそこに現れた。モーツァルトは膝に手を付き、呼吸を整えた。土の上に垂れたものが汗なのか涙なのか、モーツァルト自身にもわからなかった。それでも注がれるのはただ、夜を導くかすかな灯火だけ。彼の前ではすべてが音楽であり、ゆえにすべてが慈しむべきうつくしさを持っている。膝を折り頽れるような喜びも。叫びたくなるような悲しみも。皮膚が毟られ爪が汚れるような愛も。抱き寄せてその頬の産毛に口づけるような憎しみも。

 誰をも許しているから、誰をも差別することがない。それは人間の情ではなかった――御伽のようなそれは、しかし、モーツァルトをたしかに掬い上げたのだ。許すことは、諦めることに似ていた。



 互いを呼び合う声がヘルから名前に変わり、そしていつしかモーツァルトは彼をイタリア語で父と呼んでいた。サリエリは拒否しなかったが、彼が拒否しないことを、モーツァルトはたぶん、はじめから知っていた。

 モーツァルトに音楽の基礎を叩き込んだ実父のようには、サリエリはモーツァルトを導かなかった。モーツァルトは常にみずからを律せねばならなかった。人間の悪意に果てがなく、終わりもないことを知っていてなお、誰かを愛することをみずからに課さねばならなかった。

 それはしばらくはうまく行っているようにみえた。モーツァルトは鼓動に混じる悪意が全身を巡る前に、それを切り捨てた。喉を震わせそうになる憎悪が唇から飛び出す前に、それを噛み砕いた。指先に滾ろうとする怒りが五線譜の描かれた紙を握り潰す前に、それを切り離した。人間は――自分は――かくも醜く、汚い。うつくしく着飾った服からは香水に紛れて汚臭がし、その下の弛んだ肌には垢が溜まり、さらにその下でどろどろに溶けた死体が胃液と混ざってのたうっている。不埒な振る舞いをする男女の股からは消せども消えぬ饐えた臭いが漂う。

 それでも愛していると、言いたかった。言わねばならない、そう思った。一度でも白い鴉を見てしまったら、もうすべての鴉が黒いとは言えなかった。

 でもそれは、みずからが白い羽を持つことを意味しないのだ。

 モーツァルトは、呆然として扉の前に立っていた。戸を叩く音がして、それは不思議なことに、モーツァルトのやりかたととてもよく似ていた。モーツァルトは熱病に冒されていた。関節が痛み、全身が浮腫んでいた。妻が自宅にいなかったから、モーツァルトは這うようにして扉へ向かった。開けるな――本能が警鐘を鳴らし、その響きが指先にまで伝わった。その弾みでドアハンドルが回り、地獄の門は開かれた。

 モーツァルトは、そこに鏡を見た。よく磨かれた、傷ひとつない、透明な幻想の鏡を。

 鏡の向こうで自分が言う。金貨の擦れる下品な音のように。

 ――レクイエムを作れと。

 踏み躙ってきた過去が追いついたのだ。それは夜闇に紛れる沈鬱な色合いの服を纏い、まさしく病人のような土気色の肌が張りつく顔、落ち窪んだ目で、みずからを切り捨ててきた偽善者を舐め回すように眺めた。青褪めた唇から唾液に塗れた声を繰り返し発した。レクイエムを作れ。そうして立ち去った過去は、かすかに笑っているようにみえた。

 モーツァルトは暖炉の前まで逃げて、炎の爆ぜる音ですべてを忘れようとした。暖炉の上に飾られた十字架がなんの前触れもなく外れ、炎の中に落ちた。罪人は永劫の炎に焼かれる――イ短調。モーツァルトは悲鳴を上げた。誰もがモーツァルトを責め立てていた。

「耐えたじゃないか!」

 モーツァルトの弁明を聞くものは誰もいない。モーツァルトは言わなかった。切り捨てた、噛み砕いた、切り離した――罰を与えて欲しいという言葉を。他の誰とも僕を差別して欲しいという願いを。それなのに過去は陰鬱に立ち上りモーツァルトを訪れた。そしてその悪意は、やがて彼にまで届くだろう。拒絶してほしいと願ったが、サリエリが訪れる悪意を拒まないことを、モーツァルトはたぶん、もう知っていた。あの日彼の左の頬を叩いた。だからサリエリは、次は右の頬を差し出すだろう。



 その夜、サリエリは熱に魘されるモーツァルトの家を訪れた。もともとが互いの家を行き来する間柄だったから、それはなにもおかしなことではなかった。貧困に喘ぐモーツァルトの代わりに、サリエリは安くはない薬を持参した。かつてその貧富の差に憤っていたことすら、寝台から起き上がれないモーツァルトにとってはもはや遠い過去のようであった。

 寝台の周りに散らばった五線譜を、サリエリはただ踏まぬように避けただけで、その口からは病人に対する非難のひとつも出て来なかった。モーツァルトは虚ろに笑った。彼を父と呼んだ。だが彼は命を縮める行いさえ許容し、モーツァルトを叱らない。

「毒入りの葡萄酒をどうぞ」モーツァルトは冗談めかした口調で言った。

「わたしは水しか飲まない」サリエリは生真面目に応じた。

「いつか僕の悪意があなたの許を訪れる」

 モーツァルトは絶え絶えにそう言った。サリエリが寝台の端に腰掛け、目を伏せるようにしてモーツァルトを見た。その瞳は蝋燭をいくつ並べても暗がりを払えない家の中で、はじめて会った日と変わらず燦爛としていた。そして彼は頷いて、子守唄のように囁いた。

「君の悪意はわたしを磔にし、その血が滴った土からは根も葉もない花が咲くだろう。だが――」サリエリは微笑した。「それはきっと、うつくしい」

 モーツァルトの眦から涙が零れた。サリエリは指を伸ばしてそれを拭った。そしてモーツァルトの痩せた身体を抱き寄せた。

『凡庸なる人々よ、罪を赦そう。わたしはその守り神だ』

 彼は一度も使ったことのない言語で低く歌った。まだ誰も知らぬ台詞を。

 薄れゆく意識の端で誰かが笑っている――そんな気がした。それは喇叭のファンファーレのように、いつまでもモーツァルトの耳に残った。

 

 

 

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燦憺 蒼逸るな @tadaokinnu

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