33 隠された王女

 シャリフ皇太子とアニー、テッド、そして私の四人は、宮殿の奥の奥を進んでいた。私たちの少し前を、シャールカと呼ばれる女性が、ランタンを手に歩いている。


 謁見の間を出て、いくつかの廊下を曲がった先の突き当り。重たいカーテンが掛けられた、その奥には、さらに暗闇を隠すように石造りの階段が続いていた。

 怪談を降りた先に明かりはなく、シャールカの持つランタンの光だけが、周囲をうっすらと照らしている。

 

 シャールカは、この宮殿で働いていることを示す、お仕着しきせを身に纏っていた。土の国では珍しい金髪に、ランタンから漏れた明かりの揺らめきが、チラチラと反射している。

 

「……私はシャールカと申します。あの西の塔で、のお世話係兼教育係として仕えております。……金髪が珍しいでしょうか。私は元々は、水の国の出身なのですよ」


 シャールカは静かに語りながら、一瞬、視線だけをこちらに向けた気がした。

 彼女の奥に広がる暗闇に、私たちの足音の、カツーンカツーンと響く音が飲まれていく。


 しばらく進んでいると、通路の先に、木製の扉が見えた。

 シャールカが胸元から鍵を取り出し、鍵穴に差し込むと、「ギーーー」という不快な音を立てながら扉が開く。その先はさらに暗く、ランタンの光が、上へと続く螺旋階段の存在を、ぼんやりと浮かび上がらせている。

 私たちはそのまま中へと入り、階段を登って行った。

 

 おそらく、ここはもう、『西の外れの塔』の内部なのだろう。

 上方にある小さな窓から、シムーンの吹き荒れる風が入り込んできている。


 階段を登りきると、目の前に現れたのは金属製の重い扉だった。

 複数の鍵で、何重にもしっかりと閉ざされている。

 

 シャールカが、今後はいくつも束になった鍵を取り出し、一つ一つ丁寧に開けていく。

 その間にも、後ろにある窓からシムーンの激しい砂埃が入り、私たちのの髪や服を、バサバサと揺らしていた。


 「ガチャンッ」と、最後の鍵が開く。

 その音に、シャールカは一瞬動きを止め、扉の取っ手に手をかけたまま、こちらを振り向いた。


「この先に、ナターシャ様がいらっしゃいます。どうぞ、お入りください」


 そう言って、シャールカはうやうやしくお辞儀をしながら、その金属製の扉をゆっくりと開けた。


 ☫ ☫ ☫


「……初めまして、お兄様。私、ナターシャと申します」


 重々しい扉が開かれた先に広がる空間。その中央に、ナターシャ王女はいた。

 彼女は、私たちの先頭に立つシャリフ皇太子に向けて、優雅に頭を下げお辞儀をする。開け放たれた扉から入ってくる荒れた風が、彼女の黒い服と、腰まである美しい黒髪を揺らしていた。

 

 挨拶を終えたナターシャ王女が、ゆっくりと顔を上げる。

 輝く黒水晶のような瞳が、私たちを見つめている。


「ようやく、来てくださったのですか?」


 その表情は喜びに満ちていたが、一方で、どこか言葉にしがたい、あやしさをまとっていた。


「……殺しに、だと? 何を言う。私はナターシャ、君を助けに来たんだ」


 ナターシャ王女からの不意な言葉に、シャリフ皇太子は思わずそう言った。

 彼は両手を広げ、敵意のないことを示すようにして、部屋の中へと一歩踏み出す。

 

 しかし、シャリフ皇太子の言葉を聞いて、先ほどまで優美な笑顔を貼り付けていたナターシャ王女の表情が、スコーンと抜け落ちたかのように無表情なものへと変わった。

 その予期せぬ反応に、驚くシャリフ皇太子とナターシャ王女はお互い無言で見つめ合い、微妙に気まずい雰囲気が流れ始める。


 私は二人から視線を外し、部屋の内部を見渡した。そこにあったのは、まるで囚人の部屋のような、質素な空間だった。

 この宮殿内の至る所で見られた、輝くばかりの豪華な調度品は一切なく、むき出しの壁にベッドやテーブル、椅子といった最低限の家具に、何冊かの本とティーセットといった僅かな物しか、この部屋にはない。

 

 また、部屋の上部にある採光用のガラス窓には、全て外側から鉄格子がはめられていた。逃げ出さないため以外に、この格子の理由を思いつくことができない。

 私たちの視線の先、ナターシャ王女の奥にある、この部屋で手に届く唯一の大きな窓も、おそらくシムーンのために戸が閉められていたために確認できないものの、同じように格子がはめられているのだろうということが、容易に想像がついた。

 

 よくよく見てみると、入り口には二重構造の扉が設けられていた。一枚は私たちが入ってきた金属製の扉、もう一枚は、金属の扉よりも部屋の内側に設置されていた、下が少し空いた格子扉だった。この下から、食事の受け渡しをするのだろうか。

 この部屋のどこを見ても、ナターシャ王女がここに監禁されているという事実が、隠されることもなくあらわとなっている。

 

 この閉ざされた部屋から出ることもできず、彼女はどれほどの長い時間をひとりで過ごしていたのだろう……。

 その生活を思うと、私の胸が少し傷んだ。


 長い沈黙の後、ナターシャ王女は小さくため息をついた。興ざめだといった様子できびすを返し、部屋の奥にある椅子へと腰かける。

 そして、シャリフ皇太子や私たち存在なんて、最初からなかったかのように無視して、テーブルの上に置かれた本を手を取った。


 その時だった。ナターシャ王女がまとう黒衣が、本を手に取ると同時に、入り口から吹き込んできた風で揺れ動き、はだけだ。

 あらわになった彼女の白い肌には、無数の傷跡やあざが浮かんでいた。


「……ッ! この傷や痣は、一体だれが!?」


 シャリフ皇太子は声を荒げ、ナターシャ王女の方へ駆け寄ると、その細い腕を掴んで彼女に問いかけた。

 ナターシャ王女は一瞬だけ驚いたような表情を見せたものの、すぐに目を細め、鼻で笑うようにして言った。


「……こんなもの、この国では普通のことでしょう? この国の男たちは、男尊女卑の土壌の元、自らの母親や妻に手を上げる。そこに、日頃の憂さ晴らしとして、自分の娘に手を上げるのが加わった。……ただ、それだけのことよ」

「ということは……陛下が君に、手を上げていたということか!? ……自らの娘に、こんなに跡が残るまで日常的に……。だから君は、国王やこの国を恨み、滅ぼそうと……」


 シャリフ皇太子の声が、震えているのが分かった。けれど、ナターシャ王女は素知らぬ顔で答える。


「……? いったい何のことでしょう?」


 その様子に、シャリフ皇太子は一瞬眉をひそめる。そして、小さく息を吐き、言葉を続けた。


「君が着ている黒衣は、『土の乙女』が着るものだ。そして君は、この国の王女だ。我々首長一族は、概して魔法適性の強い者が多い。下層階級出身の他の乙女たちに比べて、君の魔力が段違いに強くても不思議ではない。飛蝗バッタに関しても、辻褄つじつまが合う」


 ナターシャ王女の目は、なおも、何も知らないとでも言いたげだった。

 その意図の読み取れない彼女の表情に、シャリフ皇太子はため息を深める。

 

「それでもまだ、とぼけるつもりなら……いいだろう。ニコラ、こっちへ来てくれないか」


 突然名前を呼ばれて、思わずビクリと体が震えた。鉄格子の扉を眺めていた私は、急いで振り向くと、シャリフ皇太子が手招きしているのが見える。

 これが恐らく、シャリフ皇太子の言っていた『私の協力が必要なこと』なのだろうと思い至り、私は慌てて二人の方に近寄って行った。アニーとテッドも、私を追うように部屋の中に入ってくる。


 ナターシャ王女が、私の方を見た。

 すると、彼女の目が驚きに見開かれ、急に立ち上がった。そして、シャリフ皇太子が掴んでいた腕を振り払い、口元を手で覆うと、全身をガタガタと震わせ始める。


「ヴラスタ嬢と同じ反応……。やはり君は『乙女』で、『女王』だったか……」

「そんな……まさか……私は……」


 ナターシャ王女はそう言って、膝から崩れ落ちていき、シャリフ皇太子が慌てて彼女の肩を支える。

 私は息を飲んだ。そのナターシャ王女の姿には、憔悴と絶望が滲んでいるように見えた。


「もう、何も言わなくていい。君がしたことは許されることではないが、君をこのようにしてしまった父やこの国に……もちろん、私にも責任がある。私と共に、罪を償っていこう」


 そう、シャリフ皇太子が「ああ……」と俯くナターシャ王女に、清濁併せいだくあわせ飲むような、けれど慈愛に満ちた表情で言葉をかける。


 けれど、その時だった。

 私を見て驚き、俯きながら震えていたナターシャ王女の体が、ピタリと止まった。

 そして静かに、けれど刺すような、冷たい声色で言い放つ。


「……それが救いになると、本当に思っているのですか?」

 

 そう言うと、ナターシャ王女は勢い良く頭を上げた。その目には、シャリフ皇太子どころか私たちの姿も映っていない。

 その目には、ただ……が映っていた。


 彼女が走り出すのを、誰一人として止めることができなかった。

 気が付けば、ナターシャ王女と扉との間には何の障害物もなく、一直線に道が開かれていた。

 

 一拍遅れで気付いたシャリフ皇太子が、ナターシャ王女に手を伸ばす。

 しかし、彼女は全身を覆う布を目隠しのように脱ぎ広げながら、まっすぐと、ただひたすらに扉の方へと走っていく。

 

 そして、あっという間に、扉の、さらにその奥の窓に手をつき、こちらを振り向いた。

 満面の笑みだった。

 窓から入る風が、ナターシャ王女の髪と体に残されていた薄布を、バサバサと乱す。激しく吹き込む風に乗って、小さな水の粒が細かく弾けていた。

 

「ありがとう、お兄様。ここに来たのがあなたで良かった……。あなたは、優しい。けれど、分かっていないの。ここに……この国に、とらわれて生き続けることこそが、私にとっては最早もはや、地獄でしかないのだということを。私には、もう何もない。すべて、なくなってしまった。……最後に来てくれて、本当にありがとう。そして、さようなら」


 ナターシャ王女はそう言うと、歓喜に満ちた表情を浮かべたまま、軽やかに塔から飛び降りた。

 私たちは、その一部始終を、突然のことに戸惑い固まりながら、ただ茫然と見送ることしかできなかった。


 ナターシャ王女のいなくなった空間に、ただ、静寂が流れる。

 激しく吹き荒れる外界の轟音は、塔の外側だけでなく、塔の中にいたるまであらゆる音をかき消しているようだった。

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