40 黒き悪魔の、置き土産

 一番危険だった、ひときわ大きい飛蝗をどうにか始末できた。

 

 急な緊張感から解放され、穏やかで、それでいて少し気だるげな雰囲気がその場にただよい始める。

 そんな時、テントの入り口から乾いた風が入ってきて、ニコラの髪をわずかに揺らした。


「……風が、吹いてる……」


 ニコラから数秒遅れで、自分の耳元の髪を揺らす風にシャリフ皇太子が小さくそう呟く。


 同時に、シャリフ皇太子は目をガっと見開き勢いよく立ち上がると、入り口付近でへたり込んでいたニコラをかわしてテントの外に飛び出した。

 その尋常じゃないシャリフ皇太子の様子に、ニコラを含め、その場にいた全員が慌ててシャリフ皇太子の後を追う。

 

 外では残された飛蝗共が、それぞれにジイイイイイと羽を揺らす不快な音に溢れていた。


 また、その振動に呼応するかのように、先ほどまでの晴天から打って変わって風が吹き荒れはじめ、徐々に、茶色く濁った砂埃が渦を巻いて上空へと舞い上がっていくところだった。


シムーン砂嵐だ!! テントに逃げろ!!」


 誰かが大声で叫んだ。


 シムーンが誕生する様に硬直していた人々が、声に反応して慌てて動き始める。

 前線の方にいた土の乙女達の黒い集団も、テントに向かって逃げてきているのが見えた。

 

 飛蝗共のいるまさにその場所で発生したシムーンは、またたく間にその規模を大きくし、飛蝗共を丸ごと飲み込んでいく。

 ジイイイイイという飛蝗の羽音が減っていくたび、シムーンの轟音が大きくなっていった。


 逃げる準備に慌てる間にも、状況は刻一刻と変わっていく。

 飛蝗の音がほとんど聞こえなくなったと思ったら、シムーンはニコラたちのいるテントに向かってゆっくりと移動し始めた。


 ハッと弾かれるように、シャリフ皇太子は横で茫然と立ち尽くすニコラをおもむろに抱え上げ、テント脇にいたラクダに飛び乗ってオアシスの方向に駆け出した。

 シャリフ皇太子に続いてガルドと、慌ててアニーとテッドもラクダに乗り二人の後を追いかけてくる。


「え? え?? これは一体どういうこと??」

 と、ラクダに乗せられ戸惑うニコラに、シャリフ皇太子が遠くに見えるオアシスを視界に収めながら言った。


「シムーンは摂氏五十度を超える熱風を伴う砂嵐だ。シムーンに生身のまま飲み込まれれば、どんな生物も窒息してしまい生きてはいられない。それが魔物化した飛蝗共であってもだ」


 説明を聞いて、思わず喉がゴクリと鳴る。

 あの大きなシムーンは、残された飛蝗達を根こそぎ狩りつくしていくに違いない。


 でも……。

 

「だから……今一番問題なのは飛蝗共ではなく、シムーンが向かっているこの方向、私たちの守る最終防衛ラインの後ろに首都のあるオアシスがあることだ。飛蝗共め、とんでもない置き土産を置いて行きやがった! 急いで人々を避難させなければ、死人が出る……!」


 やはり、あのシムーンと呼ばれている砂嵐は、魔物化した飛蝗の集団以上に危険だった。

 

 しかし、それにしても自分が一緒にいるのはどうしてだろうと疑問に思って、シャリフ皇太子の顔をなおも見上げる。

 すると、その様子に気が付いたのか、チラッと視線を落としてきたシャリフ皇太子と目が合った。

 

「……この地に住む者たちはシムーンの対処法を知っている。だが、君たちは違う。これからちょうど宮殿に向かうから、ニコラ嬢は私と共に行動し宮殿に避難するといい。それに……できれば、ニコラ嬢には少し手伝ってもらいたいこともある。」


 シャリフ皇太子はそう言うと、再び視線を前方に移した。

 シャリフ皇太子の視線の先には、もう土の国の首都のあるオアシスの姿がはっきりと見えていた。



 ☫ ☫ ☫ 



 十分ほどで辿りついた首都の中は、シャリフ皇太子の心配していた通り混乱していた。


 街中に見られる豪華な建物の入り口は、全て閉ざされている。

 間に合わなかったのだと思われる各家の使用人たちや、土の国を偶然訪れていたのであろう冒険者や商人たちといった人々が、迫りくるシムーンに戸惑いパニックにおちいっていた。

 

 シャリフ皇太子はすぐ後ろに続いていたガルドに目配せをすると、ガルドは小さく頷き、シャリフ皇太子とニコラを乗せたラクダを追い抜かして、街の中でもひときわ大きな建物に向かって一直線に駆けて行く。

 

 シャリフ皇太子はガルド別れ、混乱した人々の多くが右往左往する首都の大通りに到着すると、乗っていたラクダを止めて立ち上がり大声で叫んだ。


「私はこの土の国・ロックドロウの皇太子、シャリフ・イル・ブーンディーだ! 避難に迷う者達よ、宮殿に集まれ! 宮殿がすべて受け入れる、急げ!」


 シャリフ皇太子は、混乱し発狂する人々がこちらに気付くまで、何度も言葉を繰り返した。

 やがて、その場にいた全員が声に気付いて耳を傾け、宮殿に向かって走り出していったのを見届けると、シャリフ皇太子は次なる場所へとラクダを進めていく。

 

 シャリフ皇太子は取り残された人々がいる場所を次々と訪れ、シムーンが首都に迫るギリギリまで大声を張り上げながら宮殿への避難を呼びかけていった。

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