3 空飛ぶ船へ、ようこそ

「ああ、こんな小さな子が乙女候補だなんて、どこの国も本当に腐っているわね」


 促されるがままに辿りついた場所で、ニコラは自分の母親より少し若く見える女性に頭を撫でられていた。

 

 ニコラを見やるなり女性はこちらに駆け寄り、親しみを込めて目線で見つめ、部屋の端に置かれた長椅子へと着座を促す。

 そして、「怖がらなくても大丈夫よ。そうだ、お菓子を食べるかしら?」と女性は籠に入った焼き菓子を差し出してきた。


 乗っていた馬車には、王都までの最低限の食事しか積まれていなかった。

 途中の野営では保存食としての固いパンと、少しの野菜が入った味の薄いスープばかりだったため、目の前に差し出された菓子は抗いがたい魅力を放ち、見ているだけで口の中が唾液で満たされていく。


 でも、知らない人からもらうわけにはと僅かながらに抵抗してみるも、くぅと小さくなったお腹の音にすべてが搔き消された。

 目の前の女性と周囲の様子を窺いながら、おずおずと菓子に手を伸ばし、一口、口に含んでみる。


「……おいしい……」


 思わず、そう呟いていた。

 麦だろうか、穀物の香ばしい香りと細かく切られた乾燥したフルーツの程よい甘みと酸味が口いっぱいに広がる。

 

「そういえば、母さんも良く、似たようなクッキーを焼いてくれていたな……」

 と思った瞬間、緊張が切れたのか、目から涙があふれてきた。

 その様子を、女性は静かに、慈しむような眼差しで見つめていた。


「怖かったわよね。家族と離されて、知らない土地へと向かって……しかも、こんな怖い顔のおじさんに連れて来られて」


 女性はチラリと、あのスキンヘッドの男に視線を向ける。

 

「仕方ないだろう? アニー。あのまま王都に辿りついていたら、この子は王族どもに囲われて、下手すりゃそのまま一歩も外に出ることができずに一生を過ごすことになっていた。偶然とはいえ、見つけてしまったなら助けるしかない」


「もちろん分かっているわ。あなたがこの子を助けたことは正しい……けれど、ねえ? この子、怯えていたわ。だって、あなたってば本当に顔が怖いんだもの!」


「な! そんなこと言っても、この顔は元からなんだから仕方ないだろう!?」


 二人はまるで、漫才のように言葉を掛け合っている。

 ポニーテールの優しげな雰囲気の女性が、スキンヘッドで良く見ると傷も多い怖い顔のおじさんとやり合う様子は、先ほどまでの緊迫した状況と違いすぎて、なかなか頭で理解できずにいた。

 

 置いてきぼりになってどうしたものかと考えていると、おそらく馬車の荷物を整理し終えたのであろう、荷台でニコラと目が合った男がひょっこりと顔を出した。

 そして、ニコラとその横で言い合う二人の様子を見て、やれやれとため息をつきながらそっと声を掛けてくる。


「気にしなくて良いよ。あの二人は夫婦で、いつもあんな調子だから」


 どうやら、御者が言っていた通り、ここの人達は人を傷付けるような人間ではないらしい。

 それどころか、俗にいう『良い人』に属する性質なのだろうと、まだ言い合っている夫婦を横目にニコラは思った。


 視線を二人から外して周りを見てみると、先ほどまで気付かなかったがこの場にはそこかしこに花が飾られており、全面の大きな窓からは優しい光が差し込んでいた。

 口の中に残る菓子も、噛み締めるたびに優しい甘さが広がってくる。


 出だし早々ではあるが、『水の乙女』を目指した王都への旅はもう潰えたようだ。

 見通しの立たなくなった今後に、不安と混乱がまだあるものの、この場の雰囲気は不思議と心が落ち着けるようだった。




 ……少し経っただろうか。

 ニコラの緊張もとうの昔に解けて温かい日差しに微睡まどろみかけていた頃、言い合いが終わったのか女性が再び横に座った。

 ニコラの両手を優しく握り、茶色の瞳でまっすぐに見つめて言う。


「コホン……ようこそ、ノアラークへ。私の名前はアニー。あなたを連れてきたあの男、ヘインズの妻で、このノアラークの船長よ。もし良ければ、あなたの名前を教えてくれるかしら?」


 船長? ってことは、この女性がこの船? のボス……? この女性が?

 と少し彼女の言葉に引っかかりを覚えたものの、まずは問われた質問に答える。


「私の名前は……ニコラ、です」

「そう、ニコラ。どうぞよろしくね」


 そう言いながら優しく微笑むアニーの後ろで、ヘインズもニコラに声を掛ける。


「ヘインズだ。これからよろしくな。さっきは怯えさせて悪かったな。なに、悪いようにはせん。うちにはニコラより少し年上だが、他にも子供がいるからな」

「ああ、そうね。私達より同じ子供の方がニコラも安心できるでしょう。あの子の話し相手としても良いかもしれないし……後で紹介するわね」


 ここには自分以外にも子供がいると聞いて少し驚いた。

 でもまあ確かに、この二人は夫婦だそうだし、女性がいるなら子供がいてもおかしくないかと思い直す。


 自分と近しい者の存在に心が少し浮ついたニコラに、アニーは目を細めながら、けれども確信を持ったような声でふいに問いかけた。


「……ところで、ニコラは『水の乙女』候補だったのよね? では、何かその証拠となるようなものを持たされていないかしら?」

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