2 それは絶望か、それとも救いか

「ふう、少し感傷的な気分になっちゃったな」


 野営での食事も終わり、コップに注がれたお茶の水面に映る自分の姿を眺めながら、小さくそう呟いた。

 選別の儀式があったのはほんの三日前のことだというのに、もう随分と遠い記憶になりかけている。


 村を出てからこの三日間、乗り込んだ馬車はどこにも寄り道をせずに、ひたすら王都を目指していた。

 物がひしめく荷台に座り、手持無沙汰てもちぶさたに考えるのは、あの日別れた家族のことばかりだったが、三日も経てばとうに過去の出来事になりつつあった。

 

 とはいえ、これまであまり人との情とかに頓着してこなかったから、あの時の自分の胸にこみあげる気持ちには少し驚いたなと改めて振り返る。

 そして、ふうと小さくため息をついてお茶から視線を外した。


 周囲はすでに暗闇に満ちていた。

 空には遠く輝く星が浮かび、焚き火の明かりだけが暖かく照らしてくれている。


 それはそれは、とてもきれいな夜空。

 でも、ニコラの心の中は空っぽだった。


 まだ長いとは言えない人生とはいえ、持っていた物をすべて捨ててここまで来た。

 身一つで王都に向かう、もはや何者でもない自分が不思議で、ゆらめく焚き火の炎を空虚に眺める。


 そんな時、ふと炎の奥から声がした。


「……空賊って、知っているか?」


 それは、この王都への道中を共にしている御者の声だった。

 これまで、用件以外にほとんど言葉を発してこなかった御者が突然声をかけてきたことに驚き、視線を上げる。


 視界に映る御者はコップに注がれたお茶をすすりながら焚き火をじっと見つめ、ときおり木をくべていた。

 パチパチパチと火の弾ける音がする。


「この辺りは草の国との国境に近い。明日の道中では、フォレスティアの森が遠目に見えるだろう。ただ……その辺りには最近、空賊が出る。雷の国から飛び出してきた連中だ」


「……雷の国?」


「ああ、雷の国・サンドラボルト。やつらは遥か上空からやってきて、一度狙いを定めたら、どんなに逃げようと、どんなに隠れようと決して獲物を逃さない」


 静かにそう語る御者の言葉に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 しんと静まり返った空間に、ニコラの喉の鳴る音が響く。


「やつらのことを、『空を縄張りにする雷の国の汚点』、『天からの褐色の襲撃者』、『国を超えて世界を移動する盗賊』などと俺たちは呼ぶ。だが、やつらは荷物だけを奪って、決して自ら人を傷付けることはない」


 ポツポツと語るニコラと同じ虚ろな瞳が少し見開き、小さな光が宿るのが見えた。

 その眼差しは徐々に熱を含み、子供のような輝きと隠し切れない憧憬どうけいを帯びだす。


「雷の国は、小さい頃からの俺の憧れだ。強く、賢く、何よりも自由。この仕事を長くしているが……一度でいいから、この目で見てみたいと思っている……」


 御者は噛みしめるようにしてそう言うと、おもむろに頭を掻き、明日も早いからとニコラに馬車の荷台で休むよう促した。

 促されるがままに手元のカップを地面に置き、荷台の方へと向かう。


 自分以外に誰もいない荷台は静かで暗く、焚き火に当たっていつの間にか火照っていた頭を冷やすのにちょうどいいくらいにヒンヤリとしていた。

 窓から星明りが薄く照らす荷台に横たわり、御者が言っていたことを思い出す。


 突然の家族との別れの寂しさはまだ残るものの、これから知っていくだろう外の世界に、ほんの少しだけ胸の高鳴りを感じた気がした。


 

 ⚜︎ ⚜︎ ⚜︎

 


 翌日の昼食も取り終えた昼下がり。雲一つない快晴の下、ニコラたちの乗った馬車は視界を遮るような障害物が全くない土地を駆けていた。


 最低限の食糧と荷物、そして王都に住む王族への貢物としての農作物しかない荷台内で、思い出に耽る以外にやることもなくぼーっと時間をつぶしていたが、そう言えば、と首にかけていたペンダントをおもむろに取り出した。

 これは、この馬車に乗り込む際、あの使者にもらったものだ。


 ペンダントには小さな小瓶のようなチャームがつけられていて、その中にはまさに、選別の儀にて光り輝いていた水が入っていた。

 どうもこれが、王都に行った際の『水の乙女』候補のあかしとなるらしい。


 自然と、輝く水で満たされたチャームを窓辺の方に向けた。

 窓辺から入ってくる陽の光を受け、さらに輝きを増したそれをじっくりと眺める。


「うーん、やっぱり七色をしているように見えるなあ。でも……キラキラして本当に綺麗」


 チャームの奥、窓の外には国境に位置する森がほんの少し見える。

 あの森が、先や御者が言っていた空賊が出るという森なのだろう。


 ああ、初めて森を見たな。

 なんて、輝くチャーム越しに周囲の景色を眺めていると、森の上空に何やら小さな黒っぽい点があるのに気が付いた。


「……あれは何だろう?」


 手に持っていたチャームから完全に視線を外し、黒っぽい点を見つめる。

 その点は、だんだんと大きくなっているように見えた。

 

 そして、点ではなく少し形が分かるくらいになって、ニコラはようやく気が付いた。


 ……ちょっと待って。

 昨晩、御者は何と言っていた?

 

 雷の国の汚点。空からの褐色の襲撃者。強く、賢く、自由。

 御者の紡いだ言葉の断片が、次々に浮かんでは消えていく。


 ドッドッドッと、耳元で心臓の鳴く音が聞こえはじめる。

 こちらに向かって来る姿が大きくなるにつれ、呼吸が浅く、荒くなっていく。

 そして、額にも背中にも冷や汗が流れ、窓辺を掴む手にひと際力が入った頃、蒸気の吹き出す音が周囲に響いた。

 

 それは馬達のいいななく声を無視するかのように、進路を遮る形で馬車の前に着陸した。

 中から褐色の肌をした屈強な男たちが十数人飛び出してきて、ニコラの乗っていた馬車を取り囲む。

 船から最後に降りてきた一際ひときわ屈強な、おそらく、この空賊のボスであろうスキンヘッドの男が御者に向かって言った。


「すべての荷を置いていけ、からの荷台と馬はくれてやる」


 御者は昨夜まさに自分が言っていた、空から舞い降りた空賊達を目の前にして驚き固まっていた。

 馬達がおののいた勢いで御者席から転げ落ちたのか、地面に手を突いた状態で愕然がくぜんとしている。


 スキンヘッドの男の発言にハッと我に返ってパクパク何か口に出そうとするものの、この馬車には自分以外に護衛もいなかったために多勢に無勢、抵抗することも早々に諦めたようだ。

「……分かった」と一言、地面に向かって言った。


 その様子に男は満足そうに少し頷き、周囲を取り囲んでいた男達は臨戦態勢を解いて馬車の物色を始める。


 男達のうちの一人が、馬車の荷台に手を伸ばした。

 そこで御者はニコラの存在にやっと思い至ったのか、「ま、待て!」と制止しようとする。

 

 しかし同時に、荷台に手をかけていた男は、農作物の袋の陰に隠れるように小さく身をかがめていた少女に気が付いた。

 男と目が合い、ニコラの血の気が引いていく。


 空賊、というか盗賊に出会うこと自体、初めてのことだった。

 国の外れにある程々に貧しい田舎の村には、野生動物のたぐいが稀に来ることはあっても、魔物どころか盗賊も襲ってきたことなどなかったからだ。


 昨夜御者は、この空賊達について自ら人を傷付けるようなことはしないと言っていたが、それでも生まれて初めての襲撃に、体は制御を失ってガタガタと震えていた。

 そんなニコラの様子を見て、荷台に手を掛けていた男はスッと視線を外し、「女の子が一人乗っている」とスキンヘッドの男に報告する。

 

 途端に男の顔が曇った。

 男の目の前で膝を付く御者に、鋭い視線を落とす。


「……まさか、人身売買か?」

「ち、違う! この馬車の家紋を見ろ! これはここアーウェルン領の領主様の馬車だ! この娘は『水の乙女』候補で、王都に向かう途中だったんだ!」

「……乙女候補だと……!?」


 御者が命乞いに似た声で慌てて身の潔白を訴えたが、男の表情はさらに厳しくなった。

 場を張り詰めた静寂が包む。


 数秒の後、男は大きく息を吐いて静かに言った。


「予定変更だ。荷物と……その女の子も連れて行く。お前場馬と空の馬車を引いて領地に戻り、領主に伝えろ。、と。」


 それはまるで、何か怒りを抑えるかのような声だった。

 

 御者は目を見開くとブンブンと首を縦に振り、さっさと荷台に積まれたすべての荷物とニコラを置いてその場を離れていった。

 心なしか、これまでの旅の工程の時よりスピードが出ている気がする。


 地面に置かれた荷物を、周囲の男達がテキパキと持ち帰っていく様子を、ニコラはぽつんと立ちすくんで見ていた。

 スキンヘッドの男がこちらに近づいてくる。


「……おい」

「は、はい!」

「行くぞ、ここをさっさと離れるんだ。お前もノアラークに乗り込め。ぐずぐずするな」


 男はそう言って、男達が荷物を運びこむ物体の方にニコラを促す。


 まさか、こんなことになるだなんて、村を出た時にはつゆほども思わなかった。

 突然の状況の変化に混乱する暇さえ与えられず、言われるがままに物体に向かって歩を進めるしかなかった。


 ニコラが乗り込み、最後にスキンヘッドの男が乗ってくると出入り口が閉ざされる。

 同時に、パタパタパタと音がし始めたと思ったら、ゆっくりと地面から空へと浮かんでいった。


 ああ、これから私は一体どうなってしまうのだろう……。


 ニコラは促されるがまま、さらに奥へと進んで行くのだった。

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