カーネーション

ヤチヨリコ

カーネーション

 母の日に贈ったカーネーションを、母が捨てた。

 忘れもしない、私が小学校4年生のときのことだ。



 贈ろうと思った理由は、そう大したものではなかったと思う。前日に喧嘩をしたからそのご機嫌とりに、とか、周りがやっているから自分もやってみるか、とか、そういうつまらないものだ。


 カーネーションは前日に近所のコンビニで買った。小学生のこづかいだ、大したものは買えない。結局、買えたのは一輪だけだったけれど、母の日のためのラッピングが施されていたので、少しは不格好に見えないだろうと思えた。


 母の日当日。日曜日だからか、いつもは忙しくしている母も、休みで家にいた。


 いつもは私よりも早くに起きてさっさと仕事に行ってしまうのだが、休みの日は遅くまで寝ている。いっぽう、私は昨日の夜からそわそわしてしまって、いつもより早起きしてしまった。


 空気を入れ替えるために窓を開けると、朝のにおいと初夏独特の若葉の香りが部屋に飛び込んでくる。爽やかな風が頬を撫で、カーテンがぶわりと膨らむ。


 何気なく、なんだか今日はいい日になりそうだと思った。


 カーネーションは、買ったあとの保存状態が悪かったのかやや萎れている。他の色は売り切れていて、このバラのように真っ赤なのしかなかったけれど、買った当初の色鮮やかさは失われていない。これなら、贈っても母は喜ぶだろう。


 朝食は母の好きなフレンチトーストにしよう。キャラメリゼして、表面はカリカリの、中はフワフワ。私も母も大好きな、バターと卵がたっぷりのフレンチトーストに。


 そして、食べ終わったらカーネーションを渡すのだ。母は驚いて、それから喜ぶだろう。母の笑顔を思い浮かべて、私も思わず口角を上げる。


 そうと決まれば、向かうのはキッチンだ。冷蔵庫を開けて、牛乳と卵があるか確認したあと、砂糖壺の中を覗く。8枚切りの食パンは買い置きのものがある。


 エプロンをかけて、さあやるぞと腕まくりをする。


 バットに卵、牛乳、砂糖、バニラエッセンスを入れて、よく混ぜる。こういうときの砂糖は引くほど入れるのが美味しさの秘訣だ。


 食パンは半分に切って、バットの中の卵液に浸す。2分経ったら裏返して、もう2分浸す。


 フライパンにバターを溶かす。このバターの溶けるにおいがたまらないのだ。これが楽しめるのも、ある意味作り手の特権だと思う。


 母の部屋から物音がしたと思ったら、ドアが開いて、母が出てくる。

 

「……何作ってるの?」


 寝ぼけまなこで母が尋ねる。私が「ないしょ」と答えると、母は「そっか」と一言呟いて、洗面所に消えていった。


 ほっと胸を撫で下ろす。材料で何を作っているのかバレそうなものだが、バレなかった。バレてしまったらサプライズ作戦が台無しだ。母が寝ぼけていたことが幸いしたようだ。


 卵液に浸したパンをフライパンに並べ、程よく色づいたところでひっくり返す。両面が焼けたら一度取り出して、追いバターをする。バターが溶けたら、砂糖をふり入れる。この砂糖の量は悪魔的だ。


 甘いものには砂糖が欠かせないのだ。美味しいものは脂肪と糖でできているとは、本当だ。今日はカロリーのことを気にしないようにするしかない。ダイエットは明日からにしよう。


 砂糖とバターがとろとろのカラメルになり、少しきつね色になってきたところに、パンを戻し入れる。それから、カラメルに絡めれば、完成だ。


 私が大声で「できたよ」と叫ぶと、「はーい」と母の声が返ってくる。


 ちょうど配膳が終わったころに、母が戻ってきて、食卓につく。

 私たちはテーブルを挟んで向かい合って朝食を食べた。


「朝からこんな手の込んだもの、よく作るね」


 母はフレンチトーストをナイフで切り分け、口へ運ぶと、顔をしかめた。


「これ、苦い。焦げてるよ」

「焦げてるんじゃなくて、キャラメリゼだよ」


 私が反論すると、母は「食べてみればわかるよ」と言って、トーストをフォークで何度か刺した。そのたびに、サクサクと軽い音がする。母は「やっぱり焦げてる」と呟いて、もう一切れを口に運んだ。


 そんなわけないと思いながらも、おそるおそるトーストを口に含む。まず舌に感じたのは苦みだった。咀嚼しているうちに少しずつ甘みを感じるようにはなるが、やはり少し苦い。


 私がべっと舌を出して、「ごめん、焦がした」と小声で呟くと、母は「でしょ」と得意げに鼻を鳴らす。


 トーストを一口、二口と食べ進めていると、だんだん気持ち悪くなってきた。苦みのせいで舌がしびれる。


 流石に音を上げて、私が「お母さん、ジャム取って」と言うと、母は低い声で「……どのジャム?」と訊いた。私が「いちごジャム」と答えると、眉をひそめて、「なんで?」と尋ねる。


「あんまり苦いから、気持ち悪くなってきちゃって。ジャムかければちょっとはマシになるかな、って」


 リビングに陽の光がさす。ギラギラとした光線がちくちく肌に突き刺さる。


「別のジャムでもいいでしょ」


 母はぴしゃりと切り捨てる。


「いや、他のジャムは、なんていうのかな……気分じゃない、っていうか。私がいちごジャム好きなの、お母さんも知ってるじゃん」


 私は蛇ににらまれた蛙のように身体を縮こまらせて、答える。母はふぅーと大きく息をして、「自分で取りに行けば」と苦々しい口ぶりで言い捨てた。


 それもそうだ、と思い直し、今度は私が立ち上がって、いちごジャムを取りに行く。瓶詰めのいちごジャムはいやに赤かった。どこか毒々しく、なまめかしい。


「あたし、嫌いなの。……いちごジャム」


 わざとなのか、たまたまなのか、聞こえた母の独り言から、そういえば母がいちごジャムを食べているところは見たことがないと気づく。


 トーストにいちごジャムをたらりと垂らす。これでなんとか食べられる。好きなはずのいちごジャム。なのに、不味く感じる。好きなんだから美味しいはずと、むりやり自分に言い聞かせながらトーストを完食した。


 自分と母の分の食器を下げて、いちごジャムの瓶を冷蔵庫に戻す。


 一度部屋に戻り、カーネーションを取りに行く。そして、後ろ手に隠しながら、リビングへと戻る。


 ラッピングのセロファンがカサカサ鳴る。


「ねえ、今日はなんの日?」


 わざとらしく尋ねる。母は苦虫を噛み潰したような顔をして、「なんの日だっていいでしょ」と吐き捨てる。


 これじゃ、シミュレーションと違う。いいや、違って当然だ。なんでもかんでも都合よく行くわけがないのだから。


「今日は母の日! お母さん、いつもありがとう」


 おどけた調子の声を上げて、真っ赤なカーネーションを母の手に渡す。母は呆気にとられ、ぼう然としていたが、私が「今日って母の日で合ってるよね?」と尋ねると、一輪だけの花束をにらみつけ、見たことがないくらい顔を歪ませた。


 気づけば、床に花びらが散らばっていた。この日のために飾られたその姿は、今となっては滑稽に思える。贈る人、贈られる人の笑顔が花の目的だったはずだ。だが、どうだ。花は、無残な死体となった。日頃の感謝を伝えるために贈るには、ふさわしいものだろうか。もはや、そうではない。


 何が起こったのか、誰がやったのか。それは明白だった。母は自分が何をやったのか気づくと、「ごめんなさい」とヒステリックに叫んだ。狂ったように「ごめんなさい」「ごめんなさい」と繰り返す母は、母でないように思えた。


 なんとか宥めて、落ち着かせると、母は「ごめん」と呟いた。


「私、『ごめん』って言葉が聞きたいんじゃない」


 思わず、突き放すような言い方になってしまった。母は真っ青になって、私の肩を強く掴む。


「『ごめん』はもういいよ」


 母の手を払い除けると、母の顔は絶望に染まった。


「許すとか許さないとか、そういうんじゃないの。ただ、事情が聞きたい」


 私がそう言うと、母は子供みたいな顔で泣き出した。


「あたしのお母さん……あんたのおばあちゃんも同じことをした」


 母は嗚咽交じりにそう切り出すと、ぽつぽつと話し始めた。



 母も私と同じくらいのときに、母の日のサプライズを計画したのだそうだ。父親、つまり私の祖父と二人で花束を買って、その日が来るまで隠していた。


 母の日当日の朝には、フレンチトーストを作った。キャラメリゼして、表面はカリカリの、中はフワフワ。家族全員が大好きな、バターと卵がたっぷりのフレンチトーストを。だけど、失敗した。キャラメリゼのカラメルを焦がしすぎてしまったのだ。


 祖父は何も言わずに食べた。母も、自分が作ったものだから、と我慢して、頑張って口に詰め込んだ。だが、祖母は一口食べると、「不味い」と言って、いちごジャムをかけて食べた。


 自分が殺された、と母は思ったそうだ。美味しいと笑顔で食べてもらいたいという自分の気持ちを、鮮血のようないちごジャムに汚された、と。


 それから、母は隠しておいた花束を、祖父と二人で祖母に渡した。母親は「ありがとう」と微笑み、大事にしたいからと部屋に持っていった。それ以来、花束の姿を見ることはなかったという。母は、祖母がドライフラワーにでもしているのだろうと思っていた。


 あるとき、母は祖母の寝室に入ったらしい。


 寝室にはバラが一輪だけ飾られていたそうだ。

 真っ赤な、真っ赤な、激しい恋の色。


 それ以前に、祖父と祖母の寝室が別れたことで、それに気づけばよかった、と言う。


 母は最悪の形で気づいてしまった。自分と父親が贈った花束が、ゴミ箱の中に打ち捨てられていたことで。


 ああ、母さんは自分たち家族以外に好きな人がいるのだ。

 うす赤いカーネーションが、ゴミ箱の中で朽ちていた。



 その後、祖母は出ていき、母は赤が嫌いになった。血のようないちごジャム、いやらしい色のバラ、薄汚れたカーネーション。ぜんぶ、ぜんぶ、大嫌い。母は子供みたいに泣いていた。


 私は気づいた。母は自分の母親に愛されたかったのだ、と。

 そして、たぶん、私の愛はそこにはいらない。


 花の残骸をゴミ箱に放り込んで、蓋をした。



 以来、我が家に母の日は来ない。

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