或る店
しーた
1.
神保町ほど雑多な街もそうはあるまい。街ゆく人は忙しそうに過ぎて行ったり、はたまた気ままに散歩をしている風であったり、腹をパンパンに膨らませて苦しそうであったりさまざま。街が雑多だから人も雑多になるのか、はたまた人が雑多だから街も雑多になるのか、定かではないし正直どっちだろうが知ったこっちゃない。ただまぁとにかく神保町ってのは雑多にすぎる。
いつものように用事もないのに田村書店に立ち寄った。神保町駅が最寄りの書店にわざわざ新御茶から歩いて通うのももう何年になるか。午後休の金曜日にふらっと訪れるのが習慣になっていた。わたしの名誉のために断っておくと、この書店には本の似合う少女店員はおろか女性客すら滅多に訪れない。ただ西洋の古本と腰の曲がった店主と古い紙の匂が充満しているのみである。静謐を纏ったこの狭い箱はある種の聖域を構築していた。
平日のこの時間に古本屋に入り浸るような暇人は少ないようで、わたしの他には店主が店の奥で新聞を読んでいるのみだった。ところどころしか読めないような洋書を閉じたり開いたりしながら暫く過ごす。
「おやじさん、もういい年だろう。息子に譲ったりしないのかい」
「そんな息子がいりゃあこんな老いぼれとっくに引退してるだろうよ」
確かに通い始めてこのかたおやじさん以外の従業員を見たことがない。まさか金曜日だけシフトを絶対に入れないなんてこともあるまいし、1人で切り盛りしてるんだろうか。本屋というのは若い男でも苦労するような重労働だと聞き及ぶ。それをおやじさんの歳で(具体的に何歳なのかは知らないが)こなすのがいかに大変かは想像に難くない。
「息子もいるにはいるが奴は奴で立派に会社員やっててな、今どき息子だからって無理に継がすようなもんでもなし。老体に鞭打ってなんとかやってんのさ」
俺としちゃこの店継いで長く続けてほしかったがね、と小さく続けたその声は私以外の誰かに向いていた。私には返すことのできない言葉がおやじさんとの間で宙に漂う。
「ま、こんな店でも有難がってくれる人がいるから何とか続けようって気にもなるもんさ」
「わたしとしては長く続いてほしいですけどね~。もちろんおやじさんの無理のない範囲で」
「そんなこと言ったってアンタ毎週来る割に碌に本買っていかねえじゃねえか。ああいや別に怒っちゃねえんだけどよ」
「わたしにとってはもう『古本屋』ってよりは行きつけの居酒屋みたいな感覚ですから」
「なんだいそれは」
言葉とは裏腹に声音はひどく優しい。相変わらず新聞を読んでいるせいで表情をうかがい知ることはできないが、それでもありありと想像できた。
「それじゃおやじさん、そろそろ失礼します」
手慰みに開いていた書を閉じて棚に戻す。
「ありゃ、今日はずいぶんと早いじゃねえの」
「最近ちょっと課題だの就活だの、やらなきゃいけない事が多くって」
そう言って店を出、ひとつ大きな溜息をつく。定時上がりのサラリーマンが増えたのか街はさっきよりも賑わっていて、それが少し心躍るような、物寂しいような。
週休4日のこの店もあと何年通えるだろう。そんなことを考えながら、夕暮れの雑踏をゆく。
或る店 しーた @takeno_6ta
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