影の名誉

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影の名誉

 夜の道端で、老人が苦しそうにしていた。

 両膝をつき、塀に寄りかかっている。

 そこに一人の若者が遭遇した。

 薬学部所属の大学生で、植松うえまつまもると言った。

 自信の無さが表情だけでなく、全身の雰囲気として滲み出ていた。その為、異性に好かれることもなく、年齢そのものが彼女居ない歴だ。

 ただ、心根は優しく人当たりも良い。

 護は老人を慌てて助け起こす。

「大丈夫ですか?」

 老人は苦しそうにしていたが、水が欲しいと言う。

 護は、すぐに近くの自動販売機でペットボトルの水を購入すると老人に与えた。

「ありがとう。あんたは、親切な若者じゃのう」

 老人は護を褒めるが、彼の表情は浮かない。

「どうしたんじゃ」

 問われて護は答える。

「いえ。実は就職活動中の大学生なんですが、面接に行くたびに面接官に否定的なことを言われてしまって……。その程度の学力でよく大学に入れたなって。あなたは、価値の無い人間です。と言われて、正直何のために生きているのかと思っていたところです」

 それを聞いた老人は言う。

「酷いな。あんたの人生に価値があるかどうかは、会って数分の奴が決めるもんじゃない。少なくともワシは、あんたに生きて欲しいと思うぞ」

 その言葉に、護はホロリと涙を零した。

「ありがとうございます」

 護が言うと、老人は一枚の券を取り出す、《人生近道クーポン》と書かれていた。

「これを、あんたにやろう。この券を使えば、人生のあらゆる事を過程を飛ばして望んだ結果だけを残すができる。例えば、カップ麺で使えば、お湯を注いで3分待つことなく蓋を開けると同時に食べられるということじゃ。ただし一回しか使えんから良く考えて使うことじゃ」

 そう残して老人は、どこかへと去って行った。

 券を手に護は呟く。

「過程を飛ばす?」

 六畳間の安アパートで、護は券を見つめる。

「……僕は、今の研究で成功したい」

 そう願って護は券をモギッた。

 その瞬間、護の意識は失われた。


 ◆


 ドアを叩く音で、護は目が覚める。

 いつもの安アパートの一室。

 カレンダーをみると8月だったのが、同じ年の10月に変わっていた。単純に2ヶ月も飛んだことになる。

「まさか、本当に……」

 いぶかしながら玄関を開けると、スーツを着た身なりの良い男性が居た。あいさつを交わし、男は護に告げる。

「おめでとうございます。植松護様の大学で行っているガンの治癒率を飛躍的に向上させる研究について、ノーベル医学生理学賞の受賞が決定しました」

 護は驚き、そして喜んだ。

 そこからの護の人生は一変した。

 マスコミからの取材申し込みが殺到し、研究室には連日のように企業からの来客があり、研究成果に関する問い合わせが相次いだ。

 護の研究をバカにし、就職先が見つからないことを笑っていた大学の同級生たちも手のひらを返すように態度を改め、祝福してくれた。

 街を歩けば、複数の女性の方から声を掛けてくるようになった。

 企業から就職のオファーが次々と舞い込むようになり、その中には、護のことを「価値のない人間」と嘲笑った企業の面接官の姿もあった。

 全ては、あの老人のくれた券のおかげだ。

 だが、護は思い悩んだ。

 自分は何の努力もしないで名誉を手に入れたことに。

 何かが違う気がすると。

 このままいけば、自分は世界的な研究者として名を馳せることになるのだから。

 しかし、心の中に生まれた小さな違和感は拭えない。

 確かに、これは自分が望んだことだ。

 だが、違う。

 何かが間違っている。

 と。

 12月にスウェーデンでの授賞式を終え、帰国した護の前に、あの時の老人が現れた。

「あの記者会見はなんじゃ? 1億3千万の賞金を被災地に全額寄付じゃと。金を手放すどころか、お前自身の研究を大学研究室の名誉にするとはどういうことじゃ」

 護は答えた。

「あの研究成果について、僕は何の努力もしていない。だから、僕が受け取るべきものじゃないと思ったんです」

 護は言った。

(――そうか。これが僕の欲しかったものか)

 その時、護は自分の心の中にある、小さな違和感の正体に気づいた。

「ふふ。今更、聖人気取りか、この人殺しめ」

 あの温厚そうな老人は、人格が変わったように護に舌を伸ばした。

「人殺し……」

 その言葉に護は衝撃を受ける。

「僕は人殺しじゃない」

 否定する護を老人は責める。

「いいや。お前は人殺しだ。家族の絆を引き裂き、助けを求める者を殺した。そんな、お前が、努力もしないで得た名誉で増長し、金や女、酒に溺れて堕落し、破滅するのをワシは待っていたのだ! 惨めで哀れになり、ゴミクズのように落ちぶれ世間からうとまれるのを見れなくて残念だよ」

 老人は表情に影を落とし、せせら笑った。

 その表情は醜く歪んでいた。

「あなた……。お前は、何者なんだ?」

 護の問いかけに、老人は護の脇をすり抜けながら言った。

「生き残りじゃよ。お前が実験に使ったな」

 振り返った護の目に映ったのは、一匹の小さなマウスだった。

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