スライムとサラリーマン

@animanman

怪獣と勇者


 僕の名前はアルス・グラディオ。九年前に転職して以来、東京のとある商社に勤めるごく普通のサラリーマンだ。


 ちょっと変わった名前だけれど、変わっているのはそれくらい。僕と他の同僚との間に違いなんてほとんど無い。給与も、成果も、やり甲斐も、感じるストレスだってそう変わらないだろう。ただ、一つだけ彼らと僕には明確に違う点がある。


 それは、僕の出身が異世界だということだ。




 けれど実際のところ、僕の故郷がどんな世界だったかについてはあまり語る必要が無いように思う。何故って、日本には僕が居たのと同じような世界を扱った作品が沢山、それこそ嫌になるくらい大量に存在しているんだから。「異世界」と言われてパッと直感的に思いつくようなパブリックイメージ。それが僕の故郷だと思ってもらえれば構わない。それでも具体的なイメージが付かないなら、「魔王の脅威に怯えていた剣と魔法の世界」とでも言えば分かりやすいかな? もっとも、僕の世界を襲っていた魔王は十二年前に勇者が倒してしまったから、もうすでに物語のスポットが当たるような世界ではなくなってしまっているけれど。


 そんな異世界、名を「エイクシア」に住んでいた僕が、どうして日本の商社マンになっているのか? 話はそこからだ。




 十一年前。勇者が魔王を打ち倒してからは一年の月日が経っていて、魔王被害からの復興もある程度進んだエイクシアはようやく穏やかな平和を享受していた。


 そんな時期に、王政議会に所属する学者の一人はこんな提案をした。


「我が国の魔術によって観測された数多の世界。そこにはきっと我らの知らぬ文化が、知識がある。どうかね。平和になったこのエイクシア、ここは一丁、異文化交流に精を出してみるのは」


 学者の意見には賛否両論が出たけれども、結局この発言は可決された。人間、どんな時代にあろうと未知への好奇心は尽きないものらしい。


 エイクシアの人々は『宇宙』の『地球』の『日本』に目をつけた。なんでこの世界に? との問いに学者先生が答えるには、「我々の文化を最も抵抗なく受け入れられるであろう世界だから」だそうだ(僕も日本に来てから『ライトノベル』を読んで深く納得することになる。どこが光っているのかはよくわからないけれど)。目標を定めたエイクシアは、早速日本へとコンタクトを図った。


 それからおよそ二年の歳月をかけて、宮廷魔術師や歴史学者を中心に準備による準備を重ね、折衝による折衝を重ね、ついには『レティア地方・荒野エリア』(エイクシアの地名)と『東京都・練馬区』との間に第一の異界間四次元圧縮移動装置……通称『ポータル』が開くこととなったのである。


 そのポータルを通って日本にやってきたエイクシア住人の第一団、その一人がこの僕、アルス・グラディオだった。


 僕はエイクシアとはまるで違う日本の風景に心底驚かされた。山岳の一ツ目巨人よりも大きな建物が数え切れないほど天を支えるように屹立し、ランドリザードよりもよっぽど速い鉄の塊がそこらじゅうをビュンビュン走り回っている。僕にとってはどれもこれも新鮮なことこの上なかったが、何よりも僕の心を掴んだのは高いところから眺める夜の町並みだった。幾千幾万もの数えきれない光が星のように煌めき、自分の眼前にある。その光景はエイクシアでは決して見ることの出来ないものだった。


 かくしてこの世界に心を奪われた僕は、エイクシア人が日本での観光・労働を許可されるなりすぐに働き始めたのである。




「あら? アルスさん、お疲れですか?」


メリス総合商社。その商品企画部オフィスにて、僕は後ろから声を掛けられる。振り返れば、そこには同僚の玄野真代(くろのまよ)さんがいつも通りの柔和な微笑みを浮かべて立っていた。柔らかなひとつ結びを肩から流しており、深緑色のベストと黒いタイトスカートが彼女の落ち着いた雰囲気を演出している。


 その肩には、ソフトボールほどの大きさのスライムが乗っていた。穏やかな玄野さんの気質を表すかのように真っ白なそのスライムは、ともすれば新雪を丸めて作った雪玉のようにも見える。それを否定するのは、やはりぷよぷよと不定形なその半流動体フォルムと正面に付いた二つのつぶらな赤い瞳(彼女のスライムはアルビノ個体だ)。僕の形に乗っているメタリックグレーのスライムも、黒い瞳をパチクリさせて(僕のスライムは通常個体だ)彼女のスライムに挨拶をする。


「ええ、また上司に火ィ吹かれまして」


 僕はなるべく悲壮に聞こえないように「まあ、知り合いの魔女よりは幾分マシですけどね」と笑い話めかして返す。玄野さんはそれでも「またですか」とその眉尻を下げて困ったような表情を作る。


「お昼、一緒にどうですか?」


「ええ、是非」


 気分転換にと気遣ってくれたのだろう。彼女の誘いにありがたく乗り、共にオフィスを出た。


 ところで、先程言っていた「火を吹かれた」というのは半分は比喩だが、もう半分は事実である。上司である火野正隆(ひのまさたか)は良くも悪くも仕事人間であり、本人の業績は優秀なのだけれど、その分己と同じだけの成果を他人にも要求しがちで、そのくせ指示は雑で大雑把だから部下としては困ったものだ。今日も火野山(さん)は部下へと下す指示が不明瞭で、僕がそれに対して確認の伺いを立てたところ当然の如く噴火した。それと同時に、炎を半固形にしたような彼のスライムも実際に火の粉を振りまいて、あるじ共々憤懣やるかたないといった様子を見せた。僕が百パーセント悪いわけではないとはいえ、やはり上司から怒られるというのは気が滅入るものだ。


 適当な定食屋に入った僕と玄野さんは、互いに仕事の(主に上司の)愚痴を言いながら頼んだメニューを待つ。僕はとり天定食、彼女はうなぎ御膳だ。


「随分奮発しますね」


 僕が言うと、玄野さんは「ええ」と頷いた。


「午後のお仕事に向けて精を付けなきゃ、ですから。なぜだか最近、よくお腹が減るんですよね~。体重増えたらどうしましょう~?」


「玄野さん、全然細いじゃないですか」


「もう、そんなこと無いですよっ。私、意外とお肉がついてむちむちなんですよ……恥ずかしい」


 腹や腰回りに手をやって言葉通り照れ笑いを浮かべる玄野さん。こういうちょっと隙があるような仕草や態度が、社内の男性社員には密かに人気があるようだ。


 ちなみに、僕と親しい唐澤という同僚も密かに彼女に気があるようで、時折「約得野郎」とからかってくることがある。僕は「なら、君が彼女をデートにでも誘ったら?」と提案するのだが、それを伝えると彼は決まって「バッカお前、そういうんじゃねえだろお前バッカ」とバシバシ背中を叩かれるのである。意味がわからない。彼女とは入社時期が近く、僕がこちらの世界の文化に馴染むまで色々と教えてくれていたので何かと一緒にいることが多かっただけだ。




 食事を待っている間、適当に社内コンペの打ち合わせをする。テーマは『スライムの捕食行動による同一化を生かした商品』。話し合いが煮詰まってきた頃合い、玄野さんは自身のスライム『マシロ』(真代という名を文字ったらしい)をむにむにといじりながら「それにしても」と呟いた。


「不思議ですよねえスライムって。私が子供の頃は、スライムと言えば水とノリとホウ砂水で作るおもちゃだったのに、今では動くのが当たり前なんて」


「まさか僕も、動かないスライムがいるなんて思いもしませんでしたよ」


「今や現代人の必需品ですもんね」


「それを作るのが僕たちの仕事ですよ」


「確かに」


 食事が運ばれてきた。僕たちは互いに「頂きます」をして会話を続ける。


「何と言っても、スライムの一番面白い所は『超雑食』であるところですよ。草や木の実を好んで食べる個体もいれば、肉を好むものもいる。石や鉄といった無機物から、中には電気や火みたいなエネルギーを食べる個体も珍しくない。でも、僕たちが目をつけたのは」


「まさか人間の感情まで食べちゃう子がいるなんて驚きですよね~」


「それです。僕も驚きました」


 そう。玄野さんが言うように、僕たちの肩に乗るスライムはその全てが感情を食べるスライムだ。もともと感情を食べるという特質を持つスライムはエイクシアに存在しない。たぶん、スライムを構成する魔力がこの世界に適応して新たな特質が生まれたのだろう。とまれ、僕たちの勤めるメリス総合商社のメイン商品は、このスライムに他ならない。


 スライムはもとより大人しく静かで、自らの食欲以外を満たす以外には積極的に動かない。食べたものは全てスライム自身のエネルギーになるので排泄もせず衛生的だ。そんなスライムが感情を──それも、特定のものを──食べるようになると、人間はいつでも怒りや悲しみと言った感情を好きにスライムに食べさせ健やかな精神を保つことができる。このハイストレス社会の昨今、画期的な『ストレス解消グッズ』であるスライムは飛ぶように売れた。おかげでメリス総合商社は発展の一途を辿っている。


 中には、動物愛護団体の一部から生物倫理を問題視する声もあったが、そもそもスライムは『生物』ではない。空気中の魔力が集まっただけの『現象』と呼んだほうが適当だ。エイクシアの人間にとっては常識だが、モンスターや魔法に馴染みのないこちらの人間は動いて意志があるように見えるとどうしても生物に見えてしまうらしい。異文化ゆえのカルチャーギャップというやつか。


「ごちそうさまでした。あーお腹いっぱい!」


 和やかな談笑の中、うなぎ御膳を食べ終えた玄野さんはなんと二杯もご飯をお代わりしていた。僕はびっくりして、よっぽど「よく食べますね」と声を掛けたかったけれど、女性にそんな事を言うのは流石に躊躇われたので満足そうな笑顔を見せる玄野さんに微笑みかけるだけに留めた。彼女は僕の視線に気づくなり、慌てたようにこう言った。


「ご、ご飯のお代わり無料だったんです……! つい、どうせならと思って……あーそんな目で見ないでくださいよお。恥ずかしい、忘れてください!」


 残念ながら、彼女の期待には添えなさそうだ。


 昼休みは、玄野さんの意外な一面を知って終わった。いっぱい食べるのは良いことだ。




 午後の業務は火野さんとの外回りだった。今日の火野さんはいつにも増して気分が乱高下しており、ちょっとした刺激ですぐに噴火した。おかげで、上司を助手席に載せた社用車は彼のスライムが定期的に爆ぜたり吹いたりした火の粉で煤けてしまっていた。どうせ、これを掃除するのも僕なんだろうなあ。車を汚したりしたら、庶務に怒られるのは貸出申請をした僕なのに。


 火野さんの機嫌を取りつつ、難しい商談をまとめるのは大変に骨の折れる作業だった。しかし、そんな苦労も肩のスライムが逐一食べてくれ、僕の精神衛生状態はそれほど悪くない。いくつかの企業や事務所を周った後、本社に帰りがてら、彼のスライムの透明度が高いことを確認して(スライムは感情を消化しきれないと色が暗く滲んで透明度が下がる。火野さんの場合、機嫌がいいときは鮮やかなバーミリオン、悪いときは濁ったオクサイドレッドだ)僕は聞いた。


「火野さん、何かありましたか?」


「何って?」


「あまり気分が優れないようですが」


 本当は「機嫌が」と言いたかったが、そう言うとあまりに露骨でまた怒らせてしまうだけだ。「気分が」と言っておけば一応は上司の体調を慮る健気な部下の体裁を保つことが出来る。火野はリクライニングを倒した助手席で憮然としたまま「まあな」と呟いた。ちらりと横目で見やる。スライムの色は変わらない。僕は目論見が外れなかったことに安堵し、運転に疲れて深呼吸するような仕草でさり気なく「ほッ」とため息を付いた。社会人のテクニック、顔色伺いならぬスライム伺いだ。


「あんなぁ、ケルディオよぉ」


「グラディオです」


「ここんところ出張続きだったろ? 俺。こないだ久しぶりにウチ帰ってよ、朱里(あかり)に会ったんだよ」


「朱里……ああ、娘さんですね」


「おうよ。んで、俺の顔見た朱里の一言目、何だと思う?」


「『おかえり?』」


「いーやッ、『いつ会社行くの?』だ! そんなン無いだろう!? 俺だってあいつを食わそうと頑張ってんのによぉ。上は現場無視の数字至上主義、下は気の利かねえボンクラ共の中必死に! クソ不味いハンバーガーのパティの気持ちを、お前知ってんのかよぉ!?」


「知りませんよそんなの」


「何だとぉグラードン!」


「グラディオです」


 酒も入っていないのにうだうだと管巻き始める火野さん。今日はもう噴火しすぎてエネルギー切れみたいだ。心なしか、彼のスライムもひと回り小さく見える。


 正直、めんどくさいしうざったい。だが、どうにも彼のことは憎みきれない。そりゃ、仕事の指示は不明確だし、自分本意なところもある。やかましくて直情的でやや時代錯誤気味だ。けれど、僕に仕事のやり方を教えてくれたのは火野さんだ。それに、どこまでも真っ直ぐで家族を心から愛していることを知っている。会社という巨大な組織の中で揉まれることの辛さも、この九年で嫌という程理解した。それに、本人は隠しているつもりだろうけど、火野さんのスマホの待受は家族写真だし、画面ロック解除のパスワードは朱里さんの誕生日だ。


 上司としての火野さんは好きではないが、人間としての火野さんは尊敬できる人物だと思っている。そこのところを上手く割り切れるほど、僕はまだ大人になりきれてはいないけれど。


 夕焼けを反射するビル群の中を突き進む車内で、火野さんはこんなことを零した。


「そういや、お前あの噂知ってっか?」


「噂?」


「関町の方で最近夜中に不審者が出るんだってよ。なんでも、全身真っ黒でめちゃくちゃ怪力らしい。電柱がなぎ倒されたとかでよ。監視カメラにも映ってたみたいだぜ」


「えー、それは怖いですね」


「だろ、あっちには朱里の通ってる学校もあるんだ。心配だぜ……」


 いつになく神妙な面持ちで顎に手をやる火野さん。


 この時、僕は愚かにもそれを単なる世間話程度にしか捉えていなかった。




 あれから数週間。


 火野山は相変わらず活火山で、その割を食うのはいつも僕だった。どういうわけだかここ最近の火野さんの荒れようは凄まじく、スライムも体中を駆け巡ってろ過されていない血液のように赤黒く濁っていた。いくら慣れているとは言え、その状態の火野さんに付き従うのは僕もカリバ(僕のスライムの名だ)がいなければ大分きついものがあった。そのカリバも、感情の割りを食ってやや黒ずんでいる。


 そんな中、驚きの白さを誇るのがあのアルビノ種、赤目の雪玉ことマシロだった。いつ見ても愛玩ウサギのように純粋な心持ちを示しているそのスライムの持ち主は、今日も今日とて笑顔で話しかけてきた。


「あ、アルスさん。聞きました? また『魔獣』が出たんですって。怖いですよねえ」


 いつしか、不審者の噂は魔獣の噂へと上書きされていた。夜のある時間にだけ現れ、真っ黒な体と桁外れた怪力で街を荒らし回る存在。初め目撃されていた頃は確かに人の形を取っていたようなのだが、今ではどう見ても人間には見えない異形の姿をしているようだった。僕も何度かネットニュースなどでその魔獣と思われる写真を見たのだけれど、なるほど確かにそれは人間と呼ぶにはあまりに獰猛な姿で、理性の欠片も感じられなかった。刺々しい甲殻に身を包み、四足で夜闇を駆け抜け圧倒的な膂力で手当たり次第に街を破壊する姿は、正しく魔獣と呼ぶに相応しいものだった。


「何か、山から野生動物でも町に降りてきちゃったんでしょうか」


 そう推論を口にする玄野さんだったが、僕は「いいや」と頭を振って否定する。


「アレは多分、この世界の生き物じゃないと思います。ネット上に上がっている動画や画像は画質が荒くて詳しくはわからないけど、どっちかと言えば『こっち』のモンスターに近い感じがしますよ」


「モンスターなんて……」


 玄野さんは怯えた様子で身をすくませる。彼女の反応は至極真っ当だ。モンスターは野生動物よりもよっぽど凶暴で好戦的だし、剣も魔法もない日本ではエンカウント=死だろう。それでも、生物であることには変わりない。習性はあるはずだ。


「魔獣は夜にしか目撃されていません。それも、八時から十二時くらいの限定された時間にしか。きっと夜行性なんでしょう。走ったり壊すのに多大なエネルギーを使ってしまうから、活動時間がそんなに長くないんだと思います。その時間を避けていれば、とりあえずかち合うのは避けられると思います」


「……随分、お詳しいんですね?」


「まあ、前職で色々とエイクシア全土を飛び回っていたもので。ワープ魔法は意外と限られた場所でしか使えないので、身を守るのに知識は必要不可欠でした」


 もっとも、魔獣がモンスターだと決まったわけじゃないですけど、と一応注釈を入れておく。僕の早とちりという可能性も無くはない。


「大変だったんですねえ」


 どこか他人事のように呟く玄野さんに僕は肩をすくめてみせた。


「今も十分大変ですよ。コンペとか、外回りとか……」


「おいどこだグライオン!!」


「……火野山大噴火とか」


「ああ……」


 同情的な笑みを浮かべる玄野さん。僕は彼女を火砕流に巻き込まぬよう彼女に背を向けて火野さんの声がした方へ向かっていった。


「グラディオです!!」


「……」


 僕が背を向けたタイミングで、玄野さんがなにか言ったような気がしたけれど、火野さんの大声にかき消されて上手く聞こえなかった。




 夜。激務を終えた僕は、オフィス屋上にて夜風を浴びていた。肩にスライムはいない。カリバは今、僕の眼前で不規則的に身体から鉄棘を生やしては引っ込め、生やしては引っ込めてを繰り返し、まるで胎動する剣山のようにうごめいていた。


 これは『発散』だ。感情を食べきれず、消化不良を起こしたスライムが見せる代謝に近い反応である。形態や身体組成の変質を意図的に行うことにより、魔力を過分に消費して処理しきれないエネルギーを外界に逃がす。発散の方法はスライムによって千差万別で、カリバの場合は身体を鉄に変えるのが最も良いらしい。火野さんのスライムがよく火を噴くのは、それだけ発散を必要としていることの証左でもある。


 カリバが発散している今の状況が示すのは、僕がただならぬストレスを今日一日で抱えてしまったという事実。スライムに感情の一部を切り離してなお、溜まった疲労と心労は抜けきらない。僕は転落防止の柵に寄りかかりながら、煌めく夜の町並みを見下ろし大きく溜息をついた。初めはあれだけ魅力的に思えた都会の夜景も、慣れてしまえば何のことはない日常の一風景に過ぎなかった。同じものを見ているはずなのに、こうも味気なく感じるものか。


 ひとり、ぼんやりと取り留めのない思考に揺蕩っていると。


「よう、センチメンタルかい?」


 背後の屋上通用口から、聞きなれた気安い声が飛んでくる。僕は振り返らずに応えた。


「瀟洒な挨拶だね、唐澤。似合わないよ」


「ハッハッハ、言うじゃねえかよグラディオ。今日は大変だったな」


「お互いね」


 僕の隣にやってきた唐澤は「失礼するぜ」とタバコに火を付けた。さも美味そうに煙を吐く。


「やっぱ直属の部下は大変だろ? 今日の噴火の矛先、ほとんどお前だったもんな。変な所で頑固だからお前狙われちまうんだよ」


「まあね。だから帰る前にカリバを発散させとこうと思って。でも、大変だって言うなら唐澤もだろ? 残業、無理してないか?」


「お気遣いどーも。やっぱモテる男は違うねぇ、惚れちまいそうだぜ」


「君が惚れてるのは玄野さんだろ」


「お前なあ······ほんとお前、鈍いんだよ。そういう所だぞお前」


「なんなんだよ、気持ち悪いな」


 他愛もない話をしていると、唐澤はふと思い出したように顔を上げた。


「ああ、そうだ。最近、火野サンの荒れようが酷いだろ。アレ、なんでか知ってっか?」


「……さあ、知らない。忙しいからじゃない?」


「俺もそう思ったんだがよ、どうやら違うらしい。見てみろよ、これ」


 唐沢は自身のスマホを操作し、こちらに見せてきた。画面には近隣の地図が表示されていて、各所に赤丸で印がつけてある。


「これは?」


「最近話題になってんだろ。ほら、『魔獣』だよ」


「ああ」


 僕は声にもならない声を漏らして得心する。先週は四件、今週は七件。魔獣の目撃頻度は日に日に増えている。唐沢のスマホに表示されているのはその発見場所だろう。練馬区のやや西側を中心に分布しており、中でも関町周辺に目撃情報の密度が高いことが読み取れる。しかしだ。


「これと火野さんに何の関係があるんだ?」


 魔獣のニュースと火野さんの機嫌に因果関係が見つけられず、僕はそう問うた。唐沢は「あー」と唸り、言った。


「魔獣は関町あたりで沢山目撃されてる。ニュースで言うには、その辺が魔獣の縄張りになってて、建物なんかも壊しちまうから、周辺住民には避難勧告も出されてるらしい」


「それで?」


「忘れたかグラディオ。火野サンの家族は関町に住んでる」


「!」


 瞬間、僕の脳内にはいつだかの会話がフラッシュバックする。 




『関町の方で最近夜中に不審者が出るんだってよ』


『あっちには朱里の通ってる学校もあるんだ。心配だぜ……』




「成程ね」


 隣の唐沢に、というよりは自分自身で感情を咀嚼するように呟いた。火野さんが仕事中、いつになく不安定でイライラしがちだったのは、家族の身の安全を憂慮して気が気でなかったからか。理由を知ったところで、僕が火野さんから理不尽な圧力を受けていた事実は変わらない。感じたストレスも変わらない。当然、納得はできない。


 でも、理解は出来る。


 僕の故郷は、今でこそ平和だとは言えほんの十数年前は市井を我が物顔でモンスターが闊歩していたのだ。ただ日々の暮らしを平穏に営むことすら許されない環境。それがどれほど人の神経をすり減らすかは、僕だってよくわかっているつもりだ。




 オオ ……オ……。




「あん? 何だあ?」


 僕がかつてのエイクシアに思いを馳せて火野さんに同情を覚えていたとき、唐沢が急にきょろきょろと辺りを見回し始めた。


「どうした?」


「イヤ、今何か叫び声みたいなのが聞こえたような……」


「叫び声?」


 聞き返した僕に答えたのは、唐沢ではなかった。




 ────オオオオオオオオオオオオオオオオ!! 




「うおおおお!?」


 轟音。それは例えるなら、一瞬の雷鳴を引き伸ばして連続させたような音だった。その振動で地をも揺るがすほどの重圧は正しく怒りの擬音化。唐沢はその音に驚き伏せたが、僕は違うことに気を取られていた。


「停電……?」


 屋上から見下ろす夜景は不完全で、街の一部にポッカリと深淵への深穴が空いたようだった。停電したエリアはそれほど離れていない。方向は……関町方面だ。その暗闇の中心で、大きな黒いものが動いたのが微かに見えた。そう遠くはないとは言え、ここから存在を確認出来るのだから相当な大きさだ。その上部には二つの赤い光。光が二、三度瞬くと、『そいつ』は吠えた。




 グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!




「何だよ、何だってんだよ!? まさかあれが魔獣だってのか? あんなん……あんなん怪物じゃねえか!!」


 唐沢はすっかり取り乱している。兎も角、僕は彼の正面に陣取った。彼の顔を左手でむんずと固定し、僕の方を強制的に向かせる。右手で自身の両目を示し、次いで唐沢の両目を示す。「僕の目を見ろ」のジェスチャーだ。


「落ち着け唐沢。大丈夫だ。心配ない。ゆっくりと深呼吸をするんだ。出来る限りでいい。吸って……吐いて……よし、大丈夫だ」


 深呼吸の甲斐あってか、彼の優秀な理性は比較的すぐに落ち着きを取り戻した。自分自身に活を入れるようにピシャリと頬を叩いた唐沢は、「悪ぃ、パニクった」と僕に頭を下げた。


「気にするな。仕方ない」


「おう……ってグラディオお前、やけに落ち着きすぎじゃねえか?」


「そう見えるだけだよ。僕は鈍いからね」


「嘘つけ!」


 鈍い、というのは冗談にしても、落ち着いているように「見えるだけ」というのは本当だ。僕がこうして冷静な外面を保っているのは、ひとえに前職での経験によるところが大きい。唐沢は気づいていないかもしれないが、僕の手には汗がびっしょりだし、鼓動は早鐘を打って今にも胸を飛び出してきそうなほどだ。身体反応には僕の動揺が如実に現れている。


 僕がやっているのは、そう。恐怖や驚愕を意図的に隠しているだけ。もっとシンプルに言えば見栄を張っているだけ。前職は見栄っ張りでないと務まらない仕事だったから、自然とそれが習慣づいて九年たった今でも身体がそれを忘れない。


「にしても……玄野さんは大丈夫だろうか」 


 ぽつりと独り言ちた唐沢の言葉を僕は聞きとがめた。


「玄野さん?」


「そうだよ。彼女、今日は午後から具合が悪いって早退したんだ。ちょうどお前が火野サンにしこたま怒られてる時だな。あのアルビノのスライムも驚くくらいドス黒くなってて心配したんだけど、『まっすぐ病院に行くので』って」


「病院……」


 思い返す。午前中、僕は一度玄野さんに会っている。その時の彼女は至って普段通りだった。顔色も悪そうには見えなかったし、いつも通り穏やかな笑みで話しかけてきた。魔獣のニュースに怖がっている様子は見せていたけれど、それは別に健康だって心配して然るべきだ。それに、朝彼女に会った時のマシロは文字通り真っ白だった。僕のカリバでさえ一日掛けてやっと発散レベルなのに、半日で『ドス黒く』なんて目に見えてわかるほど変色するものだろうか? 一体、どんな理由があればそんなことになる?


 いや、それよりも。 


「唐沢……玄野さん、何の病院に行くか言ってたか?」


「確か…‥メンタルクリニック行くって」


 最悪だ。 


「唐沢、ここから最寄りのメンタルクリニックは関町方面だ」


「うぇ、まじかよ!!」


 最悪の推論が導き出せてしまう。


 もし彼女が本当に、半日でマシロを真っ黒に染め上げたのなら。


 もし彼女が本当に、最寄りのメンタルクリニックに向かっていたのなら。


 彼女のスライムの発散行動は、関町周辺で起こる可能性が極めて高い。


 スライムの発散行動は個体にもよるが、より多くのエネルギーを溜め込んでいるほど規模が大きくなる傾向にある。そして、全ての発散が終わればスライムは元の色に戻る。


 玄野真代。彼女のスライムが黒く濁ったところは見たことがない。そう。『見たことが』ないだけだ。人間である以上、多かれ少なかれストレスは抱えるはずなのだ。彼女が人並み外れて温厚で優しい女性だからと、考えすらしていなかった。


 例えば彼女が、半日で純白が漆黒に染まるほどのストレスを恒常的に抱えていたとして、そのスライムの発散方法として妥当な規模はどの程度か。あくまでも推測の粋を出ないが、僕には妙な確信があった。


 僕の見るあの真っ白なスライムは、頻繁に発散してリフレッシュしたあとの姿なのではないか?


 だとすると。だとすると。


「唐沢。急用ができた。気をつけて帰れよ」


「はぁ!? 急用ってお前まさか」


「ああ、そのまさかだよ。あの怪物を────止めに行く」


「馬鹿野郎、危険すぎる! 玄野さんが心配なのは俺も一緒だ! でもお前に何が出気るってんだよ! 自分の安全を考えろ!」


 唐沢は僕の身を案じ声を荒らげている。その声を聞いて、僕の中でなにかのスイッチが入った。真に案ずるべきは近隣住民の安全であり、玄野さんの安全だ。僕のことは二の次、三の次でいい。 


「保身で他人が救えるか。唐沢。我が身可愛さに剣を放る勇者を、君、見たことがあるのかい?」


「勇者……? ッ、おい! 待てよ!」


 唐沢の制止を振り切り、僕は駆け出した、カリバを拾い、通用口へ向かう。勢いよくドアを開けて屋上を降りる直前、僕の背に言葉が投げかけられる。


「グラディオ! 俺の好きな人はお前のことが好きだ! 俺の好きな人を悲しませたらぶっ殺すからな!」


 僕にはそれが、死ぬなよ、という激励の言葉に聞こえた。親指を立て、通用口の階段を駆け下りた。




 当然のことながら、街は混乱に陥っていた。


 停電はもちろん、建物の損壊による通行止めや崩落、交通渋滞、行き場を失った人々でごった返す大通り。早くなんとかしなければ、人死にが出る。それだけは避けなくては。


 僕は混沌極まる街を光の少ない方へと駆けて行きながら、胸元からスマホを取り出して電話をかける。出たのは古くからの知り合いだ。


『あいもしも~し、稀代の大天才魔女、マグナ・マギアでーす』


「アルスだ。マグナ、力を貸してほしい」


『アタシに頼み事なんて珍しい。高く付くよ?』


「構わない。スポットポータルを開けるか?」


『おけい』


 電話口でマグナが答えるなりスマホの画面が別空間へと繋がって、魔女帽を被った長髪の女を映し出す。マグナだ。ポータルが異界間をつなぐ扉だとすればスポットポータルは窓。ディスプレイのある電子機器を媒介に限定的なポータルをつなぐ魔術だ。こちらの世界で言うテレビ電話のようなもので、違うのはディスプレイ越しに『向こう』の世界に干渉できるということだ。


『で? 何がお望み?』


 マグナの魔法によってスマホを傍らに浮かせたまま、僕は足を止めること無くこれまでの経緯をかいつまんで説明した。


 こちらの世界で怪物が暴れ回っていること。その正体は発散行動を起こしているスライムではないかと考えたこと。それを止めたいこと。一通り聞くなり、『ちょっとまってて』とマグナは一時離席した。その間も僕は黒い怪物に向かって走る。走る。走る。


『おまたせ。ちょっとそっちの状況を確認してた。もう少しで停電エリアだよね? そこにケーサツとかジエータイが集まって怪物に攻撃してるみたいだけどあんまり効果ないみたい。それにそっちの電波状況が不安定だからか。スポットポータルも接続が不安定。停電エリアに入っちゃったら繋がらなくなると思う』


「じゃあ、僕が怪物の近くに行く頃には切れてるね」


『だね。そこから怪物を映せる?』


「暗いと思うけど」


 僕はスマホの角度を調整し、怪物が映るようにした。


 はじめ、怪物は会社の屋上から何とか見える程度だったのが、今はそこらの低層ビルと遜色ない程度に大きくなっている。大まかな形としては、まるで真っ黒な鎧を着た巨人だ。刺々しく、所々に野性味のある落ち着きのないデザインの鎧。以前ネットニュースで見た四足の魔獣が二足で直立したら丁度このような格好になるだろう。星のない夜を切り取ったみたいに暗い全身の中で、胸の中心部だけがうすぼんやりと白っぽい。兜の上に二本立っている突起が鬼の角のように存在をアピールしている。目に当たる部分には赤い光がギラギラと光っており不気味だ。


『う~ん』


 怪物を見たマグナは唸り、『多分だけど』と持論を展開した。


『あれは普通の発散反応じゃないように思うな~』


「と言うと?」


『普通のスライムの発散は溜め込んで処理しきれないエネルギーを外に逃がすための反応。そしたら当然、スライムの魔力は減り続けるのが道理じゃん?』


「うん」


『でもあの怪物は魔力が循環してる。つまり、発散して逃したはずの魔力をすぐさま取り込んじゃってるんだよ。そのせいで差し引きややプラスになって少しづつ大きくなっていってるんじゃないかな』


「成程。魔力を取り込んでいる理由は?」


『発散行動そのものにストレスを感じてるってのが一番素直な解釈。アタシが思うに、ありゃ宿主が取り込まれてるね。スライムは捕食したものと一体化する習性がある。多分、発散の起点はスライムが宿主を食べたところからだ』


「玄野さんが……中に……?」


 僕は怪物を見上げる。手当たり次第に暴れ回っていながらも、その動きは緩慢だ。迫力と破壊規模の割には動きに積極性がない。マグナの仮説は正しいように思える。


 ……これまでの事件とマグナの仮説を経た僕の考えはこうだ。


 玄野さんは抱えた感情の大きさに、いつしか感情の一部だけでなく身体ごとマシロに捕喰されるようになった。捕食された時点でマシロは玄野さんと一体化し、『不審者』や『魔獣』として発散のため暴れまわる。


 だが、それが続くにつれて玄野さんは捕食されているさなかにも意識を取り戻す場合が増えてきた(耐性がついてきた)。玄野さんは自身がスライムの中に取り込まれ、破壊発動を行っていることにストレスを感じる。マシロはそのストレスを糧にさらに暴れるという魔力の循環が起こる。すると(言い方は悪いが)ただエネルギーを消費するだけだったマシロの中に玄野さんというバッテリーが在ることになり、『魔獣』のエネルギー切れが遅くなる。目撃される件数も増える。


 そして今、玄野さんの意識覚醒によって魔力の循環が過去最高レベルになり魔獣は『怪物』と化している。これまでは一体化を解除されたらその間の玄野さんの記憶は無くなっていたようだが、これ以上耐性がついてしまうと記憶の持ち越しの可能性も出てくる。そうなれば、玄野さんはよりストレスを抱え泥沼に陥ることになってしまう。


 やることは決まった。マシロと玄野さんを切り離す。


『ストップ!!』


「!」


 思考を巡らせていて、自分が走り続けていたことも忘れていた。マグナの声で僕は止まる。


 正面にはもう何本かの街灯がついているだけで、それ以外は暗闇だ。巨躯を揺らし雄叫びを上げる怪物マシロの赤い瞳がこちらと合うのを感じる。


『ここから先は接続を繋げない。だから、これを』


 ポータルの窓からマグナが投げて寄越したのは、銀色の角砂糖のような物体。これは……。


「分離剤か」


 魔力の伴う化合物を魔力質ごとに強制分離させる薬剤、その塊だ。魔術研究や魔法薬実験などの場で一般的に用いられる他、スライムなどの魔力現象と一体化してしまった非魔力物質を摘出するのにも使われる。こちらの世界では手に入らない、魔女ならではの解決アイテム。まさにこの場にうってつけだ。


「ありがとう、恩に着るよ」


『貸しだかんね、貸し! 今分離剤めちゃくちゃ高いんだから!』


「わかってるって」


 言いながら、歩みを進める。


『なら良いけど。それじゃ、頑張んなさいよ、勇者様』


 その声を最後に、接続は切れた。


「……言われなくても。死んだら、殺されるからね」


 誰にともなく呟いた。




 僕の名前はアルス・グラディオ。 九年前に転職して以来、東京のとある商社に勤めるごく普通のサラリーマンだ。


 ちょっと変わった名前だけれど、変わっているのはそれくらい。僕と他の同僚との間に違いなんてほとんど無い。給与も、成果も、やり甲斐も、感じるストレスだってそう変わらないだろう。ただ、一つだけ彼らと僕には明確に違う点がある。


 それは、僕の前職が『勇者』だということだ。




 今、僕の身を守るのは竜神の鱗を使った鎧でもなければ精霊の祝福が施された衣でもない。何の変哲もない、ただのネイビーのシングルスーツに過ぎない。だが、これで十分だ。僕はスーツの前を開けた。ネクタイを緩める。吹き抜けた風がスーツの裾を揺らした。


「カリバ」


 僕は肩に乗っていたスライムを手に持ち、ありったけの感情を込めた。


 なんとしてもこの状況を打破する。怪物を止める。マグナに報いる。唐沢を安心させる。火野さんの家族を守る。玄野さんを守る。街の人々を守る。 


 溢れるほどの感情にカリバは発散反応を起こす。意図的に。恣意的に。僕はカリバの発散の形をイメージした。剣。一振りの剣。幾度となく振るった剣。九年ぶりに振るう剣。


 カリバは僕の手元で一本の剣に変化していく。それは、かつて勇者が────僕が魔王を倒すのに使った剣。聖剣エクスカリバー。そのレプリカ。あくまでも形だけで、スライムが変化しただけのこの剣には聖なる力も由緒も歴史もない。だが、それで十二分だ。名付けるのなら、そう、擬剣レプリカリバー……いや、ダサいか。単にカリバーでいい。どちらにせよ今宵限りの出番だ。存分に振るわせてもらおう。


 僕はカリバーで分離剤を突き刺し、分離の作用を付与した。これで、文字通りマシロと玄野さんとを斬り離せる。


「……いくぞ」


 静かに気合を入れ、地を蹴る。と同時に、長らく疲労回復にしか使ってこなかった身体強化魔法を自分に掛けた。身体の中に熱い血液が巡るように活力がみなぎり、身体が羽のように軽くなる。踏みしめたアスファルトに網の目のようなヒビを残して一跳びで怪物マシロの目線にまで飛び上がる。


「グオオオオオオオオオオオオオオ!!」 


「っらあ!!」


 雄叫びを上げ、抵抗の意志を見せたマシロの右腕を容赦なく切り落とす。いくら恐ろしい怪物に見えども所詮はスライム。スライムで斬れない道理はない。


 手首を失ったマシロの腕に着地し、肘から肩、首元を経由し左腕も同様に斬り捨てた。マシロが苦悶の叫び声を上げる。


「GYHAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?」


 この戦いで、僕がやらなければならないことは二つ。玄野さんの切り離しと、マシロの無力化だ。後者はすでに算段がついている。しかし、前者は怪物の巨大な身体のどこに玄野さんが一体化しているのかわからない以上、無闇に斬り付けて傷つけてしまう恐れがある。だから、端から少しづつ探っていかなくてはならない。


 怪物の両腕を斬り落とした僕は、一旦地上に降りてマシロがこちらをターゲティングしていることを確認した。これ以上停電エリアの外に行かないよう、すでに避難の完了している場所にマシロをおびき寄せる。普通の人間なら兎も角、今の僕は身体強化を掛けて動いている。十数メートルの巨躯とも追いかけっこは成立する。


 ある程度引き寄せた上で急激にUターン。すれ違いざまに左足を斬る。バランスを崩し、右膝を付いたところでその足も斬り落とす。これでだるま状態だ。動くことは出来ない。これでゆっくりと玄野さんの居所を……。


 調べられる、と思ったが見通しが甘かった。僕がマシロの正面に来た途端、その赤い双眸が意味ありげにひときわ強く輝いた。と、次の瞬間にはマシロの口に当たる部分が開いていた。エネルギーの収束。温度の上昇。口内に生み出される陽炎。


「うおおっ!?」


 紛れもない火炎放射がマシロの口から放たれた。間一髪、僕はこれを回避するものの、追従する熱気は僕の全身を撫ぜていく、ぶわッ、と嫌な汗がだくだく流れる。辺りは停電の中、急激に発生した灼熱の光源。確認できたのは、マシロの胸の奥にある薄ぼんやりとした白い部分。そこはどうやら硬質な半透明の障壁に囲まれているようだった。

 成程、ここが玄野さんの居所か。そう確信した僕は、なおも追ってくるマシロの炎を大きく回り込んで回避する。ビル群を長大な赤い舌が舐め回すように、外壁が炙られていく。脆い建築物の中には、溶けているものさえあった。何という火力。火炎どころか灼熱だ。僕はゾッとしながらも火炎の帯に隙間を見つけた。


 ここだ。


 唱えたのは加速魔法。身体強化では耐久力やパワーも上がるがそれらのリソースをすべて速さのみにつぎ込んだ、自らを弾丸とする一撃。炎の合間を突っ込み、熱さすら感じぬほど世界を置き去りにして僕はマシロの懐へ飛び込んだ。緩慢な巨体のマシロからすれば、僕が消えたようにさえ思えただろう。


「おおおおおおおおおおおお!」


 雄叫びを上げ、胸元の白い障壁をえぐり取るように剣を振るう。加速の勢いそのままに、切り出した障壁ごとマシロの背中を貫いた。


 一拍遅れ、やっと胸元を貫通されたことに気がついたマシロはとうとう炎の噴射を止め、うつ伏せでその巨体をさんざん踏み潰してきた街の中に横たえた。


 僕の腕にはまるで汚れない新雪のように折り重なった純白の障壁。繭のような形をしたそれを、僕はラッピングをきれいに剥がすみたいに慎重に斬り裂いた。


 繭の中にはやはり、玄野さんがいた。気は失っているが呼吸のリズムは正常だ。目元の隈からしてだいぶ憔悴していそうだが、命に別状はなさそうだ。


「玄野さん、大丈夫ですか?」


 僕が玄野さんを揺すると、彼女はゆっくりと目を開けた。


「ん……あれ、アルスさん、どうしてここに……それに、その剣は、って、わぁ!? 何ですか、停電?! どうしましょう!?」


 矢継ぎ早に現在の状況に気づくなり驚きを見せる玄野さん。僕は苦笑しつつも「落ち着いてください」と声をかける。それでも玄野さんは軽いパニック状態で、「アルスさん! あれ! あれ!」と背後を指さしている。


「ああ、溶けたビルですかね? さっきここで……」


 僕は途中で言葉を切った。マシロが、立ち上がっていたからだ。 


 手足を斬り落としたはずだが、再生している。玄野さんが分離して、ようやっと正常な形での発散反応が始まったたためだろう。先程までの鎧のような意匠はどこへやら、そこに立っていたのはまるで恐竜か何かを模した化け物。立ったワニのような無骨な外見。一枚一枚が先程の炎のように揺らめく背ビレ。長くビルほど太さのある尻尾。そして大きな顎に、頭から生えた二本の長く垂れた触覚。変わらず光る赤い双眸。それは例えるなら、ウサギの耳が生えた真っ黒な怪獣にほかならなかった。高さは付近のビルかそれ以上。数十メートルはある。


「か、か、怪獣です! なんであんなものがいるんですか!? と言うかここはどこなんですか? マシロも何処かへ言っちゃったみたいだし……」


 なおもパニックが収まらない玄野さんに、僕は向き直って頭を下げる。


「ちょっと経緯が複雑で。詳しい説明は落ち着いてからにしましょう。それより、貴女のスライム、マシロのことなんですが」


「ア、アルスさん、後ろ! 後ろ!」


「お別れを言わなくてはなりません」


「お別れ、って……いや、アルスさん!! 危ない! 狙われてますよ!」


 怪物マシロ、もとい怪獣マシロは今や明確に僕を狙っていた。赤い瞳を爛々とさせながら、勝利の確信を持ってこちらへ足を踏み出している。そのまま行けば、僕は玄野さん共々地獄の底まで一直線だろう。 


「大丈夫ですよ。剣には自信がありますので」


「剣なんかで何とかなるわけ無いじゃないですか! 逃げなきゃまずいですよ!! いや、今からじゃもう逃げても間に合わないかも……」


 暗闇の中でなおわかる虚影。怪獣の足跡。死の天墜。玄野さんは泡を食ったように捲し立てているが、僕にとって彼女の懸念は些事でしか無い。 


 なぜなら。


「────ふッ!」


 振り向きざまにカリバーを振り上げた。


 瞬間。マシロの身体には縦一直線に亀裂が入る。斬撃の衝撃そのものをマシロの体内に走らせる一撃。


「え……あ……?」


「だから、大丈夫ですって」


 街そのものを特撮のセットのようになぎ倒していく怪獣は。


「言ったでしょう。僕、剣にはちょっと自信があるんですよ」 


 自らの百分の一以下のサイズの人間によって両断された。


 中に玄野さんがいないのなら、この程度朝飯前だ。僕とて、伊達に勇者をやってない。一ツ目巨人の群れと山岳で戦ったときのほうがよっぽど苦戦した。


 マシロは、再びその巨体を街に横たえるかに思えたが、そうはならなかった。僕の手から離れたカリバー、いやカリバが、メタリックグレーのスライム状に戻りながらマシロを包み始めたからだ。『捕喰』が始まった。


 スライムは捕喰したものと同一の特性や特徴を持つ。スライムは基本なんでも捕喰出来るが、スライム同士の捕喰が一番進みが早い。互いに互いを食い合い、勝ったほうが残る。マシロの側も、徐々に白くなりつつカリバを食い始めた。


 最終的に残ったのは、真っ暗な闇と、そこに残された二人の男女、そして、怪獣だったスライムの欠片だけだった。スライムの欠片の色は、真っ白だった。




 後日。


 怪獣騒動ではけが人を含め多くの被害が出たものの、奇跡的に死者はゼロ。もちろん、火野朱里さんもきちんと避難していて無事だったらしい。以来、火野さんの機嫌は比較的良い状態をキープしている。願わくばずっとそのままでいてほしい。


 唐沢にはひっぱたかれた。自分がどれだけ僕と玄野さんを心配したかと、それはもう涙ながらに暑苦しく語り、三回分の飲みを奢らされることになった。もちろん、玄野さん同伴で。


 最後に玄野さんは、あれ以来スライムを使わなくなった。あんな出来事があったのだから、当然といえば当然かも知れない。多大なる被害を出した張本人とも言えるが、警察の判断はスライム暴走による自己被害者ということだった。法的なお咎めがないようでよかった。




「じゃ、僕はこれで。お先に」


 メリス総合商社、屋上。昼休み。僕と唐沢と玄野さんはたまたま一緒になり、休憩が終わるまでの間だべって時間を潰していた。午後の業務の準備のため、僕は一足先に屋上を辞した。二人はこんな話をしていた。


「玄野サン?」


「なんですか?」


「あのッスね。ぶっちゃけ、あの怪獣騒動の時、玄野サン体調崩して帰ったじゃないッスか。スライムもその時真っ黒だったし。何があったんです?」


「あ~……あのとき。うーん……まあ、いいか。唐沢さんになら言っても。アルスさんには言わないでくださいね?」


「もちろんッス。俺は口硬いんで」


「あの……火野さんにアルスさんが怒られてるの見て、『なんでアルスさんがそんなに言われなきゃいけないのよ!』って思ってました」


「……え? それだけ? あんだけ発散したストレスの内容がそれ?」


「はい、お恥ずかしながら。どうやら、私は自分のことよりもアルスさんが理不尽な目にあってるとストレスになっちゃうみたいです」


「は~っ……そりゃ、その、なんつーか……」


「?」


「甚だ罪な男と、ハタ迷惑な恋心ですね」

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スライムとサラリーマン @animanman

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