第8話 河合教授の魂胆
まったく別の人間の記憶がよみがえったと聞いた時、考えたのが、
「魂と肉体の分離」
だったのだ。
魂というものの中には遺伝子も含まれている。肉体には、遺伝子はないものだと考えた時、先ほどの発想のように、蘇生させた時、魂と一緒に遺伝子をそのまま肉体に戻すと、遺伝子が身体の細胞組織に働きかけて、時間の辻褄を合わせようとすることで、玉手箱のように一気に年を取ってしまうという発想だが、そういう意味で考えると、玉手箱というのは、人間に必要な遺伝子を戻すということになるのだろう。
そうなると、遺伝子を戻す時は、かつての時間の記憶をマヒさせておく必要があるということだ。少なくとも、遺伝子が正常に働いて、時間の辻褄を合わせようとすると、玉手箱を開けた時のように、一気に年を取ってしまう。
では、年を取っても、死なないようにすればいいのではないか。命を長らえるための冷凍保存なのだから、ケースを開けた時、肉体はある程度老化するが、死なないようにすればいい、
となると、生き返った時には、不老長寿のような薬ができていれば。問題ないということになる。
ただ、不老不死というのは、
「開発してはいけないもの」
の中でも最たるものではないだろうか。
不老不死というと、昔の西遊記などの話に出てくるような、
「化け物のような連中でも、人間よりもはるかに長く生きているのにも関わらず、一番ほしいものは不老不死ということである」
という発想がある。
ただ、西遊記の中にでも、何千年、何万年と生きていて、生きることに疲れた妖怪だっていたりする。そんな連中には、不老不死というものはいらないものだと言えるのではなうか。
日本の昔話の中には、
「妖怪とは、元々死なないものだ」
という発想があるが、これを人間に置き換えて、妖怪が人間になりたいと考えているという小説があった場合、それは、
「妖怪は死なない。妖怪が人間と親しくなれば、自分以外の親しい人は皆死んでしまって、自分だけが生き続けなければいけないという後悔をいかに乗り越えるか?」
というのが、大きな問題ではないだろうか。
だから、死にたいと思った妖怪が人間に憧れ、人間になりたいと思うという話も何かの小説で見たことがあった。
だが、基本的に妖怪は、死なないことが宿命であり、そのことを深く考えないのが妖怪というものではないか。人間ほどまわりとのコミュニケーションが行き届いているわけではないし、感受性が強いわけでもない。
それを思うと、人間にとっての命と、妖怪にとっての命(そもそも、妖怪に自分たちの命という概念があるのかどうかも疑問だが)とは、どう違うというのか、納得がいく説明ができる人がいるのだろうか。
以前、妖怪の話の中で、足が根っこになっているのを見たことがあった。
妖怪は鏡を持っていて、やってくる人間にその鏡を見せると、妖怪が人間になって、足ができて、鏡を見た人間が妖怪になって。その場所に立津づけなければいけなくなるのだ。その場所に根が生えているのだから動くことができず。いつ現れるか分からない人間を待ち続け、うまく欺いて自分の代わりを務めさせないと、自分は年も取らずに死ぬこともなく、その場にいなければいけないというものだった。
この話を見た時、
「なんて怖い話なんだ」
と思った。
自分がその妖怪になった、あるいは、やってきた人間として、妖怪になってしまったと思うと、
「死んだ方がマシだ」
と感じるくらいだった。
何も起こるはずのないその場所で、何年、いや何百年という時間が掛かるかも知れないところに、じっとしていなければならないという思いは、地獄でしかないのだ。
これは尊厳死という問題とニアミスをしているかも知れない。
「回復し、意識を取り戻す可能性がほとんどない人間を、生きる屍として考えることもできず、感じることもできない状態。つまりは、意思表示ができないことで、気持ちがどうであっても、ただ生き続けさせるということは、その人の気持ちを無視していることになり、本当にいいのだろうか?」
という考えに行き着く。
結局は、生殺与奪に関わることであり、
「人間は、生まれることにも、死ぬことにも自由がない」
ということになるのではないだろうか。
生まれる時は、親が誰になるかということで、ある意味生まれた時から、差別があるのだ。
いくら、
「人間は生れながらにして平等だ」
などという綺麗ごとを並べたとしても、しょせんは、親によって変わるのだ。
もちろん、成長の過程で変わっていくことは往々にしてあるが、基本的に環境に変わりはないのだとすれば、ほとんどパターンは決まっていると言ってもいいのではないか。
つまりは、よく、
「結果がすべてだ」
と言われるが、その結果をもたらすのは、原因であり、経過なのだ。
途中のプロセスをかっ飛ばして、いきなり結論になることはない。季節だって、冬からいきなり夏が来ることはないだろう。その途中にあるものが当然のごとくに存在しての結果なのだからである。
人間は生れることに関しては不平等であるが、では、死ぬ時くらい自由であってもいいのではないかと思うが、死ぬことも自由では許されない。
「自殺というのは、自分に対しての殺人だ」
という考えから、自殺をした人は、殺人と同じで、問答無用で自殺いきだ。
と言われている。
そして、尊厳死に関与した医者や家族も、当然のように、殺人ということで地獄行きということになるだろう。
もし、自分の近親者に意識を取り戻す見込みのない人がいれば、自分だったらどうするだろう?
そんなことを普通は考えない。考えるとすれば、よほどのネガティブな思想の人か、あるいは、よほどの心配性かのどちらかだろう。
いや、心配性の人であれば、ここまでは考えないだろう。一番最初に恐怖を身体が感じることを心配性の人は感じないという本能を持っているからだ。
「死なない」
ということと、
「死ねない」
ということでは、言葉は似ているが、ニュアンスも、実際の意味もまったく違うということである。
ここでいうニュアンスというのは、感じ方という意味で、前者は不老不死のように、妖怪が手に入れたいと思っていることで、後者は、人間が、自分ではなくなれば、その瞬間を持って死を迎えるのが普通であるのに、無理やり生かされているという感覚ではないだろうか。
妖怪のように、人間から見ればただでさえ長寿なのに、さらに不老不死を求めるという考え。人間のように寿命が短いのに、死を迎える時は、当然のごとくに迎えたいという考え、実に矛盾していることのように感じる。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
という言葉にある通り、だいぶ、先が見えてきたと思っていたのに、実はまだ半分も来ていないということを戒めるようなことわざであるが、これと同じように、まだまだあると思っていた寿命が近づいてくると、死ぬことなど考えたことがなかっただけに、寿命が身近い人よりも怖いと思うに違いない。
そういう意味では、妖怪や魔物というのは、もし人間になった場合に、一番怖いと思うのは、間違いなく近い将来に訪れるであろう、
「死」
というものに違いない。
夢が壊れるのは、そういう意識が近いのかも知れない。
妖怪は、死という意識がないだけに、ひょっとすると、人間以上に夢というものを大切にしているのかも知れない。
蘇生を行ったことで、別の記憶がよみがえってきたとすれば、その人と顔が似ていて、まるでもう一人が存在しているかのようだったに違いない。
クローンでもない、デノムに関係しているわけではない、ましてや、ドッペルゲンガーでもない。それをどう解釈するべきなのだろうか?
「もし、河合教授だったら、どう考えるだろう?」
と考えてみたが、ひょっとすると、今の自分と同じことを考えているかも知れないと感じた。
それは、ロボットのように過去の記憶も理性も存在しないロボットとして使うかも知れない。
だが、ロボットのように、人間とかけ離れた身体を持っていれば、その身体から、もしロボットが意志を持ってしまうと、自分たちが人間に支配されることの矛盾を感じ、教順な身体と電子頭脳を生かして、人間を支配するだけの世界を作ろうとするに違いない。
それが、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれるものであり、
「ロボット工学三原則」
の下になった発想である。
だからロボットは、
「開発してはいけないもの」
であったのだが、相手が生まれ変わった人間であれば、恐れることはない。
精神的には何も分かっていないし、こちらが命令しても充実に動くように頭を洗脳しておけばいいのだ。なまみの人間なので、人間を滅ぼすだけの並外れた強靭が身体や、体力を持っているわけでもないし、機械を開発できるだけの知能があるわけではない。
「何も知らない、自分が誰だか分からない、蘇生した人間」
というだけだ。
実際には死んでいるわけなので、人権が存在するわけではない、戸籍もなければ、本来なら存在していないはずの人間なのだ。
しかも、本人は何も分かっていない。ロボットのような状態である。人間に危害を加える力を持ち合わせていない。これなら、
「人間のために役立ててもいいのではないか?」
と考えるのはいけないことなのだろうか?
これが、存在しているはずの人間で、しかも、いずれ自分のことを思い出すというのが分かっているのであれば、倫理上という言葉で、守られるのではないだろうか。ロボットのように扱うのは、人間の尊厳を冒していることであり、迫害という意味であったり、虐待だと言われても仕方のないこtおだ。
しかし、一度死んで、蘇生させた人間なので、ロボットと同じではないかという発想になる。
「ロボット開発ができないと考えるのは、ロボットが人間なら判断できる問題を解決できないということと、人間を守るための三原則を埋め込むことが難しいということから、ロボットは開発できない」
という発想からである。
その発想のどこにも、ロボットの人格というか、ロボット格というものが存在せず、あくまでも、人間を補佐する機械というだけのものでしかない。道具であったりm用品としての使い道でしかないのだった。
蘇生した人間はどうなのだろう?
一度は死んでしまった人間に魂が宿って、生き返ったと見るべきか。それとも、生き返ったのではなく、魂が取り憑いただけの、道具として蘇生したと考えるべきなのかということである。
やはり、考える力がないということと、肉体と魂が合っていない証拠が、本人に生き返ったという意識がなく、さらに、違う魂が宿ったとしても、生まれ変わったという意識もない。
そもそもが、
「他の人の命令がなければ、動くことのできない」
という郷具にしか過ぎないということだろう。
それであれば、使ってやらなければいけないという発想になる。もし、生まれ変わった人間に、自分という意識が少しでもあったならば、最初から抵抗があるはずである。
その抵抗がないということは、
「自分は人間ではない」
と本人自身で感じているのではないだろうか。
「自分は人間に使われる道具」
としての意識が芽生えれば、その人は道具として生きていくことができるが、そうでなければ、生き返ったことが間違いだったということになり、よみがえらせた人間の責任において、再度葬ってやるしかないに違いない。
しかし、さすがにほうむることはできない。そうなると、後できることは、
「他人の魂を、記憶として、その人の中に埋め込んでしまうことだ。そうすれば、その人は生れながらに、違っている記憶だとはいえ持つことができる。最後のところの記憶を曖昧にさえしておけば、いくらでも説得することができる。たとえば、記憶喪失なったなどということを医者が診断するようなことであればいいわけだからね」
ということであろう。
「でも、それって、倫理上まずいんじゃないですか?」
と言われても、
「生き返られた人間を殺すよりもいいでしょう。記憶として組み込むことは、他人の遺伝子を取っておいて、後から注入すればいいだけですからね」
「そんな簡単にできるんですか?」
と聞くと、
「そんなに難しいことではないですよ。普通の人間に対して行うことではなく、蘇生させた人間なので、元々遺伝子が存在しないところに組み込むんですからね。実際に遺伝子の組み込みというのは、それほど難しいわけではない。ただ、元々あった遺伝子との間で副作用を起こしたり、拒否反応があったりするから、難しかっただけのことなんですよ。それを思うと他人の遺伝子を注入するわけなので、それほど難しいことではないでしょうね」
というのが、ある組織での責任者と担当者の話であった。責任者は続けた。
「ただ、そうなってくると、元々実際に持っているその時代に存在している元々の魂を持っている人間と同じ魂を持っている人間が存在しているということになる。顔が違っているので同じ人間でもないし。最初から作ったわけではなく、肉体を借りているだけなので、クローン人間というわけでもない。それなのに、この二人は結構な確率で出会ってしまうことになるようなんだよ。何か他人には見えない引き合うものがあるというんだろうか?」
というのを聞いて、
「それって、相手には自分と同じ遺伝子だと分かるものなんですか?」
と担当者がいうと、
「分かるんじゃないか? これは想像でしかないんだけど、他人から見ると、まったく違った人間に見えるのかも知れないけども、彼らには自分と同じ姿に見えるんじゃないかって思うんだ。ただ、その顔が、本当の自分なのかどうかは分からないんだけどね」
「それはどういう意味ですか?」
「自分の顔って、何か鏡のような媒体を使わないと見ることのできないものじゃないか。だから、人の顔のように、しょっちゅう見ているものではないから、おぼろげにしか自分の顔というのを意識していない。そんな時、自分と同じ遺伝子を持っている人間が目の前にいると、目の前の遺伝子の力なのだろうけど、自分の顔が目の前にいる人だと勘違いしてしまう。一種の逆の発想なんだけどね。優先順位は、同じ顔だという前提なんだということなんだね」
と責任者は言った。
普段であれば、担当者も、
「そんなことってあるんですか?」
と聞きなおすことだろう。
それは、この担当者に限ったことではなく、他の人であっても同じではないかと思うのだ。それを思うと、担当者も責任者が何を考えているのかまでは分からないが、その気持ちに近づいて行っているように自分で感じていることであろう。
「その引き合った二人は、一足す一が二ではなく、三でも四でもあるようなそんな力を秘めているとすればすごいんですけどね」
と担当者がいうと、
「それはそうだと思う。私もそうではないかと思うのだが、まだそこまでは分からない。しかも、もし力を秘めているとして、それが人間にとって禍をもたらすものであれば、本末転倒だからね。それこそ、フランケンシュタイン症候群のようなものではないだろうか?」
と責任者は言った。
「これは、将来においての、課題のようなものでしょうか?」
と担当者がいうと、
「そうだね。でも、この問題には大きな分岐点があると思う。それを間違えてしまえば、失敗してしまうだろうね。だけど、これは宿命のようなものなんだけど、最初に開発を焦った方が、失敗の可能性が強い。そういう意味では、その結果を踏まえて再検討すると、今度は成功するのではないかと思うんだ。それだけ、この問題にはリスクがある。しかも、そのリスクは人間としての宿命が作り上げるもので、人間のため、つまりは人間の利益のためという当たり前の開発理念で考えると、失敗しやすいということなんだろうね。だから君もそのことを頭に描いて、今後の研究に生かしていけばいいと思うんだ」
と責任者は言った。
「じゃあ、先生はここでこの件からは引退するということですか?」
と担当者が聞くと、
「ああ、一旦ね」
と言って、責任者は含み笑いを浮かべた。
この一幕というのは、実は今から数十年前の、河合教授と、山沖研究員の会話だったのだ。
山沖教授は今まで忘れていたわけではないが、それほど信憑性の深いものだと思わずに、記憶の片隅くらいに置いていたものだったが、今回の研究で、他の組織が失敗したということを聞いて、この会話を思い出していた。
そして、山沖教授の考えていることが、あまりにもバカげているかのようで、自分でもビックリしているのだった。
再度、山沖教授の頭が研究員の頃に戻っている。
「ドッペルゲンガーというものがあるのを知っているよね?」
という河合教授に対して、
「ええ、知っていますよ。自分と同じ人間が同じ時間、同じ次元に存在しているというものですよね?」
と山沖がいうと、
「そうだ。そしてそのドッペルゲンガーというのは、その人の行動範囲以外には現れないし、喋ることもしない。そして、何よりも、そのドッペルゲンガーを見ると、近いうちに死んでしまうという都市伝説のようなものがあるんだよね」
「ええ、その話も聞いています。でも、そんな都市伝説を教授が話すというのはどういうことなんですか?」
「これは都市伝説なんかじゃないんだ。人間が人間であるがゆえに起こる、一種の自然現象なんだと私は思っている。人間というのは、先ほどから何度も出てきているように、遺伝子というものを持っていて。その遺伝子にはいくつもの万能な力が秘められている。その力をいかに発揮するかということが、人類の将来において、大切なことなんだよ。人間社会というのは、時間とともに発達していっているけど、実際には。時間とともに、滅亡への危険も深まっているんだ。後ろから波が追ってくるので、人間は発展という先を開拓していかなければ、いずれ追いつかれて滅亡してしまう。だから休んでいる暇はないんだ。その例として、人間は発達するために、自然破壊を繰り返している。その自然破壊が始まった時点で、人間は発展することを使命とされた。そうでなければ、後ろから追いまくられて波に飲み込まれてしまうというわけだよ。一種の自転車操業のようなものさ。だから、いずれは、その自転車操業から脱却しなければいけない。その力を秘めているのも遺伝子ではないかと思うんだ。そういう意味で、遺伝子は万能なのだが、一歩間違えると、人類の破滅を加速させることになるが、自転車操業からの脱却も遺伝子に頼らなければいけない。そういう意味での諸刃の剣というところではないかな?」
と教授は言っていた。
さらに教授は。
「ひょっとすると、そのために、私はその捨て駒になるかも知れない。その時のために、君にはしっかりと、ここで私の遺志をついでもらいたいんだ。これは、一種の遺言のようなものだと思ってくれ」
と、言った。
「教授、まさか引退されるということですか?」
と山沖が聞くと、
「ああ、そうだ。本当であれば、少し早いのだが、私は教授としての立場ではなく、他の立ち位置に立って、自分なりに見ていることを選びたい。だから後は君たちに任せたいんだ」
と教授は言う。
それから教授は本当に引退して、一時期、山奥の温泉に籠って、療養していた。そのうちに、行方不明になったというが、行方は依然として知れなかった。
だが、今回の研究で失敗をした組織があると聞いたが、山沖教授の頭を最初によぎったのは、
「河合教授」
という人物だった。
それは、あの時のセリフの中にあった、
「捨て駒」
という言葉が思い出されたからだった。
山沖はあの時の話を思い出して、教授が数十年越しにまた自分の前に現れて、
「これで、後は君に、自転車操業脱却へのバトンタッチがやっとできるような気がするんだ。あとはしっかりと頼む」
という遺言が達成された気がして仕方がなかった。
山沖教授は心の中で、
「河合教授、ありがとうございました。後は我々に任せて、ゆっくりと、お休みください」
と言って手を合わせた。
そこには、頭の中で、
「これが、唯一の蘇生の成功例ということで終わらせないようにしないと」
と感じている山沖教授の目論見があったのだった……。
( 完 )
蘇生の成功術 森本 晃次 @kakku
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