第7話 遺伝子の研究

 気になる作家の小説を読んでいると、同じ肉体によみがえることができるという話を書いていたが、もし、戻れるとすれば、火葬するまでである。骨になってしまうと、いくらなんでも戻ることはできない。今の法律では死亡診断されてから二十四時間は火葬してはいけないというものがある。

 なぜなら、蘇生の可能性がまったくないと思える時間までは、葬儀も火葬も行わないというのが、墓地、埋葬等に関する法律というもので決まっているからだ。

 つまり、二十四時間の間には、蘇生するかも知れないと思われているからで、ひょっとすると、昔、そういう事例があったのかも知れない。

 そういう意味で、二十四時間以内であれば、蘇生しても別に不思議はないということで、よく探偵小説などのトリックの伏線として、

「二度死ぬ死体」

 などというタイトルでドラマ化されたりしているではないか。

 要するに心停止してからでも、蘇生する可能性が無きにしも非ずということで、二十四時間であれば、生き返る可能性が秘められているのだった。

 しかし、二十四時間と言っても、結構あっという間のことである。現代における時間と、神の世界、あるいは死後の世界での時間経過がどのようなものなのか分からないが、この世での二十四時間は本当にあっという間のことだ。

 ただ、それも自分の肉体に魂が戻る場合のことであり、もし、二十四時間でダメな時は、他の遺体であれば、同じ人間として生まれ変わるわけではないが、生まれ変われるわけなので、これは、二十四時間を超えてしまっても、そのあとは、もういつでも関係のないことになる。極端な話、数年後でも同じことだ。

 そうなってしまうと、生まれ変わる意義もないだろう。

 そもそも、他人として生まれ変わった場合、生まれ変わった本人が、

「生まれ変わることができた」

 と自覚しているだろうか。

 しょせん違う人の肉体である。何の予備知識もないのだ。生まれ変わったとしても、結局、記憶を失っているという芝居でもしないと、おかしなことになる。それを思えば最初から、生まれ変わったという意識がないままの方がいいだろう。

 だが、その場合、生まれ変わっても何らメリットはないような気がする。それよりも、輪廻転生ではないが、再度赤ん坊から生まれ変わる方がいいではないか。

 生まれ変わる相手がいくつの人なのか分からないが、少なくとも寿命の十数年以上は生きてきているはずなので、その分の寿命が短いことになるのだ。

 そもそも、生まれてくる時が赤ん坊で、それ以前の記憶がまったくないわけである。何も分からないまま生まれてきて、その後の環境だけで生きていけるわけではない。人間としての最低限のものが備わっているから、生きていけるのだ。

 それはすべての動物が持っている本能という感覚、そして、親から生まれた時に受け継がれてきた遺伝子というものが、その人を人間として、キチンとした判断ができる高等動物として生きていくことができるのだ。

 身体の中の遺伝子というのは、親や先祖から受け継がれてきた本能だけではないと言われている。

 人間の人間としての本能であったり、状況判断ができること、さらに、病気をすると免疫を作ったりする作用であったり、過去から脈々と受け継がれてきた、その人の先祖からの歴史が、青写真として脳裏に浮かんでくる。

「初めて見るもののはずなのに、以前にも見たような気がする」

 というデジャブのような感覚なども、ひょっとすると遺伝子が影響しているのかも知れない。

「人間の脳は一割も使っていない。超能力と呼ばれるものは、人間が元々潜在的に持っている力であって、発揮できないものとして脳の中に残っている」

 と言われている。

 それも、遺伝子として受け継がれているのであれば、遺伝子の力で、その封印されている力を引き起こすことも可能ではないかという研究が行われているのも事実だ。

 今回の厚生労働省からの依頼を受けている大学の中には、遺伝子の力に目をつけて、遺伝子を中心に開発を行っているところも少なくないだろう。ただ、問題は遺伝子と一口に言っても、角度によっていろいろな見方ができるというものだ。

 皆同じ方向から見ても同じ結果にしか現れないというのが遺伝子の力だろう。遺伝子は自分で学習したり、判断する力があると河合教授は思っていたようだ。その内容が、ノートにも残っていた。今回の研究でカギになるのは、匂いと遺伝子ということになるのかも知れない。

 気になる作家の本を読んでいると、本来なら自分の身体に蘇生することが本来の目的なのだが、実際に可能性を探っていくと、実は自分に生まれ変わるよりも、他の身体で蘇生する可能性の方が高いようにも思えてきた。要するに自分に蘇生する方が難しいというのだ。

 それに、同じ蘇生するのであれば、自分が死んだ時よりも、もっと若い年齢でなければ意味はない。もっというと、このまま死んで、まったく別の人間として赤ん坊から生まれる方がいいに決まっているのだ。

 生まれ変わる時だって、作家の話としては、生まれ変わってから、自分の過去の記憶は残っていないということのようだ。それは他人に生まれ変わる場合でも、自分に生まれ変わる場合においでもである。それならば、誰に生まれ変わっても同じことであり、さらに自分が死んだという意識すらないわけなので、生まれ変わった時には、

「俺は、この肉体で生きてきたんだ」

 という思いしかないだろう。

 何しろまわりから見ると、

「この人が生き返ったんだ」

 としか思えないからだ。

 自分の記憶もないわけなので、疑いようがない。蘇生した時、記憶が残っていないのも、

「蘇生したからだ」

 という一言で誰も疑うはずもない。

 ただ、なぜ自分に生まれ変わることができないかというと、前に生きていた時のことを完全に忘れてしまわなければいけないのに、元の身体に戻ってしまうと、遺伝子の力で、万が一にも過去の記憶が戻らないとも限らない。だから、一度死んでしまってからの組成は、自分の身体であってはいけないという理屈だった。

 作家の話から得た結論を元に、河合教授のノートを改めて読んでみると、

「なるほど、そうやって考えると、確かに蘇生する魂は、同じ肉体であってはいけないと書いてあるではないか?」

 と思えたのだ。

 それは冷凍保存であっても同じことで、別の身体に蘇生させるという意味でも、一度死んだ人間の冷凍保存は理屈にもかなっていることだった。

 しかし、そもそも冷凍保存の当初の目的から少し離れていることに、気が付いた。

「不治の病で、余命がハッキリとしている人間を冷凍保存しておいて、不治の病が治る時代になって蘇生させ、そこで病気を治す」

 というのがm冷凍保存の目的であったはずだ。

 しかし、それはあくまでも、

「冷凍保存には、肉体だけではなく、精神も一緒に保存することが前提である」

 ということであった。

 冷凍保存の理屈としては、

「まるで眠っているかのように、時間を止める形で冷凍装置に安置する」

 というのが、前提ということになる。

 だが、教授の理論として、

「最大の問題は、冷凍保存する際にm記憶を含めた魂と一緒に保存できるか?」

 ということが問題であった。

 教授のノートには、

「遺伝子を独立させることができるかが大きな問題だ」

 ということであった。

 肉体から遺伝子、それも遺伝子情報のすべてを網羅するものを一緒にして、さらにそれを冷凍保存ができるのか。それはあくまでも、自分の肉体を抑えた冷凍保存装置とは別にである。

 つまり、肉体と遺伝子は別々に保存する必要がある。

 そしてさらに問題は、一度冷凍保存した肉体に、切り離した遺伝子を、再注入できるかという問題でもある。

 冷凍保存と、さらに蘇生という問題で、超難関といえるハードルを、いくつ飛び越さなければいけないというのか、これが果たして、一大学の一研究室だけでできることなのかを考えると、基本的には無理である。

 最初は蘇生と、保存のそれぞれから別々に考えていたが、教授ノートを見ると、

「分離して考えることはできない」

 という結論を書いているようだった。

 それであれば、不可能なことをずっと考えてきて、時間の無駄だったというのか?

 いや、そんなことはないような気がする。少なくとも遺伝子に関する研究が大切であることが分かり、遺伝子の研究は続けなければいけないことだということは、これからの研究において、必要なことであることは分かり切っていた。

 ある日、衝撃的な報道が入ってきた。これはあまりにも衝撃が強すぎるので、マスコミはもちろん、政府にも報告されていないことだった。それがなぜ河合研究室に情報として入ってきたのか分からなかったが、とにかく、入ったと同時に、

「この話は緘口令が敷かれている」

 と言われたのだ。

「実はある筋から入手した話で、どこかの団体がm冷凍保存を考えていて、死んだ人間を生き返らせようと試みたらしいのだが、失敗したというんだ。その失敗がどういう形での失敗なのかまではこちらには分からないが、とにかく、我々と同じ研究をしようとして、その先を行っていたところが失敗したということなんだ」

 と、いうことだった。

 情報の元となって伝えてくれたのは、研究員の中で、他の研究室がどのような研究をしているのかということを調査している研究員からだった。同じ研究をしているところがあれば、そこの動向も知っておかなければ、もし研究が成功したとして、特許を取ろうと思っても、すでに相手が先に完成させていれば、まったくの無駄である、情報が分かっていれば、断念することもできるので、そのための情報収集は大切なことだった。

 その彼が伝えてきたことなので、ある程度の信憑性はあるのかも知れないが、これほどの大きな問題で、さらに隠蔽すら考えなければいけない大問題を、よく取得できたのかということが大きな問題でもあった。

「もしや、わざと表に情報を流したのは、向こうの組織かも知れない」

 ということも頭をよぎるほど、大きな問題がいとも簡単に漏れたということである。

「その団体というのは、大学の研究室なのかな? それとも国家の施設? あるいは民間の研究室なのかな?」

 と訊いてみると、

「そこも分からないようなんです。でも、政府ではないと思います。もし政府なら、必死に情報が漏れないように国家権力を使うはずですが、大臣などが動いている気配はなさそうなんですよね」

 ということだった。

「とにかく、よく分かっていないということは確かなようだね。情報は流れていても、内情は完全に施錠してある。ということは、わざとその情報を流したという理屈は成り立つのではないかな?」

 と、山沖教授は言った。

「僕もそう思っています。わざと情報を流したとして、何がしたいんでしょうね?」

 と研究員が聞くと、

「この情報が漏れたのはうちだけなんだろうか? 他の研究室などには漏れていないんだろうか?」

 と山沖が聞くと、

「他には漏れていないと思います。漏れたところが多ければ多いほど、緘口令の意味はなくなりますからね」

 と研究員がいうと、

「だけど、最終的な目的はそこにあるのかも知れない。ただ、冷凍保存関係の研究をしているところがどれだけあるかだと思うんだけど、そのあたりはどうなんだい?」

「正直、冷凍保存に関しての研究を行っているところは私の知る限りではありません。冷凍保存というのは、最初の考えまではありえるんですが、研究を続けるにつれて、どんどん信憑性が薄くなってくるので、ほとんどのところは早い段階で断念しているようなんです」

「それはそうだろうな、だけど本当は、ある程度まで来ると、今度は信憑性のなさが下げ止まってきて、今度は上昇に転じるんだ。その時は、一度底辺を見ているので、上り方のカーブは結構険しいものとなって、そこから見出されるものは、かなりの研究結果だと思えるんだけどね」

 と、教授は一般論を言った後で、自論を言った。

 その自論は、結構な信憑性があり、他の人が言えば、あるいは他の人に聞かせれば、まるで戯言のように聞こえるかも知れない。あくまでも、山沖教授が河合研究室のメンバーに聞かせているということでの信憑性なのだった。

「これも、河合教授の遺伝子のようなものなのだろうか?」

 と山沖教授は考えていた。

 それにしても、この衝撃的なニュースが河合研究室に聞かせたいということであれば、それは河合研究室でも冷凍保存の研究をしているということを知っている誰かだということになる。今でこそ研究員に公開したが、少し前までは、山沖教授の頭の中と、河合教授の残したノートにあるだけだった。

「ところで君はどこまでの情報を知っているんだね?」

 と研究員に聞くと、

「私が聞いたところでは、遺伝子を調査しているところまでは聞きました。うちも遺伝子に関しては研究をしているので、きっとどこも一緒ではないかと思っていたんですが、やっぱりどこも研究はしているようですね」

 と言われた。

 確かに遺伝子を研究するという発想は、今に始まったことではないが、研究すればするほど、遺伝子の持っている複雑な構造が、蘇生に関してはうまく機能しないということが分かってきた。

 まず考えられるのは、自分の肉体に戻るということが難しいということだった。戻った時に記憶がリセットされるので、遺伝子が遺伝子としての働きをしないことになると、却って遺伝子の存在が邪魔になっているということになる。となると、邪魔になる遺伝子の研究をしても仕方がないのかといえば、そうでもない。本能という動物の能力の半分を司る機能は、遺伝子によって作られているとすれば、遺伝子抜きにして、蘇生は考えられない。

 ただ、そもそもどうして蘇生を考えたのかという起点になった考え方が、

「不治の病と言われるものに罹ってしまい、余命が宣告されて、後は死ぬのを待っているだけの患者に冷凍保存を施して、医療の発達で不治の病ではなくなった時に蘇生して、その後の人生を生きる」

 という考え方からだった。

 死ぬのを待っているだけの辛い時期を少しでもなくすることができればいい」

 という発想からであったが、考えれば考えるほど、

「本当にいいのか?」

 と思えてくる。

 その人の寿命を勝手に変えることになるのだ。生殺与奪を人間が決めていいのかということになる。

 死ぬはずだった人が死なないということは、老人が増えてくることになり、社会問題である、

「少子高齢化」

 を推し進めることになる。

 確かに個人的にはいいことなのかも知れないが、社会全体を見ると大きな問題だ。

 そもそも個人であってもいいことなのだろうか?

 まるで浦島太郎状態で、目覚めた時は、皆と死を取り、下手をすれば、自分よりも自分の子供の方が年上になっていたり、さらには、もう知っている人は、皆死んでいるかも知れないのだ。

 間違いなく、自分の知らない世界が飛び出してくるのだ。そして、

「蘇生させれば、目が覚めるのは間違いない」

 というだけで、眠っている間は、植物人間と同じではないか。

 植物人間との比較がいいのかどうか分からないが、その間、

「生きる屍である」

 ということには変わりはないだろう。

 しかも、蘇生しても、その間の記憶はまったくないのだ。

 科学が発展して、その人が生きていた記憶を架空ではあるが、作ることができても、他の人には、まったくその記憶がないのだから、記憶がない方がまだマシなのかも知れない。

 それだけを考えても、リスクはかなり高いように思う。確かに医療の発展までの間、冷凍保存で延命するというのは、まわりの家族からすれば、望ましいことかも知れないが、それはあくまでも、余命宣告された相手とどう接していいのか分からない、そして、相手は確実に死ぬのが分かっている状態という最悪の中での比較であって、もし、冷凍保存している間に、考え方が変わるかも知れない。

 もし、冷凍保存が認めれれば、こう言った利害関係者の心境の変化をどのように対応していけばいいのかという問題も大きなことである。

 仮に、冷凍保存をお願いした家族は近親者が、気が変わって、

「冷凍保存はいいので、今蘇生させて、決められた余命をまっとうさせたい」

 と考えた場合、どうなるというのだ。

 この問題は、

「安楽死」

 あるいは、

「尊厳死」

 の問題に関わってくるだろう。

 冷凍保存というのは、植物人間における生命維持装置と同じだと言えるだろう。生きているのだが、まったく何もできない状態で、中にいる間が意識がないのも同じである。

 冷凍保存を解くということは、余命が決まった相手を元に戻すということなので、直接手を下すわけではないが、それは生命維持装置の人工呼吸器を外してしまうというのと同じことである。

「安楽死が認められていないのだから、冷凍保存を辞めるのも、認めてはいけないのではないか?」

 という意見がある。

 尊厳死などと同じように、精神的な発想が強いのだろうが、あくまでも、植物人間になった人の尊厳しか認められていないということになる。

 尊厳死の問題は、前述にもあるが、少し認められているところもある。やはり、遺族が苦しむのであれば、尊厳死を認めるくらいの寛大さがなければ、

「法律というものが、まったく公平さに欠けるものだ」

 と言ってもいいのではないだろうか。

 それを考えていると、河合教授の顔が浮かんできた。

 河合教授も尊厳死に関しては。不公平さを感じていた。

「科学や医学が万能ではないのだから、生きる屍になっても、まだ生きながらえらせなければいけないという道理はないはずだ。植物人間になった人の保証に関しては、最大限の国家で保証をしなければ、尊厳死を認めないというのであれば、片手落ちということになる」

 と言っていた。

 そういう意味では、冷凍保存という発想を考えた時、河合教授はこの研究に対して、

「まるで、もろはの剣のようだ」

 と言っていた。

 そこで河合教授にとっては葛藤があった。精神的な矛盾だったと言ってもいい。だから、冷凍保存や、その蘇生を研究するということになった時、たぶんであるが、

「自分の時代には完成に至ることはないだろう。だから、後世にノートで残しておくことにするのだが、このノートこそが、冷凍保存のようなものではないか?」

 と言っているような気がした。

「ところで、失敗したというのは、どういうことなんだろうね?」

 と、そこまでの情報はなくて元々と思って聞いたのだが意外なことに、

「聞いた話によると、主語というか、目的語もハッキリしないので、よく意味が分からなかったんですが、まったく別の人間の記憶がよみがえったと言っているそうなんです。どういうことなんでしょうね?」

 と、いうので、それを少し考えてみると、元々そんな大事なことを簡単に人に漏らすというのが、いかにもあざといという観点に立ったとして、

「よくは分からないけど、わざと、そのような情報を流しているように思えるね」

 と山沖が聞くと、

「それでは、私がもたらした情報はフェイクのようなものだとおっしゃるんですか?」

 と、研究員は少し不満そうな表情をした。

「いいや、そうは言わない。ひょっとすると、本当のことかも知れない。わざと本音を聞かせて、こちらがどう感じるかというのを探っているようにも感じるんだ」

 と、山沖は言ったが、まだ研究員は不満そうな顔をして、

「僕にはよく分かりませんが、山沖教授が研究しているのも、冷凍保存なんでしょう?」

 と言われて、

「ああ、そうだよ、河合教授が以前研究していたんだけど、河合教授の時代ではとても研究が完成するわけもない。そこで私がその後を引き受けることになったのだが、なかなか当時の教授の考えが分からなくてね。ノートはもらったのだが、なかなか解読できないんだ」

 というと、研究員は、

「我々も研究に協力しますよ」

 と言ったが、

「いや、それはできない。河合教授から、このノートは誰にも見せないでほしいと言われているからね」

 と、山沖教授は言ったが、それは実はウソだった。

 本当に、河合教授から誰にも見せてはいけないと厳密に言われたわけではない。どちらかというと、何も言われなかったのだ。

 何も言わないのであれば、見せてはいけないのだろうと思っていたのだが、今から思うと、見せてほしいという逆の意味だったのではないかとも思えてきた。河合教授は昔からそういうところがあり、ノートの内容が曖昧な暗号のような書き方をしているところからも、その性格を垣間見ることができるだろう。

「別の人間の記憶がよみがえってきたということは、そちらの研究所では、冷凍保存の時に、肉体と魂を同時に冷凍したということなんだろうか? それとも分離して保存したのだろうか?」

 と、山沖教授は不思議なことを言い出した。

「えっ、それはどういうことですか?」

 と研究員に言われて、自分が思わず本音を口走ってしまったことにビックリしてしまった。

 そのままごまかそうとも思ったが、ここでごまかしては、せっかくの情報をこれ以上もらえないような気がして、損得を考えると、ここで下手にごまかさない方がいいと思うのだった。

「冷凍保存をそのまますると、身体と魂を両方冷凍保存することになるだろう? 私は蘇生させた時、魂が身体の中に入ったままだと、身体が精神に同化して、そのまま年を取ってしまうのではないかと思っているんだよ。魂が身体に入っている間は寝ているんだけど、目が覚めると、魂が活動を初めて、遺伝子と結合することで、自分の体内時計が勝手に動き出す。つまり、眠っている間に取らなかった年を、一気に取ってしまうということになるんだよね」

 と山沖は言った。

「なるほど、浦島太郎が玉手箱を開けた時と同じですね。そういえば、私が子供の頃に見たSF映画で、人間の冷凍保存をする話があったんですが、何だったか理由は忘れてしまったんですが、冷凍保存の機械が故障したか何かで、冷凍保存の機械の蓋が開いてしまったんですよ。すると、中に入っていた人が皆、瞬間的に猛スピードで腐敗していき、そして白骨化してしまったんですよね。その時の話を思い出しました。ところで、このように急激に時間が進む時というのは、急激なコマ送りのように、段階を踏んで見えてくるものなんでしょうかね?」

 と、研究員は言った。

「それはどういう意味だい?」

 と山沖が聞くと、

「瞬きの間くらいに一気に白骨化しているわけではなく、スピードはハンパではないが、段階的に時間が経過しているということを我々に悟らせるような形で、時間というものは進んでいくのかなと思いましてね」

 と研究員は言った。

 研究員の疑問はもっともだった。正直、山沖にも分からない。

「想像でしかないが、段階を経るものだと思う。いや、そう思いたいというべきなのではないかな?」

 と、山沖は言った。

 どちらにしても山沖は、今の話を訊いて、

「なるほど」

 と感じた。

 確かに、ここまでの発想はなかった。いや、あったのかも知れないが、皆が信じているほどに信憑性はなかったと言ってもいいかも知れない。

 それは、あくまでも、そのまま冷凍保存すると、肉体はそのまま保存されるが、魂も一緒に保存され、蘇生の時の反応まで今の段階では想像していなかった。正直にいえば、この発想はもっと後の段階で研究するつもりだったと言ってもいい。だから、下手に考えないようにしていた。だから、発想になったのだ。

 今回、研究員に聞かれて、どう答えていいのか分かっていなかったこともあって、何とかごまかそうと思った結果、思いついた言い訳がさっきの発想だった。

 だが、自分の中で、その思いついた発想が、まんざらでもないと思ったのも事実で、

「咄嗟の時に、意外といい発想が生まれてくるのではないか?」

 と考えたのだ。

 今の自分の発想が、研究員の昔見た映画の発想をすぐに思いつかせるものだったというのは、結構、的を得ていた考えだったと言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、失敗したとはいえ、冷凍保存に関して、研究していたその組織も。

「肉体と魂の分離について考えていたのではないか?」

 という思いを抱かせるのであった。

 本当であれば、彼らと意見交換がしたいくらいであった。研究者にとって失敗というのは、成功へのパスポートであり、すべてを失敗ありきで考えなければいけないという思いを忘れてはならないと思うのだった。

 ただ、向こうが失敗したとは言っても、蘇生させることには成功してしまったことで、その後に発生する問題をいかに解決できるかというところで引っかかってしまったのではないだろうか。

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