第6話 小説と神様
匂いが蘇生、あるいは、冷凍保存に関係しているとして、どちらに関係しているというのだろう・ そしてそれがどんな匂いなのか、ヒントらしきものは何もなかった。そんな中、考えられるのは、このノートが書かれた時の、研究室のまわりの環境がどのようなものだったのかということを再現してみることだった。
河合教授だって、何もないところから思いついたわけでもあるまい。まわりの環境に何かのヒントがあったに違いない。そして、そのヒントが隠されているものがもう一つあるとすれば、山沖が以前に読んだSF小説、ここにもヒントがあるのではないかと感じたのだ。
山沖が見たのはテレビドラマであったが、原作は小説だった。その小説を買ってきて、再度読んでみたのだが、あの小説は恋愛小説でもあったのだ、
未来からやってきた青年がいて、ふとしたことでニアミスをしてしまったのだが、主人公の女の子がその青年を見て恋をするというものであるが、その青年は実は自分の子孫であり、自分存在が消えかかっていることから、
「過去のどこかで、自分が生まれないという問題が生じているんだ」
と考えたことで、本来なら過去へのタイムトラベルが禁止されているのに過去に行って、その原因を確かめようということだったのだ。
当然、過去を変えてはいけないということで、別の次元の人間に自分の姿が見えないようなシールドを被っての過去へのタイムトラベルだったが、降り立った時代に微妙な差があったことで、ぶつかってしまったのだった。
実は、未来で記憶されていた過去が微妙にずれていたことで、未来が変わったのだが、そのニアミスのおかげで未来は元に戻ったのだ。これこそ不幸中の幸いだったのだが、ぶつかった瞬間、今度は過去を変えてしまった。
これで歴史は元に戻って、もう消えないはずなのだが、元の世界に戻ると、自分以外がまったく違う世界になっていた。ニアミスがすべてを狂わせたのだ、
主人公はもう一度過去に戻り、自分の先祖の主人公の女性が自分に恋をしたことを知り、それが間違いだったと思った。そこで考えたのは、彼女に自分のことを忘れるということで未来が元に戻ると考えたのだ。そして、自分の記憶だけを消すために、未来から、自分の記憶だけを消すことができるという匂い袋を持ってきた。
そして、彼女にその匂い袋を渡して、自分の記憶を消させたのだが、その時の切ないシチュエーションが話題となり、この本がベストセラーになったのを思い出した。
二人は悲しい別れを経験したことで、無事に自分が生まれることになるのだが、そのおかげというか、そのせいで、青年は未来に戻ることができなくなった。
タイムマシンの存在がなくなってしまったことで、未来に戻れなくなった彼は、この時代で記憶を消してしまった自分の先祖を見ながら生きていくことになるのだが、いつの間にか、彼の存在は既定のことであり、その時代に存在している人間だということになっていた。
親もちゃんと存在し、友達もいた、その中に自分の先祖の女の子もいたのだが、彼女が二度と自分に恋をすることはなかった。
彼女に嗅がせた匂いの効果だけは、しっかりと残っていたのだ。
ラストは、いまいち辻褄が合っていないかのような話であったが、そもそも、タイムトラベルものは、ラストの辻褄が合わないことを、オチとするものなので、それはそれで正解だった。そしてあとがきの中で、作者はこのように書いていた。
「この話はフィクションです。しかし、ありえないことではないという思いを抱いて書いています、書きながらアイデアがどんどん下りてきたのです。まるで私にこの話を書く宿命があるかのようにである」
架空の話ではあるが、この話は自分が経験したのか、あるいは経験中であるのかというような書き方だった。その話の中で出てきた匂いというのが、ラベンダーの香りだった。小説の中では匂い袋だったが、この作家の他の小説でも、匂い袋が出てきて、そこで感じた匂いがラベンダーだったのだが、その話はタイムトラベル系の話ではなく、死んだ人がよみがえるという、
「死者降臨」
の話であり、匂い袋が匂っている間だけ、自分がどうしても、もう一度会いたいと思う人間と生活をすることができるというものだ。
この小説を読んだ時、この匂い袋が切ないもので、最後の別れが最初の別れよりも数倍辛いもので、
「本当に使ってよかったのか?」
と感じさせた。
そう思うと目的の小説も同じことで、元の世界に戻れなくなったことよりも、自分も先祖に恋をして、先祖だけに思いを断ち切らせて自分はずっと苦しむという地獄の苦痛を味わうことになる切ない小説なのだった。
匂い袋の匂いを嗅ぐというのは、科学者から見れば実にバカバカしい話であるが、中学、高校生向けの恋愛小説だと思って読めば、実に切ないお話であった、
当時は、マンガというよりもまだ小説の方が映像作品になることが多かった。今でこそまるでマンガのような話に思えても、当時は小説として、十分なお話であった。
そういう意味で、この手の小説は多かった。そう、今でいうライトノベルや、ケイタイ小説のような話だと言ってもいいだろう、
文庫本のカバーは、少女漫画を思わせるような絵が描かれていて、それらの本が、本棚の一つくらいを占領していたりした。
その傾向は結構続いていて、実は今でもそうかも知れない。本屋の傾向も昔とは随分様変わりしたものだった。
特に、文庫本のコーナーは叙実だった。
昔あれば、有名作家の小説が、本棚の一列すべてを占領するくらいに並んでいた。特にミステリー系の売れっ子作家というと、いつのまにこんなに書いたというのか、文庫本で百冊以上を刊行していたからだ。本屋のレイアウトにもよるが、作家淳の出版社準などであれば、余裕で本棚の一列分を占領するなど当たり前のことで、そんな作家が十人近くいたりすると、大手本屋の文庫本コーナーだけで、小さな本屋一軒分の広さが必要だった李したものだ。
しかし今はどうであろう。一世を風靡した売れっ子作家の本、本棚の一列を余裕で占拠していたはずなのに、今では数冊が並んでいればいいところである。
中には百冊以上あり、テレビ化や映画化などされた本を数々発表し、その作家の名前を冠した文学賞まであるほどのレジェンド的な作家であるにも関わらず、一度それらの本を全部絶版にして、その三分の一ほどをセレクトして再度新刊として発行するということまでしたくらいだ。
何か理由があったのかも知れないが、一番売れていた頃の本のカバーに描かれていたおどろおどろしい絵がミステリーらしい恐怖を誘い、本の売れ行きにかなりの貢献度があったにも関わらず、復刻本ではその絵が描かれていないのだ。
タイトルの一文字を書道の先生のような人が描いただけの表紙は、昔の本を知っている人間には、あまりにも物足りなさすぎる、
そもそも、その出版社は、その作家の本を売り出すことで、大手出版社としての地位を揺るぎないものにしたはずで、その最大の功労者の本をそこまでの扱いをするというのは、その作家のファンのみならず、ミステリーファン全員に対して残念な思いをさせたと言ってもいいだろう。
確かに、今の時代は本の売れない時代である。製本して本屋に並べても売れない。ネットが普及してきて、ネットで買う人、さらにスマホが普及してくると、本をスマホで読むことで、重たい本を持ち歩く必要がない。
迷惑極まりない話ではあるが、歩きながら読むことだってできる。
しかし、考えてみればおかしなもので、スマホの画面を見ながら歩道などを歩いている人がいっぱいいるのに、なぜ、本を読みながら、歩いている人はいなかったのか?
「本を読みながら歩いていると危ないじゃない」
ときっというだろう。
だったら、スマホの画面を見ながら歩いているのと、どこが違うというのだ? それを思うと、何ともいえない気持ちにさせられる。
これはあくまでも想像でしかないが、本を見ながら歩いている人が一人のいなかったから、誰もしなかっただけで、スマホの場合はケイタイ電話の頃からの名残で、たぶんメールなどのちょっとしたものを見るくらいは、歩いていてもできるという発想から次第に歩きながら見るという文化が流行ってきたのではないだろうか。
つまり、
「横断歩道、皆で渡れば怖くない」
と、昔の漫才師が言っていたが、その言葉が示す通りの、
「集団意識のなせる業だ」
と言ってもいいだろう。
そうなのだ。集団意識がブームを呼び、前述のような小説がブームになったことがあった。
ミステリーのようで、SFのようで、そして実は恋愛小説ということで、細かい演出には目を瞑るという今のアニメになりそうなマンガの発想に近かったと言ってもいいのではないだろうか。
小説というのがどういうものか、小説が原作のドラマが多かった時代を思い起こすと、分かってくることも多いだろう。
「待てよ?」
と、ふと、山沖教授は感じた。
「当時読んだ小説の中に、何かのヒントが含まれているかも知れない」
と感じた。
それと同時に一つ思い出したことがあったのだが、これは本当に一部の人の間で一時期ウワサになったことがあったのだが、
「河合教授が研究とは別に、本を書いているというウワサがあった」
ということであった。
その本というのは、学者が学説を表したような本ではなく、普通の文庫本である。ミステリーやSFモノを書いていると聞いていたが、あれは本当だったのだろうか?
確かに、弁護士が法廷者を題材にした小説を書いていたりした時代もあった。今でこそ、お笑い芸人やアイドルが本を出すことが多い時代になったが、当時は珍しかった。しかも、一冊だけではなく、プロ顔負けで何十冊も出している人が多かったのだ。
今の出版界は、出版不況と言われて久しいが、実際に売れる小説、スポーツ界で言えば、
「即戦力」
などと言われる人たちが書くものでなければ本にすることはしない。
それが、いわゆる、
「芸能人であったり、犯罪者でなければ、小説を書いても、出版社は本にはしてくれない。もし素人が出版したいのであれば、有名出版社の新人賞や文学賞に応募して、入選以上に至らなければ、本を刊行することなどできない」
と言われたものだ。
芸能人や犯罪者というのは、いわゆる、
「名前が売れている」
ということである。
話題性がなければ、本は売れない。つまり、犯罪者であろうが、本が売れればそれでいいというモラルもへったくれもない考え方である。
昔からの本好きの人がそのことを聞くと、きっとショックで、嘆かわしいと思うだろう。
「出版業界もここまで来たか。恥知らずで情けない」
とかつての売れっ子作家も思っている人もいるのではないだろうか。
そんな状態だから、本も売れるはずもない。本が売れないから、またこの考えが加速してしまう。
このような状態がいわゆる、
「負のスパイラル」
というものであろう。
そんな出版業界なので、きっともうこのまま衰退するばかりではないだろうか。
ネットやスマホにばかり集中してしまうと、そのうち、本当に活字を読む人がいなくなり、音声による聞き語りによってしか、小説に触れることのない時代が近い将来やってきそうな気がするくらいだ。
もしそうなれば、もはや小説と言えるのだろうか?
ブームと言えば聞こえがいいが、昔の紙芝居や無声映画のように、衰退がそのまま消滅になってしまうようで、恐ろしい。
しかも、本という文化は誇大方受け継がれたものだ。それが消滅してしまう社会など、文化だと言えるだろうか。
これは書籍界にだけいえることではない。他の文化にしても同じことだ、一つの文化が消えてしまうと、他の文化までなし崩しに消えてしまうことになるだろう。
前述の本を見ながら歩く人はいないのに、スマホを見ながら歩く人が、一人でもいれば、どんどん増えてくるという状態に似ている。
そういう意味では、人間は自分たちの滅亡させることを無意識にやっていて、それが周田錦によるものから来るという発想がまったくないことが、
「破滅の足音がしているのに、誰も気付かない」
ということになるのではないか。
地球のすぐ隣に、まったく光を発しない星が近づいていて、気が付けば、地球上が異常に見舞われてしまい、訳が分からないうちに滅亡していたなどという小説も読んだことがあったが、まさにその通りになるのではないかと山沖は感じていた。
そんな時代が来てほしいわけではないが、心の底で、
「かつての新型伝染病の猛威は、ノアの箱舟や人類滅亡という危機に、警鐘を鳴らしていたのではないか?」
と言えるような気がした。
誰も何も知らずに、気が付けば滅亡していたという世界が、すぐそこまで迫っているのかも知れない。
山沖教授は、昔の本を取ってあり、家には書斎としてたくさんの本が置かれていた。気研究者になってからは、研究の本が主なので専門書が多いが、その間に文庫本のコーナーも結構あり、本棚一つすべて文庫本という感じだった、
文庫本を端の方に追いやらずに専門書の間に構えているというのは、文庫本をたまに読もうという意識があったからだ。教授になり、さらに室長となってしまうと、なかなか昔の文庫本に手を出すことはなかったが、最近ではこの部屋で本を読むというよりも、ステレオを設置して、ヘッドホンで音楽を聴きながら、瞑想に耽っている時間が多かったりしている。
山沖教授は、研究者でありながら、妄想の世界に入ることも好きである。そんな自分のことを、
「俺は科学者ではあるが、芸術家の端くれだと思っている」
と考えていた。
小学生の頃から絵を描くのが好きで、イラストやデッサンなどをよく描いていたが、高校生になる頃には、研究の方に興味を持ち始めて、絵画はあまりしなくなった。
そもそも、研究員になったのも、絵画をしていて、絵画の基本が、バランスであることに気づいたからであった。
風景画などを書いていて、海や空のバランスであったり、人物画であれば、中心に顔のどこを持っていくか、あるいは色彩だってバランスである。
それに気が付いて、バランスの勉強をするようになった。
もちろん、絵画がうまくなることを前提に考えていることで、基本はあくまでも芸術だった。
しかし、そのうちに科学的なこと、物理学的なことに興味を持ち始めると、今度はそっちにのめり込んでいく。
絵の才能があるかどうかは分からなかったが、絵を描いていても、認められることもなければ、さらに奥深さを感じるだけだった。
しかし、科学や物理学は勉強をしているうちに、いろいろ分かってくることが多い。それを思うと、
「すぐに結果が見える学問が俺に向いているかも知れない」
と思うようになり、学問というものは、さらに一つのことが分かっても、さらに奥には別の課題が潜んでいる。
そうやって一つ一つ段階を踏んで先に進むということが、
「芸術よりも学問の方が俺に向いているのかも知れないな」
と感じたのだ。
しかし、この考えも、
「もし自分が絵画に興味を最初に持つことがなかったら、途中で学問に目をやることはなかった。これも、段階を踏んでいるという意味で、すべて自分にとっての学問のようになっているのかも知れない」
と考えるようになった。
そういう意味で、
「段階を踏む人生がいかに大切であるか?」
というエッセイのようなものを書いて刊行したが、あまり売れなかった。
「俺は、しょせん文章に関しては書くのは苦手なんだ」
と感じた。
あれだけ小説を高校大学時代に読んできたのに、書く文章は拙いものであり、いかに自分の文章力や、語彙力のなさが大きいかということを実感したのだ。
だが、それでも専門的な著書に関してはあまり関係なかった。
論文などは、散文というわけでもなく、専門用語を並べて、少しでも分かりやすく書ければそれでよかった。ただでさえ難しくなってしまう専門書なので、実際の書き方というものは目に見えないマニュアルのようなものがあって、その通りに書いているだけだった。
こちらは散文と違って、書きやすい、なぜなら散文というものは、読者に想像力を湧きたてさせ、想像力によって、文章が生かされるものなのだ。想像力というものが、実験結果に対してという専門書とは同じ想像力でも、その役割はまったく違っているのだった。
そんな自分の書斎の中にあるたくさんの本の中で、SF系、ミステリー系のものを少し読み返してみようと思った。ヒントが小説にあると感じたのだから、きっと記憶に残っていそうな小説にヒントがあると思った。
特に、山沖は同じジャンルでも、片っ端から流行りの本を読むわけではなく、好きになった作家の本をどんどん読んでいくということをしていた。
「小説家に偏りはあるが、それはそれで時代を反映していたのだ」
と、当時を振り返って考えていた。
一つ気になる小説を見つけた。SFホラーのような小説であるが、特徴的には、
「この作家は、宗教に偏ったような小説を書く」
と言われていたことだった。
彼の小説は、どこかキリスト教の教えに近いのだが、キリスト教徒から言わせれば、
「純粋なキリスト教ではない。あの人の考えは、キリスト教を模してはいるが、根本はまったく違っている」
と言われていた。
それ以外のイスラムであったり、ヒンズーとも違う。人によっては、
「ゾロアスターのようにも感じる」
と言われたが、いろいろ調べてみると、それも違っている。
「彼は宗教家ではなく小説家なのだから、あくまでも、同じ宗派である必要はない」
ということであった。
小説のネタにするのに宗教を取り扱っているのだから、架空の宗教団体を書いているので、どの宗教にも当てはまらないのは当たり前だ。下手にどこかの宗教を描いてしまうと、違う宗教団体からは、
「宣伝行為だ」
と言われ、その似ている宗教からは、
「勝手に許可なく題材に使った」
と言われかねない。
つまり、誰からも認められることはなく、酷い目にあうばかりである。
彼の描く架空の宗教によって、生き返る話しが描かれていた。
「魂が違っても、同じ肉体であれば、自分にとってその人は、自分の知っている人なのだ」
ということが描かれていて、ある人が雷に打たれて死んだとしよう。あまりにも理不尽なので、生き返らせてあげたいと思ったが、一度肉体から離れてしまうと、同じ肉体には帰ることができないというのだ。
しかし、神様がいうには、
「君が落雷で亡くなったそのまったく同じ瞬間に同じ落雷で死んだ人がいる。その人であれば生き返ることができる」
というものであった。
さらに神様から
「ただし、相手が先に君の肉体を他の神様によって使用されてしまうと君は生き返ることができない。どうしても生き返りたいと思うなら、迷っている時間はない」
と言われた。
どうしても生き返りたい主人公は、
「はい、分かりました。生き返ることにします」
と言って、生き返りを選択したのだ。
しかし、この神様は決して人間に対していい神様だというわけではない。むしろ人間に災いをもたらす神であり、主人公が生き返ろうとした相手は女性であり、完全に、神様の言葉に乗せられたのだ。
実際に、生き返る時、相手よりも先に肉体を占拠しないとダメだということもないし、そもそも、自分の肉体に戻ることができないわけでもない。
「神様のお告げ」
ということで完全に騙された形になった。
その男は、結局女性の身体に乗り移り、その後、女性として生きて行かなければならないのだが、悪い神様に引っかかったということを教えてくれる善意の神様もいて、その神様がいうには、
「自分の身体が、もう一人の女性に乗っ取られるか、あるいは、荼毘に付されるまえであれば、元の身体に戻ることができる。それは、ラベンダーの香りを探して、その匂いを嗅ぐことだ。しかし、今のあなたは、悪意のある神様によって、匂いの感覚を打ち消されているので、普通のラベンダーであれば、匂いを感じることはできない。だが、私があなたの行動範囲内に本物の匂いがするラベンダーを設けておくので、早く探して、元に戻るがいい」
と言われた。
男は必至にラベンダーを探して、元の肉体に戻ったのだが、実は、肉体自体はかなり傷んでいて、戻れたとしても、身体が半分やけどが残った形の酷い状態で生きなければいけない。
「あなたの寿命は伸ばせるだけ伸ばしても、ここまでだ」
と神様に言われた。
「果たして生き返ることができたのだが、それで本当によかったと言えるのだろうか?」
という話だった。
ラベンダーの匂いは、結構いくつかの小説に出てくる。やはり何か関係があるのかも知れない。
さらにこの小説の中にはいろいろな教訓がある。どれもがどんでん返しにあって、二転三転したうえで、最後は戻っても本当によかったのかという戒めであり、結局は寿命というものが決まっていて、それを変えるということは人間に与えられていない権利だということである。
そもそも、この考え方はどの宗教においても同じことであり、その結論に導くために、いくらかの葛藤が小説の中で描かれている。
そういう意味では、宗教の世界も、しょせんは、人間が作り出した小説なのではないかと思えた。
どの話も人間に都合よく描かれていて、神様が人間に行う禍も、結局は人間のためかも知れないという発想か、あるいは、神様が人間よりも人間らしいという発想である、
前者の方は、聖書の発想ではないだろうか。戒め的な話にはなっているが、結局は浄化のためだったり、世の中をよくするための話であったり、基本的なところは、
「ノアの箱舟」
であったり、
「ソドムの村」
のような発想である。
後者はギリシャ神話ではないだろうか。
ギリシャ神話は、ゼウスを中心に、オリンポスの神々と人間の関係性を書いているものだ。
あくまでも、神は人間の上にいて、それぞれ人間社会のような役割であったり、その存在がしっかりと明記されている。聖書の場合の神は、その名前が書かれていることはあまりない。神様という存在が人間とは完全に一線を画しているということであろう。だから、バベルの塔の話のように、神に弓を引くと、神がお怒りになるという、人間界からはまったく見えない世界として確立している、
しかし、ギリシャ神話では、神と人間界との間に境はあるが、まったく見えないというわけではない。
その証拠に、神と人間が結ばれたり、ゼウスが、他の神を使って人間に何かを送ったり、人間を滅ぼすために、疫病神のようなものを贈り込んだりする。
しかも、オリンポスの神というのは、実に嫉妬深いもので、自分の愛する人が、人間の王様と契りを結んで子供ができたりすると、その王国を津波によって、一晩で滅亡させたり、その子供を海に流すというようなことをするのだった。
神々の間でもこの世で言う浮気のようなものが横行していて、嫉妬から人間界に災いが及んだりしている。
そもそも万能の神と言われるゼウスでさえ、他の女神たちを自分の女にしたりしているくらいなのだ。そういう意味で、浮気や嫉妬などという人間臭い状況は、神の方が大っぴらにやっているではないか。
そういう意味で、この小説家は、宗教家というイメージを世間の人に与えながら、架空の宗教を作り出し、ただ、それを自分の小説に生かしているだけである。
だから、彼は宗教家などでも何でもない。まわりにそう思わせることで小説を売ろうとする、
「宗教を使った売名行為」
と言ってもいいだろう。
さすがに彼の小説を読んでいる人にはそのことは分かっている。だが、彼の小説はあまりにも偏りがあるため、少数派しか読まない。それだけに、彼の小説を読まない大多数の人は、彼のことを宗教家だと思うのだった。
だから、下手に攻撃されることはない。宗教団体が何か事件を起こした時は、さすがに誹謗中傷は避けられないが、それまでに彼の宗教は他の宗教とは違っているという伏線を敷いているので、長く注目を浴びることはなかった。
逆にそのおかげで小説が売れることに繋がってくる。彼の小説を読んだ人は、彼への誹謗中傷は違うというのが分かるか、それとも、一度では理解できずに、読むことを辞めてしまって、それ以上、彼をいじることはしなくなるという効果もあった。どちらに転んでも、最終的に彼には害が及ぶことはなかった。
それも、最初から計算ずくだったような気がする。
特に、彼の昔からのファンは皆そう思っていて、ある意味、
「彼ほど、宗教団体というものを嫌っている人はいない」
と言えるのではないだろうか。
そんな彼の小説を読み返した山沖教授は、再度彼の小説を読み直したのだった。
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