第5話 結界
匂いによる蘇生の問題は次の段階として、まず考えなければいけないことがあった。
それが、倫理とモラルという問題であった。この二つをクリアしない限り、研究自体ができないということになる。研究というものをいかに進めるか、その発想がまずは倫理とモラルの解決にあるのだ。
研究でモラルが確定しているということは大前提だった。
そもそも研究というものは、それまでになかったものを開拓するというものであり、そのためには、人間としてのモラルが犯されるということがない証明がなければ、成立しないものであった。
まずは、
「開発してはいけないものではない」
と思わせなければいけない。
ここでは、実際に目的のものができたと仮定して、それが問題ないかどうかという減算法に終始する。実際の開発は、そこからの加算法になるので、一度リセットする形になるのだが、この大前提は、結構難しいのであった。
これまでの研究でも、この大前提を証明できずに、研究を断念したことがあった。あまりにも断念が早かったので、依頼してきた省庁から、
「どうしてそんなに簡単に諦めつくんですか?」
と言われたのだが、
「これは開発してはいけないものだということに結論が達しましたので」
と言って、理論的なことをプレゼンのような資料に纏めて説明した。
どうしても専門的な話になるので、省庁の担当も難しいと思っているようだが、結局、研究してはいけないものというのは、倫理を証明しようとして考えていると、また同じところに戻ってくることがある。その場合は研究を続けてはいけないという警鐘であり、開発できないものということで証明できる最小で最大の資料であった。
理屈を説明して、また同じところに発想が戻ってくるということは、省庁の担当者にも納得してもらえた。
最初は、なかなかおんなじところに戻ってくるということに実感が湧かない省庁の担当者に説明するのは困難を極めたが、最近では同じところに戻ってくるということが、開発してはいけないものだということを理解したのか、省庁の担当者も納得してくれることが多くなった。
「やっぱり、今回も難しいわけですね」
と、ため息をついていた。
しかし考えようによっては、ある程度まで研究を進めて、
「実は開発してはいけないものでした」
と言われても、省庁としても引き下がれないだろう。
それだけに、最初のうちに、できないことを証明してくれるというのは、省庁の担当者としてもありがたいことだったのだ。
「他の研究室では、このような発想を持っているところはありませんからね。本当にこちらは発想もユニークだけど、スムーズにいくことが論理的に納得する一番の理由になるのだから、こちらの担当になって、実によかったと思っています」
と担当者は口々にそういうのだった。
「それにしても、開発してはいけないものがあるというのも厄介なことですよね?」
と、別の担当者がいうと、
「ロボットにしても、タイムマシンとしても、皆ウスウス、開発してはいけないものなのではないか? という考えは、昔からあったと思うんです。でも、すぐに消去法という形で、最初に考えるというのは、誰も思っていなかったと感じるんだ。でも、皆近いところまで考えてはいるんだけど、その先が見えないと言えばいいのか、結界のようなベールg張り巡らされているからなのかも知れないって思うだ」
一瞬考えて、山沖教授は言った。
「開発というものを考えると、最初からしていいものとしてはいけないものとを両方考えるというのは難しい。片方だけからしか見ないでいると、相手に永遠にぶつかることはないと思うんだ。この考え方がなければ、最初の方で、指定医研究なのかどうかを判断することはできないのさ」
というのであった。
今回の蘇生の問題はさらに難しい、生殺与奪の問題に絡んでくるからだった。
「宗教が絡んでくる」
と思っただけでも難しい判断なのに、どこまで考えが行き着くが、自分でもよく分からなかった。
今のところ蘇生させる相手というのは、身元不明者であったり、無縁仏の人間を考えている。もちろん、蘇生させるまで冷凍保存なのか、アルコールのようなものでの、いわゆる標本のような保存なのかは、考える必要のあるところであるが、まずはどちらを生き返らせるかということである。
当然生き返らせるにしても、死体の状態という問題があるが、それぞれ考え方をまとめてみよう。
まず、行方不明者の蘇生であるが、行方不明者という定義は、
「死体となって発見された人の身元を探したが見つからなかった」
ということである。
ということは、前提として、
「死体は、身元を匠永するものを、まったく何も所持していなかった」
ということと、
「死体には本人を特定するものがなかった」
ということである。
そして、今度は死体からではなく、警察の捜査においてであるが、まずは、警察に捜索願が出ている人と照合して、該当者が見つからなかった場合、さらに、管轄において聞き込み捜査などを行っても、見つからなかった場合などである。
もっとも、これは警察がどこまで必死になって探すかということが問題であり、この死体が変死であり、しかも殺害された可能性があれば、殺人事件としての捜査になるので、身元をハッキリとさせる必要があるのだが、事故や自殺の可能性が高い場合は、捜索願の人と照合するくらいのところで、それ以上は捜査しないというのが普通ではないかと思えた。
そもそも、捜索願を出した時だって、警察はそこに事件性が見いだせない場合は、基本的に捜索願を受理はするが、捜査など行わないのが基本だ。ほとんどの人は、捜索願は警察に対しての、命令のようなものだと思っているかも知れないが、さすが公務員、事件性の有無だけで、捜査するしないと決めているのだ。国民の税金で飯を食っているくせに、ひどいものだ。
もっとも、これは行方不明者に限ったことではなく、ストーカー被害の被害届や、相談などに代表されるように、いくら生活安全課に相談したとしても、その人だけのために、動いたりはしない、せめて、帰宅時間近くになれば、警備を増やしてみたり、ケイタイ電話の番号を警察で登録しておいて、その電話からの通報があれば、もし、喋らなかった場合などは、事件だと見て、すぐに駆け付けるという措置を設けてくれるくらいのことである。
あくまでも応急処置のようなもので、だから警察というのは、
「事件が起きなければ、何もしない」
と言われるのだ。
もし、人が殺されたりなどすれば、
「警察は殺されなければ動いてくれない」
という印象すら与えてしまうのである。
そんな警察が行方不明者の捜索をわざわざしてくれるはずもない。だから、事件性のないと思われる変死体が発見された場合は、基本的には、形式的な照合まではするだろうが、それ以上するはずはなかった。
だが、一つ気になるところも残る場合もある。というのは、
「死体が発見されたのに、身元が不明で、さらに捜索願が出ていないということは、身元をわざと分からないようにしているということ、そして行方不明になっても、捜索願を出せない何か理由があるということ」
そこから、被害者が何かの犯罪に絡んでいるという可能性は十分にあると思うのだが、警察はこういう場合に、
「事件性がある」
と判断するのだろうか。
それも、管轄警察のどこかの部署の責任者が判断することなのだろうか?
実に難しいとことであるが、結局はどこかで捜査を打ち切って、それでも分からない場合、身元不明の変死体という形での処理となるだろう。
そんな状態の死体を、蘇生の対象として考える場合、どう考えればいいのか、山沖教授は想像してみた。
基本的には、まず、
「蘇生させてもいいのか?」
という大きな問題を解決するために、いくつかの考えが出てくるということである。
まずは、
「なぜ、捜索願を出せなかったのか?」
という考えがある。
捜索願を出し、さらにそこで見つからなければ、失踪宣告を行う。失踪宣告を行うと、基本的には七年経って、その人が現れなければ、その人は死亡したことになる。これは、刑法上でも、民法上でも同じで、刑法上の問題としては、死亡した人が何かの犯罪を犯していたとしても、被疑者死亡という形で書類送検されることにはなるが、ほとんどの場合は、「被疑者死亡」ということで、不起訴処分となり、裁判には至らない場合が多いということである。
そういう意味で、殺人などの罪を犯した可能性のある人物が、昔であれば十五年、今なら時効がないことから、
「罪を逃れるために、死んだことにする」
というのも、ミステリー小説の中でも見られることではないだろうか。
また、民法上の問題であるが、ここで大きく関わってくる問題とすれば、
「遺産相続などの問題」
が大きいのではないだろうか。
つまり、失踪した人がたくさんの財産を持っていた場合、死亡宣告を受けるまでは、その財産は、不在者財産管理人によって間おられるという。
ちなみに、言葉としてはややこしいのであるが、ここでいう死亡宣告というのは、法律上でいうところの「失踪宣告」と同意語であるので、失踪宣告とは、失踪届を出した日ではなく、失踪届から一定の期間が経過し、死亡と法律上みなされた時のことをいうのである。
つまり、失踪宣告が発せられれば、取り消しがない限り、つまり、本人が現れたりしない限りは、その時点で、財産分配が正式に行われることになる。
失踪宣告を受けた人の中には、最悪殺された人もいるのではないかとも考えた。
ミステリーなどであるかも知れないが、失踪者が、本来であれば、法定相続人である自分に、遺産を残さないなどという遺書を書こうとしているという話を訊いて、これではまずいということで、殺害に至り、死体が発見されにくいように、例えば、身体をバラバラにして溶かしてしまうとか、身元が分からないようにしてから、自殺の名所と呼ばれる樹海の中だったり、死体が上がらないと言われる飛び降り自殺の名所から突き落とすなどして、死体自体が上がらないようにする工作をした上で、失踪届を出すというものもあったりする。
しかし、実際にはなかなか難しいだろう。警察は当然事件に巻き込まれたという捜査をするはずなので、動機が一番ある相続人や近親者を疑うはずなので、その行動やアリバイは厳しく見られるはずだ。
死体が上がらない努力をしても、行動に怪しいものがあれば、すぐに足がつくだろう。
死体をバラバラにして溶かすのであれば、バラバラにするにも溶かすにも専用の道具が必要だ。当然購入することになるのだが、警察はそれくらいのことはすぐに調べられるに違いない。
死体が上がらない場所に死体を処分に行ったとしても、そんな近くにはないはずなので、どうしても、アリバイのない瞬間が一日二日とあるはずだ。そうなると警察も足取りを追うだろうし、その日のことについて、かなり追及が激しいはずである。よほどのアリバイを作っておかなければならず、そこから足がつくということも多いはずだ。それを考えると、警察が関与を始めた時点で、最初からいくつものカモフラージュの方法を考えておかなければ、太刀打ちはできない。
表だけを取り繕っても、アリバイなどの後ろがしっかりしていないと、どこで足がつくか分からない。日本の警察は優秀だと昔から言われているので、警察の捜査の裏をかくくらいの気持ちでいなければ、犯罪など簡単にできるものではない。
それこそ、
「事実は小説よりも奇なり」
というところまで考えていて、やっと対等に警察と渡り合えるというものとなるのではないだろうか。
そもそも、犯罪に関してはプロの警察を相手に、こっちは初めて犯罪を犯そうというのだから、最初から勝負は見えている状態なのではないだろうか。
よほど切羽詰まった状態でない限り、中途半端な気持ちでは、太刀打ちできるはずもない。しかも、一人で犯行に及ぼうなどというのは、それこそ自殺行為と言えるのではないだろうか。
それを思うと、失踪宣告が出る七年は、犯人にとって果てしなく長い七年となるだろう。感覚がマヒしてきているかも知れないし、
「こんなことなら、しなければよかった」
とまで考えているかも知れない。
そう考えると、身元不明者というのは結構難しいところがある。何かの犯罪が絡んでいることも考えられるからだ。
では、無縁仏の場合はどうであろうか?
無縁仏であれば、すでに本人確認がなされていて、そのうえで、
「この人には、縁者はいない」
ということが確定しているわけなので、犯罪が絡んでいる可能性はかなり低くなる。
もし絡んでいるとすれば、死体が発見された時、変死体であれば、行政解剖に回すのが義務なので、解剖の結果で事件性の有無は大体分かる。そこで殺害されたわけではないということが分かると、ほぼ事件性というのは考えないだろう。
ここで事件性を疑うのであれば、老衰で死んだ人であっても、死を迎えた人すべてを疑ってみるというレベルの話になるわけで、これほど信憑性のない話もあったものではないと言えるであろう。
そういう意味では、無縁仏というのを実験台に遣うというのはありかも知れない。
しかし、これはあくまでも、現在生きている人との関係性、つまりは法律上の不具合という観点からであり、倫理的、あるいは、モラルの問題としては別問題であった。
ここで初めて、それらの問題が出てくるということになる。
行方不明者であれば、モラル、倫理を考えるまでもなく、法律上、利害関係者との問題で無理ではないかと思われた。しかし、無縁仏であれば、その問題はクリアすることで、やっと次の段階に進むことができるのだが、そこで立ちはだかってくるのは、先般の問題となっていた、モラル、倫理の問題となるのだ。
「いったん死んだ人間を、蘇生させるというのは、どういうことなのか?」
とまず、宗教関係が問題にするだろう。
「人間には、それぞれ寿命があって、生殺与奪の権利はそもそも人間にはないので、それを司ることのできる神への冒涜になる」
という理論を振りかざしてくるに違いない。
確かに、その考えは、宗教団体の人間でなくても、持っている人はいるかもしれない。その思いが、将来の、
「宗教予備軍」
として、息吹いているのかも知れないと思うと、少し怖い気もするが、逆にその気持ちも分からないでもないと感じる場合もある。
ただ、教授の側の考え方として、
「宗教の考え方としては、人が死んだら、魂は肉体から離れて、彷徨っていると考えているんだよな。そして、魂が残っているからこそ、新たに生まれ変わることができるということであり、生まれ変わるまでの間、極楽であったり、地獄であったりに行くというのではないか? もっとも、地獄に落ちた人が生まれ変わるかどうか分からないし、生まれ変わるとしても、人間なのかどうかは、宗教によって違うかも知れない」
と思っていた。
さらに一歩踏み込むと、
「死んだ時、つまり、肉体から魂が離れた時の肉体は、文字通りの屍であって、もう、元の人ではない。基本的には火葬にするわけで、土葬にしたとしても、自然に腐って、元が分からなくなるような白骨化してしまう。だからこそ、死んだ瞬間の肉体は、もう元の人のものではないと言えるのではないか?」
と考えた。
もちろん、宗教によって違うということはあるが、ほとんどの考え方としてはそうではないか。死んだ人間の肉体は、もうすでにその人ではないのだ。他の人の命を吹き込んでしまえば、同じ顔や肉体であっても、魂の部分が別人なのだから、生き返ったとしても、同じ人間ではない。そういう意味では、倫理、モラルとしても、かなりの部分で許容されるかも知れない。
ただ、人間には、その人の身体を忘れられない人もいるかも知れない。
「魂が違っても、同じ肉体であれば、自分にとってその人は、自分の知っている人なのだ」
という考えを持つ人もいるかも知れない、
いるかどうか分からないレベルの少数派であるが、山沖教授は、どうしてもこの考えを避けて通ることのできない問題だと思うようになっていた。
科学者である自分は、基本的に、多数派を尊重するという考えが結構強かった。これは民主主義の、多数決という考え方とは違うものであり、その考えを自分でいかに納得させるかということが、自分の中での科学者としてのステップアップに繋がっていると思っていた。
「科学者というのは、妥協してはいけないが、理論的に考えるならば、多数派を推すのは当たり前のことである」
と思っていた。
ただ、この山沖教授の科学者というものへの考え方が、他の科学者と同じかどうかというのも怪しいものだ。
そもそも、科学者という括りがどこまでなのかというのも曖昧な気がする。医学に携わる者なのはどうなのかということである。薬学あたりは化学が関係しているので、科学者と言えるのだろうが、その当たりを考えた時、一つの思いが頭をよぎった。
「開発を伴う研究を行っている人たちを、科学者というのではないだろうか?」
という考えが山沖教授の思いであった。
つまり医学の中で開発に携わる人がいれば、その人は科学者と呼んでもいいという考えであるが、それは、目指す学問によって区別されているものを、さらにその中で分解することも可能だと言っているのであって、その考えは、多次元を想像させる。そう思うと、科学者という括りは、ある種別次元の発想であり、同じ研究員であっても、ランクの違いがそのまま、科学者という括りに入るか入らないかということを考えさせられると言ってもいいかも知れない。
山沖教授は自分の考えが、
「ひょっとすると、自分と同じくらいの年の頃の河合教授と似ていたのではないだろうか?」
という思いに至っているような気がしてきた。
自分と同じ年齢くらいの河合教授というと、まだ自分が大学生の頃だったので、想像もつかないが、だからこそ、今自分が考えていることが、今までの自分であれば、この考えに至ることができたのかと思うと、それは河合教授と同じ環境で研究することで、似たような感覚になると考えると、非科学的かも知れないがありえないことではないような気がする。
「科学で解明できないことはありえないという考えがあるが、それこそが科学に対しての冒涜だ」
と河合教授が以前言っていた言葉を思い出した。
そもそも、山沖が河合研究室に入るきっかけになったのは、大学時代に河合教授がその言葉を口にしているのを聞いたからだった。
河合教授の研究している学問は、化学なのか、物理学なのか、医学なのか、それとも心理学なのか分かりにくいところがあった。
それだけに河合教授をそれまでほとんど意識したことがなかったのに、その言葉を聞いた時、一気に意識する気持ちが高揚してきて、身体に電流が走ったと言ってもいいかも知れない。
それを思うと、河合教授に対してのインパクトをいまさらのように感じたようで、
「なぜ、今まで意識しなかったんだろう?」
という思いにさせるくらいであった。
山沖にとって、今では河合教授は師匠であるが、最初は、
「訳の分からない人」
ということでの興味からだった。
たった一言で衝撃を受けたこともさることながら、それからどんどん、
「この人のことをもっとよく知りたい」
という思いが膨れ上がっていき、その思いにいかに答えればいいのか、考えあぐねていた。
考えあぐねていたせいもあってか、絶えず考えていないと、すぐに思いが立ち切れてしまう。それだけ教授は異次元の世界の発想を持った人なのだ。
「集中しなければ、理解することができない」
と思っただけで、別世界に創造された教授の世界に入り込むことは、怖いという思いもあるが、一旦入りこんでしまうと、抜けたくないという思いも同時に存在していて、抜けることも恐怖なのだという矛盾した考えが浮かんでくるのであった。
「先代の河合教授って、どんな人だったんですか?」
と、教授を知らない若い研究員に聞かれると、
「一言では言い表せない人だと言えるんだけど、一言で人の心を打つ力がある人だと言ってもいいのではないかな?」
というと、研究員も分かったようで、
「山沖教授も、教授の一言にやられた口ですか?」
と聞かれると、思わずにっこりと笑って、
「そういうことだよ」
と答えることで、その時に聞かされた教授の言葉を初めて研究員に聞かせることができた。
これは聞かせるタイミングとしては最高のタイミングで、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりであった。
ただ、河合教授というのは、
「さすが研究者」
という皮肉の言葉が似合う人でもあった。
絶えず皮肉の籠った言葉をいう人で、もっともその中に本音が混じっていることで、山沖の心を打つことができたのだが、山沖としては、
「自分以外に、そんな教授の気持ちを察することができる人はいないだろう」
という自負があったのも事実で、この思いがあるからこそ、将来は自分も河合教授と同じ、科学者としての道を歩めるのだろうと思うのだった。
だが、これはあくまでも科学者という意味であって、人間としては決して褒められたものではない。その思いを危惧している時点で、まだまだ自分が教授の域にまで達していないことは分かったが、逆に、
「今だったら、まだ元の世界に戻れることができる」
という、境界線にいることも分かっていた。
「過去に戻りたいという思いが今の自分にあるのだろうか?」
とも考えてみた。
確かに昔の自分のような研究者として、第一線にいることが開発の醍醐味だと思っていた時期があった。そのうちに、自分が第一線から離れて、それを監督するという、まるで中間管理職になってからというもの、ずっと疑問に思っていた。
「俺は、このままここにいていいのだろうか?」
という思いであった。
そのうちに企画するようになって、疑問と一緒に、企画することに対して新たな楽しみが浮かんできたのだが、それが、最初の頃の第一線とは違った感覚であると分かっていたことから、疑問が消えることがないということだったのだろうか。
そのうちに、各省庁と折衝をするようになると、自分が入った頃の河合教授に自分がダブっているように感じ、
「俺は、河合教授においついたということかな?」
と考えたが、そもそもタイプがまったく違うのに、追いついたという話は次元が違っていることだったはずだ。
それも分かっていると思っていたのに、気持ちはいつの間にか比較している自分がいて、どこか情けない気分になっているのであった。
今回の研究は、研究員とは今まで以上に結界を設けなければいけないと思ったのも、河合教授のように考えたからであった。
自分が入った頃の河合教授には、若手を寄せ付けないオーラがあった。最初はそれを、
「舐められないようにするためだろう」
と勝手に思い込んでいたが、そんな普通の感覚ではなかったのだ。
あくまでも研究に対して真摯に向き合っていることで、企画者と研究員の間に結界を作り、そこで研究員が変なわだかまりを持つこともなく、思う存分研究員としての発想を持つことができると思ったのだろう。
研究員にとって、発想はあまり関係ないから、研究員と企画者の中に結界を作っていると思っていたがそうではなかった。
元々研究員の時は、ただ、結界で見えなかったので、見られては困る何かがあると思っていたが、自分が企画者になると、
「若手がわだかまりを持たずにできるようになることを望むから、結界が存在するのだ」
と考えていたが、次第にそうではなく、
「若手の研究員であっても、発想が必要だということで、結界を設けているんだ」
と考えるようになったのは、自分が若手に気を遣っているわけではないということに気づいたからだった。
むしろ、今の自分もまだ若手だという意識があった。そして、
「今の自分が若手になれば、どういう感覚になるだろう?」
と考えると無意識のうちに、発想を思い浮かべているのを感じた。
しかし若手だから、若手なりに遠慮してしまい、上を見ようとはしなくなる。そのせいで、上下関係がぎこちなくなり、上が気を遣わなければいけないという最初の発想に至るのだろう。
それが分かってくると、若手と企画者の間にある結界は、
「超えてはいけないもの」
というわけではなく、
「遠慮というものを排除するための、シールドだ」
と考えるようになったのだ。
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