第4話 宗教による問題点
研究員と話をしたことで、自分の方で冷凍保存についての初動は、すべて任されることになった。しかし、その責任は重大で、プレッシャーも結構かかってくる。さすがに文部科学省にも、厚生労働省にも、まだ冷凍保存の話はしていなかった。
なぜなら、この研究は最初に、
「冷凍保存のやり方」
を研究するというよりも、先に、
「一度死んだ人間を生き返らせる」
という、蘇生の方法から研究しなければいけなかった。
なぜなら、冷凍保存をする場合、一歩間違えれば、その人を殺してしまうことになるのだから、全世界の住民や国家を求めさせるためには、まず、死んだ人間を生き返らせるだけの理論がないと難しかった
考えてみれば、本当であれば、こちらの方が研究は難しいだろうが、研究が完成し、臨床試験などで実証させるには、こちらの方が明らかに簡単なことだった。
だが、この時、研究室の人たちは、気付いていないことが多かった。保険のつもりの発表が世間を二分するような騒動を引き起こすことになろうとは、それは、研究員の研究員たるレベルの限界なのかも知れない。
研究員にはそれぞれに目的や理想がある、しかし、それが必ずしも正しいというわけではない。それに、国民を納得させられればそれでいいというものでもない。世の中には派閥もあれば、多数の考え方もある、戦争になる原因のほとんどが宗教がらみという本末転倒な世の中なので、一筋縄ではいかないことも多いだろう。それを思うと、果たして世界の成り立ちから科学者は考えないといけないということを、なかなか理解していない。
科学者と政治家は仲が良くないものだが、どちらもそれなりに理想があり、それぞれに自分たちが優秀だと思っていることで、厄介なことになってしまうのだろう、
それを思うと、科学者にしても、政治家にしても、モラルや倫理というものがどれほど国民から軽視していると見られているのかを知らないだろう。
自分たちで争っていることなど、国民から見ればまるで子供の喧嘩でしかない。予算確保などのシビアな問題であっても、国民に見えてこない分、すべてがグレーなのだった。
政府は、あくまでも国民を見ている。しかし、それは国民の生活を守るという目的もさることながら、優先順位としては、
「自分たちの政権が生き残ることができることを最優先とする」
ということであった。
それが例えば人類のためであるとした場合であっても、そのために予算を膨大に使い、別の方面でしこりを残してしまうと、そのために、政府が批判されてしまう。
いくら、
「これは、将来的に国民の皆さんのためになるんですよ」
と訴えても、国民は現状しか見ないので、誰も政府を擁護しようとはしない。
つまりは、国民が納得できることを言わないと、政府は、
「また国民を騙している」
としてしか見ないのだ。
そもそも、かつての政府がそういう政治を行ってきたつけが今も残っているためであるのだが、実際に政権のトップにいる連中が、特権階級の中にいることで世間を理解することができず、カネの亡者になってしまったことで、下手をすれば、政権維持だけに突出し、独裁政権を目指しているのかも知れない。
現状の日本という民主主義国家では、さすがに独裁政権を樹立することは難しいだろう。
どこかの、
「将軍様」
の国であったり、
「自分たちがいまだに民族が一つだと言って、他に同じ民族の国家を認めようとしない」
というどこかの国とは違うのだ。
ただ、最近の日本は民主主義国家にあるまじき政治を行っているようだ。
いや、これが民主主義国家の限界なのか、まるで共産主義が台頭してきた時代背景に似ているような気もする。
さすがに世界では、昔のような帝国主義や、職員血政策を行っている国もないので、世界大戦という愚かなことはないだろう。ある意味それが、
「核の抑止力」
と言えるのかも知れないが、それも実に皮肉なことである。
そんな時代を彷彿させる今は、何が正しいのか、分からなくなってきている洋は気がする。
科学者の方のモラルも、最近は低下してきているような気もする。それは、前述の世界的パンデミックの際の日本政府の中で、
「新型感染症対策委員会」
というものが国家で発足し。そこでは、政府の各大臣や、医療の立場からの、感染症専門家の人たちや、経済面におけるエキスパートなどが集まった分科会があるのだが、主導は政府側にあるのは仕方がないにしても、
「対策は、分科会の中での専門家の意見を踏まえたうえで、対策を首相が決定する」
ということになっているのだが、実際には、政府高官と、分科会の専門家では意見が折り合っていないようで、あれだけ、
「専門家の意見をきいたうえで」
と言っていたくせに、専門家が政府の意向と違う意見を出しても、それは表に出ずに、黙殺されそうになっていた。
しかし、それが、マスゴミにバレてしまい、ひょっとすると、分科会側の内部リークカモ知れないのだが、それが報道されると、一気に政府へのバッシングが起こった。
国民は政府を信用せず、そのために、政府がいくら宣言を出しても、そこには拘束力がないことから、従わない人がいっぱい出てきて、パンデミックを引き起こす。
そうなるとどうなるのかというと、
「国民が分裂してしまう可能性がある」
ということである。
いろいろな決定に対して賛成派と反対派がいがみ合い。本当であれば、一致団結して立ち向かわなければいけない中で、それ以前の問題が勃発し、政府ではどうにもならない状態になるのだ。
元々は政府が引き起こした混乱なので、政府が収束させるのが筋なのだが、もう、国民は政府に騙されないという思いが強いので、本当にいうことを聞かなくなってきた。
それでも、暴動などがおきないのは、日本という国が「平和ボケ」をしていたからで、それが今まではよかった方に転んでいたのだろうが、ここから先はどうなることか誰も予想がつくはずもなかった。
日本という国が、こんなになってしまったのも、一党独裁が続いたからであるが、それはあくまでも、その政党が良かったからではなく、他があまりにも情けなかったからだ。
本当に野党と呼ばれる連中は、十把一絡げ、全部合わせても、議席の半数もいかないのだから、情けないとしかいいようがない。
科学者や専門家が、
「政府は信用できない」
と思うのも当たり前のことであり、本当であれば、もっと昔から分かっていたことなのであろうが、決定的になったのは、この時だったに違いない。
分科会も元々政府のイエスマンばかりを集めたはずなのに、さすがに途中から、良心の呵責に耐えられないと思ったのか、政府に反論する人も増えてきた。分科会会長自ら政府にモノ申しているのに、政府高官は、それをまるで戯言を言っているかのように、批判するのだから、さらに国民感情に火をつけたと言ってもいい。
政府の何が悪いのかというと、
「とにかく国民に納得のいく説明をしない」
これがすべてであった。
科学者は政府のいうことをほぼ聞かなくなったが、それでも、予算の問題や、今まで専門的に見てくれていた担当省庁には、まだ信頼性があった、
だから、ほとんどの大学では、厚生労働省と文部科学省の依頼による、
「感染症以外の重大病気の治療薬の開発」
という部門に、それぞれの省も、真剣に向き合い、専門家による革命を起こそうと思っているのかも知れない。
専門家としては、
「政府でも省庁によってこんなに違うんだ」
と思ったようだが、実際には、
「政府の一部のトップ連中がバカなだけ」
というだけのことであった。
ただ、それが問題なのだ。やつらは、自分たちの保身しか考えていない。しかもトップまで上り詰めてしまったので、野望はもうない。いかに政権を長く持ち続けられるかということで、相撲界でいえば、横綱のようなものだ。
失脚すれば、降格というのはない。引退しかないのだ。
総理大臣を責任を取って辞めたくせに、国会議員としては残っている輩もいるが、何を考えているのかと、国民は感じることだろう。
冷凍保存よりも、まずは蘇生の方法というが、蘇生させられるくらいであれば、
「何もこのような苦労はない」
と国民は思っているだろう。
しかし、蘇生させるということは、非常にモラルという意味で大きな問題であったのだ。
確かに死にゆく人の命を預かっている医者とすれば、最後まであきらめることなく組成を試みるというのが、医者のモラルなのだろう。
死にゆく人を目の前に、指をくわえて死ぬのを待っている医者がどこにいるというのか、家族も必死に組成を願い、何とかしようとする。しかし例外的に、蘇生がうまくいっても、そのまま植物状態になってしまう人だっているのだ。
その場合、誰が、患者の生命維持に掛かる莫大なお金を負担するというのだろう。生き返らせた病院が責任を持つわけではない。その負担は家族にしかいかないのだ、
だからと言って、安楽死が認められているわけではない。
ただ、尊厳死という意味合いから、患者が以前から、
「意識がなくなって、生命維持に至るようになった場合、生命維持を拒否する」
という遺言がある場合で、さらに、
「客観的に見て。回復の見込みがまったくなく、後は死ぬのを待つばかりだということがわかっている場合」
などであれば、尊厳死を認めるという判例もあったりするが、さすがに、その状況も細かく捜査されて、その間、医者としても生きた心地がしなくなってしまうことだってあるだろう。
下手をすると、裁判で無罪となっても、これがトラウマとなって、二度と医者に戻れなくなるというリスクもあるのだ。そこまでできる医者がどれだけいるというのか、尊厳死を認めないというのは、宗教的な意味合いが濃いのではないかと思うが、やはりキリスト教などでは、自殺も否定しているので、尊厳死も否定することになるだろう。死んで天国に行けたとしても、この世で待っているのが地獄であれば、それが何の慰めになるというのか、もし、数年後に生き返ったとしても、その間の記憶も何もないわけなので、社会復帰できるかどうかも難しい。尊厳死できずに蘇生できたとして、それが本当によかったと言えるのかどうか、それが大きな問題なのだ。
つまりは、宗教において、延命というのは、
「神が決めた寿命を変えることになるのはいかがなものか?」
ということになるのだ
蘇生させて植物状態になれば、
「寿命に任せないからそういうことになる」
と宗教は思うだろう。
それだけに、蘇生させた命を、今度は打ち消すことは許されないという考えでもある。
それはあくまで現実を考えない、
「一人の人間の尊厳」
だけを見ていることになるのだ。
「皆が不幸になることが分かっているのに、それでもよくなる見込みのない人を生きながらセルというのか?」
というのが、人間界のモラルではないだろうか。
人間の生死というのは、人間が決めることはできない。つまりは、
「生殺与奪の権利は、人間にはない」
ということになるのだ。
そもそも、人間の歴史は戦争の歴史。生きること自体が難しかった時代では、
「あの世での極楽浄土」
を夢見たのだろう。
だから、そのために、今の世をいかに生きるかというのが宗教の考えであり、人間が本来なら人の生き死にを決定してはいけないという観点から、戦争もいけないはずなのに、なぜこんなことになっているのか、そこを宗教の教えが、うまくつくことで信者を爆発的に増やしてきたのだろう。
しかし、戦場では戦争という名のもとに、人がどんどん死んでいき、人が死ぬことに対して感覚がマヒしてくるのではないかと思えるのに、一人の人間の生死に関してここまで厳密であるというのは、どこか矛盾しているように思うのだが、やはり宗教といえども、この世界で起こることを止めることもできないのだろう。何しろ戦争が宗教によることが原因であれば、止めることなどできるわけもない。何とも矛盾した中で、世界が時系列で進んでいく。
「本当にこの時系列に矛盾はないだろうか?」
という考え方が、
「次の瞬間には、無限の可能性が潜んでいる」
というパラレルワールドの考え方があるのだが、これは宗教という理念と、科学的研究によるものとの理論上の葛藤ではないかと思えるのだった。
さらに、寿命という考え方は、宗教の考えの中にある、
「人間は死んでも魂は残り、いずれ別の人間になって生き返る」
という考えがあるからではないだろうか。
この世では、人が死ぬと確かに、あの世に行って、また生き返るという考えがあるようだが、しかしその人間とはこの世ではどちらかが死ねば、会うことはもうできないのだ。そう思うから、近しい人が死ぬことを必死になって止めるし、延命を考える。
それは植物状態になればどうであろう、それでも、親族なら、
「生きていてほしい」
と思うのだろうか?
確かに宗教における戒律で、
「人を殺めてはいけない」
ということで、人を殺したり、生きている人間の命を断つことは許されないのだが、別の考え方として、寿命として、実質的に死を迎えている人まで生かそうというのは、宗教的に本当に正しいことなのだろうか?
「人間は生き返るのだから、ここで死んでいるはずの人間を変に引っ張るのが本当にいいことなのか?」
という考えが、どうしてもっと表に出てこないのだろう?
何よりも生きている人間が、治る見込みもない人間を、
「まだ完全に死んでいない」
というだけの理由で生き延びらせるというのは、本当に正しいのかどうか、提起する人がいないのは、どこかでその声が消されているからなのかも知れない。
普通なら表に出てきてもいいはずの意見が出てこないのは、その声が広まらないような、何かの秘密結社が暗躍しているからではないか。
当然彼らには何かの目的があるのではないだろうか。
安全装置を付けることで、高額の医療費を家族からむしり取ろうとする、秘密結社がいて、政府と結びついているなどということになれば、大きな問題だ。
だが、何かの大きな力が存在しているとして、それが表に出ないともなると、政府くらい大きな存在がないとできないことだろう。
どんなに批判されても政府の政治家を辞めたくないという輩は、これらのたくさんあるであろう、
「目に見えない利権の数々」
によってもたらされる巨万の富を逃すことができなくなっているからではないだろうか?
もちろん、究極の想像であるが、ここまで前政権が、あれだけ真っ黒な状態で、いくら他になり手がいない消去法で首相になったからと言って、歴代一位の内閣長寿記録を更新したというのは、しがみつくだけの理由があったからに違いない。
しかも、政府には自分が表に出ることはなく、影のフィクサーが存在している。その人間はひょっとすると、首相などよりも甘い汁をたくさん吸っているのかも知れない。しかも表に出ているわけではないので、責任をとることもない。それだけ長く君臨できて、甘い汁を吸えるというものだ。
そんなことを想像しながら、今までの政府の政策や存在していることの不思議さを考えてみると、ピタリと当て嵌まる部分が多いのだから、実に不思議な状況だ。
宗教と政府がズブズブの関係ということになると、国民は騙されないようにしないといけない。
今から四半世紀前に東京で起こった、集団毒ガス事件を覚えているであろうか。若い人は知らないだろうという時代に入ってきた。風化させてはいけない事件であることなのだが、さすがに二十年以上経てば、
「歴史の一ページ」
というイメージしかなくなってしまう。
そう、
「かの戦争があったことと同じくらいの昔の話」
として考えてしまうとなると、宗教団体の本当の恐ろしさまで、皆忘れてしまうことになり、またしても、埋もれていた宗教団体が息を吹き返すことになるかも知れない。
そういう意味では、今行っている研究も、宗教団体を意識しながら、やつらを刺激しないようにしなければいけないという考えもあって、山沖教授は、密かな研究を選んだのであった。
「河合教授の時代とは違うんだ」
河合教授の時代は、まさに宗教団体というだけで、誰もが敏感になった時代。
宗教の恐ろしさは、今の世代の皆に分かるのだろうか、甚だ疑問であった。
山沖教授の研究は、少し引っかかるものがあった。どうしても、河合教授がまるで暗号のような書き方をしているので、一つ間違えると違った形での解釈になってしまう。
そういえば、宗教という意味からでもあるが、以前世紀末の時、
「世界は滅びる」
という話があったのを覚えている人は結構いるだろう。
いわゆる、
「ノストラダムスの大予言」
と言われるものだが、
「一九九九、七の月、空から恐怖の大王が降ってくる」
というものであったが、それを昔の人が解釈して、
「この時に地球が滅びる」
と言われていたのだ。
「ノアの箱舟伝説」
にあったように、一度人類は絶滅し、選ばれた二年だけが生き残って新しい世界を作るというものなのかも知れないが、自分たちが死んだ後はどうでも、自分が死んでしまうことが問題だったのだ。
ノストラダムスというのは、下手に予言などをすると、魔女狩りが行われていた歴史がある世界で、もし的中でもすれば、変に怪しまれ、処刑されかねないと思ったのだろう。予言と思しき内容を、四行詩に纏めて、暗号のようにしていた。それを知った人が彼の死後、それを見て、その内容から解釈し、実際に当たっていそうなことにこじつける形で、彼を予言者に祭り上げたのだ。
実際にそれ以降の歴史上で起こった事件や事故を、四行詩に当て嵌めると、当たっているように見えるものがたくさんあることから、ノストラダムスを大予見者として、崇めることになった。
だが、歴史の数ある事件の中にあくまでも、歴史学者がこじつけたものなので、本当にノストラダムスの予言なのかどうか分からない。検証しようにも本人は死んでしまっているので、できっこないのだ。
まさか、恐山のいたこのように、降霊させることで、予言を聞くなどということを真面目にやった人はいないとは思うが、ありえないことではない。
さらに、世界大戦や原爆まで予測したというのだから、信じる人が多くても当然といえば当然だ。
だが、全部が全部当たっているわけではない。勝手にこじつけたものが外れることもあるだろう。
肝心の地球滅亡と言われた世紀末で世界が滅びなかったことで、彼の予言が色あせたのかどうか、ハッキリとは分からない。だが、冷静に考えれば外れることもあるのだろうから、ノストラダムスの威厳は衰えたとは思えない。
そもそも、世紀末というと、もう一つリアルな問題があった。
「西暦二千年問題」
というのがあったのを、覚えている人も多いだろう。
コンピュータが開発されて、コンピュータが持っている日付が、六ケタしかないということだった。月と日は、二けたなので問題ないのだが、実際には西暦は四ケタであり、二けたのままでいけば、九九の次には、〇〇が来るということで、比較をすると、二〇〇〇年よりも、一九九九年の方が大きいということになってしまうというのが二千年問題だった。
頭に一九か二〇かのどちらからをつける必要があり、しかも、日付を使っているプログラムすべてが対象になるということで、世紀末が終わるまでに解決しておかなければいけない問題だとして、大きな騒動だったのだ。
もし、これが解決できなければ、
「預金が日付が変わった瞬間にゼロになってしまう」
だとか、
「決済がすべて無効になる」
という問題の他に、
「核ミサイルの制御が外れて、勝手に発射してしまうのではないか?」
などと言われたのである。
しかし、年が変わってから、言われていたような問題も起きなかったし、ちょっとした問題くらいはあったかも知れないが、世界的に大きな問題はなかった。それもきっと事前に分かっていたこととして、対処できたからであろう。それだけ分かっていることに対応する力は、
「さすが人間」
というところなのであろう。
河合教授のノートを見ていると、いろいろ気になるところがあった。
その一つに、
「匂いが大切だ」
と書かれているところがあった。
これも、河合教授の性格から、額面通りに読んでいいものなのか迷うところであったが、河合教授と一緒にいた頃のことを思い出しながら読んでみると、この匂いというのは、やはり額面通りに読み取っていいような気がした。
そういえば、以前河合教授に進められて読んだ昔のSF小説というのがあった。SFと言っても、そんなに難しい内容のものではなく、タイムスリップ、しかも、時代を跨ぐようなタイムスリップではなく、短い時間での時間を行き来するという話だったのだが、その話では、
「タイムスリップをするという時、花の香りを嗅ぐことで、うっとりとして、匂いに酔っている間に時間をジャンプする」
というものであった。
バラの香りだったか、きんもくせいだったか、ラベンダーだったかは忘れたが、確かに花の香りだったのは覚えているのだ。
「香りには、何かしらの魔力があるというのは、昔から言われていることで、中国では今でも香を焚くというのが主流になっているだろう? 実際に昔は、お香を焚くことで、死者をよみがえらせたり、死者と話ができたりしたという言い伝えが残っているくらい、不思議な力があるものらしいんだ」
と言っていたのを思い出した。
それを思うと、教授が書き残した冷凍保存の話に、匂いというワードが入っていたとしても、いまさら驚くものではなかった。
教授が何の匂いを仄めかしているのかは分からないが、匂いが大きく関係していることは間違いないようだ。決して、教授の作為がそこに含まれているというわけではないと思えた。
しかもその匂いというのが、花の香りなのか、お香のようなものなのかというのも分からない。
とにかく、いくつか試してみる必要があるだろう。
それにもう一つ、この匂いというワードが、
「冷凍保存の際に必要なのか?」
それとも、
「蘇生の時に必要なのか?」
ということもハッキリと分かっていない。
どちらかに絞って研究すべきなのだろうが、もし、その順番を間違えたとすれば、もう一度もう片方でやり直すということは難しいだろう。
それだけ時間と労力、さらには金銭的な余裕がないのだった。
何しろ政府からの予算にも限りがある。特に我々は政府の本来の目的と違うところでの研究なので、予算が少なくなるのは、最初から分かっていたことだった。
しかし誰かがやらなければいけない。それに、この研究は河合教授が途中まで考えていただけに、できるのであれば、河合研究室しかないというのが、政府と山沖教授との共通した考えであった。
山沖教授は、予算を最小限に生かしたいと思っている。余るくらいでできればいいと思っている。そのためには、最初の企画段階が大切だった。
皆に話して意見をもらおうかとも考えたが。しょせんは一研究員の意見である。しかも、意見が割れてしまうと収拾がつかなくなり。最初からしこりのある因縁の開発ということになってしまうだろう。
それを思うと、山沖教授は難しい選択を迫られているということを自覚しているのであった。
山沖教授の頭の中で、
「匂いが絡むのであれば、それは蘇生の時だ」
と考えていた。
研究所では、無縁仏として運ばれた遺体が、数日安置されていた。
ここは、警察から匿名として引き受けた監察医としての仕事も受け入れることがあった。それは身元の分かっている死体ではなく。身元不明であったり、無縁仏として身内がいない人の監察だった。
これは、河合教授の時代に、
「うちがやります」
と進んで教授が名乗り出たことで行うようになった。
他の監察では、なるべく無縁仏を扱いたくないと思っていたからだ。
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