ビターキス・ウィズ・ミルクショコラ

橙山 カカオ

ビターキス・ウィズ・ミルクショコラ



 ショーケースのガラスに映った女が、私を睨んでいた。

 隙あらば跳ねようとする髪。残業まで落ちないように厚く塗った化粧。上司受けの悪い切れ長の目。疲れ果てて表情のない私自身と見つめ合う。

 ショーケースの中には、宝石のごとく並べられたチョコレート。

 夕飯代わりにと選んでいたはずだが、いつの間にかぼうっとしてしまっていたらしい。疲れ果てた脳には、何かを選択するカロリーも残っていないようだ。


「ご説明いたしますか?」


 丁寧な声をかけられて、ようやくショーケースから顔を上げる。

 チョコレートショップの店員さんがあいまいな微笑みを向けていた。茶色をベースにしたぴしっとした印象の制服に、白いエプロンを掛けた姿が可愛らしい。


「大丈夫です。ええと……」


 辛うじて答え……笑顔を作る余裕はなかった……適当に選ぼうとした時だった。

 たおやかな手が横合いから伸びてきて、ルージュ色の爪がショーケースをなぞっていく。


「ここからここまで、二つずつ」


 少々生意気に聞こえるほど力に満ちた、少女の声。

 振り向くと、声がしっくりくる、勝気そうな顔立ちの女子高生がいた。口元にいたずらな笑みを浮かべ、店員さんではなく私を見ている。内側に赤の入った黒髪のボブショート。こげ茶色のシックな制服を彩る、グレーのマフラー。

 店員さんの笑顔が固まり、無意味な会釈がひとつ。


「順番にご案内しますので――」


 常識的な対応が出来て偉いな、と他人事のように眺めていたら、少女が何故か私を見て言った。


「一緒だから。ね、お姉ちゃん」

「は?」

「ご……ご一緒でよろしいですか?」


 やはり脳がきちんと働いていない。

 見も知らぬ少女から姉と呼ばれるのは初めてだったこと、少女の笑みが可愛らしかったことを差し引いても、間の抜けた反応を返すのが精いっぱいだった。


「じゃ、外で待ってるね!」


 少女はマフラーをたなびかせて、颯爽と店を出ていく。

 店員さんと一緒に、その背中を見送ってしまった。


「……いかがなさいますか?」

「あー……じゃあ、それで」


 少女が指定した六種類を二つずつ。一人で購入するには多すぎるチョコレートを箱に詰めてもらい、当然のように私が十二個分支払って、店を出た。

 冬の北風が容赦なく吹き付けてコート越しに冷気を沁みさせてくる。冷たい風に髪を揺らし、しかし、少女は楽しそうに笑っていた。


「お姉ちゃん」

「私は君の姉じゃない。ところで、脚そんなに出してて寒くない?」

「めっちゃ寒いけどギリ耐えれる。気合で」

「若いな……」


 ストッキングを履いてても寒いのに。

 はい、と箱を取り出して手渡す。わざわざ箱を二つに分けてもらったうちの片方だ。


「君の分」

「わ、ありがと。ご馳走様、お姉ちゃん」

「姉じゃないってば」

「じゃあ何て呼べばいい? ママ?」

「絶対やめろ。……どうせもう会わないんだし呼ばなくていいでしょ。それじゃ。風邪ひかないようにね」


 こんな風に軽く渡せるほど安い品物ではないのだが、それを惜しいと思う余裕も今はなかった。

 むしろ、と思考が勝手に動く。あんな笑顔を向けられたのは、いつぶりやら。


「待って」


 数歩歩いたところで、手を後ろから掴まれた。振り返れば女子高生が挑むように笑っていた。その視線の強さに、私は思わずたじろいでしまう。

 振り払って逃げるべきか。早く帰るよう諭すべきか。思考が空転し、言葉が出てこない。


「おねーさん、チョコ一緒に食べようぜ?」

「え……嫌だけど。早く帰って寝たい」

「だめ! ほらこっち! あ、コンビニでカフェオレ買っていこ」


 腕をぐいぐいと引かれて、よろめきながらついていく。ヒールよ地面に突き刺されと抵抗したものの、疲れ果てた社会人では若者のバイタリティには勝てなかった。腕を引く少女の手、赤のネイルが夜でも鮮やかだ。

 結局言われるがままコンビニでカフェオレと紅茶を買い、そのまま近くのベンチに座る。夏になれば緑と木陰が心地よい遊歩道だが、今はただ寒々しい風が通り抜けていくだけだ。


「はー、あったまる」

「いやあったまってないで。意味がわからないんだけど」

「意味?」


 紅茶を啜り、はふ、と吐息する。確かに温かく心地よいが、寒さをより強く感覚してしまう。


「意味なんてないよ、おねーさん」


 そう言って、少女は笑う。楽しそうに。愉快そうに。

 血縁上の姉をイメージする『お姉ちゃん』は違和感があったが、年上の女性を呼ぶ『おねーさん』は何となく受け入れられているのは、どこか幼くすらある彼女の笑顔のためだろうか。


「強いて言えば……お礼かな」

「お礼?」

「チョコレート、買ってくれたじゃん」

「買わされた、が正しいけど。あとそのカフェオレも」

「だから、」


 少女は言葉を切り、身を乗り出してくる。その手が私の膝に触れ、斜め下からのぞき込むように見つめて。ボブショートの髪の内側に、ちらちらとインナーカラーの赤が覗く。笑みを浮かべた唇が焦らすようにゆっくりと囁く。


「お礼。チョコの、いちばん美味しい食べ方、教えてあげる」


 ……それは、誘惑だった。

 色香というべき雰囲気を纏って囁かれる、甘い言葉。同性の私ですら見惚れる笑顔で誘われて、どう考えても怪しい少女の誘いに、小さく頷く。

 ようやく理解した。彼女の笑顔が目を惹く理由。

 瞳だ。

 彼女の視線は、まっすぐに私の瞳を見ている。捉えている。

 資料を――あるいは顔色を見て話すことに慣れてしまった私には……その視線は、強すぎる。


「ん」


 少女はよろしいとばかり頷くと、チョコレートの小箱を早速開いた。中には六個のチョコレートトリュフが鎮座し、頼りない街灯の下でも艶やかな艶をたたえている。それぞれ見た目も味も異なる、職人技の結晶。


「ね、どれから食べるのがいいと思う?」

「え……知らないけど。好きなのから食べなさいよ」

「ふーん」


 少女は何やら楽しげだ。私の鞄を指さす。意味は明白、『お前も開けろ』。

 紅茶の紙カップをベンチに置き、取り出して小箱を開く。

 並ぶチョコレートのどれから食べようかと指をさまよわせて、つい隣を見る。少女はどれから選んだのか気になったのだ。なぜか、その視線がばっちり合った。


「くふ」

「な……なに?」

「おねーさん、ようやく美味しそうな顔になったね」

「……はい?」


 意味がわからない。

 さっきまでの私はまずそうな顔をしていたということだろうか。楽しそうな、どこか含みのある笑みを向けられても、ピンと来ない。

 少女は解説してくれるつもりはないようで、チョコレートトリュフを一粒取って口に運んだ。濃い色のネイルと対照的に、唇はナチュラルだ。

 その仕草に見惚れていたことに気付き、慌てて視線を逸らす。自分もひとつ選んで、咥えた。


「ん……」


 瞼を閉じて、舌で味わう。

 チョコレートのコーティングが体温で溶けるにしたがって、甘味と苦味が舌と咥内に広がる。外側はカカオの苦みと香りを濃く感じる味わい。軽く噛み締めると、包まれていたコンフィチュールがとろけ出て、柑橘類の鮮烈な甘味と酸味が一気に広がる。


「……ふう」


 丁寧に味わっていても、チョコレートはすぐに溶けてなくなってしまう。酸味を主とした複雑な後味が余韻のように咥内を満たしてくれている。思わず吐息をこぼして、瞼を開き、紅茶に手を伸ばした。


「美味しいね」

「……そうね」


 傍らの少女から、からかうでもなく、ただ囁かれた。

 意味のない会話を、意味がないからこそ、私は素直に頷くことが出来た。


「やっぱり、美味しい」

「これみかん? オレンジ?」

「酸味が強いタイプのオレンジかな」

「合うよねーチョコと」


 頷く。

 紅茶を含み、後味が薄くなったところで、次の一粒に手を伸ばした。


「おねーさん、次どれ?」

「んー……キャラメルかな。これ。定番の塩キャラメルキャラメル・サレ

「あー絶対美味しいやつ」


 合わせたわけではないけれど、自然と少女と同じタイミングでチョコレートを咥える。

 溶かし、噛み締め、味わう。

 昼食からずいぶん時間が経ってようやく得た糖分で、お腹が鳴った。


「…………」

「何も聞こえてないから安心して。あーキャラメルうまーい」

「お気遣いありがとうございます……」

「キャラメルに塩入れようって思った人天才だよね」

「元々は塩そのものというより、有塩バターから来る塩分だったかな。美味しいよね、塩気があると甘味が引き立って」


 そんな、とりとめのない会話を何往復か。

 もう一つチョコレートを味わったところで、小箱を閉じる。ちょうど紅茶も尽きた。

 幸せを感じつつ、ふと思い出して少女に問う。


「そういえば。一番美味しい食べ方って?」


 教えてくれるのではなかったか。期待していたわけではないけれど、気になりはする。

 私の問いかけに答えず、少女は懐からスマホを取り出した。ケースはモノクロのシンプルなもので、意外なことに飾りの類はついていない。

 そのスマホを掲げつつ、逆の手で私に抱き着いてくる。


「!?」


 とっさに持ち上げかけた手も遅く、ぱしゃりと夜道に響くシャッター音。

 画面には得意げなドヤ顔の少女と、驚いた表情の私が写る。


「これ」


 画面を見せてくる少女。いや恥ずかしいんだが。


「……どれ?」

「これだよ。いちばん美味しいチョコの食べ方。美味しいものを、美味しい、って言うこと」

「……言う、こと?」


 それは……食べ方、と呼ぶのだろうか?


「別に、口に出さなくてもいいけど。心の中だけで思うよりは、口に出した方がハッキリするでしょ、気持ちって」


 疑問符を浮かべながらも、少女の言葉に引き込まれる自分を自覚する。

 こくりと喉が鳴った。チョコレートの濃厚な甘みが、まだ僅かに残っている。


「美味しかったら、美味しいって言う。甘い、苦い、オレンジが好き、塩キャラメルいいよね――って、感じたことをちゃんと音にする。こうやって自撮りして見えるようにする」


 写真の中の少女は確かに、楽しそうな、とっても笑顔をしていた。

 疲労しきったところに糖分を僅かに与えられた思考が、勝手に納得してしまう。

 美味しいと口に出して言ったのは、さて、いつが最後だったろう。


「それを……教えてくれるために、私に?」

「ちがうけど」


 少女は愉快げに笑う。違うのかよ。

 人差し指が私の頬に触れた。


「おねーさん、ものすごくつまんなさそうな顔でチョコ眺めてたからさ。あたしのお気に入りのチョコをそんな顔で見んなよ、と思って」

「……そんなに?」

「そんなに」


 そんなにか。……正直、いきなり自撮りされたより何故か恥ずかしい。


「でも話してみたら意外といけるクチだったから、正解だね」

「ポジティブだな……」

「ネガい意味ある? あ、ねえねえ」

「うん?」


 少女がチョコレートを咥えた。ナチュラルカラーの……リップクリームくらいしか塗ってないんじゃないかと思う……唇が、褐色のチョコレートを不安定に支える。

 そのまま、こちらに顔を寄せてくる。


「ん」

「いや、ちょっと、え?」

「んー」


 自撮りしたままの距離だったから、顔は近い。さらに近づく。のけぞるようにして身を離そうとしたら、手のひらで優しく背中を支えられた。

 頬が熱い。

 薄暗い街灯の光でも、少女の、楽しげに細められた目の輝きはよくわかった。

 その視線から逃れるように、瞼を閉じて――


「……ぁ」


 ……チョコレートは、硬く、苦く、甘く、やわらかかった。

 私の、たぶん硬くて苦い心の外側も、同じくらいに溶かされて。


。また美味しく食べたくなったら会おうぜ、おねーさん」


 頬を上気させて笑い、名残惜しい様子もなく颯爽と立ち去る少女。私はといえば無言でベンチから見送るしかできなかった。

 一人になり、冷たい風に晒されて寒さを思い出す。


「…………お礼、言いそびれたな」


 社会人としては、多少なりとも礼節の手本を見せる必要があるだろう。今度、改めて美味しいチョコレートを贈るとしよう。

 きっとな顔で選べるはずだから。


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