アンコール

宵町いつか

第1話


 陽が落ちきり、ぽつぽつと街灯が町を照らす。私はその町の隅にこじんまりと佇んでいる、寂れたアパートの一室で、一人スーツ姿のままベッドに倒れ込んだ。

「つかれた」  

 ベッドに倒れた勢いで吐き出された言葉は、ベッドの上をふわりと転がり、空気に溶けていく。

 就職して早一年。高校を卒業してから入った企業はそこそこブラックで、そこそこ忙しくて。どんどん自分がすり減っていくのを感じた。わかっている。自分が悪かったのだ。進学したくないから、という浅はかな理由で急に就職に変えて、ろくに調べもしないまま適当な企業に入った。それがこのザマだ。そういう、感情的になって後先考えないところが自分の悪いところだと自分で認識している。認識しているだけで、それをどうにか改善していない時点で、私はダメなんだろう。

 カバンの中から着信音が聞こえた。上司からか、家族からか。ただ、今はそれに答える気力すら無い。全身から力が抜けて、何もできなくなってしまっていた。これが働くということなのかと、一人絶望する。

 もう少し働くのは楽しいものだと思っていた。楽しさでいっぱいとはいかなくても、楽しく働いて、適度に苦しくて、その苦しみを癒やすために家でゆっくりできるものだと。でも実際は、上司からは怒号が飛び交って、時々土日返上で働いて、家と会社の往復の日々。理想とは遠いものはあるとは思っていたけど、あまりにも差がありすぎた。これも自分のせいといえばそうなんだけど。

 どんよりとした頭で考える。また今日も静かに絶望する。ぼんやりとして、少しずつ瞼が重くなる。シャワーもしてないのに。汚いな、と感じながらも体は動かなかった。

 生理的嫌悪感を抱きながら目をつぶる。残念ながら、今は嫌悪感よりも睡魔のほうが強かった。どうやら人間の三大欲求には抗えないらしい。

 眠たい。けれど、頭だけはやけに働く。考えるのはもちろん明日の仕事。いつもと変わらぬ日常の繰り返し。

 そうだ。きっと夜で疲れているから、変な考えが頭の中にあるんだ。だから、早く寝よう。

 寝よう寝ようと考えているうちに、どんどん頭は冴えていく。寝なければいけないのに。早く寝ないと、明日の仕事に支障をきたしてしまうのに。上司にまた迷惑を掛けてしまう。また、怒られてしまう。もういっそ徹夜してしまえば。

 ――そういえば、よく高校生の頃は天文部の皆と徹夜したっけ。あの時はたのしかった。あの時は明日がこんなにも怖くなかった。こんなにも毎日がどんよりとした空気に満たされていなかった。あのときに、戻りたいな。

 そんな理想を頭の中でこぼしたのを最後に、私の意識は微睡まどろみの世界へ引きずり込まれていった。深い深い泥沼へと、引きずり込まれていった。

 翌日、息苦しさを感じながら朝起きると時刻はもう八時を回っていた。このままじゃ、会社に遅れる。

「……やば」

 かすれた声が部屋に転がる。その声には焦りはなく、感情というものが込められてはいなかった。

 ベッドから降りて、微かなフローリングの温度を感じながら、私は洗面所に向かう。顔を洗って、タオルで拭いて、睡魔を飛ばす。このままだったら遅れてしまうのは確定なのに、いつもと同じような行動を取ってしまうのはルーティーンといったものでは一括りにできない、もっとほかの本能的ななにかがあった。人間として生きるための防衛本能、とても言えばいいのか。とにかく、そういうものだ。

 上司に連絡して、昨日できなかった分の仕事して、書類の整理して、午後から外回り行って……あー、なんか全部面倒くさいな。

 面倒な仕事のことを頭の中で考えながら、私は大きくため息をついた。先程のかすれた声よりも感情が乗っていた。

 ゆっくりとキッチンで昨日の残り物を食べる。洗い物は……帰ってきてから頑張ろう。きっと疲れて、できないだろうけど。

 洗い桶に水を張り、そこに食器を入れる。汚れが水に溶けて、透明な水を汚く色付ける。汚く色づいてもなお、透き通っている水を見て、なんでかわからないけど少し、虚しくなった。

 ろくにアイロンを掛けれていないスーツに袖を通して、財布とスマホを鞄に詰め込む。この簡単な動作さえ、今ではとても重だるい。とても重苦しい。スーツが、鞄が、まるで石でできているみたいに重い。だれか、助けて欲しい。手伝って欲しい。そう、どうしても願ってしまう。

 玄関で靴を履き、息を吐いていつものように死にかけた顔で家から出た。

 梅雨明けの湿度の高い空気が私を包み込む。わずかに鳥肌が立ち、かすかな不快感が私を襲う。そんなこともお構いなしに太陽は頭上で輝き、私の足を急かす。薄く張った汗が、下着に引っ付いて気色が悪かった。

 駅までいつもと同じスピードで歩く。当たり前のことだけど、この時間に通勤する人間なんて私くらいしか居なくて、少し疎外感を感じた。当たり前なんだ。だって普通はこんな事にならない。オトナって、ほら、責任感じゃん。私はまだオトナになりきれていない。まだどこか高校生気分が抜けていないんだろう。高校生の時だって、いつもそうだった。自覚なんてあとからやってきた。そんな事を考えているとずっしりと、頭に負荷がかかる。ズキズキと頭が痛み出し、息が上がる。

 駅でICカードをかざし、ホームで電車を待つ。この間に上司に電話でもしておこう。そう思い立ち、スマホを取り出す。電話帳を開いて、上司の名前を探し、タップしようとする。

 視界に、懐かしい名前が写った。高校の時の同級生。同じ部活の友人。電話好きの彼女のために、わざわざお金を払って、電話をしたっけ。

 私は何も考えずに、目の前の電車に乗った。行き先は、会社とは正反対。私の地元に向かう電車。もう、上司に連絡しようなんて考えは無くなった。電源を切って、スマホを鞄の奥深くにねじ込む。頭の片隅で「明日、怒られちゃうね」「もしかしたらクビになるかもよ」と、誰かがささやく。でも、今の私にはそんな事でどうでも良かった。早く、ここから逃げ出したい。いや、逃げたしたいのではない。休憩、したかった。こんな理論が通用しないのは分かってる。甘えってことも分かってる。でも、もうどうしようもないんだ。感情が傷つけられたから、仕方ないんだ。

 感情が溢れそうになるのを必死に堪えながら、泣きそうになるのを必死に抑えながら、席に座る。

 がたんごとんと電車から振動が足裏にやってくる。身体が揺れて、やっと少しずつ、いつもの感覚が戻ってくる。じわりと背筋に寒気が通る。ああ、やってしまった、と。

 しばらく電車に揺られていると、感情がすっと消え失せ、結局残ったのは。

「ま、いっか」

 楽観的で子供っぽい、後先考えぬ思考回路だけが残った。

 全然良くないけど、なんかもう、全部どうでもいいや。高校の先生とかにバレたら怒られそうだけど、高校生じゃない私に、もうその心配はない。久しぶりに、よく行ってた場所に行くっていうのもありかもしれない。

 少し頭が働き始めた。少し頭が軽くなった、とでも言うのだろうか。ああ、やっと生きてるって感じだ。とても久しぶりの感覚だった。

 地元につくのは多分お昼ごろになるだろうから、それまで適当に景色でも眺めて時間を潰そう。そう思い、背中側にある窓を片目で見る。席がロングシートだから首が疲れる。クロスシートのほうが好きなんだけど、こればっかりは仕方ない。諦めよう。

 太陽に照らされて、初任給で買った比較的安価な、盤面がピンクシルバーに縁取られている、お気に入りの腕時計がきらりと反射した。きっと景色を見ている私は様になっているだろう。インスタ映え、ってやつかな。

 景色を見ていると、少しずつ現実から目を逸らせるくらいの余裕が出てきた。社会人なのに、そうどこか頭の硬い自分が心の中で毒づく。でもたまには休まないと。オトナの特権だよ? なんてまだ子供気分でオトナなんて露程もわかっていない自分が擁護する。どうせ今更電話しても怒られるだけ。それだったら先延ばしにしても何も変わらないでしょ?

 だって、どうせもう後戻りはできないんだから。

 私は思いっきり欠伸あくびをする。目尻に溜まった涙が、頬を伝った。



 お昼時を少し過ぎた頃、電車のアナウンスが聞き覚えのある駅名を呼んだ。どうやら地元についたらしい。と言っても、友人と待ち合わせしているわけでもないし、家族に会いに来たわけでもないので、目的なんて無い。強いて言うなら逃避行、現実逃避。オトナからコドモに戻ってしまっただけ。

 改札、と言ってもICカードを読み取る機械と切符を入れる箱がおいてあるだけの改札にもなっていない改札にICカードをかざす。電車から降りたのはどうやら私一人だけのようで、誰も私の後ろについてくる人はいなかった。もしかしたらあの電車に乗っていたのは私一人だったかもしれない、なんて悲しい想像をして勝手に一人虚しくなる。自分勝手の極みじゃないか。その悲しい考えをを肯定するかのように、ピピッと電子音が鳴った。

 さて、どうしようかとなんとなく空を仰ぐ。勢いで来てしまったから目的は無い。ほんとに。

「お腹へった」

 人間っていうのは何もしていなくてもどうやらお腹は減ってしまうものらしく、小さくお腹が震える音がした。下腹部を擦る。もちろん、そんなんじゃ何も変わらない。どうやったって人間の本能には抗えない。

「ハンバーガー……食べよ」

 結局導き出したのはいつも部活の皆と行っていたジャンクフードだった。

 ほとんど無意識レベルでジャンクフード店の方へ歩き出す。一年ぶりだと言うのに町の雰囲気はなにも変わっていなくて、それがどこか嬉しさと不自然を運んでくる。その不自然さは何から来るものなのか、今の私には分からなかった。

 道行く人々は皆希望を持っていて、でもどこか後ろ向きで、憂鬱な雰囲気をはらんでいるように感じた。それはきっと自分が勝手に思っているだけなんだろうけど、そう思えて仕方がなかった。

 ジャンクフード店で高校時代と同じようにチーズバーガーとポテト、オレンジジュースを頼んで、放課後にいつも座っていた店の端っこの席に座る。いつもここで駄弁って、何時間も話して、時間を潰して解散してたっけ。

 パクリとチーズバーガーを食べる。これもあれから何も変わっていない。酸味の効いたケチャップとチーズの相性は最高で、ピクルスの食感が良いアクセントになっている。

 先にハンバーガーをぺろりと食べきり、ポテトを食べる。高校の頃は皆でシェアしてたからあんまり食べれなかったけど、それはそれで楽しかったし、美味しかった。それになぜか今よりも満足感があった。どうやら孤独は食事では埋まらないらしい。時々オレンジジュースで喉を潤しながら、私は一人で食べ進める。

 なんでか、やけにオレンジジュースの甘みが喉にこびり付いた。人工的な甘さが、しつこかった。

 コーヒーにすればよかったかとわずかに後悔したが次の瞬間にはどうでも良くなって、また甘い甘いオレンジジュースを流し込む。頭はあのときのままで止まっていても、舌はどんどんオトナになってしまっているらしい。

 ちまちまとストローからジュースを吸い上げる。時々、赤子のようにストローを噛んでみたりして。

 自然とため息が漏れた。それは僅かに感じた違和感に対してのものだ。先程の不自然とはまた別の感覚だった。そしてこの違和感には少し覚えがあった。例えばいつものメンバーが集まっていないときだったり、部活で欠席者が居たときと同じ感覚。その感覚を胃の中に押し込もうとして、思いっきり残りのジュースを飲み干した。甘いオレンジジュースが感傷をざくりと傷つけたのがはっきりと分かった。どうやら今の私には甘さは凶器のようだった。

 ジュースを飲み干して机に置く。汗をかいたカップは地面に水たまりをつくる。私はカップに付いた冷たい汗を爪弾く。水が破裂して、指先についた。

 本格的に行くところがなくなってしまった。でもこのまま帰るというのもどこか味気ない。もうすこしなにか残したかった。自分が今日ここに来たという証拠を。

 とりあえずごみを捨て、トレーを片付けて店を出る。冷房の効いた部屋に居たからか、やけに外が暑く感じられた。

 特に目的もなく歩き始める。いつも繰り返していた行動をそのままコピーするかのようにして。家に向かう。もちろん家族に顔を見せるわけじゃない。見せたら心配されるし、本当のことを話しちゃうと怒られちゃうから。

 よく通学中、吠えてくる犬が居る家の前を通り過ぎる。なぜか犬は吠えてこず、犬が居る気配すら感じられなかった。散歩にでも行っているんだろうか? それとも。

 私は思い出に浸りながら、足を進める。確実にずぶずぶと、足がはまっていくような錯覚に陥る。このままでは現実に戻れなさそうだ。

 車の停まっていない実家を通り過ぎる。やはり何も変わってはいなかった。強いて言うなら家の前の雑草が少し増えたくらいだろうか。そんなもの些末さまつな違いだけど。

 適当にふらつく。小学校の頃よく遊んでいた公園に、中学校の頃に訪れた一人になれる場所だったり、皆でアイスを食べた河川敷だったり。どれもこれも懐かしく、どれも時間の経過を感じさせないものだった。

 少しずつ日が傾いていく。前までは六時になったら真っ暗だったのに、今では未だに太陽は山肌を紅色に色づけている。薄く霞がかったその景色に見惚れながら、私は石造りの階段を登っていく。この階段を登れば、部活の皆とよく星空観察をしていた場所につく。そこに行ったら今日は帰ろう。そして明日からのことを帰り道のうちにゆっくり考えよう。

 階段を登り終えると、黄昏時の空が私を迎え入れる。視界の端には三日月が映っていた。

「あれ? 旭山あさひやま先輩、なんで居るんですか」

 どこか呆れたような、懐かしい声が聞こえた。声の主はぽつんと置かれたベンチに一人座って、私を見つめる。母校の制服に身を包み、まるで猫のように目をまんまるにして、じっと見つめてくる。

「――朝依ともよちゃん?」

 私が少女の名前を呼ぶと、少女はガタッとベンチから立ち上がり、私に向かって駆け寄ってくる。

 日野朝依。私の二年後輩。同じ天文部で、よく一緒にいた子。まんまるの目が特徴的で皆からはネコちゃんと陰ながら言われている。ちなみに本人にもそのことは届いているらしい。

「どうしたんですか、今日平日ですよ? 仕事は?」

 朝依ちゃんは私に視線を合わせてくる。正直、そのまんまるの目で見つめられると吸い込まれそうで怖い。

「まあ、ちょっとね。時間ができたから、来てみよっかなって」

 私は悟られないように明るく振る舞う。が、それも朝依ちゃんのまんまるな目には見透かされているように感じられて、生きた心地がしなかった。きっと、失望されている。いや、失望なんてされていないかもしれない。だって、失望されるほど、期待も尊敬もされていない可能性だってあるのだから。

「そうですか。案外、社会人って時間あるもんなんですね」

 ぐさり、胸にナイフが突き刺さる。えぐられて、血が吹き出そうになる。嗚咽が漏れそうになる。それをかろうじて抑える。それができたのはきっと、私がもうコドモではなくなったから。

「……どうなんだろうね。周りがわかんないから、自分が忙しいのかどうか、よくわかんないや」

 見えているのはいつも自分のことばかりで、なにも周りを見れていないから。だからきっと私はこうやって無責任なことをしているんだ。自分は忙しいと思っている。だけれど、私が普通ではないと知ってしまったら、周りと違ったら、私は惨めになっていく。押しつぶされてしまう。

「朝依ちゃんはどうなの? 学校」

 朝依ちゃんは私から視線を外し、スタスタとベンチの方に進んでいって、ふわりとスカートをたなびかせながら座る。朝依ちゃんは隣を指差し、私に座るように促す。私が座ったのを確認すると、朝依ちゃんは口を開いた。

「なんにも、変わってないです。強いて言うなら、部員が増えただけ。でも、それだけです」

 どこか空気が抜けているような、そんな優しい声だった。僅かな不自然さを感じながら私はああ、朝依ちゃんも変わったなと思わず感じてしまった。

「自覚、してないだけなのかもよ」

 思ったことを私は朝依ちゃんに言う。すると朝依ちゃんはフッと笑った。

「自覚なんてする人居ますかね? みんなきっと自分を変わったっていう認識をしているだけで、自覚なんてしてないと思うんですよ」

「……認識を改めたほうが良いんじゃない?」

 少し明るめの口調で言うと、朝依ちゃんは「どうでしょうね」とはぐらかした。

「でも、星は良いですね。いつでもそこにいてくれる。変わらず、私達を見ていてくれる」

 朝依ちゃんが夜空を見上げる。まだ日没してから時間が浅いからか、あまり星は見えなかった。

「あ、金星」

 口から星がこぼれ落ちる。朝依ちゃんはきょろきょろと夜空を見渡し、見つけたのかニコリと笑う。

「よく、皆でここに来て星空観察してたよね」

 私は朝依ちゃんに向かって言う。すると朝依ちゃんは間髪入れずに返答してきた。

「ですね。懐かしい」

 朝依ちゃんがほろりと落としたその言葉はゆっくりと空気に溶けて、私の体を侵食してくる。肺が少しずつ彼女の言葉に染まっていく。

 朝依ちゃんの声が全身に侵食して、やっと気がついた。あの不自然の正体を。それは至極当たり前のもので、きっとどうでもいいことのようなもの。

 ただ現実を突きつけられただけだった。もう、私の居場所はここには無いという事を。当たり前に、世界は進んでいる。時間は止まってくれない。だから私は不自然さを感じたのだ。やっと、分かった。わかってしまった。変わらないほうが不自然なのに変わったことに不自然さを感じてしまった。

「――はやく帰らないと」

 どこへ? オトナじゃない私に、居場所はあるの?

 呟いた言葉に返事はなかった。

 ただ、虚ろな瞳で見上げた空に、まるでアンコールを願うかのような星屑たちが瞬いていただけだった。   

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